8888民主化運動英語: 8888 Uprising, ビルマ語: ၈လေးလုံး または ရှစ်လေးလုံး)は、1988年にビルマ(現ミャンマー)でおこなわれた国民的な民主化要求運動である。1988年8月8日のゼネスト・デモが民主化運動の象徴として捉えられているため「8888民主化運動」の名があるが、学生を主体とする運動は1988年3月頃から継続して行われていた。

運動の中、7月23日にネ・ウィンの長期独裁政権は退陣したが、9月18日に国家法秩序回復評議会 (SLORC、後の国家平和発展評議会(SPDC)) による軍事クーデターが発生し、民主化運動は流血をともなって鎮圧された。この過程で、僧侶と一般人(主に学生)を含む数千人がビルマ軍 (Tatmadaw) により殺された。

経過 編集

1962年のクーデター以降、ビルマはネ・ウィン将軍率いるビルマ社会主義計画党(BSPP)が政権を握り、独自の社会主義政策(ビルマ式社会主義)をとる孤立した軍事独裁国家だった。1987年9月、政府は75、35、25チャット紙幣の流通を廃止すると発表し、財産を失った国民の不満が蓄積した。

1988年3月12日夜、ラングーン工科大学(YTU, 現在のヤンゴン工科大学)付近の喫茶店で学生が地区の有力者の息子らと口論となり、やがて学生デモ隊と治安部隊との衝突に拡大。3月13日、治安部隊の発砲により学生活動家ポーモウ(Phone Maw)らが死亡した。この事件は、反体制・反独裁・民主化要求運動につながり、デモに加わった学生の多くの犠牲を伴いながら拡大し、地方へも波及した。7月23日にネ・ウィンはBSPP議長を辞職しセイン・ルインにその座を譲ったが、依然として軍政に影響力を持ち続けていた。ネ・ウィンは辞任会見で、国軍は騒乱を起こす者に銃口を向ける旨の発言を行った。

全ビルマ学生連盟は一党独裁の打破を求め、1988年8月8日にビルマ全土で大規模なデモを行うことを呼びかけた。学生主体であった運動に、政府職員・仏僧・軍人・税関吏・教師・病院職員なども含んだ、さまざまな分野の市民が合流した。これに対し、軍部は無差別発砲を行いデモの鎮圧を図った。

この年の4月2日に病気の母を看護するためビルマに帰国していたアウンサンスーチーは、8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で演説を行い、この国の民主化運動を象徴する人物となった。

9月18日、ソウ・マウン将軍を議長とする国家法秩序回復評議会は軍事クーデターによって実権を掌握し、軍事力によって民主化運動を鎮圧する一方、複数政党制の導入と総選挙の実施を約束した。これに対し、アウンサンスーチーらは9月27日に国民民主連盟を結成した。

1988年の民主化運動のはじまりから鎮圧に至る過程で軍は学生・仏僧を含む数千人の市民を殺害したといわれる(軍事政権は、犠牲者数は20~30人にすぎないと主張している)。

関連項目 編集

外部リンク 編集