Wikipedia:井戸端/subj/脚注リンクの配置位置について

脚注リンクの配置位置について 編集

Help:脚注#スタイルと用法に『脚注リンクは句点(。)の後でなく前に置きます。』という一文がありますが、編集者に対して強制力はどれほどあるのでしょうか。

また、これを覆す例外事項などはあるのでしょうか?

ちなみに参考までに今回こちらでご質問させていただこうと決めたきっかけについて以下に記します。

某記事にて脚注リンクの配置位置が句点前後に混在していたので上記Helpに従って、句点の前に配置位置を修正しましたが某編集者によって即差し戻されました

この方は独自の解釈でこの記事のみならず多数の記事で同様に脚注リンクの配置位置を句点前後に混在させています。

現在この記事のノートおよび利用者‐会話:据え膳にて議論中ですが、耳をお傾けににならず、脚注リンクの配置位置を句点前後に混在させて新しい記事を作成されるなどされています。

私なりに脚注リンクの配置位置を句点前後に混在させることの問題点を直接説明し続けているのですがいまだ合意には至っておりません。

あまりに頑ななのでHelpページの記載事項を覆せる必要性が何かあるのかお聞きしてものらりくらりとお答えになっておられます。--据え膳会話2012年5月13日 (日) 01:37 (UTC)[返信]

原則的には句点の前とします。これは私の知り得る限り、相当のコンセンサスを得ているはずです。相応の強制力が有ると見てよいでしょう。ほとんどの人は読みにくく感じ、修正に動かれることと存じます。ただし、物事には例外がつきものです。話を出典に限定して、文節の最後の脚注の場合はどうでしょう[1]
この[1]は、普通に読めば「文節の最後の脚注の場合はどうでしょう」にかかっています。しかし場合によっては「原則的には〜どうでしょう。」という段落全てにかかる出典を用いる場合があります。と言うか良くあります。こう言った際、ぱっと見よく解らなくては閲覧者が非常に困るため、脚注を句点の右に追い出して、出典が段落の全てにかかっていることを目で見て解る様に示す流儀があります。私も必要であれば用いる手法です。[2]
よって、修正する場合には、機械的に行なうのではなく、執筆者にこの意図が無かったのかをよくよくご検討下さい。どう考えても意図が無いなら?修正すればよいでしょう。枝葉は良いので、この点についてだけ、特別の意図があるかどうかを先方にお問い合わせ頂ければ良いでしょう。納得できる意図が無いのに何故かどうしてもヘルプで示された標準的なスタイルをお守り頂けなさそう、と言ったことでしたら、利用者の行為についてのコメント依頼の提出をご検討下さい。スタイル破壊が余りに顕著でしたら、記事を守るために、投稿ブロック依頼や保護依頼も検討してよいかもしれません。一つ一つ解決していきましょう。
なお、他にも脚注の中に「○○についての出典です」と埋め込んでも良いですし、参考文献一覧で「===○○についての出典===」としておく場合もありますし、段落はともかく節全体の出典の場合は、節の最後に文献を列挙する場合もあります。他にも出典の示し方は色々あるでしょう。徹底した検証可能性を標榜するウィキペディアでは記事で一番大切なのは出典および出典の示し方なのではないか、と言った勢いで色々あるところです。査読・検証が行なわれるのがウィキペディアの前提なのですがら、執筆者はできるだけ、査読と検証が行ないやすい様にしましょう。これを怠るとのちのちまで災いに・・・なるかもしれません。--Hman会話2012年5月13日 (日) 02:39 (UTC)[返信]
Hmanさんご返答ありがとうございます。できればもうひとつお聞きしたいのですが、『脚注を句点の右に追い出して、出典が段落の全てにかかっていることを目で見て解る様に示す流儀』についてはどこかで明文化されているのでしょうか?--据え膳会話2012年5月13日 (日) 04:59 (UTC)[返信]
さあ、私は見たことがございません。しかし出典を示す方法については各執筆者が常に最善を期して試行錯誤している意味もあり、また自治側が妙に型にはめすぎて最前線で実際に執筆する執筆者各位に余りにも細かい規制をぎゃーぎゃーと押しつけるのもナンセンスでしょう。先ほど申し上げました出典の示し方の各流儀も、ガイドラインや方針として明文化されているわけではもちろんありません。そもそも文系と理系で出典の示し方も全く違いますし、書誌情報の扱いも統一されていないんですよ。まあ、後30年もすれば、明文化されるかもしれませんけど、余り深く考えることはありません。--Hman会話2012年5月13日 (日) 07:07 (UTC)[返信]
ご返答ありがとうございます。はっきり決まっているわけでなくケースバイケースということですね。Helpの強制力も絶対というものではないようですね。参考にさせていただきます。--据え膳会話2012年5月13日 (日) 15:03 (UTC)[返信]
「脚注は句読点の前」は私の知る限りかなり強い合意事項です。だから、差し戻すというのは奇妙ですね。ただ、実際には混在してますね。英語版では逆にピリオドの後なので、英語版の編集に慣れている編集者や英語版からの翻訳記事で「句読点の後」をよく見かけます。
強い合意事項はといっても、読者にとっては見た目はほとんど変わらないので、そこまでこだわって直す必要もないと思います。別の編集者ともめるくらいだったら、他の記事にエネルギーを注いだほうがいいのではないでしょうか。相手の会話ページでの据え膳さんのコメントも見ましたが、こういう書き方をされるとかえって意固地になる編集者がいるかもしれないな、というくらいに感じました。これくらいにさらっと伝えるほうが無難かも知れないです。--Bugandhoney会話2012年5月14日 (月) 13:06 (UTC)[返信]
Bugandhoneyさんご返答ありがとうございます。冒頭申し上げました某編集者さんの手法は、Hmanさんから上でご説明いただいた手法に近い(ですが若干異なる)のですが、複数の文にかかる出典の場合は句点の後にリンクを配置なさってるようです。私は句点の後に配置されてるリンクを句点の前に「機械的に」戻してしまいましたが、そうなると前の文の出典が消えるということで差し戻されたようです。この差し戻しの意図に関しては私は理解しました。Hmanさんがご指摘の『修正する場合には、機械的に行なうのではなく、執筆者にこの意図が無かったのかをよくよくご検討下さい。』という点で私に至らない点があったということです。ただ、当初、私は句点の後に配置されたリンクがその文の前の文にもかかるというのは記事を眺めただけでは正直理解できませんでした。私自身が今まで句点の後にリンク配置されてる記事を目にしたことがなかったのと、句点の後に脚注リンクを配置しても良い場合の説明がHelpページには明文化されていなかったからです。ただ、お二方からご返答いただいてあまり気にするなということですので今後は気にしないようにします。勉強不足でした。
Bugandhoneyさんのご指摘のとおり私の議論の進め方もダメだったなと反省しております。参考にさせていただきます。--据え膳会話2012年5月14日 (月) 15:19 (UTC)[返信]
一つの出典からの引用が連続して複数行にまたがる場合の出典の示し方は、私もいつも頭を悩ませているのですが、Hmanさんが説明したような解決法は、私も想像したことさえなかったです。このような作法は初耳だったので、そういう編集者の意図を汲み取るのは私にも非常に難しかったかなと。据え膳さんご指摘の二つの記事では、句点の後が比較的に多いので、何らかの意図でそうしているのかもしれない、くらいは気付いてたかも知れないですが。それでも、私の場合、説明を受けた後でもどういうルールの下、句点の前にするのか後にするのかを決めているのか、よくわかりませんでした。そういう場合は、いじる前に編集者に問い合わせたほうが無難だということなんでしょうが。正直言って、一つの出典からの引用が連続して複数行にまたがる場合は句点の後、というのは標準的な作法になってほしくないです。単純な間違いと見分ける自信がないので。--Bugandhoney会話2012年5月14日 (月) 18:27 (UTC)[返信]

。の後に<ref>タグを置いてその前の複数の文の典拠とする、そのやり方はまずいのではないでしょうか。私も執筆者各氏が出典の付け方に工夫をされていることは知っていますし、それに反対するつもりもありません。むしろ、Wikipediaが紙の論文ではないことを考えると大賛成です。論文ではなくWikipediaですから大量の出典や脚注がつく、紙ではないのでハイパーリンクでポンポン飛んだり一部を隠したり、色々な工夫が可能です。そうした特性上、紙の論文むけの作法とはまた別のところにWikipediaに最適化されたものが有るはずです。ですから執筆者各氏がされている様々な工夫、模索はその最適なものを探す非常に有意義なものだと考えています。ただし、それは閲覧者に意図を汲み取って貰える範囲内であればの話です。
Wikipediaはあくまで閲覧者に情報を提供する場ですから、閲覧者に意図を汲み取って貰えて始めて意味をなすものであり、理解されないものは単なる自己満足に過ぎません。無論、どこまでは意図を汲み取って貰えるか、あるいは貰えると期待してもいいのか、そしてどこからがNGなのか、その線引きは難しいものでしょうし、人によって考え方は異なるものだとは思います。が、今回据え膳さんやBugandhoneyさんが意図を汲み取れなかったようにこのやり方は閲覧者にも理解されないものと考えるべきで、これを許容するのは如何なものでしょうか。--110.158.212.59 2012年5月15日 (火) 13:01 (UTC)[返信]

そうですね。読者が意図を汲み取れなかったら意味がない、というのはその通りだと思います。ただ、ある編集者が別の編集者の意図がわからないまま、手を加えてしまうのはそれとは別の問題なので。
私の経験では、書き方を工夫することによって、この問題はおおむね回避できますね。どうしても、一つの出典が複数の文に及んでしまい、そのことを書き方で指し示すことが難しい場合は、Nameタグを使って句点の前にいちいち脚注を挿入するのが一番分かりやすくて簡単な解決方だと思います。--Bugandhoney会話2012年5月15日 (火) 15:24 (UTC)[返信]
段落全体にかかる際のマークアップとして、より解りやすい機能が導入されればもちろんその方がよいのでしょうけどね。<refdanraku>みたいなものがあればいいんでしょうけど。いずれに致しましてもすぐにと言う訳にも徹底と言う訳にもいかないでしょうから、まあ追々考えていきましょう。--Hman会話2012年5月16日 (水) 02:31 (UTC)[返信]
110.158.212.59です。私も統一して回る気もないですし、それを推奨する気も全くありません。個々の記事に関しては気付いた人・直そうと思った人が執筆者と話し合いながらどうするのか決めて行くのが穏当でしょう。ただ、閲覧者に理解されないやり方が市民権を得ている、あるいは市民権を得ていると思い込んでいる人間が存在するというのは望ましい状況だとは思えません。閲覧者への配慮を欠いたまま「こういうルールを定めたからそう読み取ってくれ」というのは好ましいものではない、そのことは確認しておく必要はあるでしょう。--110.161.136.20 2012年5月18日 (金) 13:53 (UTC)[返信]
ちょっと英語版を調べてみましたけど、Inline citationはどこにどれだけ置くか、というのは文法や構成といった形式で判断するのではなくて、内容で判断するとなっていて、合理的だと思いました。だから、記事の内容によっては一文の中に複数のInline citationsがある場合もあれば、内容によってはInline citationを必要としない記事もある、ということみたいです。段落に関しては基本は最後の一文につける、ということみたいです(要するにその段落全体がその出典に依拠しているということが伝わればよい)。--Bugandhoney会話2012年5月16日 (水) 13:25 (UTC)[返信]
Bugandhoneyさんご指摘のとおり、文章構成を工夫することで周囲の文章に典拠を与えていることを示すことも可能でしたね。それですと閲覧者にも汲み取ってもらえますね。確かに合理的なやり方です。--110.161.136.20 2012年5月18日 (金) 13:53 (UTC)[返信]
110.158.212.59さん遅くなりましたがコメントありがとうございます。私は110.158.212.59さんと全く同意見です。一目で閲覧者に意図が伝わらないのであれば、各編集者の各々のルールを過度に尊重することには疑問が残ります。
Help:脚注#スタイルと用法に『脚注リンクは句点(。)の後でなく前に置きます。』という一文があるのに実際の記事では統一されていないことにはやはり違和感が拭えません。脚注リンクの句点の前後共用が許容されるのであれば、Helpからこの一文を削除するか、例えばBugandhoneyさんの挙げられた英語版での例を参考にするなどして句点前におく場合、句点後におく場合のガイドラインがHelpに明文化されるほうがいいんじゃないかなと思います。ただ、Hmanさんがおっしゃるように簡単にはいかないとは思いますが。。。--据え膳会話2012年5月18日 (金) 17:53 (UTC)[返信]
「弊害があるので許容したくない」という意図があると判断しています。とすればHelpに書くべきではないです。--iwaim会話2012年5月21日 (月) 01:13 (UTC)[返信]

  コメント脚注も括弧書きの一種ですから、基本的にはWikipedia:表記ガイド#約物の使い方Wikipedia:表記ガイド#句点)に沿って判断するのが無難かと思います。

段落全体に脚注を付ける場合(脚注の対象がセンテンスでない場合)には

〜〜〜〜。〜〜〜〜。〜〜〜〜。〜〜〜〜。[1]

  1. ^ 脚注x

もしくは、段落中のセンテンス数が多くなければ、

〜〜〜〜[1]。〜〜〜〜[1]

  1. ^ a b 脚注x

も一応可能。 しかし、

〜〜〜〜。〜〜〜〜。〜〜〜〜。〜〜〜〜[1]

  1. ^ 脚注x

のような書き方は1センテンスのみに対する脚注と解釈され意味が変わってしまうので誤り。

一文ごとの脚注と段落全体の脚注が入り混じる場合には、段落中のセンテンス数や脚注の位置や数などに応じて、

〜〜〜〜[1]。〜〜〜〜。〜〜〜〜[2]。〜〜〜〜[3][4]

  1. ^ 脚注a
  2. ^ 脚注b
  3. ^ 脚注c
  4. ^ 脚注x

とする代わりに

〜〜〜〜[1]。〜〜〜〜[2]。〜〜〜〜[3]。〜〜〜〜[4]

  1. ^ 脚注a。脚注x。
  2. ^ 脚注x
  3. ^ 脚注b。脚注x。
  4. ^ 脚注c。脚注x。

のようにセンテンスごとに混ぜ込んでしまったほうが本文はすっきりするかもしれません。しかし脚注内の表示(ハーバード方式などを用いている場合は本文内のカッコ書きも)がくどくなるので一長一短でしょうか。

今後、広範な合意があれば脚注に特化した新たな表記統一ルールを検討することは差し支え無いと思いますが、Help:脚注はハウツー的な技術的助言の掲載が主たる役割ですので、書式のスタイルルールに関する新規ルール提案があればWikipedia:表記ガイドのノート等で検討するほうが妥当なように思います。

(参考:当該内容の提案があった過去のノート[1][2][3])。--ディー・エム会話2012年5月21日 (月) 15:43 (UTC)[返信]

「段落の場合は句点の後」は何人かの編集者が今までに提案しているというのはよく分かりました。ただ、やっぱり反対です。理由は直感的ではないからです。たとえば、3番目が悪い例なのですが、これはすごくアクロバティックで、2文目だけが出典4に依拠している、ということを読み取れる人はあまりいなさそうです。逆に、2番目の例ではあっても、「経済学者の山田太郎によると...」と書き始めて、何行か続けた後に、「...とされている[1]。」と最後の句点の前に一つだけ出典を示して、脚注に「[1]山田太郎(2012)『ウィキペディアの経済学』、p. 8」となっていれば、その段落全体がこの著書を出典としていることは容易に伝わります。ちなみに、3番目と4番目の例は、「一行目である[1][4]。二行目である[4]。三行目である[2][4]。四行目である[3][4]。」というのが市民権を得ているかと思います。
凝った形式を採用するのではなくて、どの部分がどの出典に対応しているのか、常識的に判断できるような書き方を推奨するべきではないでしょうか。--Bugandhoney会話2012年5月21日 (月) 22:55 (UTC)[返信]
すみません。私が述べたかったのは、
  • 3番目の書き方(〜〜。〜〜。〜〜。〜〜[1]。)は段落全体への注釈としては明らかにNG
  • それ以外はケースバイケースで判断するのが良い
という2点だけで、別に新規に提案する事柄は持っていませんし、賛成とか反対というレベルの話ではないのでその点は誤解無きよう。
Bugandhoneyさんがお示しの具体例の一つ目については、「容易に伝わる」かどうかが問題の重点では無いです。たとえば、一般的な日本語文章の具体例で示すとすると
来る◯月◯日に◯◯イベントを開催します。お誘い合わせの上、ぜひお越しください。なお、ご参加のお申込みはメール、ファックスにて受け付けています(誠におそれいりますが、車でのご来場はご遠慮ください)。
という文章を普通の人が読めば
来る◯月◯日に◯◯イベントを開催します。お誘い合わせの上、ぜひお越しください。なお、ご参加のお申込みはメール、ファックスにて受け付けています。
(誠におそれいりますが、車でのご来場はご遠慮ください)
の書き間違いだな、ということは容易に想像がつくので理解に困る心配はないけれども、「読んだ人が分かりさえすれば別にそれでいいや」ということと、その書式が妥当かかどうかというのは別問題なので。
次に、ご提示の書き方例について。たとえばハーバード方式の例で考えると見た目に分かりやすいかもしれませんが、
〜〜〜〜(著者A 2001,p.100. 著者B 2002,p.201.)。〜〜〜〜(著者B 2002,p.202.)。〜〜〜〜(著者C 2003,p.300. 著者B 2002,p.203.)。〜〜〜〜(著者D 2004,p.400. 著者B 2002,p.204)。
という書き方と
〜〜〜〜(著者A 2001,p.100.)。〜〜〜〜。〜〜〜〜(著者C 2003,p.300.)。〜〜〜〜(著者D 2004,p.400.)。(著者B 2002,pp.201 - 204.)
という書き方とでは、書式としてはどちらを選んでも良いわけで、ケース次第で「著者Bのページ数をピンポイントに示したい」という場合には前者のほうが好ましいかもしれませんし、かといって機械的に後者を前者に書き換えてしまうと何かの悪い冗談としか思えない場合も起こりうるでしょうから、画一的に優劣は決められないと思います。ただし、
〜〜〜〜(著者A 2001,p.100.)。〜〜〜〜。〜〜〜〜(著者C 2003,p.300.)。〜〜〜〜(著者D 2004,p.400. 著者B 2002,pp.201 - 204.)。
が書式としてNGなのは明白です。--ディー・エム会話2012年5月22日 (火) 13:42 (UTC)[返信]
(追記)「これはすごくアクロバティックで、2文目だけが出典4に依拠している」とされているのは誤解です(念のため)。--ディー・エム会話2012年5月22日 (火) 13:56 (UTC)[返信]
すいません。数え間違いました。大変失礼しました。「アクロバティック」なのは、3番目の例ではなくて4番目の例でした。
要するに、新しく例示された例でいうと、3番目と4番目がほぼ同じ出典の構造をとっているということが私には読み取れません。3番目はよい例です。一意にしか読み取れませんから。4番目は、まず私が考えるのは5番目(最後)のようなことを意図したが、書き損じてしまった、ということです。多数の編集者による編集を経るうちに出典の参照番号の位置がおかしくなってしまうというのは起こりますから。要するに、お知らせ文の1番目の例と2番目の例の違いのような形式的な間違いをまず読み取ってしまいます。3番目と4番目は書式としてどちらを選んでもよいとは思えないです。3番目しかだめです。
4番目が3番目とほぼ同じ構造をとっているということを読み取るためには、a) Inline citationはそれが付いている文にしかその効果が及ばない、b) Inline citationの脚注参照番号は句点の前に置かれることもあれば後に置かれることもある(どちらも記事のフォーマット的にはOK)、c) 句点の後におかれた参照番号は段落全体に効果を及ぼす、というウィキペディアのどこにも書いてないルールを前提としています。私にとって反直感的なのはルールbとcです。bは単純にいってヘルプにある「脚注参照番号は句点の前に置く」という明示されているルールに反していますし、英文学術雑誌でも見たことないです(Nature、Science、PNASといったバンクーバー方式を採用している雑誌では参照番号はPunctuationの前であって後に置かれることはない、日本語の雑誌はよく知らないです)。cに関してはウィキペディアは一応出典の示し方を学術論文に準じようとしていると思いますが、このような作法は知らないです。据え膳さんや私がそういう意図が読み取れなかったということは、そういうことが読み取れない一般読者が他にいてもおかしくないということです。
それで、私が示した例で言いたかったのは、このようなルールを一切知らなくても、複数の文が一つの脚注参照番号に対応していることを明確に示すことができるということです。「容易に伝わる」かどうかは問題の重点では無い、とのことですが、ちょっと意味がよく分かりませんでした。私にはそれが一番大切なことのように思われるのですが。たとえば、4番目の段落に別の編集者が著者Bの文献に依拠せずに加筆しようとする場合、まずその編集者は4番目の例が3番目を意図しているということを読み取った上で3番目に書き直した後で、自分が使用したい出典と記述を加える、という作業が必要になります。どの記述がどの出典に対応しているかが容易に伝わるかどうかは、記述と出典の対応関係を保つためにクリティカルだと思うのですが。--Bugandhoney会話2012年5月22日 (火) 20:43 (UTC)[返信]
110.158.212.59です。ディー・エムさんへ。ハーバード方式やバンクーバー方式は注(note)や脚注(footnote)の示し方を規定したものではなく、citation(定訳はないみたいですが引用、文献引用、出典などの訳語が当てられてるのを見たことがあります。ウィキペディアでは「文献参照」と訳す人もいるようです)の示し方を規定したものではないでしょうか?
Bugandhoneyさんへ。お二人の意見の違いは<ref>出典</ref>を脚注ととるかInline citationと取るかの違いでしょう。私もBugandhoneyと同じくInline citationと取るのが自然だと思っていますが、どちらかが絶対的に正しくどちらかが間違っているというものでもないかもしれません。
まあ我々ウィキペディアンが<ref>出典</ref>を脚注ととるにせよInline citationととるにせよ、閲覧者にその解釈を押しつけるのは現実的ではないでしょう。ですから重要なのは、閲覧者がどちらの受け取り方をしたにせよ執筆者の意図が正しく伝わるようにする、Bugandhoneyさんの言われる「容易に伝わる」ようにする、その一点でしょうね。
なお余談になりますが、Inline citationを句読点の後に置く論文もあるみたいです[4]。また句読点の後に脚注を置くやり方もあるみたいです[5]。ただ、脚注にしろInline citationにしろ、ディー・エムさんが示されたような句読点の前にも後ろにも置く、混在する書き方は私も見たことがないです。--110.161.151.62 2012年5月23日 (水) 15:39 (UTC)[返信]
  コメントそうです。要するに脚注もInline citationも含めて、日本語における約物の書式に則っている限りにおいては私は違和感は感じないし、則っていないと違和感があります。ちなみに英文に関してHelp:脚注#スタイルと用法でピリオドの後としているのはウィキペディア英語版の書式に基づく説明です(基本的にHelp:脚注は主にウィキペディア初心者のためのHOW TOテキストであり、方針やガイドラインのような拘束的ルールではありません)。
↓↓↓約物の書式と文章末の出典記載についての参考(あくまで参考)
Wikipedia:表記ガイド#句点
  • 文末に括弧に含まれた文がくる場合、地の文の区切りを明確にするため、括弧の外に句点を打ちます。
    例: それらには星印を冠した(運営文書を除く)。
  • 括弧内の文が、地の文から独立している場合には、括弧の前に句点を打ちます。
    例: 辞世の句を詠んだ。「あいうえお かきくけこさし すせそたち」
Wikipedia:出典を明記する#本文中に注釈を挿入する
手順
  1. 出典を提示したい文章の直後に(----から引用)、(----参照。)、(----参考。)、(----を見よ。)と続ける。
段落単位で脚注を付けるのは桂正和とかオグリキャップ(注釈で使用)とかでみられるパターンで、そういう記事は結構あると思いますが全部一文ごとに脚注を付ける形に修正する必要があるでしょうか?
(Bugandhoneyさんへ)すみません、コメントの対応がわかりにくかったでしょうか。「Bugandhoneyさんがお示しの具体例の一つ目」というのは「経済学者の山田太郎によると......とされている[1]。」の例示のことです。「次に、ご提示の書き方例」といったのは「一行目である[1][4]。二行目である[4]。三行目である[2][4]。四行目である[3][4]。」のことです。--ディー・エム会話2012年5月23日 (水) 16:40 (UTC)[返信]

(IPユーザーの方へ)情報提供ありがとうございます。私とディー・エムさんの見解の相違はそういうことではなくて、ディー・エムさんからも補足説明がありましたが、ディー・エムさんは脚注参照番号が鉤括弧で囲まれているという点に注目して、約物に準じた表記をする限りは文法的・形式的に間違っているわけではない、というのに対して、私は脚注を句読点の前に置くのか後に置くのかは二者択一の形式的な問題だ、というようなことです。たぶん。私にとっては脚注の位置は、いわば、句点に丸(白丸)を採用するのか、ピリオド(黒丸)を採用するのか、といったような、二者択一、統一すべき表記法であるように思われます。ご紹介にあった日本物理学雑誌が原稿のマニュアルで規定しているように。

ご存知のように英語版も脚注はPunctuationの後に付けることになっています。ただ、それは、ディー・エムさんが紹介した句点の後に脚注を付すことに反対している編集者が指摘している通り、日本語では問題になります。というのは、日本語版では、句点は全角ということになっていると思うのですが、そうすると句点の後の脚注に次の文を続けると、脚注があたかも次の文の最初の単語についているかのように見えてしまうのです。困ったことに、科学論文では著者の所属を示すために、名前の頭に脚注参照番号・記号を付けるという作法も存在して、脚注がどの部分に対応しているのか曖昧になってしまうのです。実は「脚注が段落全体を指す場合は句点の後」という作法には、さらに明示されていないルールdがあって、つまり、句点の後の脚注の後には改行を必ず入れ、そのまま文を続けてはならない、というのものです。つまり、「脚注が段落全体を指す場合は句点の後」はあくまでも「段落全体を指す」であって「脚注以前にある複数の文を指す」とはならないわけです。約物の例でいうと、「~~~~。(~~~~)~~~~。」というように丸カッコ内に句点を使用せずに表記すると丸カッコ内の内容は独立した記述ではなくて、最後の文に対する補足説明と通常受け取られるでしょう。

それで、今まで出た例でこのような問題点・曖昧さを回避するための工夫を調べてみると面白いです。『理論経済学』の日本語論文では、句点に全角丸ではなくて、半角ピリオドが採用されていて、その後に半角スペースを続ける、となっています。あたかも英語のように。それに加えて、脚注参照番号に右括弧だけを付けることによって、脚注がそれに引き続く記述ではなく、その前の記述に対応していることを表そうとしています(右括弧のみは日本物理学雑誌も同じ)。

桂正和では、脚注で「この段落は○○を参照」と明言することによって、ある脚注がどの記述に対応しているのか、容易に伝わるようになっています。

オグリキャップでは、句点の後の脚注にはその直後にもう一回句点を打つ、という変わったことをしています。瑣末な記述をあたかもコメントアウトするかのごとく、脚注が次の文に対応しているわけではないことを表そうとしているのでしょう。

最後に、句点の後の脚注をすべて修正する必要があるかどうかですけど、私にとっては脚注の句読点に対する位置は統一すべき表記法の一つであり(学術雑誌のように)、実際、段落の中での位置や頻度に関する決まりがない英語版でも、Punctuationの後というふうには統一されているわけですが、同時に、記述と出典の対応関係が容易に伝わるかどうかも大事なポイントであって、桂正和のような工夫は排除されるべきではなく、むしろ推奨されるべきだと思います。--Bugandhoney会話2012年5月23日 (水) 18:39 (UTC)[返信]

110.158.212.59です。失礼しました、話を誤解していました。ディー・エムさんの解釈は論文のinline citationルールと齟齬をきたすもの、ではそれはどこから来たのか、footnoteの方のルールをinline citationに拡張しているのではないか、あるいは私の疎い日本語縦書き論文(文献引用と注釈が未分離のまま脚注に入れられる)の脚注作法にそういったものがあるのではないか、そう勝手に解釈していました。そうではなく、Wikipedia:出典を明記するWikipedia:表記ガイドに書かれていることを組み合わせて導き出した推論であって、何かの裏打ちが示されているわけではなかったのですね。
話は理解しましたので改めて。まず、ディー・エムさんの推論が論文のinline citationと齟齬をきたすということについて。論文で番号を使って参考文献から本文にinline citationを引く時には、(1)1)1等、色々なやり方がある。番号を句読点の前に置くこともあるし後ろに置くこともある、縦書き論文まで視野に入れれば対応する語・文の横に置くものもある。そうしたものは投稿先の定める投稿規程に従って選択する。つまりそれらの違いは書式の違いであって、句読点の前に置いたからあるいは後ろに置いたからと言って意味が変わるわけではない。これは英語論文も日本語論文も同じ(日本語論文では基本的に句読点の前にinline citationを置くが、後ろに置くこともある、らしい。私も実物はみたことはないです)。つまりinline citationをこちらの1番と3番の様に置くとどちらも最後の1文にかかるものになる、4番は複数の書式が混在しxは最後の一文のみにかかっている、となる。そのため論文を念頭に記事を読む閲覧者はディー・エムさんが定義されたようには受け取らない、ということです。ですから、ディー・エムさんの推論が仮に妥当なものだったとしても使うべきではないでしょうね。Wikipedia:出典を明記するWikipedia:表記ガイドは、「それを守っていれば他に問題があったとしても無視してかまわない」そういうガイドラインじゃないわけですから。一方でディー・エムさんのような視点で記事を読む読者に配慮するなら、句読点の後にinline citationを置いて直前の一文の典拠を示す、そのやり方も望ましくないとなるでしょうね。もっともその表記を許容しよう、そう主張されてる方はいらっしゃいませんが。
もうひとつ。誤解されている方がいらっしゃるかもしれないので改めて述べますが、私は句読点の後に脚注を付けることを否定しているわけでも段落全体に典拠を与えるやり方を否定しているわけでも、Hman氏が幾つか示されたものも含めた執筆者各氏が行っている新しい試みを否定しているわけでもありません。あくまで閲覧者に理解して貰えないやり方、句読点の後ろにinline citationを置くとその前の複数の文に典拠を与えたとみなすとする暗黙のルール、それだけに異論を唱えているわけです。桂正和のように、inline citationではなく注釈という形を選択して文意から典拠のかかる範囲を明示する、そうしたやり方は推奨されこそすれ否定されるようなものではないでしょう。
Bugandhoneyさんへ。論文でinline citationとfootnoteを縛るルールが異なるように、出典を示す[1]と注釈へ案内する[*1]は別の表記ルールに従うと考える、[1]に関しては句読点の前で統一、[*1]はケースバイケース状況に応じて使い分ける、という考え方もあるのではないでしょうか。そう考えれば桂正和も複数の書式の混ざった特例ではなく規定の書式の射程内と捉えることも可能になります。--183.72.224.122 2012年5月27日 (日) 03:27 (UTC)[返信]


複数の文(「段落全体」を含む)に一つの出典を対応付けたい場合ですが、こういう場合は地の文において文章でその出典の範囲を明示すべきです。複数の文を一点の出典に対応付けたいとすれば、それらの文には意味的に強いつながりがあるはずで、そのつながりを総括した文(あるいは節)をひとつ付け加えてそこに注釈をつければいいのです。

  • 『...[1]』によれば、Aは…、Bは…、Cは…である。
  • 『...[1]』には次のように記されている。Aは…、Bは…、Cは…である。
  • Aは…、Bは…、Cは…である。以上は『…[1]』に基づく。

上で指摘されている問題はこのような形でどうにでも解決できます。また、上で挙げられていた「〜〜〜〜[1]。〜〜〜〜。〜〜〜〜[2]。〜〜〜〜[3]。[4]」のケースなら、4の部分をそのまま地の文にしてしまうだけでいいでしょう。地の文にした時に違和感があるとすれば、それは記事内容として冗長だったり瑣末すぎる記述だったりしているのであって、それは注釈だろうが書くべきではない内容です。出典情報を脚注だけですまそうとして、一般的とは言いがたい表記をむりやりに使ったり、新しい特別な書法をルールに付け加えようというのはあまり良策とは思えません。ガイドラインを定めるなら、脚注は常にひとつの文(あるいは節・句)に対応付けよ、とすべきと考えます。--Kojidoi会話2012年5月26日 (土) 01:07 (UTC)[返信]

《複数の文(「段落全体」を含む)に一つの出典を対応付けたい場合ですが、こういう場合は地の文において文章でその出典の範囲を明示すべきです》ってのは、後からの加筆がとてもやりにくくなるというデメリットは考慮した方がいいです。--iwaim会話2012年5月26日 (土) 04:42 (UTC)[返信]
具体的にどういう場合でしょうか。脚注方式と比べて著しく困難さが増す事例というのをちょっと私は思いつきません。たとえば、
  • 『...[1]』には次のように記されている。Aは…である。Bは…である。Cは…である。ただしCについては…という主張もある[2]。
とか、特に問題なく加筆できますね。 Bugandhoneyさんが2012年5月22日 (火) 20:43 (UTC)のコメントで指摘しているようなややこしい問題も回避でき、むしろ加筆はしやすくなるはずです。--Kojidoi会話2012年5月26日 (土) 15:00 (UTC)[返信]
例示いただいているものの時点で問題を孕んでいます。<『...[1]』には次のように記されている。Aは…である。Bは…である。Cは…である。>に<『...[1]』には次のように記されている。Aは…である。Bは…である。Cは…である。ただしCについては…という主張もある[2]。>と加筆した場合ですが、この割と単純な構成ですら、たとえば「Cは…である。」の出典が何であるのかを厳格に特定することはできません。なぜならば、読み手側からは、加筆がなされる前の構成を(履歴をみない場合は)把握することができないからです。(さらに言えば当初[1]を基にした記述はAとBに関することであり、それに対して誰かが出典なしにCを加筆するケースも今のウィキペディア日本語版では十分に想定されることです)
また、Bについて述べた文章とCについて述べた文章の間に挿入すべき事柄があった場合にどうするのかという問題もあります。(もちろんここに改めて出典を付与することが期待されるわけですが、その行為について「加筆がやりにくくなる」と私は指摘しています。[1]を基にしたという記述がどの範囲であるのかは履歴をみないと明確ではないからです)
以上のように、「既存の文章の途中に文章を挿入するような加筆の際に、(出典を個別に付与しなおす必要があるが)従来の出典がどの範囲にわたって使われていたのかは結局履歴を追わねばわからない」という加筆が面倒になる点、また「出典の範囲を厳格に特定することができないため、検証可能性を満たさない記述がなされた場合に問題がある」という読者側に検証可能性を担保できない可能性があるという点に懸念があります。--iwaim会話2012年5月26日 (土) 16:15 (UTC)[返信]
指摘されている問題は、「複数の文を対象とした脚注」においてこそより顕在化するように思います。もちろん、より厳密に表現するとすれば、既に前の議論で例示されているようにABCそれぞれに個別に出典を示すしかないでしょう。しかし私が示した文例において「Cは…である。」の出典が[1]であることは履歴など見なくても普通に読めばわかるはずです。「複数の文を対象とした脚注」によって、それよりも明確に「出典が何であるのかを厳格に特定」することが可能だとは思えません。また、「改めて出典を付与する」ことにかかる手間も同じ事です。これらを解決する良い「複数の文を対象とした脚注」の付け方がありえるとすれば、私に思いつく唯一の手法は「要出典範囲」の「出典」版みたいなのを作ることですが、それがない現状では、「複数の文を対象とした脚注」の出番はないように思います。句点の前か後かというような議論には実効性がないと思うのです。--Kojidoi会話2012年5月26日 (土) 19:06 (UTC)[返信]
《「複数の文を対象とした脚注」においてこそより顕在化するように思います》についてはよく理解できませんでした。《より厳密に表現するとすれば、既に前の議論で例示されているようにABCそれぞれに個別に出典を示すしかないでしょう》についてはその通りだと考えています。横着せずにちゃんと示せよ、と思ってます。(ちなみに、私はgeneral references方式ですら否定的な立場をとっています
《しかし私が示した文例において「Cは…である。」の出典が[1]であることは履歴など見なくても普通に読めばわかるはずです》については、そう理解してしまうが実情はそうではない可能性があるという指摘です。一例だけ挙げます差分が、現在のウィキペディア日本語版では「既存の出典提示を無視して、あたかも出典があるように見える状態で、出典にない記述に更新する」という行為も日常的に行われています。もちろん、そんなことをやる人に問題があるわけですが、「すでに示されている出典を別の形式で指定する」という作業をやる立場からはちゃんと調べないと自分が誤解を広めることになるので、ちゃんと調べる必要を感じるケースも多いと判断しています。とすれば、最低限履歴はチェックすることになるわけで……。--iwaim会話2012年5月28日 (月) 06:21 (UTC)[返信]
残念ですが理解できません。「既存の出典提示を無視して、あたかも出典があるように見える状態で、出典にない記述に更新する」ことも「履歴を調べることが必要な状況」も出典がどのような形で示されていようともありえることで、「地の文」を活用した場合に著しく事態が悪化するとは考えられません。私が示した文例でCの出典が[1]であることが読み取れないとすれば、それは日本語の読解力が不十分であるにすぎないでしょう。--Kojidoi会話2012年5月29日 (火) 15:27 (UTC)[返信]
地の文ならよく脚注はだめとする理由がいまいちよく分かりませんでした。例えばKojidoiさん例示の3番を
  1. Aは…、Bは…、Cは…である。<ref group=”*”>ABCは『…』に基づく。</ref>
  2. Aは…、Bは…、Cは…である<ref>『…』</ref>。
とすべきではない積極的な理由はあるのでしょうか。1は後に文が続く場合にはまずそうな気もしますが、段落末であれば何か問題があるとは思えないのですが。あと、イレギュラーな形になるのかもしれませんが、
  1. A。B。C<ref group=”*”>ABCは『…』に基づく。</ref>。
でも意味は十分伝わるはずです。--183.72.224.122 2012年5月27日 (日) 03:27 (UTC)[返信]
1は単純にrefが冗長です。3番目の「イレギュラーな」例も同じです。読者に無駄に本文・脚注間の視点移動を強いるべきではありません。本文で記述可能なものは本文にわかりやすく書く努力をするのが原則であり、そもそも脚注など安易に頼るべきではないのです。2ではABの出典が1であることが明確に伝わらないのでまずいというのがそもそもの問題提起であり、話が元に戻るだけです。--Kojidoi会話2012年5月27日 (日) 05:20 (UTC)[返信]
<ref>タグが冗長であって本文に直接挿入すると冗長でないとする感覚が全く理解できません。それにクリック一つであちこちに飛ぶことのできるウィキペディアで視点移動の負荷はそれほど問題にならないでしょう。また
  1. 本文に(著者名「題名」『雑誌/書籍名』刊行年、出版社)や(著者1 発表年1 :著者2 発表年2 : 著者3 発表年3……)が挿入されると著しく可読性を損なうこと。
  2. 様々な背景も持つ閲覧者が想定される以上、ある人には理解を助ける必要不可欠な情報でも他の人には可読性を損なう冗長な情報というのは存在する。脚注化は両者の住み分けを可能にすること。
  3. ウィキペディアは論文ではないのですから、本論のみに情報を絞る必然性はないこと。本論から外れた情報であっても閲覧者に伝える価値のあるものはあるでしょう。
そうしたことについてご配慮頂けていないのは非常に残念です。もう一つ、「2ではABの出典が1であることが明確に伝わらないのでまずいというのがそもそもの問題提起」ではないことを最初から読み返して頂いてご理解願います。--110.158.196.136 2012年5月27日 (日) 06:53 (UTC)[返信]
わたしは脚注そのものを否定しているわけではないですよ。ただしあなたの例示されたような<ref group=”*”>に限って言えば冗長だと言っています。つけるなら「ABCは『…[1]』に基づく。」という形が良いでしょう。私は当初からそのように主張しています。反論の2,3番目については完全に本題から外れています。『脚注を句点の右に追い出して、出典が段落の全てにかかっていることを目で見て解る様に示す流儀』が意味がわからないというのが据え膳氏がそもそもこの議論を起こしたきっかけだし、その流れの中で「〜〜。〜〜。〜〜。〜〜[1]。」は段落全体への注釈としては明らかにNGとの指摘もなされています。過去にNGと指摘された文例を普通に再度持ちだしてくるあなたの感覚こそよくわからないですね。
それで、本文+単一文への脚注ではダメで「複数の文を対象とした脚注」でないとどうしてもマズイ事例はどこにあるのでしょうか。それを具体的に示していただければ私も納得して引き下がりますが、今のところ見当たらないようですね。--Kojidoi会話2012年5月27日 (日) 09:39 (UTC)[返信]
「ただしあなたの例示されたような<ref group=”*”>に限って言えば冗長だと言っています。」というのは
  1. Aは…、Bは…、Cは…である。(ABCは『…』に基づく。)
  2. Aは…、Bは…、Cは…である。[*1]
1なら冗長ではなく2なら冗長ということになりますが、これっておかしくないですか?どちらが冗長というなら1の方が冗長でしょう。
反論の2番3番については地の文にした時に違和感があるとすれば、それは記事内容として冗長だったり瑣末すぎる記述だったりしているのであって、それは注釈だろうが書くべきではない内容です。という本論から外れた話を持ち出された方に対する反論であったわけですが、確かに本論から外れている以上反応すべきではありませんでした。その段、お詫びしましょう。
なお、据え膳さんは『脚注を句点の右に追い出して、出典が段落の全てにかかっていることを目で見て解る様に示す流儀』』とおっしゃられましたが、内実目で見て分からない流儀であったから問題になっていたわけで、その点をご理解頂けていなかったことは残念です。また、ディー・エムさん例示の3番の脚注は文法上は直前の文にかかることは誰も異論は出していません。ただし表現を工夫することで、文法上の制約を飛び越えて文脈で閲覧者に理解してもらうことの是非についてはこれまで検討されていないことについても確認して頂きたいものです。
なお、最後の質問にしても完全に本論から外れたものなので反応することに躊躇いもありますが、「本文+単一文への脚注」以外にも「複数の文を対象とした脚注」にも意義があることがこれまでの議論参加者間の共通理解であると私は理解しています。それに対し「本文+単一文への脚注ではダメ」な事例を要求することがいかにおかしなことなのか、それを理解されていないことについても非常に残念に感じます。--110.158.219.13 2012年5月27日 (日) 14:33 (UTC)[返信]
なにが「いかにおかしい」のか全くわかりませんが、まあいいです。無駄な議論に時間を使うこともあるまいと、その「共通理解」なるものに異議を表明してみたわけですが、「複数の文を対象とした脚注」に存在意義があると確信されているならどうぞ議論をお続けください。私としては、あなたやiwaimさんの主張に説得力を感じないので、今後もそのような脚注を使うことはないでしょう。--Kojidoi会話2012年5月27日 (日) 17:27 (UTC)[返信]
「複数の文を対象とした脚注」に意義を認めると言った場合、大別して
  1. 一文のみを対象とした脚注よりは劣るが意義がある、あるいは意義がある場合もある
  2. 一文のみを対象とした脚注と同等の意義がある、あるいは意義がある場合もある
  3. 一文のみを対象とした脚注よりも意義がある、あるいは意義がある場合もある
  4. 複数の文を対象とした脚注でなければならない、あるいはなければならない場合もある
と4通りに分けられると思うのですが、kojidoiさんは最も極端で最も有りそうのない4番の正当性の証明を要求し、それがなければ「複数の文を対象とした脚注」に意義を認めないとおっしゃっているわけです。ご自身の発言が何を意味しているのか、改めてこちらから解説せざるを得ないことに困惑の念を感じずにはいられません。--110.158.207.211 2012年5月29日 (火) 17:00 (UTC)[返信]


(IPユーザーの方へ)脚注参照番号を註に用いようと出典に用いようと、句点の前に置くか後におくかは書式上の問題だと思うのですが。文系の論文の場合、脚注を註とCitationと両方に用いると思いますが、用途によって置く場所を変えたりはしないのでは。

(iwaimさんへ)ちょっとポイントがよくつかめませんでした。原則としては、加筆を行う時点で出典と記述の対応関係が一意に読み取れるようになっているという前提の下、加筆を行いたい編集者がその対応関係を崩さないように、元からある記述を適宜書き換えながら、新たな記述と出典を付け加える、ということになると思います。実際にはそのような理想からは遠く、出典もなく加筆されることもある、というのはそのとおりですが、その場合でも、「脚注参照番号が句点の後なら段落全体」よりもKojidoiさんが提案しているような「『...[1]』によれば、Aは…、Bは…、Cは…である。」のほうが出典のない記述を同定する上でまだましかなと思うのですが。

『「〜〜。〜〜。〜〜。〜〜[1]。」はNG』という意見がありましたが、そんなことはなくて、実際には多用されています。たとえば、赤血球#膜脂質ラフト(Lipid Raft)など。地方病 (日本住血吸虫症)#水腫脹満の「近世初頭に原本が成立した...」で始まる二段落目はKojidoiさんが提案しているような書き方の一つだと思うのですが、このような書き方がしてある場合、たとえ最終文にしか脚注参照番号が付いていなくても、それ以外の付いてない文は出典がないなどと考える人はいないでしょう。これは、たとえ、脚注参照番号が一つ目の文の句点の前にあったとしても同じだと思います。出典と記述の対応関係は書式で判断するのではなくて、常識的に、それが読み取れるかどうかで判断するのが一番だと思うのですが。--Bugandhoney会話2012年5月28日 (月) 16:49 (UTC)[返信]

今後も加筆されることが想定されるウィキペディア日本語版で「如何に効率よく出典の記載を省くか」という検討は止めた方がいいんじゃないか?というのが私の意見です。
《『「〜〜。〜〜。〜〜。〜〜[1]。」はNG』という意見がありましたが、そんなことはなくて、実際には多用されています》ということですが、たとえば「焼酎#米焼酎」の「主要生産地は」から始まる段落について、Bugandhoneyさんが例示されている記述と同じ構成ですが、その最後の一文に示されている出典が「その段落すべての記述の出典」となっているわけではありません。《それ以外の付いてない文は出典がないなどと考える人はいないでしょう》というのは(ウィキペディア日本語版の現状を踏まえれば)認識が甘すぎると言わざるを得ません。常識的に読み取れるか否かで判断すべきというのはわからなくともないですが、「常識」というのは人それぞれの解釈の揺れがあるわけで……。--iwaim会話2012年5月29日 (火) 01:56 (UTC)[返信]
「如何に効率よく出典の記載を省くか」という観点から意見を述べている人はいないと思うのですが。あと、出典のない記述がたくさんある、というのも共通認識としてあると思います。(私はだからこそ、「段落全体の場合は句点の後」に反対するわけですが。)
焼酎#米焼酎は、「また」などの接続詞、産地と味という異なるトピック、出典のタイトルなどから判断して、一読して最後の出典が段落全体の出典だとは思えなかったです。
赤血球地方病 (日本住血吸虫症)は秀逸な記事であり、基本的には、記述にはもれなく出典が付いていると判断されたということです。秀逸な記事はウィキペディアの「常識」のベンチマークになると思うのですが、これらの記事を読む限り、検証可能性を完璧に満たすためにはすべての文にInline citationを付けなければならない、ということにはなってはいないことが伺えます。これらの記事で、段落のすべての文に同じ脚注参照番号をつける、最後の句点の後に脚注参照番号を移動する、ということもできますけど、意味は感じられません。執筆者や秀逸な記事を審査した人々はそんなことが必要だとは思ってないと思いますけど(特に後者は執筆者を困惑させるでしょう)。もちろん、トピックによっては一つの文に一つ、時には複数のInline citationが必要になるときもありますが。--Bugandhoney会話2012年5月29日 (火) 12:39 (UTC)[返信]
概ねBugandhoneyさんの見解に賛成ですね。iwaimさんとIP氏は何か他の人とは違う論点で議論なさっているように見えます。--Kojidoi会話2012年5月29日 (火) 15:27 (UTC)[返信]
(Bugandhoneyさんへの二つ前の発言へ。)細かい突っ込みになりますが、文系でも社会科学系は以前提示したように横書き論文を用い、人文系でも横書き論文はハーバード方式やバンクーバー方式で書く方が多いのではないでしょうか(例えばここ)。人文系縦書き論文でもこちら(この号限りみたいです。また中身が学際的なのでその影響もあるのでしょう)みたいにハーバード方式で書かれたものもあるようです。理系・社会科学系及び少なくない人文系の論文がハーバード・バンクーバーを使っていることを考えると、そちらに則った運用をすることに十分な妥当性があると思いますし、現在のウィキペディアも出典と注釈を分離する記事が増えていることを考えても無理のある考え方だとは思いません。また、そもそも私は選択肢を増やすという意味で提案しているのですから、それを選択したい人がいれば使えばいいし、使いたくなければ使わなければいい、誰かがああしろこうしろと押しつけるようなものでもないのではないでしょうか。
次に、iwaimさん宛てのものへの横レスかつ少し主題から外れた話になりますが、「『…』によれば……」のように主語を付けて書くことが不適切な場合もあることにもご留意をお願いします。つまり通説や事実を書く場合には、主語を付けることにより、それが一部の研究者の見解であるかのような誤った印象を与えることになり、望ましい書き方ではありません。また執筆者各氏はこうした通説・事実を書くときには多数の出典を提示することで中立性・正確性を示し、情報の硬度を保障しています。そうした場合に主語を付けて書くとなると
『…』および『…』および『…』および『…』によれば……。
こんな文章読む気になりますか?論文でも「著者[1]によれば……」と「……[1]。」両方の書き方が認められていることも考えますと、仮にお二人が「『…』によれば……」といった書き方のみに選択肢を限定するような考え方をされていらっしゃるのでしたら、それには異議を唱えておきます。
もう一つ。「如何に効率よく出典の記載を省くか」という観点から意見を述べているのは私です。あと恐らくHmanさんやディー・エムさんもそうした考えを持っていらしたのではないかと推測しています。またBugandhoneyさんもそうした考え方に反対はしていないと思っていましたが読み違いでしたか。それは兎も角、私が「如何に効率よく出典の記載を省くか」に積極的な意義は感じている理由は下記の2つになります。
  • 執筆者の負荷の軽減。執筆者各氏は多数の文献調査に当たり、それを読み砕き文章を再構成して記事をお書きになられているわけで、そこに多大なエネルギーを費やしていることは疑うまでもないでしょう。その労苦を考えれば不必要な負担を負わせないよう配慮することは軽視すべきものとは思えません。執筆活動の中で一文一文に脚注を付けることによる負荷が大きな比重を占めるとは思いませんが、軽減できるものは軽減する、あるいは軽減できる選択肢を残しそれ以上のことは各執筆者の判断に任せる、少なくとも不必要に負荷を負わせてしまわないように配慮する、そうしたことは十分意義があるのではないでしょうか。無論、今回の「閲覧者に意図をくみ取れるようにする」のようなより優先順位の高いものと齟齬をきたすのであれば執筆者各氏に更なる負担をお願いせざるを得ませんが。
  • 可読性の向上。ウィキペディアで長く活動していると忘れがちになりますが、脚注・inline citationを大量に挿入するウィキペディアの記事は世間一般からみてかなり独特な文章です。記事の隅々まで出典による裏付けを必要とするウィキペディアのルール上致し方のない面もありますが、「A[1]。B[2][3]。C[3]。D[1][3]。」なる文章はかなり異様、読み難いと思われても仕方のないものでしょう。ある程度ウィキペディアで活動させて頂いている私でも(実際に記事を書かれた方には申し訳ありませんが)、こうした記事には少々引き気味になりますし、これに至っては正直見ただけで読む気が失せます。無論、出典の裏付けを必要とし、また多数の出典を提示することで内容の正確性・中立性を示す、そのためには仕方のないことだとは思います。しかし、減らせる脚注は減らし、纏められる脚注は纏める、可読性向上のためにはそうしたことにも十分意義があるのではないでしょうか。
また、iwaimさんが懸念されている後から加筆された場合のことですが、後付けで出典の裏打ちのない情報が書き加えられた場合については
  1. A[1]。B[1]。C[1]。 ⇒ A、a[1]。b、B[1]。Cc[1]。
  2. [1]に拠ればA。B。C。 ⇒ [1]に拠ればA、a。b、B。Cc。
  3. A。B。C。[1]  ^1 ABCは出典に拠る ⇒ A、a。b、B。Cc。[1]  ^1 ABCは出典に拠る
1、2、3の間に本質的な違いがあるのでしょうか。閲覧者にとってどこまで出典の裏打ちを持ちどこからが違うかは判別できないことに変わりはなく、ウィキペディアンにとっても履歴を精査しなければ判明しないことに変わりはないのではないでしょうか。後から別の出典に基づく加筆をする場合については
  1. A[1]。B[1]。C[1]。 ⇒ A[1]、a[2]。b[2]、B[1]。C[1]c[2]。
  2. [1]に拠ればA。B。C。 ⇒ これはやり難い。
  3. A。B。C。[1]  ^1 ABCは出典1に拠る ⇒ A、a。b、B。Cc。[1]  ^1 ABCは出典1に、abcは出典2に拠る
  4. A。B。C。[1]  ^1 ABCは出典1に拠る ⇒ A[1]、a[2]。b[2]、B[1]。C[1]c[2]。
2番は加筆し難い。3番は少し無理があるかもしれません。そうすると1番とするか、英語版に倣って4番の運用をするか、そこらへんは各執筆者にまかせたら如何でしょうか。--110.158.207.211 2012年5月29日 (火) 17:00 (UTC)[返信]

話がかみ合っていないようですが。「人文系の学術雑誌」で何が言いたかったかというと、IPユーザーの方の2012年5月23日 (水) 15:39 (UTC)の「脚注にしろInline citationにしろ、ディー・エムさんが示されたような句読点の前にも後ろにも置く、混在する書き方は私も見たことがない」と同じことです。たとえば、Scienceは脚注参照番号をバンクーバー方式の出典と註の両方に使用していて、記事末尾に「References and Notes」(参考文献と註)として、ごちゃ混ぜにリストアップするという日本語版ウィキペディアのような運用がされてますが(サンプル)、それでも、脚注参照番号が出典に使用されようと註に使用されようと、Punctuationの前に置くという点では統一されています。(日本語版ウィキペディアも脚注参照番号を句読点の前に置くか後に置くかで統一すべきということ。)

稲恭宏の過去の版は、脚注の使い方が尋常ではないというのは多くの人が認めるところでしょうし、だからこそ、私はこの問題を改善することを手伝ったわけですが。現在の版では、脚注の使い方には穏当かなと思います。こういう極端な例からは有意義な示唆は得られないです。参考にするのはWP:FAWP:GAにしたほうがいいです。出典が過不足なく示され、形式もちゃんとしていると判断されたわけですから。

2番の例が優れているのは「加筆し難い」点です。要するに、この形式には出典のない記述をもぐりこませることができませんから。加筆するとしたら「[1]に拠ればA。B。C。一方、[2]に拠れば、Bはbとされている。」と書くか、ブレークアップして「A[1]。B[1]。b[2]。C[1]。」とするしかないです。一方で、3番と4番の問題は、どこかに「ABCは出典1に拠る」と明示されていないと、「A。B。b。C。[1]」いうふうに、出典のない記述bがもぐりこんでしまうと、形式的には一見出典があるように見えてしまう、という点です(というのがKojidoiさんのポイントだと思います)。

英語版にはそういうルールはないです。英語版は日本語版よりもInline citationが多いという印象があるのですが、それでもInline citationを必ず使わなければならない記事・記述というのがいくつか決まっているだけで、それ以外はどこにどれだけ置くかは、文法や構成要素ではなくて、記述の内容で決めるとなっています。要するに、IPユーザーの方がしているように、「A。B。C。」といったような抽象的な、構成要素に従うルールは定めないということです。段落全体を指す場合は最後の文に付けるというのは一般的なだけであって、必ずしもそうしなければならないというわけではないです。en:WP:MINREFを参照してください。--Bugandhoney会話2012年5月29日 (火) 21:17 (UTC)[返信]

  コメントなんかすごく話が錯綜しているようですが、そう難しい話ではなく。

桂正和で用いられているような段落ごと、文章ごとの出典の示し方は、ウィキペディア日本語版の正式な方ガイドラインであるWikipedia:出典を明記する#本文中に注釈を挿入するで示されている書き方そのものですから、もしもこれに異論のある方がいらっしゃるのなら井戸端レベルでなく当該文書のノートページなどでガイドライン改訂を提案されるべきでしょう。あるいは、「文章の直後」の意味を「末尾文の句点の内側」と勘違いして句点の内側に置きかえて回る人がいたら「それは日本語文の構造的理解が根本的に間違っていますよ」と冷静に諭すべきでしょう。もしくは「ある記事では、文章に対する出典を末尾文の句点の内側に書くべき事情があって、方針とは異なる記法だけれどもあえてそうする」と判断すべきケースがあるのなら、その場合は他の編集者から異論や支障が出ない限り方針の無理強いをする必要は無いでしょう。方針やガイドラインに書かれていない事柄は各編集者がそれぞれの能力(常識的判断、知識、想像力、アイデア、意見調整能力)によってその場で個々に解決すれば良いでしょう。--ディー・エム会話2012年5月30日 (水) 14:28 (UTC)[返信]

(補足)念のために補足しておきますが、「句点の内側」というのは丸の中という意味ではないですよ。句点の手前側(センテンス内部の末尾)という意味です。--ディー・エム会話2012年5月30日 (水) 14:38 (UTC)[返信]

論点を整理してみたいのですが。少なくとも5月13日以降の議論の論点は、次の3点に集約できると私は認識しています:
  • 論点1: 複数文(「段落全体」を含む)に対して一つの出典を提示するシチュエーションがあり得るか。
  • 論点2: 複数文対象の出典提示のために、特別な書式を持った脚注を導入する必要があるか。
  • 論点3: 「句点の外」に脚注を置くことによってこれを複数文対象の出典提示とする方式はウィキペディアでコンセンサスを得ているか。あるいは、効果的な方法と言えるか。
私の立場は論点1=yes, 論点2=no、論点3=noということです。論点1と2は分けて考えなければいけないわけですが、その点が区別できずBugandhoneyさんや私のコメントの意図が理解できていない人がいて、無駄に話が長くなっています。一方、ディー・エムさんは段落ごとの出典の示し方が正式な方針として明記されているとおっしゃいますが、Wikipedia:出典を明記する#本文中に注釈を挿入するを見ても、そのようには読み取れません。論点3に関してはこれはまだ十分にコンセンサスを得ているとはいえない状況だと思います。こうして違和感を感じている人が何人もいる以上、「正式な方針」にするにしてもしないにしても議論の余地はあるでしょう。まあ、場所を移すべきといえばそうかも知れませんが。--Kojidoi会話2012年5月30日 (水) 15:16 (UTC)[返信]

(Bugandhoneyさんへ)句読点と注釈の関係の話ですが、確かに話が噛み合っていませんね。一度ゼロからこちらの見解を述べ直します。まず脚注が句読点の前にも後ろにもあるようなやり方は私も違和感を感じていました。理由はそうしたものをウィキペディア外で見たことがなかったからです。(それは先にも述べましたね)ただディー・エムさんの話も十分納得のいくものはありますし、桂正和とかオグリキャップをみてもそれが今現そのやり方が市民権を得ているようでもあります。その上で、ウィキペディアの慣行と私の感覚の齟齬をどう解消するのかという点で、「論文で引用と注釈、inline citationとfootnoteは別のルールで運用されている」を念頭に置くと、私が拘っていた「inline citationは句読点の前に統一」と「注釈は句読点の後も可」とは齟齬をきたすことはないのではないか、という形で自分の中で折り合いをつけました。そこで、まだウィキペディアの慣行とご自身の感覚の違いに戸惑っていらっしゃるBugandhoneyさんにもその戸惑いの解消の手助けを出来たらという思いから口を挟んだのが、

論文でinline citationとfootnoteを縛るルールが異なるように、出典を示す[1]と注釈へ案内する[*1]は別の表記ルールに従うと考える、[1]に関しては句読点の前で統一、[*1]はケースバイケース状況に応じて使い分ける、という考え方もあるのではないでしょうか。そう考えれば桂正和も複数の書式の混ざった特例ではなく規定の書式の射程内と捉えることも可能になります。--183.72.224.122 2012年5月27日 (日) 03:27 (UTC)

でありました。ただまあ、ここらへんは個人の感覚の問題でもありますからこれ以上「私はこう解消した」を言ってもしょうがないような気がしてきました。違和感を解消する手助けどころか混乱させる結果になったことはお詫びします。
加筆し易さし難さについては、まず、私が「加筆し難い」と述べましたのは出典を伴った加筆についてであったことをご確認下さい。そして「加筆し難い」には記述の仕方を極度に制限されることも含まれることもご理解下さい。記事を書くにあたっては、出典と本文の対応関係、説明の仕方、文章構成の組み方等々、色々考えながら最適だと思われる書き方を選択するわけですので、選択肢を不必要に制限するのは望ましいものではないことは言うまでもないことかと。文章の流れを考えれば「A、a。b、B。Cc。」あるいは「A、B。a、C。bc。」「A、a、b。c、B。C。」…、状況に応じて最適な形が異なるわけで、「[1]に拠ればA。B。C。[2]に拠ればa。b。c。」の形しか取れないのであれば「加筆し難い」でしょうね。またBugandhoneyさんの言われる「要するに、この形式には出典のない記述をもぐりこませることができませんから。」については前回の私の発言、「また、iwaimさんが懸念されている」以降のものをご確認下さい。
英語版云々は以前Bさんに提示頂きました Wikipedia:Inline citation# Citation densityの最後の箇所

If a subsequent editor adds information from another source to this paragraph, then it is the subsequent editor's job to organize the citations to make their relationship between the text and the sources clear

のことです。もう一つ、ここでやっているのは一言一句に脚注を付ける書き方と「[1]に拠れば…」式の書き方と、それ以外の一括して出典を示すやり方の対比です。句読点の後に脚注を置いていることに躓いてしまわれているのであれば、(そこは本論ではないですから)別のやり方を使って例示しますのでHman氏提示のものでもKojidoi氏提示のものでもその他のものでも構いませんのでご指定下さい。--183.73.16.156 2012年5月30日 (水) 16:09 (UTC)[返信]
Kojidoiさんへ。2番ですが、一言一句脚注を付けるやり方と、出典を主語にした書き方と、一括して出典を示すやり方、3つの比較優位の検討をしている最中にその纏めは如何なものでしょうか。纏めるのであれば、

  • 論点2.1 :「出典に拠れば…」の書き方では不十分なことがあるか
  • 論点2.2 :一括して出典を示すやり方に、それを使うだけのメリットがあるのか。あるいは使うべきでないデメリットがあるのか

となるのではないでしょうか。また2.2に関してはKojidoiさん提示のものも含めていくつものやり方が示されてきましたが、まだ中身の検討にまで入っていないことも付け加えるべきでしょう。「特別な書式を持った脚注」(恐らく「^1 ABCは出典1に拠る」のことですね?)はその中の1つにしか過ぎません。3番に関しても桂正和のものと平子理沙のものは分けるべきでしょうね--183.73.16.156 2012年5月30日 (水) 16:42 (UTC)[返信]

Kojidoiさんと同意見です。出典の明記に関する文書群は、単純にいって錯綜していて統一した見解を示してないし、WP:FAなどでの使用実態と乖離しています。これを日本語の読解の問題に落とし込んでも仕方ないでしょう。「句点の後」は市民権を得てないです。だからこそ桂正和では脚注で言葉を補わざるを得なかったし、オグリキャップでは直後に句点を打つことによって形式的に「句点の前」になるようにしています。私は「句点の後」に戸惑っているのではなくて、「表記法としておかしいだろう」ということです。たとえば、ウィキペディアでは参考文献を参照するのにハーバード方式でもバンクーバー方式でもどちらでも使えますが、あたかも一つの記事の中でハーバード方式とバンクーバー方式をまぜこぜにしているような違和感があります。--Bugandhoney会話2012年5月30日 (水) 21:40 (UTC)[返信]

  コメント

  • Kojidoiさんへ)「複数文対象の出典提示」という言葉を、「2文以上からなる任意のテキスト」全てのケースを含めて仰っているのであれば、その出典提示の方法は私の話とも「Wikipedia:出典を明記する#本文中に注釈を挿入する」の内容とも異なる話になるでしょう。しかし、もし「複数文対象の出典提示」という言葉が「ひとまとまりのセンテンス群」(=「文章」)という意味であれば、桂正和のような段落に対する出典提示の方法は当該ガイドラインで提示されている方法そのものでしょう。
  • (IPユーザーさんへ)桂正和のものと平子理沙のものは分けるべきというのは同意見です。ちなみに前者は可、後者は基本的に不可というのが私の認識ですが、この話題の発端の議論では後者を是として受け入れることで当該記事の編集合戦が収束するという形にも至っており、その是非についてこの場で結論を突き詰める重要性がないと私は判断していますので、その論点について私個人の意見表明は今まであえて避けています。前の私のコメント中の例示でいえば、前者のケース(桂正和)と後者のケース(オグリキャップ、かなりイレギュラーですが)を秀逸な記事から意図的にとり交ぜてピックアップしましたが、私個人の感覚として必ずしも両方の記載方法に賛同しているわけではなく、種々の実例を見比べて是非判断の参考にして頂ければ良いというのが私のスタンスです。
  • Bugandhoneyさんへ)ひとつには、問題の優先順位に齟齬があるのだと思います。
    • 「北海道は晴れです。長崎は雨です。(鈴木くんと田中くん談)」という文章を
    • 「北海道は晴れです。長崎は雨です(鈴木くんと田中くん談)。」
    に書き換えることは、すなわち言語要素としての修飾関係を構造的に破綻させることです(日本語として文意が変質します)。「Wikipedia:表記ガイド」が推奨する書式ルール(句点の内と外を正しく使い分けるべし)の統一性も損ないます。この書き換えの是非について、「文法上正しくなくとも意味が通じさえすれば実用上問題ないので、Wikipedia:表記ガイドの推奨内容は無視して、文章内の修飾関係を考慮せずに無差別に句点の前に挿入するという新ルールを(ガイドライン改訂の提案無しに)どんどん広めましょう。」といわれたら、それはノーと答えざるを得ません。出典の記載法というのはそこに包含されるレイアウト上の(多くは分野ごと、主体ごとに異なる)流儀の問題であり、それは基本的にはコミュニティの最大公約数の合意事項である表記ガイドの統一書式を踏襲した範囲内で選択肢を検討すべきです。その点では、
    • 「北海道は晴れです(鈴木くん談)。長崎は雨です(田中くん談)。」
    への書き換えであれば、日本語の書式としてもガイドラインとの整合性においても破綻はありませんし、書き換える前にきちんと出典の確認作業を行なってその情報源の対応が正確であるなら実用上のメリットも見出せます。つまりその両者の書き換えは、次元の違うものであって本来なら同レベルでの比較対象にならないはずです。
  • 出典の明記に関する文書群が「錯綜していて統一した見解を示してない」というのは誤認でしょう。脚注の使用方法に関するヘルプ文書「Help:脚注」には、脚注記載の書式等についてその拠り所となるガイドライン文書との対応関係も具体的に明示されており、それらガイドライン同士にルールの齟齬は無いはずです。すなわち、もし仮にそれらの運用に異論があったとしても、どのような問題に関してどの文書の改訂を発議すれば良いかも比較的明確なはずです。
  • あまり細かいことを言いだすときりがないので参考までと思って頂ければ良いのですが、「Help:脚注#スタイルと用法」のスタンスとして、それがヘルプ文書の範疇を逸脱してルールブックとして独り歩きしないようにという配慮から(関連する方針文書類との2重ルールによる運用の煩雑さとルールの齟齬発生を予防するため)「〜〜すべきです。」といった拘束的な印象の言い回しは極力避け、コミュニティとして既定の合意事項でない事柄に踏み込まない言及内容に留めると同時に、そのうえで初心者にも分かりやすい説明を提供するという文書の役割も踏まえてオーソドックスなシチュエーション(文末に脚注を置く形)以外の煩雑な例外則などはできるだけ省いて説明をシンプルにした結果がほぼ現状の文面です。ですので、もし「脚注リンクは句点(。)の後でなく前に置きます。」という説明の意味を「専ら視覚的な判断基準で、脚注リンクを句点の前以外の箇所に置いてはならない」と解釈されている方がいらっしゃるのだとすれば、それは当該の文意としては誤解です。そのヘルプ文書の意図としては、「句点の後でなく前に置きます。」というのは「句点との位置関係を迷うケース(=文末の脚注)についてはそのように判断して下さい」という趣旨であって、「文章末や文節の末尾、単語には句点というもの自体が付かないので、センテンスに対する脚注以外には、句点との前後関係についての助言は意味を持ちえない」というのが大前提としてあります。
  • ですから、冒頭の据え膳さんの「編集者に対して強制力はどれほどあるのでしょうか」という問いに改めて答えるとすれば、「『Help:脚注#スタイルと用法』は何かを強制する文書ではありませんが、その記述の拠り所となる『Wikipedia:表記ガイド#約物の使い方』に書かれている句点・読点との位置関係などの判断基準はウィキペディア日本語版のガイドラインとして多くの利用者が基本的に同意しており、従うことが推奨されます」ということかと。--ディー・エム会話2012年5月31日 (木) 11:32 (UTC)[返信]

この井戸端とHelp‐ノート:脚注#脚注リンクを句読点の前に置くことの弊害などで複数の編集者から異論が出ている以上、脚注参照を句点の後に置くことに「多くの利用者が基本的に同意して」いるとは言えんでしょう。表記ガイドが脚注の表記法に準用できるというのはディー・エムさんの解釈であって、実際には同文書は脚注には言及していないわけであって、脚注の表記法は同文書の合意事項には含まれていないととらえることも可能でしょう。なおかつ、脚注への言及のあるガイドライン文書Wikipedia:出典を明記する#本文中に注釈を挿入するでは、表記ガイドではなくHelp:脚注にリンクが張ってあるわけで。Help:脚注で表記ガイドが参考になる、と言っているのは、説明対象が複数の文のときではなく、「一文に複数の脚注リンクを置く場合など、その説明対象の範囲が文の一部分に限定されるとき」となっていると思いますけど。--Bugandhoney会話2012年6月1日 (金) 16:16 (UTC)[返信]

脚注が約物でないのならそうかもしれませんが、今のところ脚注を約物から例外視する根拠がありません。もしそれを個人の考えでなくコミュニティ全体の統一見解として確定すべきだと考える人がいるなら「Wikipedia:表記ガイド」でそれを提案すれば良いだけのことで、誰もそれをしないのはそこまで重要だと考える人がいないのか、あるいはそう単純に意見統一できる問題でないのか、ということでしょう。
とりあえず制限ルールの具体案がないと、第三者からは評価のしようがありません。論点がちゃんぽんになっているとどうしても雑談の域を出ません。ちなみに「Help‐ノート:脚注#脚注リンクを句読点の前に置くことの弊害」は全く別の話ですよ。--ディー・エム会話2012年6月2日 (土) 00:27 (UTC)[返信]
「Wikipedia:表記ガイド」の「括弧内の文が、地の文から独立している場合には、括弧の前に句点を打ちます。」に関して言えば、 ここで問題となっている「段落全体にかかる脚注」が「地の文から独立」の一例と見ることができるかどうかは明白とは思えません。また、Wikipedia:出典を明記する#本文中に注釈を挿入するの例は、引用文を鍵括弧でくくってそこに注釈をつけていますが、こういう場合鍵括弧の中身は「一つの文」扱いと考えるのが普通でしょう。以上から、「段落に対する出典提示の方法は当該ガイドラインで提示されている方法そのもの」との見解には異議を唱えざるを得ません。また、ガイドで認められていることと、それがベストの記述方法であるかは話が別です。雑談してみる価値はあると思いますね。もちろん参加するしないは各自の自由なわけですが。
論点がちゃんぽんになっていることは確かです。ですので僭越ながら論点の明白化を図りました。論点3についてはガイドの方のノートに話を持っていくことも可能でしょう。この問にyesの声がそれなりにあるのなら、表記ガイドにはそのような記述方法があるということを明確に加筆したほうが良いです。これまでの各人の発言を聞いても、これが広く認知されているとはとても言いがたいことです。また、noなら、そのような記述は混乱を招くので控えるべきことを加筆したほうがいいとおもいます。論点2についてはまあ気が済むまでしばらく雑談を続けてみればいいんじゃないかと思います。--Kojidoi会話2012年6月2日 (土) 01:54 (UTC)[返信]
  • 「文章」は「一つの文」ではありません(「一つの文」のみしか包含しない文章はありえます)。「文章」を「一つの文」に限定しない解釈をコミュニティ全体から排除するべきだとお考えの編集者が存在するのであれば、「Wikipedia:出典を明記する#本文中に注釈を挿入する」の「文章」という文言を「文」に変更する改訂提案をすれば済むことです。そうすれば具体的な結論につながるコミュニティの判断が得られるでしょう。ただしそれをそこの例示に適用するとかなり違和感はありますけれども(例文では句点が省略されていますが、本来はかぎ括弧の前が末尾文の句点位置なので)。
  • IPユーザーさんのご指摘もありますが、論点2はいろんな話が混在しているので整理が必要でしょう。根本的には「複数文対象の出典提示を行う必要があるか。」でしょう。「特別な書式」のいうものの共通認識はおそらく得られません。各々が自分の主観に合うものを「普通」、それに反するものを「特別」と認識するかぎり、合意形成には貢献しない概念でしょう。
  • 論点3については、少なくとも秀逸な記事の選定において修正意見が付かない程度には容認されているということでしょう。しかしそれに対して批判的な立場が現にこうして顕在化したのも事実です。その方法が効果的かどうかは比較の問題ですから、それよりも適切で効果的と思われる代替案があれば個々に比較検討してより優れた方法を採用すれば良いと思います。個別ケースでの代替案であれば個々の記事で、普遍的に使える代替案であればガイドラインで、具体案の提案を行なって検討を進めるのが良いと思います。--ディー・エム会話2012年6月2日 (土) 05:33 (UTC)[返信]
  コメントKojidoiさんご提案のように、論点3に話を絞ってガイドラインノートに場所を移すことに同意することにします。
桂正和のやり方は本文・出典の関係性を一括して明示するやり方の一例、そこには確かにメリットがあるしそう考えて使っている方がいらっしゃる。FA選考には書式に拘って積極的に意見を述べる方もいらっしゃるが、そこで異議が出ない程度には桂正和方式は市民権を得ている。そうしたものを私が個人的に感じる違和感を持って否定することが適切か疑問に思った。否定するのであれば個人的な違和感を超える強い理由を提示するか、違和感を感じさせずに同等のことが出来る代替え案を提示する必要があるのではないか。そうした見地から論点2を詰めてから論点3に進むのが妥当ではないかと考えていましたが、脚注の書式のあり方についてのみ関心のある方にとっては論点2は冗長な雑談なのかもしれません。桂正和のやり方と平子理沙のものを区別することが前提ですが、論点3に話を絞ってガイドラインノートに場所を移すことに同意します。
論点2については、「肯定的意見も否定的意見も出た」で終わりにするのか、話を整理して再開するのか、皆さんにお任せします。--110.158.218.23 2012年6月2日 (土) 10:30 (UTC)[返信]

据え膳さんが設定したとおり、論点ははじめから一貫していて、「脚注参照を句点の後に置くことはありなのか」ということでしょう。議論が一見、錯綜してかみ合っていないのは、句点の後の脚注参照を是認する人と否定する人で前提が共有されておらず、かなり異なる論点・根拠をもとに議論しているからでは。句点の後の脚注参照をめぐるトラブルは散見されるのであって、筋としてはガイドライン文書で統一した見解を示すべきでしょうが、ここの議論を読む限り、そのような努力は徒労に終わるでしょう。実際、Help‐ノート:脚注では、句点の後に脚注参照を置くことを何度か検討してますけど、文言には盛り込めてないわけで。こういう状況でのベストプラクティスは、脚注の表記法に関する統一した見解はないということを双方が認めた上で、少なくとも一つの記事の中では脚注参照の使用方法を統一させることになるかと。

ちなみに、桂正和ですけど、ちょっと経緯を調べてみました。GAになった時点では「この段落は...を参照」という但し書きはなくて、そのせいか、ある編集者に脚注参照を句点の前に変更されて[6]、巻き戻し[7]、「この段落は...」の但し書きの追加[8]、といった経緯を経ているようです。その後も、脚注参照を句点の前に書き直す編集者が出てきて、主要執筆者の方はこのようなコメントを残しています。ご参考まで。--Bugandhoney会話2012年6月5日 (火) 13:36 (UTC)[返信]

提議者だったにも関わらずしばらく傍観させていただいてました。すみません。。。ここまで沢山の方々から多数のご意見をいただき、改めて感じたのはやはりこの問題に関しては各編集者間での意見の相違がかなりあるということです。なので今回の私と某編集者さんとの不毛な議論や上でBugandhoneyさんが例示された事例などトラブルが絶えないのでしょうね。こういうトラブルをなくすためにはやはり何らかの落としどころを見つけないといけないでしょうね。Bugandhoneyさんのおっしゃるように徒労に終わるかもしれませんが。
定義文が『脚注リンクは句点(。)の後でなく前に置きます。』だけではやはり不足でしょう。但し書きに句点の後にリンクを置く場合もあるということを例示して記すだけで上のようなトラブルは減るのではないかと思います。--据え膳会話2012年6月5日 (火) 16:14 (UTC)[返信]
Help‐ノート:脚注での主な論点に限ると、句点の後に脚注参照を置く場合は必ず改行する、という風に決めれば、対応しているのは前なのか後ろなのか、という曖昧さは解決できますけど、それでも私やKs aka 98さんのように「日本語論文の多くは句読点の前に注番号を振るスタイルだ」という人は納得しないでしょうね。そういうべき論は別にして、表記間違いではなく意図的に脚注参照を句点の後に置いてある記事が実際にあることをAcknowledgeすることだけを目指すのは、それよりも簡単かもしれないです。--Bugandhoney会話2012年6月6日 (水) 13:58 (UTC)[返信]

話は「段落全体にかかる脚注を、段落の最後に置かれた文の句点の後に置く形で提示するスタイルをどう捉えるか」に集約できると見てよさそうです。現行スタイルガイド類が是認と解釈可能、あるいは現実にFAクラスの記事で使用されている実績があることをもってOKとするか、スタイルガイド類をそのように読解することは困難、現実に意味が取れなくて混乱している編集者がいる、参照元に基づかない記述が紛れ込み安いなどの理由から否定的に考えるかというところで、この論点についても判断がわかれているということですね。Help:脚注#スタイルと用法について言えば、利用実績があることは認めた上で、必ずしも意図が読者に適切に伝わるとは限らないと釘を差し、適切に本文もしくは脚注内の文章を補うことで脚注が指し示す対象が段落全体であることを誰にでもわかりやすくすること、といった提言を盛り込むべきかと思います。あとで文案を考えてみたいと思います。--Kojidoi会話2012年6月9日 (土) 01:17 (UTC)[返信]

Help‐ノート:脚注に提議しました。よろしくお願いします。--Kojidoi会話2012年6月10日 (日) 10:18 (UTC)[返信]