Wikipedia:井戸端/subj/記事中の『内容の要約』部分に出典を求める行為は妥当でしょうか?

記事中の『内容の要約』部分に出典を求める行為は妥当でしょうか? 編集

Rienziと申します。

現在、ある記事のノートページ上で、あるユーザーの方が、「出典の無い記述を除去します」という主張を繰り返しています。

しかし、その方が「出典がない」と指摘し、「出典が示されなければ消す」とおっしゃっている記事本文の文章のうち、いくつかは、記事中のいわゆる「節」の冒頭におかれる、「その節でこれから説明する内容の要約」です。

そして、「節の内容の要約」に続く、節の本文には、ほぼきちんと出典が示されています。

そこで、疑問に思ったのですが、信頼できる出典に基づいて書かれた、記事本文の『節』に、「情報量が多い、内容を整理する」などの目的で、節の冒頭に『要約』を書く場合には、その『要約』部分にも別途出典が必要なのでしょうか?

私自身は、後に続く節の本文で検証可能性が満たされていれば、冒頭の要約部分には必ずしも出典をつける必要はないと思うのですが、いかがでしょうか?

私自身、記事を書くことが時々ありますので、今後の編集活動上、何か参考になるご意見をいただければと思い、こちらに話題提起をさせていただきました。

皆様のコメントをお待ちしております。--Rienzi会話2012年11月15日 (木) 13:54 (UTC)[返信]

一般論で申し上げますと、記事の後の方で確かに出典が明記されており、分別のある大人であればそれがわかる状況でしたら問題はないと思います。そう言った手法は私もよく行っておりますが、苦情を受けた事はありません(むしろWikipedia:良質な記事に選出して頂いておりますほどで、やはり問題ではないのでしょう)。とは言え、貼付しておくとまずいという訳でもありません。--Hman会話2012年11月15日 (木) 14:04 (UTC)[返信]
Hmanさん、コメントいただきまして、ありがとうございます。なるほど・・・。結局のところ「要約に出典が必要かどうか」は「読み手次第」といったところなのでしょうか。--Rienzi会話2012年11月15日 (木) 14:21 (UTC)[返信]
いいえ、後の部分とかぶっている所については不要だと思いますよ。私自身、そう信じていますから、そう言うところにはほぼ、脚注は付けません。一つの記事で二重・三重にしても仕方ないじゃないですか。ただし、複数の方から指摘された場合については、その記事の示し方はいささかわかりにくいのかもしれません。この場合はよりわかりやすく脚注を1つ2つ付ける意味もあるでしょう。--Hman会話2012年11月15日 (木) 14:38 (UTC)[返信]
なるほど。おっしゃる通り、一つの記事から同じ情報に何度も脚注をつける必要性は低いですよね・・・。「よほど重要性があると複数指摘があった場合」に、初めて検討すべき内容、ということでしょうか。--Rienzi会話2012年11月15日 (木) 14:51 (UTC)[返信]
うーん、重要か不要かではなく(そもそも冒頭の要約は大抵重要なことだらけ)、後の節から見付け易いか見付け難いかではないんでしょうか。そうそう、念のため、逆のアプローチもありえますので。例えば人物記事の場合、冒頭文で出身地や誕生日に脚注を入れておけば、以降は必用無いです。単に上にあるか下にあるかの違いですね。Wikipedia:秀逸な記事をざっと見てみて頂ければ、大方私の申し上げた通りになっているとお解りになるのではないかと。--Hman会話2012年11月15日 (木) 15:07 (UTC)[返信]
なるほど・・・。Wikipedia:秀逸な記事を見てみます。私自身は、個人的に、記事を書く際にあまり脚注を活用できていないような気もしますので・・・。--Rienzi会話2012年11月15日 (木) 15:34 (UTC)[返信]
基本的にはHmanさんのおっしゃる通りと思いますが、念のため。個人的には、「冒頭でも脚注が無い部分は即削除」も「冒頭(定義分)や概要には脚注不要」も極論と思います。「Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方」では、本文中の脚注が推奨ですが、記事末尾の記載も併記されてます。ウィキペディアは成長する事典なので、まだ出典が無い記事や、不足している記事も多数あります。しかし例えば共産主義ファシズム右翼など、用語の定義自体が政治的に論争的な記事では、後半(詳細)よりも目立つ冒頭や概要の方が編集合戦や議論になり易いので、英語版などを参考になるべく学術的な脚注を付けて落ち着いて来た経緯もあります。英語版のen:Anarchismen:Fascismなどは冒頭にも、後半(詳細)にも多数の脚注があります。なお <ref name="a">出典</ref> と <ref name="a"/> で、1出典で複数個所に脚注もできます(多用しすぎると視認性が悪くなりますが)。結局「(一般常識を除き)全ての箇所に適切な脚注を付ける事が理想」だが、どのような内容と量が妥当かは分野や記事や記事構成にもより、最終的には常識やセンスの問題で、揉めれば個々対話して進む、という気もします。--Rabit gti会話2012年11月16日 (金) 01:30 (UTC)[返信]
英語版では en:Wikipedia:Manual of Style/Lead section#Citations に、ちょうどここで呈されている疑問への答が書かれています。要約すると「特に強く根拠を要する記述でない限り、冒頭の要約部では一般的に出典(への誘導)は少数、あるいはまったくなくてもよい」となります。また出典(への誘導)の必要性と煩雑さとでバランスをとるように指示されています。一方で技術的に高度な内容とか、現在進行中の内容、論争の的になるような内容には出典(への誘導)は必要だろうとされています。それらの理由として、要約部での記述は通常一般的な・常識的な内容となる、ということが挙げられています。私は、これはもっともであると思いますし、そのようにしておけば問題ないだろうと考えます。ここで、私は「出典(への誘導)」という書き方をしていますが、これは [1] のように脚注と対応する番号を付けること (citation) を意味しています。というのは、これは単に日本語の表現の問題なのかもしれませんが、要約部には本文と「別途出典が必要」というわけではなくて、同じ出典の脚注への誘導が必要か、という話なのですよね。Rienzi さんの説明を読むに、出典そのものはすでに節の本文で示されているということですから、「出典の無い記述を除去」というのはおかしいです。出典はあるのですから、その利用者は「(出典が示されなければ、記述を)消す」ことはできなくて、その主張は「脚注への誘導を付ける」というものであるべきです。たとえ脚注への誘導を付けることが拒否されたとしても、それは記述を除去すべき根拠とはなりえません。--Calvero会話2012年11月16日 (金) 15:09 (UTC)[返信]
Rabit gtiさん、Calveroさん、コメントいただきましてありがとうございます。現在、問題になっているユーザー氏が関わっている記事は、傾向としては「技術的に高度な内容」とは言えませんが、「用語の定義自体にいささかの論争がある記事」といえるかもしれません。要約部については「別途出典をつける」ということよりも「後続の記事本文で示されている脚注へ、重ねて誘導する」対処のほうが、重要であるということがよくわかりました。もちろん、後続する節本文にも出典がつけられていない場合は、要約部分をいじる前に、本文の方の出典を探す、脚注をつけることが重要だと思います。--Rienzi会話2012年11月17日 (土) 16:47 (UTC)[返信]