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すき焼き

牛肉や野菜を浅い鉄鍋で焼いたり煮たりする日本料理
画像提供依頼:関西流のすきやきの画像提供をお願いします。2017年6月

すき焼き(すきやき・鋤焼)は、食肉や他の食材を、名称とは異なり焼くのではなく浅い鉄鍋で割下と呼ばれる調味料で煮込む日本の料理である。割下は醤油砂糖などを合わせたものである。

すき焼き
Sukiyaki (6290845042).jpg
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一般的なすき焼きは薄切りにした牛肉が用いられ、ネギハクサイシュンギクシイタケ焼き豆腐シラタキなどの具材(ザクと呼ぶ)が添えられる。味付けは醤油砂糖が基本である。溶いた生の鶏卵をからめて食べることが多い。

「豚すき」「鳥すき(鶏すき)」「魚すき」「蟹すき」「うどんすき」など、牛肉以外の材料を使用したものについても「すきやき」と呼ぶことがある[1]が、調理法や味付けはそれぞれ異なる。

合わせ調味料の割下を用いた甘辛い味付けの料理の総称として「すき焼き風」という呼称も用いられる。牛丼チェーン店[2]や、横浜などの老舗店[3]の一部においては、「牛すき鍋」あるいは「牛鍋」という名を使用した類似料理を提供している。

目次

歴史編集

杉やき・鋤焼編集

日本では幕末になるまで、牛肉を食べることは一般には行われていなかったが、別に「すきやき」と称された料理は存在していた。古くは寛永20年(1643年)刊行の料理書『料理物語』に「杉やき」が登場しており[4]、これはなどの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮(砂糖は使用しなかった)にする料理である。さらに享和元年(1801年)の料理書『料理早指南』では、「鋤やき」は「のうへに右の鳥類をやく也、いろかはるほどにてしょくしてよし」と記述されている。また、文化元年(1804年)の『料理談合集』や文政12年(1829年)の『鯨肉調味方』にも具体的な記述が見られ[4]、使い古した鋤を火にかざして鴨などの鶏肉や鯨肉、魚類などを加熱する一種の焼き料理であった[5]。他にも、すき身の肉を使うことから「すき焼き」と呼ばれるようになったという説もある。この魚介類の味噌煮の「杉やき」と、鳥類・魚類の焼肉という「鋤やき」という2種類の料理が、「すき焼き」の起源として挙げられている[4][6]

第9回朝鮮通信使(1719年)の製述官であった申維翰は著書『海游録』の付篇「日本聞見雑録」において、日本料理では「杉煮(すき焼き)をもって美食となす」と言及している。その記載によれば魚肉蔬菜などさまざまなものを酒と醤で煮た料理ということで、朝鮮における「雑湯(チャプタン)のようなもの」と表現した。名前の由来としては、何人かが杉の木の下で雨宿りした際に杉の木で焚いた火の上で、各人の手持ちの食材をまとめて器で煮たものが美味だったことから名付けられたとしている。杉は日本語で「スキ」と発音し、煮ることの訛言が「ヤキ」というためスキヤキの俗称があるとし、この場合漢字では「勝技冶岐」と記した。[7]

牛鍋編集

安政6年(1859年)の横浜が開港後、居留地の日本国外の人々から食肉文化が伝わってきた。当時の日本には肉牛畜産の産業がなかったため、当初は中国大陸や朝鮮半島あるいはアメリカから食用牛を仕入れていた。しかし居留地人口の増加に伴い牛肉の需要が増加し、のちに神戸の家畜商が横浜へ食用牛を搬送するようになった[8]。このような背景の元、幕府元治元年(1864年)居留地に指定されていた横浜市海岸通屠牛場の開設を認めた。

 
ぶつ切り牛肉を使用した味噌仕立ての牛鍋

屠場開設から2年遡った文久2年(1862年)に横浜入船町で居酒屋を営んでいた「伊勢熊(いせくま)」が1軒の店を2つに仕切り、片側を牛鍋屋として開業したのが最初の事例とされる[9][4]。また、文久2年(1862年)に横浜で生糸業を営んでいた「久保田松之助」が料理屋を開業、そこで牛鍋を提供していたという事例もある。幕末期、開港場の横浜では牛肉の煮売り屋台があった。1867年江戸で珍しい牛肉屋を開いていた、中川屋嘉兵衛の「中川」も牛鍋屋を開業した[10][6]明治元年(1868年)、高橋音吉が「太田なわのれん」を創業し、当時主流の味噌煮込み風牛鍋を提供した[11]。同年、横浜につづき東京の芝にも外国人向け屠牛場ができると牛鍋屋の流行は飛び火し、それ以降の牛食は文明開化の象徴となった[12]

食肉処理技術や冷蔵設備の未発達から、幕末から明治時代の牛肉は、現在と異なって獣臭さが強いものであった。またスライサーのない当時は牛肉も今のような薄切ではなく、固く煮えにくかった。それらを緩和するために、明治の「牛屋(ぎゅうや)」の牛肉料理は、ネギやタマネギの香味野菜を使い、味噌仕立ての味付けで煮たり、炒め煮にする鍋料理が主流であった[9][6][5][13]、ネギを五分の長さに切ったことから、明治初期には具材のネギが「五分」と呼ばれたこともあった[14]。これは今のぼたん鍋紅葉鍋に類似したものであったが、肉質が上るにつれて関東の味付けは味噌から、醤油砂糖などを調合したタレ割下)が主流になっていった[6][5]

1870年(明治3年)、福澤諭吉築地の牛馬会社の求めに応じて書いた牛肉や牛乳の摂取をすすめる宣伝文『肉食之説』で

古来我日本国は農業をつとめ、人の常食五穀を用い肉類を喰うこと稀にして、人身の栄養一方に偏り自から病弱の者多ければ、今より大に牧牛羊の法を開き、其肉を用い其乳汁を飮み滋養の欠を補うべき筈なれども、数千百年の久しき、一国の風俗を成し、肉食を穢たるものの如く云いなし、妄に之を嫌う者多し。畢竟人の天性を知らず人身の窮理を弁えざる無学文盲の空論なり。 — 福澤諭吉『肉食之説』:旧字旧仮名 - 青空文庫

と表現していた[15]1871年(明治4年)に仮名垣魯文はこうした状況を『安愚楽鍋』[16]で「士農工商老若男女賢愚貧福おしなべて、牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と表現していた[17]1877年(明治10年)の東京における牛鍋屋は550軒を超えるほどであった[6]

1887年(明治20年)頃になると、具材において牛肉や野菜の他に白滝豆腐が使われ始め、ネギはザクザクと切ることから「ザク」と呼ばれ、この「ザク」という言葉は具材全体の総称にもなっており、これらをたっぷりの割下で煮た牛鍋が関東風すき焼きの原型となった[14][12]

すき焼き編集

すき焼きは関西で誕生した料理であり、江戸時代以前には魚介類を用いた「魚すき」といわれる料理が存在していた。牛すき焼きの専門店としては1869年(明治2年)に神戸元町に「月下亭」が開店している。すき焼き本来のスタイルは牛肉を鉄鍋の上で「焼く」もので、肉と野菜を同時に調理したり、水分を加えて煮込んだりすることはない。

大谷光瑞は、本当のすき焼きとは(1)扁平な鍋を使い、(2)油脂以外は鉄板の上に液汁を加えず、(3)牛肉が炙熟したら椀のなかの調味に浸して食う(4)肉がなくなってから蔬菜を入れて、牛肉の液汁と油脂で煎り、肉と蔬菜は共存させない[18]と書いており、現代における鉄板焼肉に近い料理であったことがわかる。

すき焼きは関東大震災をきっかけとして関東地方にも伝わり、牛鍋の言い換え語としてのほか、牛鍋に倣って割下を使用する鍋料理へと変化していった[6][13]

明治大学政治経済学部教授で文学者のマーク・ピーターセンは「イギリス人がおいしいものに鈍いせいか」と憶測を挟んだ上で"sukiyaki"が初めて英語として現れたのは1921年のことであると説明している[19]

1960年頃に東京都港区にある「はせ甚」が初めてテレビ放送ですき焼きを紹介したことにより、日本各地に浸透したのではないかとされている。[要出典]

調理法編集

 
沖縄県のすき焼き

すき焼きは、日本国内各地方でその調理法に違いが見られる。使用する野菜も、地方や家庭によってはモヤシを入れたりジャガイモを入れたりと様々である。

発祥の地である近畿地方では、「すき焼き」の名のとおり肉を焼く調理法である。火にかけたすき焼き鍋に牛脂を引いて牛肉を焼き、砂糖と醤油で味を付け、さらにネギ・キクナ(シュンギク)などの野菜や豆腐・糸コンニャクといった具を加える。本来のスタイルは、焼いた肉だけを先に味わい、残った肉汁と牛脂の上に野菜や焼き豆腐などを盛り合わせ、焦げ付かない程度の少量の出汁を加えて炒りつける。もっとも現在は関西においても、簡便で失敗のない調理法である関東風の割下を使用する店や家庭が増加している

北海道東北地方北関東新潟県などでは、牛肉ではなく豚肉を使うことが一般的であった。これは、かつてこれらの地域では牛肉が高価であり、食べる習慣があまりなかったことによる。牛肉が容易に入手できるようになった現在もなお、牛肉を使ったすき焼きを「牛すき焼き」と呼んで区別する店や地域が残っている。

東京横浜などでは、明治時代に流行した「牛鍋」がベースになっており、肉を焼くのではなく出汁醤油砂糖みりんなどの調味料を混ぜた割下をあらかじめ鍋に張り、この中で牛肉を煮る。当初は、鹿・猪・馬の肉を使う紅葉・牡丹・桜鍋のアレンジ料理であり、肉質も悪かったことから味噌で味付けされたが、牛肉の質が改善されるにつれて味醤油味に変わり、また関西のすき焼きの影響を受けて豆腐や白滝などの具材が追加されていった。東京には下町を中心として現在でも古いスタイルを守る「鳥すき」「桜鍋」「しし鍋」など各種の鍋屋があり、浅草には高級すき焼き屋が多数あるなど、新旧入りまじり多種多様である。

滋賀県愛知県などでは鶏肉を使用するスタイルもある。愛知県の尾張地方では特に名古屋コーチンで食べる場合、「ひきずり」と称して、牛肉で作る「すき焼き」とは区別することがある。滋賀県の琵琶湖沿岸(とりわけ漁港のある周辺エリア)ではすき焼き風の味付けの鍋料理を「じゅんじゅん」と称し(具の煮える音に由来)、牛肉や鶏肉のほか、ウナギ・イサザ・ナマズ・コイなどの湖魚や川魚を使うこともある[20]。また大阪府では、魚介類を使った「沖すき」(魚すきとも)が郷土料理として親しまれている。

[13]

気候や歴史的な経緯により鍋料理の文化が存在しない沖縄県では、すき焼きはフライパンで調理する皿盛りの煮付け料理、あるいは砂糖醤油味の肉野菜炒めとして認識されている。使用する野菜もキャベツレタス青菜ニンジンなど自由度が高く、大衆食堂の定番メニューとして生卵や目玉焼きを中央に載せて提供される。

溶き玉子編集

 
溶き玉子と牛肉。

溶き玉子につけて食べるようになった由来は、熱さを冷ますことや、濃い味付けを緩和するなど諸説あり定かではない。初期の味噌味の牛鍋に生卵は使用されなかったことから関西のすき焼きから広まった風習であるという説もあるが、明治16年生まれで京都出身の食通として知られる北大路魯山人などは卵を用いる食べ方を行っていない。鍋料理に生卵を用いるのは江戸時代以前から存在する軍鶏鍋などにおいてもみられた食べ方であり、それが応用されたという見方が有力である。

篠田鉱造の『明治百話』(岩波文庫版なら下巻、p110「集金人の役得」)には、明治20年頃の商店における番頭の思い出話として、四谷の牛肉店「三河屋」へ上がり込んで「姉やん、鍋に御酒だ。それからせいぶんを持って来てくンな」と言ったところ、その「せいぶん」が何か通じず、女将が出てきて「何でございます、せいぶんと仰いましたのは」と問われ、「ナニサ、玉子(ぎょく)のことだよ、せいぶんをつけるからさ、この山の手では流行らねえ言葉かい」と言った、という記述がある。ここで言うせいぶんとは精分(精力・体力の意)であろうと思われ、食べ方は不明だが当時の東京では既に牛鍋に鶏卵が用いられていたことがわかる。

しらたき編集

「しらたきの近くに肉を置くと、しらたきに含まれる凝固剤(水酸化カルシウムなど)のアルカリ性によって肉が硬くなる」と俗に言われる。これについて、日本こんにゃく協会は調査の結果「しらたきの有無による肉の硬さへの影響はみられない」「割下のpH値もほとんど変化しない」と発表している[21][22]。なお、市販の袋詰めしらたきには凝固剤溶液が入っている場合があり、協会では水洗いを勧めている[22]

関西風編集

材料(関西風)編集

分量はおおよそ4人前。

  • 牛肉 - 400g
  • 葉ネギ・根深ネギ - 2本 もしくはタマネギ
  • キクナ - 1束
  • シイタケ - 6個
  • ハクサイ - 1/2個
  • 糸コンニャク - 1玉
  • 焼き豆腐 - 2丁
  • 春雨 - 1袋
  • - 6個
    • その他、モヤシなど好みの野菜を使用する。かつてはシイタケではなくマツタケが多く用いられた。中国地方四国地方などでは大根も具材に加えることがある(分量は1/2本、切った大根はあらかじめ下茹でしておく)。茹でたうどんを野菜などと一緒に、または途中から入れられることも多い。地域によっては一口大に切ったを入れる。
  • 牛脂 - 1かけ
  • 味付け
    • 醤油(濃い口) - カップ1/3程度
    • 砂糖 - 大さじ3程度
    • 料理酒 - 大さじ4程度(日本酒を使用する場合は塩味を足す形で調整が必要)
  • 溶き玉子 - 適量(1人1回1個程度)

作り方(関西風)編集

  1. 野菜や豆腐などの具材は食べやすい大きさに切っておく。
  2. すき焼き鍋を熱して牛脂をひき、牛肉を入れて砂糖、醤油、酒をかける(かけない場合もある)。
  3. 肉は火が通った端から、硬くならないうちに溶き玉子にくぐらせて食べる。
  4. 野菜や豆腐など、牛肉以外の具を入れて炒りつける。水分は野菜から出るが、好みにより水や日本酒、昆布出汁などを追加しても良い。味は砂糖や醤油で適宜調整する。
  5. 野菜類を片付けた後に鍋を綺麗に拭き、2からの手順を繰り返す。

関東風編集

材料編集

分量はおおよそ4人前。

  • 牛肉 - 400g
  • ネギ(根深ネギ)- 2本
  • しらたき - 1玉
  • シイタケ - 12枚
  • 焼き豆腐(生豆腐よりも崩れにくいため、よく用いられている) - 2丁
  • シュンギク - 1束
  • 牛脂 - 適量(食用油でも代用可能)
  • 割下
    • 出汁 - カップ1/2(無い場合もある)
    • 醤油 - カップ1/2
    • みりん - 大さじ3(砂糖で代用可能)
    • 砂糖 - 大さじ3
    • 料理酒 - 大さじ4(塩分が含まれるため、多く入れると塩辛くなるので注意。日本酒であれば、割下の味が濃くなった際の薄めに使用可能)
  • 溶き玉子 - 適量(1人1回1個程度)

作り方編集

  1. 材料は食べやすい大きさに切っておく。
  2. 熱したすき焼き鍋に割下を適量入れ、肉を野菜と共に煮る。割下を入れる量は、味の濃い割下なら鍋底が隠れる位の少量で、味が薄めの割下なら通常の鍋と同程度の量を入れる。
  3. 火が通ったら溶き玉子にくぐらせて食べる。
  4. シメには茹でたうどんを入れ、旨みの凝縮された汁を味付けをし直した後、染み込ませて食べる。味付けの濃い割下では辛くなるだけなので要注意。

その他編集

  • すき焼きに用いられる鍋は「すき焼き鍋」と呼ばれる、肉を広げて焼きやすいように底面は平らになっている。また、南部鉄器などの鋳鉄製の鍋は厚手で火の回りが安定していることからすき焼きに適しているとされる[23]
  • 牛丼は牛鍋(すき焼きの関東での古い呼び名)の中身を丼にしたのが始まりといわれている。
  • 牛丼店では、すき焼きを模した一人前の小鍋を「牛すき鍋」などの名称で提供することがある[24][25]

海外のすき焼き編集

アメリカ編集

アメリカでは日本料理の代表としてよく知られている。 ハワイにはすき焼きから派生した「ヘッカ」という煮込み料理がある。これは日系移民が伝えて定着したもので、牛肉ではなく鶏肉を用いるのが一般的である。

タイ編集

タイには「タイスキ」 (現地では「スキヤキ」と呼ばれる) という料理があるが、しゃぶしゃぶ寄せ鍋に近い料理である。

台湾編集

台湾のすき焼きは「寿喜焼(スァオシースァオ)」と呼ばれ、独自の進化を遂げたものである。「寿喜焼」の字は日本語のすき焼きの漢訳であり、長寿・喜びの意味も持つ。すき焼きは大正時代の頃台湾に伝わり、その味が台湾人の口に合ったことから、10年ほどで台湾全土に普及した。沖縄のすき焼きからの影響が著しい[26]。以下、台湾のすき焼きの特徴を挙げる。

  • 一つの鍋を皆でつつく日本式とは異なり、各々一人用の鍋で調理し食する。
  • 醬油ベースに沖縄の黒砂糖、レモンジュース、パイナップルなど南国風な具材を加え、味に深みをつける。
  • 店舗では基本的にバイキング料理の形式で提供し、セットやコースなどの形をとらない。
  • 台湾、日本、韓国、中国、アメリカ、オーストラリアなど各国の牛肉、豚肉、羊肉を自由に選ぶことができる。
  • 肉以外、海産物(エビ、カニの脚など)、台湾豆腐、うどん、春雨、肉団子、イカ団子、三種類の菌類、キャベツ、白菜、ブロコッリー、コン、黄色のピーマー、ナス等多彩な食材を共に煮込む。足りないや食べ終わる場合には、客自身が食材コーナーへ取る。
  • 調味料は日本式醤油、中華式醤油、台湾式醤油、コチュジャン、マヨネーズ、ケチャップ、チリソース、タバスコ豆板醤甜麺醤など選択広い種別がある。客は自由に以上の調味料を組み合わせて、小皿に入れ混ぜて、また焼いた食材をその自己流の調味料をつけて食べると言う。
  • 必ず飲み物とアイスクリームの食べ放題を提供してる。

逸話編集

  • フランスの記号論の哲学者ロラン・バルトは『表徴の帝国』で日本には中心が不在と語ったが、その中で「すき焼き」も「中心のない食べ物」と書いている。フランス料理だとアントレというメインがあり、時間的にも空間的にも中心にある。鍋料理は食材を自由に入れて好きな順番で食べることができるし、具材がなくなっても追加して時間を継続でき、終わりがない。
  • 映画監督の小津安二郎は、映画撮影後にスタッフや俳優に「カレーすき焼き」を振る舞った。おおむね好評だったが、『早春』に出演した池部良が「誰がカレー粉を入れた」と怒って以後は二度と振る舞われることはなかったという。このメニューは小津とゆかりの深い「茅ヶ崎館」で今も饗されている[27]
  • 美食家として知られる大谷光瑞は昭和6年刊の自著[28]において、すき焼きという名称が形骸化しつつある風潮を深く憂い、「肉と野菜を同時に煮れば、肉の食べ頃には野菜は生、野菜が煮える頃には肉は硬くなってしまう。肉野菜の混ぜ煮のごときは味のわからぬ貧乏人が聞きかじりで作った調理法であり、真に味を問う者のなすべき料理ではない」と強い語気で非難している。
  • 北大路魯山人も牛鍋式の煮立てながらの食べ方を「書生食い」と呼んで忌み嫌い、関西流の伝統的な調理法を好んだ。醤油とごく少量のみりんで味つけし焼いた牛肉を「絶妙のタイミング」で食し、その後で野菜を食べられる量だけ入れ、少量の出汁で味つけして煮て食する繰り返しで、過度の甘さを嫌い真剣に食することを尊んだ彼ならではの作法であった[29]
  • 1963年アメリカ合衆国において坂本九の楽曲「上を向いて歩こう」が"Sukiyaki"という英語タイトルでリリースされた。楽曲の内容とは何ら関連はないが、レコード会社の社長の意向によって命名された。すき焼きは牛肉好きのアメリカ人に人気があり、当時のアメリカでは"Fujiyama"、"geisha"などと並んでポピュラーな日本語であったことによる。なお、1963年6月15日にはビルボードおよびキャッシュボックスの第1位にランキングされたが、日本人の歌がアメリカでヒットチャートのNo.1になったのはこの曲だけである。

脚注編集

  1. ^ 語源由来辞典
  2. ^ 吉野家 Archived 2012年11月27日, at the Wayback Machine. 「牛鍋丼」
  3. ^ 文明開化の味がする?横浜の牛鍋に舌つづみ
  4. ^ a b c d 海外における日本食レストランの現状について / (4)海外の日本食レストランでよく提供される料理の起源(1/2) (PDF) - 農林水産省 2006年(平成18年)11月
  5. ^ a b c 名物料理論「鍋に理由あり、味付けには理由あり」 - サントリーグルメガイド全国版 2010年1月号
  6. ^ a b c d e f すき焼きの歴史(すき焼き事典) - すき焼きクラブ(ヤマサ醤油 すき焼専科)Facebook 2011年9月3日
    ヤマサすき焼きクラブ:すき焼きの歴史 - ヤマサ醤油
  7. ^ 申維翰; 姜在彦訳 『海游録 : 朝鮮通信使の日本紀行』 平凡社〈東洋文庫〉、1974年、287頁https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN02468290 (外部リンクは書誌情報のみ)
  8. ^ 「タイムスリップよこはま桜木町周辺 - - 最古の牛鍋屋 」
  9. ^ a b 牛鍋(味噌仕立て) (PDF) - 神奈川県
  10. ^ 日本・肉食の歴史” (日本語). tanken.com. 2018年8月23日閲覧。 “東京最初の牛鍋店は明治2年(1869)、江戸最初の屠場を開いた中川屋嘉兵衛の牛肉店から発展した新橋の「中川」です。”
  11. ^ 太田なわのれん」は現存し、今でもぶつ切り牛肉を使い、適宜、割下を注ぎながら濃い味噌だれで炒りつけるように煮る牛鍋を提供している。
  12. ^ a b 特集:年末年始は家族そろって“すき焼き” - 素敵・快適(東上ガス)2012年冬号
  13. ^ a b c 大阪鍋物語:鍋の文明開化 第2話 関西と関東で異なる「すき焼き」 - 公益財団法人大阪21世紀協会
  14. ^ a b 牛肉の普及 牛鍋から牛丼まで - キッコーマン国際食文化研究センター
  15. ^ 福澤諭吉全集』第20巻、岩波書店、1971年(昭和46年)、38-41頁。
  16. ^ この作品での表記は「牛鍋(ウシナベ)」日本国語大辞典(小学館)による。
  17. ^ 日本国語大辞典(小学館)。
  18. ^ 大谷光瑞 『食』 大乗社東京支部、1931年
  19. ^ マーク・ピーターセン『続 日本人の英語』(岩波新書、1990年)ISBN 978-4004301394 p24
  20. ^ 大阪鍋物語 じゅんじゅん、財団法人関西・大阪21世紀協会、2014年12月31日閲覧。
  21. ^ 「せっかくの肉、糸こんが硬くする」ってホント? 全くの誤解です 徹底調査で実証 食品環境検査協会”. 日本農業新聞 (2017年2月24日). 2017年3月3日閲覧。
  22. ^ a b 「しらたき(糸こんにゃく)がすき焼きの肉を硬くする」は誤解だった (PDF)”. 日本こんにゃく協会 (2017年2月23日). 2017年3月3日閲覧。
  23. ^ 紀文 Archived 2013年1月1日, at the Wayback Machine.
  24. ^ 吉野家、人気の冬の定番商品「牛すき鍋膳」「牛チゲ鍋膳」を販売 | マイナビニュース
  25. ^ 【レビュー】すき家の「牛すき鍋」が一新! 野菜を追加&増量、肉もぷりぷりに | マイナビニュース
  26. ^ 加入沖繩好滋味 黑糖壽喜燒的食感享受” (台湾中国語). 聯合新聞網 (2018年4月14日). 2018年5月7日閲覧。
  27. ^ 小津安二郎が振る舞った、カレーすき焼きがある。プレジデントオンライン 食の研究所
  28. ^ 大谷光瑞 『食』 大乗社東京支部、1931年
  29. ^ 食の現場から vol.12 魯山人のすき焼きが平成の世に蘇える!湯浅醤油有限会社

関連項目編集