斎藤 勘七(さいとう かんしち、1853年5月11日(嘉永6年4月4日[1]) - 1936年昭和11年)2月18日[1][2])は、明治から昭和時代初期の政治家衆議院議員(3期)。名・忠篤、号・桂斎[1][3]。屋号は勘左衛門。

経歴編集

出羽久保田藩仙北郡花館村(秋田県仙北郡花館村大曲市を経て現大仙市)出身[4]。生家は農業と清酒醸造業を営んだ[4]。角間川青松館、二階堂鴻之進に師事し漢学を修めた[1][2]。自由民権の発揚を訴え、秋田県会議員に挙げられたが、1881年(明治14年)病のため辞す[4]。ほか、花館村長、仙北郡会議員を歴任した[2]

1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では秋田県第4区から出馬し当選[2]。つづく第2回および第9回総選挙でも当選し衆議院議員を通算3期務めた[2]

大石河原の官有地払い下げを実現して養蚕を奨励[1][3]。笛ヶ沢への大規模植林、神宮寺種馬所の設置を行った[1][3]。また仙北酒造組合を設立して会長に就任し、その後、初代秋田県酒造協会会長も務め、酒造の発展に尽力した[1][3]

辻辰之助後藤宙外とは縁戚である。

脚注編集

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  1. ^ a b c d e f g 『秋田人名大事典(第二版)』245-246頁。
  2. ^ a b c d e 衆議院、参議院 編 1962, 217頁.
  3. ^ a b c d 『秋田大百科事典』359頁。
  4. ^ a b c 木戸 1890, 563頁.

参考文献編集