月性(げっしょう、文化14年9月27日1817年11月6日) - 安政5年5月11日1858年6月21日))は、江戸時代末期(幕末期)の尊皇攘夷派の周防国大島郡遠崎村(現在の山口県柳井市遠崎)、妙円寺(本願寺派)の住職。諱は実相。字は知円。号は清狂・烟渓・梧堂。贈正四位

月性の像

経歴 編集

15歳のとき豊前国肥前国安芸国漢詩文仏教を学び、また京阪江戸北越を遊学し名士と交流した。長門国では益田親施福原元僴浦元襄などに認められ、吉田松陰久坂玄瑞らとも親しかった。松蔭との付き合いは、松蔭が黒船への乗り込みに失敗し、萩の野山獄にいた頃からという。嘉永元(1848)年、月性が32歳の時に開いた私塾「清狂草堂(せいきょうそうどう)」は、「西の松下村塾、東の清狂草堂」と並び称され、多くの門人を輩出している。久坂玄瑞も一時期、ここで学んだ。月性は松陰より13歳年上になる。

安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星巌梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。「・・・人間[1]到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」(男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高い。

安政5年(1858年)5月、42歳で病死した。

関連施設 編集

  • 月性展示館・清狂草堂 - 妙円寺境内にある展示館と月性が開いた私塾跡[2]。同館に近い遠崎学習等供用会館(柳井市遠崎318番地1)[3]の前には月性の像が建つ。

脚注 編集

  1. ^ 「じんかん」と読み、「人の世」の意。
  2. ^ 月性展示館・清狂草堂(柳井市商工観光課)
  3. ^ 学習等共用会館 - 柳井市

参考文献等 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集