メインメニューを開く

つねにすでにAlways already)とは、文学理論の言説において頻繁に用いられる形容詞である。英語では、しばしばハイフンを伴って「always-already」とも記される。

マルティン・ハイデッガー

意味編集

「つねにすでに」の典型的な使用例としては、ポール・リクール物語論に登場する次のような文章がある。「人間の行為は物語として記述することが可能であるが、[…]それはつねにすでに(記号、規則、規範によって)象徴的に媒介されているからである」[1]

「つねにすでに」という表現を支える一つの中心的考えには、時間軸上のある時点における出来事がひとたび達成されると、その時点より前の時点は「透明」になり、不確かになる、あるいは思考不可能になってしまう、ということがある。例えば、ある人がウィリアム・シェイクスピアの『ハムレット』を初めて読み終えた後、その人は「つねにすでに」『ハムレット』を読み終えていたのであり、その人が『ハムレット』を読む以前の時間は今や過ぎ去った、あるいは「すでに」過ぎ去っていた、と言うことができる。この例から、よく用いられる次のような拡張的用法も導かれる。すなわち、「我々が生きる近代社会において、『ハムレット』をつねにすでに読了しているということは現代的知性の本性である」。同様に、「近代の主体は『つねにすでに』一つの言語を習得しているので、ある意味において、前言語的な主体の存在を考えることは不可能である」、とも言える。

「つねにすでに」は、現存在が「自らの未来」を予期するというマルティン・ハイデッガーの思想において重要な意味を持つ述語である。マルティン・ハイデッガーの用いた述語、概念、理論は、脱構築主義において、マルクス主義以上に重要な位置を占めている。1960年代以降、マルクス主義が批判理論における影響力を失っていったが、この表現は文学理論、解釈学、脱構築主義/ポスト構造主義における言説で頻繁に用いられ、マルティン・ハイデッガー以降の大陸哲学、例えばデリダの「痕跡」という述語の用法にもその影響は見られる。

歴史的用法編集

「つねにすでに」という表現はカール・マルクスが資本の性質を説明する際に用いられており、その後ハイデッガーの影響によって再び広められた。マルクスに先んじて、イマヌエル・カントの『純粋理性批判』(A346=B404)でもこの表現は用いられている。

また、この表現はモーリス・ブランショ(1907–2003年)の著作の多くでも中心的な扱いを受けている。ブランショは、ハイデッガーによるヘルダーリンの詩作における予期の分析を批判し、ステファヌ・マラルメの作品を論じている。ブランショはジャック・デリダにも影響を与えている。

脚注編集

  1. ^ Time and Narrative p. 57