あなたが今日までウィキペディアンとしてそれなりに活動してきたならば、「善意にとる」というウィキペディアの方針を一度は聞いたことがあるだろう。そして、実際に他の利用者のメッセージを善意にとったりうかつにも悪意にとったことがあるはずだ。しかしウィキペディアにおけるほぼ全てのページ宛てに、彼岸からのもっと重要なメッセージが届いていることに、善意の(そして生きている)利用者の多くは気づかないままである…。

つまりどういうこと? 編集

 
目撃者による善霊のスケッチ。フレンドリーに両手を広げ「何かできることはある?」と言っているかのようなジェスチャーに注目

生霊といわれてまず思い浮かぶのは、ホラー映画であったり、白い布をかぶったお化けであり、映画のゴーストバスターズだろう。いずれも邪悪な存在だ。生霊というものに対して昔からこうしたよくないステレオタイプが持たれている一方で、フレンドリーな生霊であるキャスパーについて覚えている人はどれだけいるだろうか。

もしも生霊(ないし不気味な存在)に実際に出会ったとしても、まずはキャスパーのように優しくてフレンドリーな、邪悪とはほど遠い生き物であると考えよう。いきなりゴーストバスターズを呼ぶなんてとんでもない!ゆっくり一呼吸おいて、善霊にとるのである。

ウィキペディアのアプリ上でそういう仕様があるということ? 編集

そういうことではない。もしそうなら、この文書が私論のままであるはずがない。この言葉がもつ皮肉に気づけないなら、ウィキペディアのユーモア関連のページには近づかないほうがよいかもしれない。

お願い!どういうこと?ウィキペディアで善霊にとるってなに? 編集

 
あなただって生霊になってウィキペディアを楽しむことはもちろんできる。しかしシャーデンフロイデが禁じられた遊びであることも忘れてはならない

善霊にとるためには、ちょっと気に入らないからといって霊についての「結論」を急いではいけない。そうではなくて、ウィキペディアというプロジェクトに(再び)貢献できることを示すためのチャンスを与えるべきなのだ。存在のおぼろげなIP利用者生霊をソックパペットやミートパペット呼ばわりすることや、護符の所有者をみだりに呼ぶことは控えなくてはならない。

そう、いくら楽しくてもだめなんだ 編集

もちろんすべてわかっている。死すべき存在であるわたしたちは、他人が苦しんでいるところをみて心から喜びを覚えることがあることを。だから何かと人が悪いことをしようとしていると思うものだし、そういう人間の除霊や浄化もできる。そして人助けをしたり、誰かをあの世に送ったという事実に気分をよくしてしまうのである。でもそれってどうなんだ。 それがたとえどれほど精神的に抗いがたいことだったとしても、思い出してほしい。あなたもかつては小さなおばけだったことを。自分の投稿記録という墓場を深く掘り返してみれば、けして自慢できたものではない編集履歴がみつかるはずだ。

ちょっと待って結局、善意にとるを言い換えただけってこと? 編集

…それはいわゆる修辞的な疑問?それとも本当に答えが聞きたい?前者だということにしておこう。

善意にとる、とどう違うのか 編集

善霊にとる、はもちろん善意にとる、とは異なる。あるウィキペディアンの意図をどう推し量るかという話ではなくて、人間界を超越した存在の倫理基準(モラルコンパス)をどう捉えるかという問題だからである。「彼ら」は編集スタイルやマナーが特異であるために、通常のウィキペディアンとはまったく異なる存在だと考えられている。ただページを編集するために、ウィキペディアンの身体を所有している(これをソックパペットと混同しないこと)かデバイスそれ自体に宿っているかどちらかなのである。もしかしたらこういう話がみんなたわごとに聞こえるかもしないが、それは実際にたわごとであるもともとこの私論を書いた英語版の編集者の努力不足のせいである。

関連項目 編集