スタニスワフ・カニャ
スタニスワフ・カニャ (Stanisław Kania ポーランド語発音: [staˈɲiswaf ˈkaɲa]; 1927年3月8日[1] – 2020年3月3日)は、ポーランドの政治家。元ポーランド統一労働者党第一書記。
スタニスワフ・カニャ | |
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ポーランド統一労働者党第5代第一書記 | |
任期 1980年9月16日 – 1981年10月18日 | |
前任者 | エドヴァルト・ギェレク |
後任者 | ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ |
個人情報 | |
生誕 | 1927年3月8日 ポーランド ブロツァンカ |
死没 | 2020年3月3日 (92歳没) ポーランド ワルシャワ |
国籍 | ポーランド人 |
政党 | ポーランド統一労働者党 |
来歴
編集1945年4月、ちょうどドイツ軍が赤軍により降伏し、共産主義者がポーランドを支配し始めた頃、ポーランド統一労働者党に入党。1946年、ORMOや国民投票など、党が主催する政治運動へ参加し、ヤルゼルスキの選挙区の副代表に選出される。1947年2月、ヤスウォの青年闘争連合(ZWM)理事会の議長に当選する。同年12月、ジェシュフの農村青年局長に任命される。1948年、21歳の若さでポーランド統一労働者党の統一会議の代議員に選出する。
エドヴァルト・ギェレクが社会的かつ経済的混乱の中で第一書記を辞任した後の1980年9月6日、カニャがギェレクの後継者に選ばれる。その際にカニャは、党がこれまで数多くの経済的失敗を犯したことを認め、カトリックと労働組合の野党グループとの協力を宣言した。その後、独立自主管理労働組合「連帯」の指導者であるレフ・ワレサなど、様々な政治家や批評家と会談した。
1980年、ソ連国家保安委員会(KGB)がカニャのクレムリンに対する批判を盗聴した後、ソ連により辞任を迫られた。カニャの後任には、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキが就任した[2]。
2012年、1981年時の戒厳令取り締まりにおけるカニャの責任問題により、裁判にかけられたが無罪となった[3]。
死去
編集脚注
編集- ^ Jessup, John E. (1998) (英語). An Encyclopedic Dictionary of Conflict and Conflict Resolution, 1945-1996. Greenwood Publishing Group. p. 374. ISBN 978-0313281129
- ^ (英語) Revolution 1989: The Fall of the Soviet Empire. Pantheon Books. (2009-10-27). ISBN 978-0375425325
- ^ “Poland finds ex-general guilty over 1981 martial law” (英語). BBC. (2012年1月12日) 2020年5月15日閲覧。
- ^ Wroński, Paweł (2020年3月3日). “Nie żyje Stanisław Kania, były przywódca Polskiej Zjednoczonej Partii Robotniczej” (ポーランド語). Wyborcza.pl 2020年5月15日閲覧。
党職 | ||
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先代 エドヴァルト・ギェレク |
ポーランド統一労働者党第一書記 第5代:1980 - 1981 |
次代 ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ |