すばらしい新世界
『すばらしい新世界』(すばらしいしんせかい、Brave New World)は、オルダス・ハクスリーが1932年に発表したディストピア小説である。機械文明の発達による繁栄を享受する人間が、自らの尊厳を見失うその恐るべきディストピアの姿を、諧謔と皮肉の文体でリアルに描いた文明論的SF小説であり、描写の極端さが(多くのSF小説にあるように)きわめて諧謔的であるため、悲観的なトーンにもかかわらず、皮肉めいたおかしみが漂っている。ジョージ・オーウェルの『1984年』とともにアンチ・ユートピア小説の傑作として挙げられることが多い。
すばらしい新世界 Brave New World | |
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作者 | オルダス・ハクスリー |
国 | イギリス |
言語 | 英語 |
ジャンル | SF小説、ディストピア小説 |
刊本情報 | |
出版年月日 | 1932年 |
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本作について
編集本作は技術官僚主義による地獄を描いており、その30年後の小説1962年の『島』では手作り的なユートピアを描いている[1]。
登場人物にはマルクス、レーニナ、モンド、モルガンといった官僚主義、経済、テクノロジーに関連した有名人の名が付けられている。また、人工子宮で胎児を育てる話などJ・B・S・ホールデンの『ダイダロス、あるいは科学と未来』(1923年)の影響を受けている。
作品のタイトルは、シェイクスピアの戯曲『テンペスト』に登場するミランダの台詞「O brave new world」第5幕第1場の引用である[注 1]。
1980年と1998年に2度テレビ映画化されている。
2020年にはストリーミング・サービスPeacockによってテレビドラマシリーズ化されたが、ファーストシーズンで打ち切りとなった[2]。
作品世界
編集西暦2049年に「九年戦争」と呼ばれる最終戦争が勃発し、その戦争が終結した後、全世界から暴力をなくすため、安定至上主義の世界が形成された。その過程で文化人は絶滅し、それ以前の歴史や宗教は抹殺され、世界統制官と呼ばれる10人の統治者による『世界統制官評議会』によって支配されている。この世界では、大量生産・大量消費が是とされており、キリスト教の神やイエス・キリストに代わって、T型フォードの大量生産で名を馳せた自動車王フォードが神(預言者)として崇められている。そのため、胸で十字を切るかわりにT字を切り、西暦に代わってT型フォードが発売された1908年を元年とした「フォード紀元」が採用されている。
人間は受精卵の段階から培養ビンの中で「製造」され「選別」され、階級ごとに体格も知能も決定される。また、あらゆる予防接種を受けているため病気になる事は無く、60歳ぐらいで死ぬまで、ずっと老いずに若い。ビンから出て「出生」した後も、睡眠時教育で自らの「階級」と「環境」に全く疑問を持たないように教え込まれ、人々は生活に完全に満足している。不快な気分になったときは、「ソーマ」と呼ばれる薬で「楽しい気分」になる。人々は、激情に駆られることなく、常に安定した精神状態である。そのため、社会は完全に安定している。ビンから出てくるので、家族はなく、結婚は否定され、人々は常に一緒に過ごして孤独を感じることはない。隠し事もなく、嫉妬もなく、誰もが他のみんなのために働いている。一見したところではまさに楽園であり、「すばらしい世界」である。
あらすじ
編集フォード紀元632年(西暦2540年)、中央ロンドン孵化・条件づけセンターで最上層階級アルファに属するバーナードは、少し様子がおかしく、人の集まる場所を避け、恥ずかしさに顔を赤らめる、他の人々には理解できない行動をしていた。そんなバーナードの友人は、ヘルムホルツである。ヘルムホルツは、優秀すぎるために孤立している男だった。
ある日、バーナードは、恋人レーニナと蛮人保存地区へ旅行へ出かけ、そこでジョンという青年と遭遇した。バーナードは、旅行直前の所長の会話との符合から、ジョンがセンターの所長の子供であることを見抜き、ジョンと彼の母親であるリンダを文明社会に連れて帰る。
ジョンは、その物珍しさから一躍時の人となるが、ジョンがいた蛮人保存地区とバーナードたちの文明社会では常識がまったく異なるため、摩擦が起きている。蛮人保存地区に偶然残されていたシェークスピアの古典を諳んじるジョンの目には、この社会はどうしようもない「愚者の楽園」としか見えない。ジョンは、バーナードの社交の見せ物とされ続けることを拒否して自室に閉じこもっていたところ、彼が密かに恋心を抱いていたレーニナの訪問を受ける。レーニナは、プラトニックな騎士道的恋愛と、その後の結婚を求めるジョンを理解できず、直接的なセックスを求めるが、ジョンはこれを激しく拒絶する。
直後、ジョンは、連絡を受け駆けつけた病院で危篤の母リンダを見舞う。ジョンは、ソーマの快楽に溺れるリンダを「死を恐れない条件反射教育」のために連れて来られた子供たちに邪魔をされつつ看取った。それにより怒りに駆られたジョンはソーマの配給を妨害するが、駆けつけたバーナードとヘルムホルツ共々警察に逮捕される。そして、世界統制官ムスタファ・モンドの元に連れて行かれ、ついにこの世界の全貌を説明された。
世界統制官との問答の後、フォークランド諸島へ島流しとなるバーナードとヘルムホルツと別れた後、ジョンは都市を離れ、田舎の廃屋で一人自給自足の生活を送ろうとするが…。
登場人物
編集- バーナード・マルクス(Bernard Marx)
- 中央ロンドン孵化・条件づけセンターの心理課に勤務する心理学者。本来の階級はアルファ・プラスではあるが、胎児のときに職員の手違いからかガンマ階級の姿で生まれてしまった。そのことから劣等感に苦しみ、孤立している。
- ヘルムホルツ・ワトソン(Helmholtz Watson)
- バーナードの友人でアルファ・プラス階級の感情技術者。完璧にアルファ・プラスな外見の美男子かつ非の打ちどころのない社交家で、感情工科大学創作学部の講師を務める傍ら詩人や脚本家としても才能を発揮している非常に優秀な男であるが、それゆえに周囲の人間と違っているという孤独を感じている。
- レーニナ・クラウン(Lenina Crowne)
- ベータ階級の保育士で、胎児に予防接種を打つ作業をしている。センターのアルファ階級男性のほぼ全員と寝たことがある美女。
- ジョン・サヴェジ(John the Savage)
- 蛮人保存地区で生まれ育つが、シェイクスピアの全作品を愛読している。文明社会に行き、好奇の目を向けられる。「Savage」とは「野蛮人」の意味。
- 所長(The Director)
- 中央ロンドン孵化・条件づけセンターの所長でバーナードの上司。名前はトマス(リンダは彼をトマキンと呼ぶ)。バーナードを疎んじてアイスランドのセンターへ左遷しようとしたが、本人も知らなかった息子ジョンの存在と「父親」になったことを暴露され、失脚。その後の行方は不明。
- リンダ(Linda)
- ジョンの母親。ベータ・マイナス階級だったが、若い時に所長と蛮人保存地区へ出かけ、一人はぐれた挙句、避妊処理ができなかったことで彼の子供を身篭ってしまった。そのため、保存地区から出られず、しかしインディアンの生活に適応することもできず、年老いてすっかり醜くなった。
- ムスタファ・モンド(Mustapha Mond)
- 西ヨーロッパ駐在統制官で世界統制官の一人。賢明で人間社会に対する洞察に満ち、冷笑的でどこか優しい憂愁さえたたえた哲学的な指導者。
用語
編集- 階級(カースト制度)
- 大きく分けてアルファ・ベータ・ガンマ・デルタ・エプシロンに分けられる。またそれぞれの階級にプラス・マイナスの区別が存在する。階級ごとに着用できる服の色が異なり、階級ごとに就ける職業が定められている。
- アルファ(α)、ベータ(β)
- 知識人、指導者階級。ボカノフスキー法を使わず、一つの受精卵から製造される(生まれる)。顔やスタイルは美形が多く、知的な教育を受けているのでジャーナリストや政府省庁の職員、大学教授などの職業に就いている人間が多い。
- ガンマ(γ)、デルタ(δ)、エプシロン(ε)
- 労働者階級。ボカノフスキー法を使い製造される。下の階級に生まれた人間ほど、背が低かったり、鼻がつぶれていたりと容姿がひどくなっていく。さらに階級が下の赤ん坊は、育てる段階から、わざと酸素を送る量を減らしたり、血液にアルコールを混入するなどをして、知能や身体機能を意図的に下げられる。成長中の睡眠教育の段階でもアルファ・ベータ階級とは違う内容の教育がされ、エプシロン階級では延々と労働をしても疑問に思わないように教育を行う。
- ボカノフスキー法
- 一つの受精卵から大量の子供を作る方法。プフィッツナーとカワグチという2人の人物によって発見された理論とされている。一つの受精卵から96人までの人間が製造可能。安定した社会の維持のためにはボカノフスキー法による人口の維持は必要不可欠となっている。
- 睡眠教育法
- 睡眠時に同じ言葉を繰り返し語りかけることによって行われる教育。この教育方法により階級制度・社会の倫理観などが寝ている間に教育される。基本的にこのとき教育された内容は一生涯忘れることはないとされる。九年戦争以前のポーランドではこの睡眠教育法の実験が行われていたが、効果は今ひとつで普及しなかったという。
- 九年戦争
- フォード紀元141年(2049年)に始まったとされる最終戦争。大量の生物化学兵器や大量の爆弾が使われ、世界のあらゆるものが破壊され世界経済は崩壊した。戦争終結後に消費活動の強制政策(国民に毎年一定のものを必ず消費させるノルマ)が取られ、その過程で文化人による『良心的消費拒否運動』が行われたものの、マスタードガスや機関銃などですべて殺されたとされる。その後、当時の大統領は武力では何も変えられないと結論に達し、武力を廃止しそれと同時にフォード紀元の採用と戦争中破壊されずに残っていた博物館(大英博物館など)や歴史的建造物(ピラミッドなど)といった文化的な遺産はすべて閉鎖され爆破された。
- ソーマ
- 安定した社会を維持するための要素の一つ。二日酔いなどの副作用のあるアルコール飲料の代わりとして、フォード紀元178年(2086年)に2000人の化学者に研究助成金が支給され、開発された副作用のない麻薬。アルコールとキリスト教の長所のみを融合させ、宗教的陶酔感と幸福感と幻覚作用をもたらす。アルファ階級からエプシロン階級までのすべての人間が日常的に使用している。
- 蛮人保存地区
- ニュー・メキシコにある、インディアンが昔ながらの生活をそのまま続けている地区。人口は約6万人。保存地区は電気の流れた鉄線で覆われており、地上からでは出入りができないようになっている。そのためこの地区に出入りするためには航空機を使った空路でしか入ることができない。
日本語訳
編集訳題は、渡邉二三郎による初訳のみ「みごとな新世界」で、以後は全て「すばらしい新世界」。
- 『みごとな新世界』渡邉二三郎 訳、改造社、1933年6月。 NCID BA46194634。
- 「すばらしい新世界」『すばらしい新世界 ショコンダの微笑 小アルキメデス スペンサー伯父さん』松村達雄・土井治 共訳、三笠書房〈三笠版現代世界文学全集 第14〉、1954年。 NCID BN05633112。
- 「すばらしい新世界」『すばらしい新世界・一九八四年』松村達雄 訳、早川書房〈21世紀の文学 世界SF全集 第10巻〉、1968年10月。 NCID BN03888440。
- 『すばらしい新世界』松村達雄 訳、講談社〈講談社文庫〉、1974年11月27日。ISBN 978-4-0613-7001-2。
- 『すばらしい新世界』高畠文夫 訳、角川書店〈角川文庫〉、1971年。
- 『すばらしい新世界』黒原敏行 訳、光文社〈光文社古典新訳文庫〉、2013年。ISBN 978-4-3347-5272-9。
- 『すばらしい新世界』大森望 訳(新訳版)、早川書房〈ハヤカワepi文庫〉、2017年。ISBN 978-4-1512-0086-1。
関連項目
編集- 『BRAVE NEW WORLD/ブレイブ・ニュー・ワールド』 - 2020年のテレビドラマ。
脚注
編集注釈
編集- ^ この場合のbraveは「勇敢な」ではなく、bravoと同じで「素晴らしい」の意味。
出典
編集- ^ a b ハクスレー 1980, 「訳者あとがき」.
- ^ Andreeva, Nellie (2020年10月29日). "'Brave New World' Canceled By Peacock After One Season". Deadline (アメリカ英語). 2023年6月6日閲覧。
参考文献
編集- オールダス・ハクスレー「訳者あとがき」『島』片桐ユズル 訳、人文書院、1980年12月、334-340頁。ISBN 4-409-13012-9。 - 底本:Island, 1962
- 小松左京『天変地異の黙示録 人類文明が生きのびるためのメッセージ』日本文芸社〈パンドラ新書〉、2006年6月。ISBN 4-537-25401-7。
外部リンク
編集- Online edition of Brave New World
- 1957 video interview with Huxley as he reflects on his life work and especially Brave New World
- Aldous Huxley: Bioethics and Reproductive Issues
- A Defence of Paradise-Engineering. A critical review of Huxley's novel by David Pearce.
- 担当編集者が激推しする『すばらしい新世界』のすばらしい世界 at the Wayback Machine (archived 2014-08-12) - 光文社古典新訳文庫