FCナント

フランスのサッカークラブ

フットボール・クルブ・ドゥ・ナントFootball Club de Nantes (ブルトン語: Naoned; ガロ語: Naunnt))は、フランスナントに本拠地を置くサッカークラブチーム。2013-14シーズンからはリーグ・アン(1部)に所属する。

FCナント
原語表記 Football Club de Nantes
愛称 La Maison Jaune (黄色の家)
Les Canaris (カナリアたち)[1]
クラブカラー     黄色
   
創設年 1943年
所属リーグ リーグ・アン
所属ディビジョン 1部(2023-24
昨季リーグ順位 16位(2022-23
ホームタウン ナント
ホームスタジアム
スタッド・ドゥ・ラ・ボージョワール
収容人数 35,322
代表者 ポーランドの旗 フランスの旗 ヴァルデマール・キタ英語版
監督 フランスの旗 ピエール・アリストゥイ英語版
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

概要 編集

第二次世界大戦中の1943年4月21日、ナント市に本拠地を置くいくつかのクラブが合併し、ひとつのビッグクラブとなることを目的としてFCナントが創設された。1992年から2007年まではFCナント・アトランティックという名称だったが、2007-08シーズン開幕前にFCナントという名称に戻された。

フランスで最も成功を収めているクラブのひとつであり、リーグ・アン(旧ディヴィジョン・アン)で8回、クープ・ドゥ・フランスで3回、トロフェ・デ・シャンピオンで3回優勝している。優秀な下部組織を持つことでも知られ、マルセル・デサイーディディエ・デシャンミカエル・ランドロークリスティアン・カランブーなどを輩出している。最も有名なニックネームはLes Canaris(カナリア)であり、Les jaunes et verts(緑色と黄色)やLa Maison Jaune(黄色い家)と呼ばれることもある。主にホセ・アリバス監督、Jean-Claude Suaudeau監督、レイノー・ドゥヌエ監督によって主張された、「ナント主義」という共通の精神で知られている。

歴史 編集

 
アウェー試合でのナントサポーター

1943年、ナント市には5つのクラブ(Saint-Pierre、Stade Nantais UC、AC Batignolles、ASO Nantaise、Mellinet)が本拠地を置いていた。Mellinetのマルセル・ソパン監督は、5クラブが合併してひとつになればスポーツ面での競争力が増すと考え、「現在の我々は小さなクラブだが、力を合わせれば素晴らしいチームになるだろう」と述べた。クラブカラーの緑色と黄色は、創設者のひとりであるJean le Guillouが所有する競走馬の厩舎に由来している。1944年にはソパンが会長に就任した。ドイツでの強制労働を回避するため、パリの多くの若手選手が各地域圏に移住していたが、ソパン会長はクラブの何人かのメンバーとともにパリを訪れ、プロコーチや有能な選手を探した。健全な財政状況に加えて、ソパン会長がガブリエル・アノと個人的な付き合いを持っていたことから、ナントはフランスプロサッカーリーグ機構(LFP)の前身であるGroupement des clubs autorisésの一員となった。フランスにおける第二次世界大戦が終結した1945年7月、クラブはプロ化された。

プロクラブとしての初試合はスタッド・オランピック・ドゥ・コロンブで行なわれたCAパリ戦であり、ナントは2-0で勝利を収めた。初のホームゲームとなったトロワAC戦には0-2で敗れた。初年度となった1945-46シーズンを5位で終えたが、議論の末にAimé Nuic監督がチームを離れ、Antoine Raabが後任監督に就任した。1962-63シーズンには16連勝を記録し、FCソショーに0-9で敗れて連勝記録が途絶えたが、ディヴィジョン・ドゥで2位となってディヴィジョン・アン(1部)昇格を決めた。

初優勝と黄金期 編集

1963年、ナント市議会はかなりの金額の補助金をクラブに支出することで、FCナントの初のトップリーグ挑戦を支えた。昇格決定の9日後、クラブの黄金期を見ることなくソパン会長が死去した。昇格初年度の1963-64シーズンは8位だったが、1964-65シーズンにはディヴィジョン・アン初優勝を飾った。攻撃的な戦略を信奉するホセ・アリバス監督の下で洗練されたプレーを見せ、アリバス監督は組織的で攻撃的な「ナント主義」(jeu à la nantaise、ジュ・ア・ラ・ナンテーゼ)の精神をクラブに植え付けた。1976年夏にはアリバス監督が職を離れ、ジャン・ヴァンサンが監督に就任した。黄金期にスタッド・ランスでプレーしていたヴァンサン監督は1982年まで采配を振るい、ヴァンサン監督同様に「ナント主義」の精神を持つジャン=クロード・スオード(かつて選手としてナントに在籍した)に監督の座を引き継いだ。ディヴィジョン・アンでは1972-73シーズン、1976-77シーズン、1979-80シーズン、1982-83シーズンに優勝し、クープ・ドゥ・フランスでは1978-79シーズンにAJオセールを4-1で破って優勝した。この試合でハットトリックを達成したエリック・ペクトはナントの歴史に名を刻んだ。1982-83シーズンのリーグ戦ではユーゴスラビア人ストライカーのヴァイッド・ハリルホジッチが27得点で最優秀ストライカーとなった。クープ・ドゥ・フランスでは決勝に進出し、パリ・サンジェルマンFCと対戦した決勝ではストライカーのJosé Touréが記憶に残る得点を挙げたが、結局2-3で敗れて準優勝に終わり、リーグとカップのダブル(2冠)を逃した。1984-85シーズンはFCジロンダン・ボルドーに次ぐ2位、1985-86シーズンはパリ・サンジェルマンFCに次ぐ2位と優勝争いの常連だったが、やがてナントは困難な時代に突入した。

FCナント・アトレティック 編集

1988年、スオード監督が退任してミロスラフ・ブラゼヴィッチ監督が就任した。しかし、ブラゼヴィッチ監督はクラブの期待に添う結果を残せず、1988-89シーズンと1989-90シーズンは7位、1990-91シーズンは惨めにも15位に終わり、3シーズン連続無冠となった。1991年7月には再びスオード監督が就任したが、1991-92シーズンは9位だった。1992年7月、DNGG(フランスサッカー財政監査局)の運営上の決定によってディヴィジョン・ドゥ降格が決定していたが、FCナントはFCナント・アトランティックに改名し、ディヴィジョン・アンの地位を保った。1992年には「ナント主義」の精神が復活した。1992-93シーズンのクープ・ドゥ・フランスでは10シーズンぶりに準優勝し、1993-94シーズンの同大会ではベスト4となった。リーグ戦の成績も改善を見せ、1994-95シーズンには12シーズンぶりのリーグ優勝を果たした。この時期にはヤフェット・エンドラムパトリス・ロコレイナール・ペドロスニコラ・ウエデククロード・マケレレクリスティアン・カランブーなどが成長した。1995-96シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではベスト4となったが、1995年から1997年には財政難に悩まされ、主力選手たちが次々に退団した。UEFA EURO 96後、ウエデクとペドロスはすぐに代表から遠ざかり、エンドラムはASモナコで度重なる怪我と格闘した。カランブーとマケレレは成功者の道を歩み、フランス代表の主力に成長した。毎年のように主力の放出を強いられることに嫌気がさし、スオード監督が1997年に退任してサッカー界から退くと、かつてBチームを率いていたレイノー・ドゥヌエが監督に就任した。1996-97シーズンには30戦無敗を続けて3位となったが、モナコに敗れたことでUEFAチャンピオンズリーグの出場権獲得は逃した。1997-98シーズンからの3シーズンは中位に停滞したが、クープ・ドゥ・フランスでは2連覇を果たした。2000-01シーズンにはヴィオレル・モルドヴァンエリック・カリエールサロモン・オレンベなどを擁し、6シーズンぶり8回目のリーグ優勝を果たした。ソクプレス(メディアグループ)によって買収され、長年サッカー界で生きてきたジャン=リュック・ジュリポンが会長に就任した。

初のリーグ・ドゥ降格後 編集

2004年、ダッソーグループがソクプレスからクラブを買い取って所有者となったが、クラブの運営には介入せずに経営陣を離れ、クラブ所有を望んでいたわけではなかったこと、望みはクラブ運営によって損失を出さないことだということが明らかとなった。2003-04シーズンのクープ・ドゥ・ラ・リーグFCソショー戦では、キーパーのミカエル・ランドローがPK戦でPKを失敗し、同大会敗退とUEFAカップ出場権獲得失敗が決まった。2004-05シーズンはリーグ・アン改名後最悪のシーズンとなり、最終節を前にして降格圏内の19位だったが、最終節のFCメス戦に勝利して17位に浮上し、かろうじてリーグ・ドゥ降格を逃れた[2]。しかし、シーズン中にクラブは前例のない危機に瀕した。キャプテンのランドローが選手たちの反乱を先導し、ロイク・アミッセ監督の解任を要求すると、サポーターも選手たちの反乱に賛同し、ソショー戦ではジュリポン会長を刺激するために、150もの座席が引きはがされて4人の売り子が負傷した。2005-06シーズン開幕前、ダッソー一派は取締役のRobert BudzynskiとKléber Bobin、選手のランドローと生え抜きのフレデリック・ダ・ロシャにクラブを離れるように要求した。セルジュ・ル・ディゼ監督は就任後半年しか経過していなかったが、同時期にはヴァイッド・ハリルホジッチに監督就任を打診した。2005年6月28日、ダッソー一派の臨時会議後にジュリポン会長が退任してルディ・ルシヨンに代わった。2006年9月20日にはル・ディゼ監督が退任してジェルジュ・イオ監督が就任したが、イオ監督はわずか5ヶ月で監督の座を追われ、2007年2月12日にはミシェル・デル・ザカリアンとエンドラムが共同監督に就任した。5月9日のFCジロンダン・ボルドー戦(1-0)には勝利したが、他会場の結果によりリーグ・ドゥ(2部)降格が決定し、44シーズン連続トップリーグ在籍の記録が途切れた。このシーズンには何人ものアシスタントコーチが就任しては去り、キーパーのファビアン・バルテズも同様だった。シーズン最後のホームゲームとなったトゥールーズFC戦では、ふがいない成績に怒った多数の観客が86分にピッチに乱入した。

2007年には移籍市場で忙しい夏を過ごし、新オーナーが就任。2007-08シーズンには、1963年以来となるリーグ・ドゥの試合に臨んだ。2008年にはクラブ名称とエンブレムの変更が行なわれた。クラブ名称から「アトランティック」の文字が取り去られ、1992年までの名称であるFCナントに戻った。2008年の序盤にはクレルモン・フット戦とル・アーヴルAC戦に敗れ、クープ・ドゥ・フランスではスダンに敗れて6シーズンぶりの早期敗退となった。リーグ戦では、スタッド・ブレスト戦、SCバスティア戦、スダン戦の3試合では新加入のフィリップ・ドルデヴィッチが計4得点を挙げて3連勝を飾った。2008年4月25日、モンペリエHSC戦に1-1で引き分けてリーグ・アン復帰を決め、最終的にル・アーヴルに次ぐ2位となった。しかし、2008-09シーズンは19位に終わってリーグ・ドゥ降格となった。この時期のナントは、37,000人収容のスタジアムに10,000人の観客を集めるのにも苦労した。2012年1月にはアル・ナスルSCからイスマエル・バングラを獲得したが、契約の際に規約違反を犯したとして、2013年1月に国際サッカー連盟(FIFA)から1年間の補強禁止処分を受けた[3]

サラの加入と別れ 編集

2015年7月にはアルゼンチンFWのエミリアーノ・サラボルドーから獲得。加入後、サラは3シーズン連続でチームの得点王になる活躍で牽引し[4]2016-17シーズン2017-18シーズンには2部降格前の2003-04シーズン以来初となる2年連続でリーグ戦をトップハーフで終えた。さらに、2018年10月2日に日本代表の監督も歴任したヴァイッド・ハリルホジッチが監督に就任すると、彼の就任から約3週間後のトゥールーズ戦でサラはハットトリックを達成。クラブは12年8ヶ月ぶりにリーグ・アンの試合でハットトリックを記録した[5]。この活躍によって、サラは2019年冬にカーディフ・シティFCへ移籍することとなった。

チームメイトに別れを告げたサラは、新チームに合流するためにフランスからウェールズに向けて小型飛行機で飛び立った。しかし、離陸から約1時間後に彼が乗っていた機体は消息を絶ち、およそ2週間後に遺体で発見された。遺体発見からまもなくして、ナントは声明を発表し、彼が着用していた背番号「9」を永久欠番にした[6][7]

2020年代から現在 編集

2021年には、太田徹がトップチームのアシスタントコーチに就任[8]2020-21シーズンは降格目前となる18位でシーズンを終えたが、2021-22シーズンはリーグ戦を9位、クープ・ドゥ・フランスでは2001年以来のタイトルとなる4度目の優勝を果たした[9]。けれども、2022-23シーズンは不安定な戦いが続き、最終節開始時点では降格圏内であったが、17位のナントがアンジェSCOに勝利し、16位AJオセールRCランスに敗れたことで最終節で順位が逆転し、辛うじて残留を勝ち取った[10]

ライバル 編集

FCナントのライバルはFCジロンダン・ボルドースタッド・レンヌである。ボルドーとの対戦はアトランティック・ダービーと呼ばれる。同じブルターニュ地方に本拠地を置くレンヌとの対戦はデュルビ・ドゥ・ラ・ブルターニュ(デュルビ・ブレトン、ブルターニュ・ダービー)と呼ばれる。

スタジアム 編集

 
スタッド・ドゥ・ラ・ボージョワール
トップチーム
リザーブチーム
  • 1945-2007 スタッド・マラコフ
  • 2007- Stade Michel Lecointre

タイトル 編集

国内タイトル 編集

1964-65, 1965-66, 1972-73, 1976-77, 1979-80, 1982-83, 1994-95, 2000-01
1978-79, 1998-99, 1999-00, 2021-22
準優勝 : 2003-04
1965, 1999, 2001

国際タイトル 編集

1982

過去の成績 編集

シーズン リーグ戦 カップ戦 リーグ杯
ディビジョン 順位
1943-44 DHウェスト - - - - - - 2位 予選敗退
1944-45 - - - - - - 1位 予選敗退
1945-46 ディヴィジョン・ドゥ 26 11 4 11 47 43 26 5位 予選敗退
1946-47 42 16 13 13 66 70 45 8位 ベスト32
1947-48 38 16 6 16 79 81 38 11位 ベスト64
1948-49 36 13 12 11 58 53 38 9位 ベスト32
1949-50 34 9 9 16 44 57 27 17位 ベスト32
1950-51 32 11 7 14 54 56 29 10位 6回戦敗退
1951-52 34 17 8 9 61 57 42 4位 ベスト64
1952-53 34 16 7 11 60 59 39 6位 ベスト64
1953-54 38 14 8 16 68 62 36 9位 ベスト64
1954-55 38 13 9 16 69 78 35 10位 ベスト64
1955-56 38 10 10 18 54 84 30 17位 ベスト64
1956-57 38 13 10 15 56 64 36 13位 ベスト32
1957-58 42 13 11 18 53 65 37 13位 ベスト64
1958-59 38 13 9 16 49 59 35 14位 ベスト64
1959-60 38 16 9 13 58 48 41 8位 ベスト64
1960-61 36 15 6 15 61 64 36 11位 ベスト32
1961-62 36 16 8 12 43 43 40 6位 ベスト64
1962-63 36 25 4 7 82 38 54 2位 ベスト64
1963-64 ディヴィジョン・アン 34 13 8 13 51 59 34 8位 準決勝敗退
1964-65 34 16 11 7 66 45 43 1位 ベスト16
1965-66 38 26 8 4 84 36 60 1位 準優勝
1966-67 38 17 16 5 81 51 50 2位 ベスト16
1967-68 38 15 11 12 55 50 41 7位 ベスト16
1968-69 34 13 6 15 44 45 32 10位 ベスト32
1969-70 34 13 7 14 62 56 33 10位 準優勝
1970-71 38 17 12 9 61 40 46 3位 ベスト16
1971-72 38 17 9 12 70 48 43 7位 ベスト16
1972-73 38 23 9 6 67 31 55 1位 準優勝
1973-74 38 19 9 10 63 41 58 2位 準々決勝敗退
1974-75 38 16 11 11 50 42 45 5位 ベスト64
1975-76 38 15 14 9 67 44 50 4位 ベスト64
1976-77 38 25 8 5 80 40 58 1位 準決勝敗退
1977-78 38 21 10 7 60 26 52 2位 準々決勝敗退
1978-79 38 23 8 7 85 33 54 2位 優勝
1979-80 38 26 5 7 76 30 57 1位 ベスト32
1980-81 38 22 11 5 74 36 55 2位 ベスト16
1981-82 38 19 5 14 64 34 43 6位 ベスト64
1982-83 38 24 10 4 77 29 58 1位 準優勝
1983-84 38 18 9 11 46 32 45 6位 準決勝敗退
1984-85 38 24 8 6 62 32 55 2位 準々決勝敗退
1985-86 38 20 13 5 53 27 53 2位 ベスト64
1986-87 38 12 12 14 35 38 36 12位 ベスト64
1987-88 38 13 13 12 46 41 39 10位 ベスト32
1988-89 38 15 12 11 41 40 42 6位 ベスト16
1989-90 38 13 14 11 42 34 40 7位 ベスト16
1990-91 38 9 16 13 34 44 34 12位 準々決勝敗退
1991-92 38 12 14 12 37 39 38 9位 ベスト64
1992-93 38 17 11 10 54 39 45 5位 準優勝
1993-94 38 17 11 10 47 32 45 5位 準決勝敗退
1994-95 38 21 16 1 71 34 79 1位 ベスト32 ベスト16
1995-96 38 14 13 11 44 42 55 7位 ベスト32 ベスト16
1996-97 38 16 16 6 61 32 64 3位 ベスト64 ベスト16
1997-98 34 11 8 15 35 41 41 11位 ベスト32 ベスト32
1998-99 34 12 12 10 40 34 48 7位 優勝 ベスト32
1999-00 34 12 7 15 39 40 43 12位 優勝 ベスト32
2000-01 34 21 5 8 58 36 68 1位 準決勝敗退 準決勝敗退
2001-02 34 12 7 15 35 41 43 10位 ベスト16 ベスト64
2002-03 リーグ・アン 38 16 8 14 37 39 56 9位 ベスト32 準々決勝敗退
2003-04 38 17 9 12 47 35 60 6位 準決勝敗退 準優勝
2004-05 38 10 13 15 33 38 43 17位 ベスト16 ベスト16
2005-06 38 11 12 15 37 41 45 14位 準決勝敗退 ベスト16
2006-07 38 7 14 17 29 49 34 20位 準決勝敗退 ベスト32
2007-08 リーグ・ドゥ 38 19 13 6 58 34 70 2位 ベスト32 ベスト32
2008-09 リーグ・アン 38 9 10 19 33 54 37 19位 ベスト64 ベスト32
2009-10 リーグ・ドゥ 38 12 9 17 43 54 45 15位 7回戦敗退 1回戦敗退
2010-11 38 11 14 13 38 40 47 13位 ベスト16 1回戦敗退
2011-12 38 14 9 15 51 42 51 9位 8回戦敗退 1回戦敗退
2012-13 38 19 12 7 54 29 69 3位 ベスト32 1回戦敗退
2013-14 リーグ・アン 38 12 10 16 38 43 46 13位 1回戦敗退 準決勝敗退
2014-15 38 11 12 15 29 40 45 14位 ベスト16 準々決勝敗退
2015-16 38 12 12 14 33 44 48 14位 準々決勝敗退 3回戦敗退
2016-17 38 14 9 15 40 54 51 7位 ベスト32 準々決勝敗退
2017-18 38 14 10 14 36 41 54 9位 ベスト32 3回戦敗退
2018-19 38 13 9 16 48 48 48 12位 準決勝敗退 ベスト16
2019-20 28 11 4 13 28 31 37 13位 ベスト32 ベスト16
2020-21 38 9 13 16 47 55 40 18位 ベスト64
2021-22 38 15 10 13 55 48 55 9位 優勝
2022-23 38 7 15 16 37 55 36 16位 準優勝
2023-24 34

欧州の成績 編集

1965-2000 編集

2000- 編集

現所属メンバー 編集

2024年1月27日現在[11]

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK   アルバン・ラフォン
2 DF   ジャン=ケヴィン・デュヴェルン
4 DF   ニコラ・パロワ
5 MF   ペドロ・チリベジャ  
6 MF   ドウグラス・アウグスト
7 FW   イグナティウス・ガナゴ
8 MF   サミュエル・ムトゥサミ
11 FW   マルクス・ココ
12 FW   カデル・バンバ英語版
14 MF   ラミーヌ・ディアック英語版
15 FW   ティノ・カデウェア
16 GK   レミー・デカン英語版
17 MF   ムサ・シソコ
No. Pos. 選手名
18 DF   ロナエル・ピエール=ガブリエル
21 DF   ジャン=シャルル・カステッレット
23 FW   ストレデール・アピュア英語版
24 DF   エライ・キュマルト
25 MF   フロラン・モレ
27 MF   モーゼズ・サイモン
28 DF   ファビアン・セントンズ英語版
30 GK   デニス・ペトリッチ
31 FW   モスタファ・モハメド
39 FW   マティス・アブリン英語版
44 DF   ネイサン・ゼゼ英語版
45 DF   バスティアン・ムピユ
77 FW   ベニー・トラオレ
98 DF   ケルヴァン・アミアン
監督

リザーブチーム 編集

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
19 MF   モハメド・アチ英語版
22 DF   ヤニス・ムベンバ英語版
No. Pos. 選手名
28 DF   ファビアン・セントンゼ英語版

ローン移籍 編集

in

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
14 MF   ラミーヌ・ディアック英語版 (アンカラギュジュ)
24 DF   エライ・キュマルト (バレンシア)
15 FW   ティノ・カデウェア (リヨン)
No. Pos. 選手名
39 FW   マティス・アブリン英語版 (レンヌ)
77 FW   ベニー・トラオレ (ブレントフォード)
out

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
-- DF   フニオール・ディアス (アヌシー)
No. Pos. 選手名
-- MF   ロアン・ドゥーセ英語版 (パリ)

永久欠番 編集

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
9 FW   エミリアーノ・サラ

歴代監督 編集

歴代所属選手 編集

GK 編集

DF 編集

MF 編集

FW 編集

脚注 編集

  1. ^ #208 – FC Nantes : les Canaris” (フランス語). Footnickname (2020年8月21日). 2021年9月3日閲覧。
  2. ^ ナント、波乱の末にリーグ1残留 UEFA.com、2005年5月28日
  3. ^ FIFA、フランス2部ナントに1年間の補強禁止処分 Goal.com、2013年2月5日
  4. ^ Nantes to retire No.9 shirt in honour of Emiliano Sala as they pay emotional tribute to their former striker” (英語). Goal.com (2019年2月8日). 2024年1月26日閲覧。
  5. ^ Sala hits three as Nantes crush Toulouse”. www.ligue1.com (2018年10月20日). 2018年10月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月23日閲覧。
  6. ^ DISPARITION D'EMILIANO SALA” (フランス語). FC Nantes (2019年2月8日). 2024年1月26日閲覧。
  7. ^ FCナントは木曜日、発見された遺体がエミリアーノ・サラのものであったことを知り深い悲しみを覚えた。このニュースによって耐え難いほど長く待たされたことに終止符が打たれた。エミリアーノは永遠にFCナントの偉大な歴史を刻んだレジェンドの一人である。
    つらい朝、悪夢のような目覚めがあり、不幸な現実が私たちを襲った。エミがいなくなった...。
    2015年7月にエルドレ川の河畔にやってきたエミリアーノ・サラは、ナントのファンの心をつかんだ。その勤勉さ、決断力、そして果てしない優しさによって、彼はこの3シーズン、黄色い家で得点王に輝いた。
    国内外から寄せられた賛辞は、彼という人間、そして選手にふさわしいものだ。今日、我々は友人であり、才能ある選手であり、模範的なチームメイトを失った。
    ヴァルデマール・キタ会長:「言葉がない。悲劇としか言いようがない。エミリアーノは彼の足跡を残した。だからこそ、多くのファンと同じように背番号「9」を欠番にすることで彼に再び敬意を表したい。」
    FCナントとその監督、スタッフ、選手、関係者は、エミリアーノ・サラとデイヴィッド・イボットソンのご遺族とその愛する方々に心から哀悼の意を表します。私たちはエミのことを決して忘れません。
    決して諦めることのないアルゼンチン人、エミリアーノ・サラ、エミリアーノ・サラ、エミリアーノ・サラ...。
  8. ^ Vol.1 リーグアン・ナントでトップのコーチを務めるけど“普通の人”!?”. REIBOLA (2022年12月20日). 2024年1月26日閲覧。
  9. ^ サッカー=ナントがフランス杯優勝、決勝でニースに勝利”. ロイター (2022年5月8日). 2024年1月26日閲覧。
  10. ^ メッシら退団のPSGが敗戦…レンヌが逆転でELへ…ナントが土壇場で残留決める/リーグ・アン最終節”. サッカーキング (2023年6月4日). 2024年1月26日閲覧。
  11. ^ “Effectif” (フランス語). fcnantes.com. https://www.fcnantes.com/groupepro/effectif2324.php 2024年1月27日閲覧。 

外部リンク 編集