リー・バウリーLeigh Bowery, 1961年3月26日 - 1994年12月31日)は、オーストラリア出身の、ロンドンを本拠地とする、パフォーマンス・アーティスト、クラブ・プロモーター、俳優、ポップ・スター、モデル、ファッションデザイナーである。 バウリーは、アーティストとデザイナーの1世代に影響をおよぼしている、1980年代と1990年代のロンドンとニュー・ヨークのアートとファッション界における、より影響力のある人物の1人と見なされている。 彼の影響は、ファッション、クラブおよびアートの世界を通じて、なかんずく、ミーダム・カーチョフ(Meadham Kirchhoff)、アレキサンダー・マックイーンルシアン・フロイドヴィヴィアン・ウエストウッドボーイ・ジョージアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズレディー・ガガジョン・ガリアーノシザー・シスターズデビッド・ラシャペル、レディー・バニー(Lady Bunny)に加えるに、彼のアヴァン・ギャルドな思想を論証上、実践したロンドンおよびニュー・ヨークのニューレイヴバンドおよびナイトクラブに強い衝撃を与えた。

リー・バウリーは、ダンディズムと肉体芸術を結合させることによる芸術実践の概念においては辺縁的であり、...をパフォーマンスしながら自分のイメージを再構築し...[彼は]、文化的な、口パクする、異性装の形式を創造するために「他者」('other')の表現を使用している。[1]

前半生編集

リー・バウリーは1961年、ビクトリア州メルボルン郊外のサンシャイン(Sunshine)に生まれた。彼はそこでの前半生をしばしば、自分が馴染むことのできなかった文化的不毛の地と表現している。彼は、「マッチョな」("macho")環境のなかの多才な子供として、10代で『i-D』のような英国のファッション誌に掲載されたロンドンのニュー・ロマンティック・シーンなどの記事を読むことで新しい世界を発見する。その影響を受けた彼は、ロンドンのアヴァン=ギャルドな芸術界の中心に行き自分自身構築し直す。家族は保守的であり、地元の救世軍の活動に参加する両親が気に入らなかった。彼は2子のうちの長子で、妹のブロンウィン(Bronwyn)は数歳年下である。 彼は、父親を優しいけれどもマッチョであると評し、そして長い間婦人服仕立て屋として働いた母親とは、とくに親密な関係であった。

ロンドン編集

メルボルン・ハイ・スクール(Melbourne High School)に通学し、そしてRMIT大学のファッション・デザイン・コースで1年を過ごしたのち、彼は1980年にオーストラリアを捨ててロンドンにこれを最後に行き、最初はファッション・デザイナーとして出世しようとした。 財政的失敗であったけれども、これが小さな、カルト的な、追随的な、メディアの関心を彼に実際に集めた。 結局のところ、彼は、自分自身のデザインによるビザールな、きわめてオリジナルな衣裳一式を着ながらの、ダンス、音楽および極端な自己宣伝癖のドラマチックなパフォーマンスによって名をなしつつあった。

初期の経歴編集

彼は、指導的なクラバー2人と友人になった:トロージャン(Trojan)(ガイ・バーンズ(Guy Barnes))、のちに画家。そしてデーヴィッド・ウォールズ(David Walls) - のちにデザイン・チーム ギャラガー・ウォールズ(Gallagher Walls)の。 バウリーは2人の所に引っ越してランドブローク・グローヴ(Ladbroke Grove)でハウスシェアし、そしてこの男性2人は、バウリーの創造的なデザインを着るロンドンで最初の人々となった。 集団として彼らはザ・スリー・キングス(the Three Kings)とあだ名された。 彼らは数年間、失業中で、給付金で暮らしていて、これは当時はふつうであって、そして結局のところ、ロンドンで最も貧しくかつ荒涼とした地区の1つの地方議会タワー街区(a council tower block)の11階の3寝室のフラットのイースト・エンドのコマーシャル・ロード(Commercial Road)に住まわせられた。 3人ぜんいんがドラッグ(おもに鎮静剤)を実験することになるが、しかし1年もしないうちにそして大きな降下(fallout)ののち、デーヴィッド・ウォールズは出て行き、バウリーとトロージャンは共同生活を送った。 この時点でバウリーとトロージャンは短い間恋人同士になったが、しかしトロージャンの執拗さで別れた。

この時点でマーガレット・サッチャーが政権にあって、そして彼らは応分の暮らしを送っていたのに、時代は彼らにとって厳しかった。 彼らの唯一の逃避の手段は、しばしばポリセクシャルなあるいはゲイのナイトクラブの秘密な地下世界にあった。

1986年まではバウリーは自分自身をファッション・デザイナー兼クラブ・プロモーターと説明することになる。 彼の初期のファッションの経歴はしばしば無視されているけれども、彼はかなりの芸術的成功をおさめており、そしてそれには、ロンドン・ファッション・ウィーク(London Fashion week)におけるいくつかのコレクション、ICA(Institute of Contemporary Arts 現代美術館)、ザ・カムデン・パレス(The Camden Palace)、ニュー・ヨークおよび東京におけるショーをふくむ(後述 ファッション・コレクションと初期のリー・バウリーのモデルを参照せよ)

1985年1月、彼は、今や悪名高い、ポリセクシャルな木曜日ディスコ・クラブ・ナイト「タブー」("Taboo")を始めた。 もともとは地下の冒険であったが、これはすぐにスタジオ54Studio 54)の、ただはるかによりワイルドで、極端によりファッショナブルな、そして有名人の居ない、ロンドン版になった - もっとも彼らはのちに大挙してやって来たけれども。 それらのドアから足を踏み入れるすべてのひとにとって、それは真に忘れることのできない体験であった。

来たるべき年々にわたって彼は、ニュー・ヨーク、東京、ローマその他における無数のクラブ・ナイトのホストをつとめるように招待された。

民衆間の意見とは反対に、バウリーは、1980年代前半に英国で人気があった、ニュー・ロマンティック運動の一部ではなかった。 彼は、ヘヴン(Heaven)のチャ・チャ(Cha Cha's)のような初期のファッション・クラブと「ハード・タイムズ」運動("Hard Times" movement)の文脈のなかにより適切に位置づけられるかもしれないけれども、彼はつねに、若いファッショナブルなロンドン人らのパンセクシュアルな一団の中心にいた。

まるまると肥った、勤勉な、しばしばいじめられる子供から、バウリーは成長して、裸ではしばしば居心地わるく、そして自分の不安定さにたいする甲冑として、しばしばビザールな、デザインを利用した。 彼は大きくなるにつれて、コスチュームを自分の寸法を誇張するために使用し、そしてその効果は、彼に遭遇した人々にとっては、彼の対決的なスタイルのためになおさら、しばしば圧倒的で忘れることはできなかった。 バウリーは壁の花ではなかった。

初期にはバウリーは、自分じしんを「ゲー」(gay)と説明することで居心地よく感じていたが、ただし、バウリーが主たるあやつり人形師の役になってサドマゾヒスティック=型の関係という形式をしばしばとって、ときには女性らとの、性的な性質の、強烈で情熱的な交友関係をむすんだ。 ビザールな外見のリーは、自分が性的に引きつけられる男性らを自分に引きつけることにしばしば苦労し、そして彼は、魅力的でない諸個人と、「コテージング」("cottaging")のような、危険な地下的な状況でセックスしたとしばしば説明することになる。

クラブの同時代人の多くとはことなって、バウリーは高度に知的で、読書範囲が広く、あらゆる美術表現形式に熱を上げていた。 彼は、きわめて機知に富みそして魅力的なときもあったいっぽうで、彼は、毒舌と非難の言葉で敵味方ともに威嚇脅迫する、 意地の悪いファッション暴れ者であることもしばしばあったものである。 これらすべては、「厳しさ」("hardness")がクラブ・シーンと手に手をとって行く時代の兆候を反映した。

タブーは1987年前半までに終わったけれども、バウリーは、ロンドンの代替(alternative)ファッション運動の真ん真ん中にいた。 しかしエイズとハード・ドラッグはそのシーンに影響していて、彼のいちばんの親友で元恋人で、当時はタブーの警備員のトロージャンと芽を出しかけたミュージシャンのマーク・ヴァルティエ(Marc Valtier)の死を引き起こした。 その結果として、バウリーは重い憂鬱症を経験したが、これは、虐待的な不安全な性活動に、しばしばコテージングと相手をさがしもとめてあさり歩くことに、明らかになった。 彼がHIVに感染したのはこの時点であったかもしれないが、彼はこのことを死亡の複数日前まで大部分の友人には密やかに守った秘密にしていた。 この時点でHIV陽性であることは死の判決と見なされ、そして直面すべき多くの恐れと差別があった - バウリーは、もし自分がエイズにかかっているアーティストと説明されれば、芸術的達成に影を投げるのではないかとおそれて、そのようにされたくはなかった。

その後まもなく、彼は、最初はコスチューム=デザイナーで結局ダンサーとしてカンパニーに加わった、有名な1980年代のダンサー マイケル・クラーク(Michael Clark)とコラボレートした。 彼はまたマーク E. スミス(Mark E. Smith)およびバンド ザ・フォール(The Fall)とともに、アルバム『I Am Kurious Oranj』そして劇『Hey, Luciani』のようなマルチ=メディア・イベントに参加し、そして1987年7月15日にカルトな英国のバンド ユー・ユー・ユー(You You You)とともに、彼らのル・パレス(Le Palace)でのコンサートのホストをつとめるためにパリに飛んだ。[2] 1989年、彼は、ウエスト・エンドの使用されていない大倉庫で開かれた、ダニエル・ダックス(Danielle Dax)およびジェーン・カウンティー(Jayne County)をサポーティング・アーティストとする、アラビック・サーカス・ツアー(Arabic Circus Tour)の一部として英国のバンド ビッグ・バン(Big Bang)が出演する、特別な1回かぎりのボール(Ball)のホストをつとめた。

1988年に彼は、ロンドンのウェスト・エンドのアンソニー・ドフェー(Anthony d'Offay)の格式高いデリング・ストリート・ギャラリー(Dering Street Gallery)で1週間にわたるショーをおこなったが、そこで彼は、ギャラリーの来訪者が眺めるいっぽうで、マジックミラー(two-way mirror)のむこうのシェーズ・ロング(chaise longue。長寝椅子)にさまざまな衣裳を着飾って寝そべっていた。 この公然たる奇妙なナルシシスムの平然とした無頓着と厚かましさは、ギャラリーの客、批評家、その他のアーティストの心をとりこにした。 バウリーの絶妙な外見、沈黙と強烈な自己没頭は、ショーの間中に演奏される、無作為のすりむくような交通ノイズの彼じしんのレコーディングによってさらにアクセントづけられた。 たいへん親密で内密なものが、なにかもっと暗いものを示唆しているかもしれない「ストリート・ライフ」のサウンド・トラックのそなわった公衆の面前に放り投げられた。 ある衣裳では、彼は、さいごには(美術界の注目の)粋を選び取るネコ(猫)のような、何か奇妙な道ばたの生き物のように見える。 またある衣裳では、彼は、幾年ものちに死の床でささやくことになる「サタンの息子」("Satan's Son")である。

彼の美術界の露出と接触にもかかわらず、だれもバウリーに、ギルバート&ジョージ - 世代の生きた彫像 - のたいへん実行可能な戦略を採って、臨時の仕事、ルシアン・フロイドのモデル、あるいはリファット・オズベック(Rifat Ozbek)のデザイン顧問に頼るのではなく、自分自身のイメージを売ることから収入を得ることを提案しなかったことは、今や、奇妙に思われる。 晩年になると働かずに暮らせるだけの収入をもっていることの有利さがより明白になりはじめ、そしてバウリーは、働かずに暮らせるだけの収入のこの流れを供給するかもしれないために、アート・ロック/ポップ・グループ ミンティというかたちの、音楽に眼を向けた。 「わたしにはプロフィールが有る」、彼は、フラットの同居人で同じオーストラリア人アン・ホールト(Anne Holt)に打ち明けた、「しかしわたしには金銭が無い。」 ミンティーがこの難題に解決を与えるであろうと彼は希望したが、この願望は結局は根拠が無いと判った。

彼はのちに、 SMact 、バー・インダストリア(Bar Industria)での短期間の SM ナイト、でのパフォーマンスでファッションの群衆を興奮させた。 バーバラ(Barbara)というレズビアンの友人とともにナチのコスチュームを使用して、彼らは強制収容所実験を SMact に変えた。 ロンドンの週刊新聞『Capital Gay』の読者らは、パフォーマー仲間のバークリー(Berkley)に興奮し、彼は犠牲者を演じ、そしてバーバラとバウリーは嵐を切り抜けた。

1993年に短期間、バウリーは、指導的なクラバー、シェーラ・テキーラ(Sheila Tequila)およびステーラ・ステーン(Stella Stein)とともにバンド、ロー・ソウェッジ(Raw Sewage)を結成した。 彼らは顔を黒くし、18" のプラットフォーム・シューズをはき、陰部用のかつらをつけ、裸で上演し、ロンドンのクラブでそしてアムステルダムのラヴ・ボール(Love Ball)で観客を茫然とさせた。 しかしコラボレーションは、個性の衝突に終わった。 バウリーはつぎに、ロンドンのキングス・クロス(King's Cross)におけるバッグリーズ・ウェアハウス(Bagleys Warehouse)におけるコピ(Copi)による「ザ・ホモセクシャル(あるいは性的自己表現の困難)」("The Homosexual (or the difficulty of sexpressing oneself)")に「マダム・ガーボー」("Madame Garbo")として出演した。

ミンティとフロイド編集

1993年にバウリーは、友人で元1980年代のニットウェア・デザイナーであるリチャード・トリー(Richard Torry)、ニコラ・ベートマンおよびマシュー・グラモア(Matthew Glammore)とともにバンド、ミンティ(Minty)を結成した。 彼らのシングル『Useless Man』「Boot licking, tit tweaking useless man...」はダンス・ミュージック・グループ ザ・グリッド(The Grid)によってリミックスされ、『Plastic Bag』は、ねじ曲がったステージ上の彼らのスカトロジカルなパフォーマンスとともに映画『クレイジー・ナッツ 早く起きてよ』(I Woke Up Early The Day I Died)によって保存され、このために『ザ・サン』(The Sun)紙に彼らを「世界でいちばん病的なバンド」(the "sickest band in the world")と評させ、バウリーはそのことが誇りであった。 このシングルは、オランダにおけるマイナー・チャート・ヒットになったが、ただし、友人らは、彼は、安っぽい見え透いた衝撃的恐怖の戦術に真の芸術的自己を失ったと感じ、その戦術のうち新しいものは無かった。

1944年に、リーはホックストン・スクエア(Hoxton Square)で『Fete worse than death』を上演した。 バウリーとニコラ・ベートマン(のちの、ニコラ・バウリー(Nicola Bowery))は古典的な「出産ショー」("Birth Show")を上演したが、これはジョン・ウォーターズの『フィメール・トラブル』へのオマージュであるが、そこでバウリーはベートマンを「産み」("gave birth")、ベートマンは彼のコスチュームの下に特別にデザインされた馬具を用いてさかさまに支えられていた。 バウリーは、ひとりでステージに登場することになるが、しかし歌のなかごろでパートナーを産み、パートナーは胎盤でおおわれたたいへん大きな赤子として現われた。 このパフォーマンスは、レディー・バニー(Lady Bunny)のウィッグストック・イベントのために改訂され、そして映画『ウイッグストック』においてとらえられた。

1994年11月にミンティはロンドンのフリーダム・カフェ(Freedom Cafe)で、2週間にわたるショーを始め、その聴衆にはアレキサンダー・マックイーンもふくまれるが、しかしウエストミンスター市議会の手に負えず、市議会はわずか1夜ののちショーを終了させた。 ミンティは財政的損失で、そして彼の多彩な生涯における最低の時をあらわした。 オフェスト(Offest)というスピン=オフのバンドがのちに、アーティスト、ドナルド・アーカート(Donald Urquhart)をふくめて結成された。[3]

バウリーは、ルシアン・フロイドの後期の肖像画のいくつかの裸の題材で、そして彼の展覧会の開会式のために国際的に旅行した。 このモデル業は彼にいちじき、さまざまな適度な収入を彼に提供し、そして彼はたしかに、フロイドの英国体制との連結関係をゆっくりしみじみと味わった。

影響編集

映画製作者ジョン・ウォルターズと美術家アンディ・ウォーホルの影響の微光は、悪趣味(bad taste)にたいする鋭敏な鑑賞力、真に奇怪な自己提示、衝撃させ混乱させたいという深い欲望に見ることができる。 「わたしはロンドンのアンディ・ウォーホルでいたいのです」と彼はかつて言った。 「仮装すると」彼は明らかに「脚の生えた現代美術」("Modern Art on legs")(ボーイ・ジョージのコメント)であったが、しかし、昼間の衣裳の、ぴったりと合わない、わかりきった、じゃまになるウィッグは、ウォーホルの自己提示戦略へのうなずきで、これは批評家と友人との両者にはそれまで見えないように思われる。

他の美術の歴史的相似には、80年代前半の、友人トロージャンとのフィンセント・ファン・ゴッホ型の耳切り未遂(ナイトクラブのライヴァルらを出し抜こうとする試み)がふくまれるが、その結果、いっこうに治らないと警告された顔の穿孔を負わせた(ウォーホルの泣いている負傷を思い出させる)。 バウリーは、1986年のウォーホルの、ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーでの、ニコラおよび氏名不明のアシスタントとのショー『成功はニュー・ヨークでは仕事である』(Success is a job in New York)に、フル・オートクチュールで登場した。

彼は、テレヴィジョンおよび映画のポストモダニスト/シュールレアリストのシリーズ、ペペ(Pepe)ジーンズ会社のコマーシャル、MTV ロンドン、ロック・バンドU2のステージ業のようなその他の仕事に登場することによってより広い観衆に知られるようになった。 彼はまた、ロンドンのi-D雑誌に記事、街の声(vox pops)におよびカヴァー・スターとして定期的に登場した。 バウリーはまた、英国の音楽ユニット マッシヴ・アタックの『Unfinished Sympathy』のための有名なヴィデオのアート・ディレクターであった。

登場人物として、彼は、ニュー・ロマンティック運動にもとづくステージ・ミュージカル『タブー』(Taboo)に出演した。 これはまた、マリリン)Marilyn)、ボーイ・ジョージ、スティーヴ・ストレンジ(Steve Strange)その他の1980年代前半のスターが登場した。 このミュージカルは、いちぶはボーイ・ジョージによって作られた楽曲とともにマーク・デーヴィス(Mark Davies)によって書かれたが、ロンドンのウエスト・エンドのヒットであった。 アメリカのメディア・スター ロージー・オドネルは、ブロードウェーのためにおおきく変えられた版に融資したが、しかしこれは成功しなかった。 これは2012年、ロンドン、ブリクストン・クラブ・ハウス(Brixton Club House)でリヴァイヴァルされた。

ジョニー・ローザ(Johnny Rozsa)によるバウリーの写真は、シドニー現代美術館、ウィーンのクンストハレ(Kunsthalle)およびハノーファーのクンストフェライン(Kunstverein)をふくむ、いくつかの博物館で展示されている。

個人的生活編集

バウリーはつねに自分自身は「ゲイ」(gay)であると明言しており、1994年3月13日、ロンドン、タワー・ハムレッツ(Tower Hamlets)で長期間の伴侶ニコラ・ベートマンと結婚した。この結婚の7ヶ月後、ロンドン、ウエストミンスター(いまは閉鎖され再開発された)ミドルセックス病院(Middlesex Hospital)でのエイズ関連の病気による、ひと握りの友人のみに知らされた5週間にわたる闘病ののち、1994年の大晦日に死去する。[4] [3]

伝えられるところによれば、死の床の宣言「わたしはボリヴィアに養豚に行ったと彼らに伝えてください」は、彼の作品の多くに跡づけることができる、絞首台のユーモア(gallows humour)と暗いアイロニー(dark irony)を例証する。彼の最期の要請のなかには、自分のミドル・ネームは知られないということがあった。

大衆的な言及編集

英国のTVコメディー・シリーズ『Spaced』における登場人物ヴァルヴァ(Vulva。)は、リー・バウリーに基づく。[5]

ボーイ・ジョージは1955年のアルバム『Cheapness and Beauty』にトリビュート・ソングをレコーディングした。 その曲は『Satan's Butterfly Ball』といい、『タブー』ミュージカルにおいてリー・バウリー役は『"Ich Bin Kunst"』や『"I'll Have You All"』のような曲を歌う。

ファッション・コレクションとショー・インフォメーション編集

ファッション・コレクション:

  • "Hobo": New York Fashion Week. 1982.
  • "Pakis from Outer Space": Camden Palace for London Fashion Week. 1982/83.
  • "Mincing Queens": Institute of Contemporary Arts 'Performing Clothes' for London Fashion Week and The Hacienda Club, Manchester. 1984.
  • "Disease / Spastic": Riverside Studios and Earls Court for London Fashion Week. 1986.

モデル: Models for these shows included old friends such as: Trojan (aka Gary Barnes, died 1987), David Walls, Peter Hammond (aka Space Princess, died 1993), Marc Vaultier (Mark Golding, died 1987), George Gallagher, James Payne, David LaChapelle, Jim McGuire, Robert McGuire, Sandra Cosijn, Dezi Campbell and Malcolm Duffy.

自伝編集

  • Leigh Bowery Looks, by Leigh Bowery, Fergus Greer, published by Thames & Hudson Ltd; New Ed edition (2005); ISBN 0-500-28566-7
  • Leigh Bowery Looks by Leigh Bowery, Fergus Greer, published by Violette Editions (2006); ISBN 1-900828-27-8
  • Leigh Bowery, Violette Editions, London, (1998), ISBN 978-1-900828-04-8

ディスコグラフィー編集

部分的なビデオグラフィー編集

  • Hail the New Puritan (1985-6), Charles Atlas
  • Generations of Love (1990), Baillie Walsh for Boy George
  • Teach (1992), Charles Atlas
  • A Smashing Night Out (1994), Matthew Glamorre
  • Death in Vegas (1994), Mark Hasler
  • Performance at Fort Asperen (1994)
  • Flour (single screen version) (1995), Angus Cook
  • U2: Popmart - Live from Mexico City (1997), Dancer during 'Lemon Mix'
  • Read Only Memory (estratto) (1998), John Maybury

脚注編集

  1. ^ Artists
  2. ^ You You You - Love's no Guarantee video containing Le Palace concert ticket http://www.youtube.com/watch?v=TLfpqLUm1J8
  3. ^ a b Out magazine, "Untitled" by Donald Urquhart; February 2009. Accessed 2009-01-17.
  4. ^ Marriages and Deaths England and Wales 1984-2006
  5. ^ spaced-out.org.uk

オーディオ編集

ビデオ編集

外部リンク編集