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概要編集

渡辺淳一は医療ものや伝記などを得意としていたが、次第に男女の愛をテーマにするようになった[2][4]。最初は女性主人公の視点で描かれた恋愛小説がほとんどだったが[2][5]、49歳のとき執筆した本作は30作目にあたり[5]不倫の愛と悦楽を描き、連載直後から、辛みの効いたエロチシズムが評判を呼び、"ひとひら族"や"ひとひら願望"などの流行語を生み、単行本は100万部のベストセラーを記録した[2][6][7]。渡辺は本作で堅固な様式美の中で、情痴に狂う男と女の姿を極めようとする新たな渡辺文学の骨格を作り上げ[8]、その後の『失楽園』『愛の流刑地』など男女の激しい愛と性を描いた作品を手掛けるきっかけとなった[2][4][9]

作者による作品解説編集

渡辺は執筆の動機と作品解説として「男女ものの小説をメインに据えようとした時、私はエロスとは何かについて考えていました。華麗なエロスを書こうと思い立ったのが『ひとひらの雪』です。私は精神と肉体のどちらかを取るかと問われれば、有無をいわず肉体を取ります。外科医だったせいか、精神は嘘っぽいというか、肉体の状態で精神が変わることは限りなくあるのに、精神によって肉体が変わることは極めて少ないと思っていました。男女の差も体の違いであり、肉体の快楽の有無と深さによって、愛の形も変わります。タイトルは男女が愛し合えば愛し合うほど、愛はうつろに消えていく、はかなく消えるというイメージです。ちょうど京都の春の雪を思い出したのです。春の雪は結晶が大きくて、光を浴びながらイチョウの枯れ葉のようにひらひらと舞い降りてきて、淡く消える。それから取ったのです。この題名は気に入っているものの一つです。男女ものの小説は当然のことながら、女性が好きでないと書けません。自分の気持ちが艶めかないと書けないのです。私は執筆活動をしているうちに、着実にそのような資質が膨らんでいたのだと思います。この連載中、確かな手応えがありました。『朝からみだらな風を吹きまくるお前は死ね』とカミソリが送られてきたり、絶賛してくれる人がいたり、賛否両論でした。批判がくるとますますやる気が出ました。『それなら、とことん書いてやれ』と思ったわけです。この作品で、自分なりの書き方がある程度完成できたという実感を得ました。それもポルノではなく、いかに華麗に透明に男女ものを描けるかと、文章を練りに練って挑みました。後で『新情痴文学』という呼称をもらいましたが、これも嬉しかった。ビデオヌード、ポルノが巷にあふれているのに、映像よりも私の小説を読んで艶めかしさを感じてくれる人がいることに、私は文学文字の力を感じました。小説というのは一代限りの知恵を書くものです。伝承できない知恵。学校で教えられない知恵。男女の関係もまさにそう。伝承できず一代で終わってしまう知恵です。どんな体験をしてもその人だけのもので子供には残していけません。だから人類はつながり、協調できるのです。連載中『これを書いて間違いない。男女ものでいいんだ。生涯これを書いていこう』と確信したのです。ちょうど50歳目前のときでした」[10]、「それまでのサイン会は女性がほとんどでしたが、男性が多く見えられてね。こういう作品に関心がおありなのかと思いましたね。今迄女性を主人公にした現代ものの恋愛小説は幾つかありますが、疲れるんですよね。相当スタミナがないと書けない。それでこの本では男の主人公で自分に近い世代で、自分に引き付けて書いたのでリアリティも出て楽なわけです。素直に書けたように思います。主人公の伊織はぼくの分身であり、ぼくの本音みたいなものです。それといい意味でのエロティシズムをうまく書きたいと思っていた。汚いエロティシズムではなくてね。ある程度、エロティシズムをどれくらい新聞小説の範疇で書くことが出来るかと思ってやってみたわけです」などと話している[2]。渡辺のファンはそれまで圧倒的に女性が多かったが[11]、本作以降、男性のファンが増えた[11]

ストーリー編集

中年建築家の伊織祥一郎は妻子とは別居中で、部下の相沢笙子と恋人関係にあった。ある日知人のパーティで高村霞と10年ぶりに再会し驚く。人妻になった霞は日本美の伝統である"雅"がそなわっていた。10年前、美大生だった霞は講師にきていた伊織と一夜をともにし、その時が初めてだった霞は妊娠し堕胎していた。霞をどうしても手に入れたいと伊織は思い、冬の一日に二人は身体を重ねた。春、霞は大輪の芍薬へと変身する。梅雨の京都、奈良で霞は乱れる。それまで霞は乱れ、狂おしく燃え上がることはなかった。「あなたしか受け入れられない躰になった」と霞は言った。霞は夫との性交を拒否しているらしい。伊織は霞の肉体を求め続け、情痴に没入し官能を緩めない。霞は性愛を極めようとするように、その躰は火柱になってのぼっていく。一年後、雪がひとひら、ひとひらと落ちていくように、愛の終わりを迎える。四季の移ろいによって、霞の中の内なる自然が開花し、そしてひとひらの雪のように静かに消えていく。

映画編集

ひとひらの雪
監督 根岸吉太郎
脚本 荒井晴彦
出演者 秋吉久美子
津川雅彦
沖直美
木内みどり
岸部一徳
音楽 本多俊之
主題歌 ジュディ・オング「ひとひらの雪」
撮影 川上皓市
製作会社 東映東京撮影所
配給 東映
公開   1985年9月14日
上映時間 105分
製作国   日本
言語 日本語
配給収入 4億5000万円[12]
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1985年9月14日公開。主演:秋吉久美子、監督:根岸吉太郎[13]製作東映東京撮影所配給東映R-15指定[14]

キャスト編集

スタッフ編集

製作編集

企画編集

四季・奈津子』(1980年)や『ザ・レイプ』(1982年)といった大人向けの女性映画の企画者でもある岡田茂東映社長の腹心・吉田達プロデューサー[15][16]、『ひとひらの雪』の企画を提出したら、岡田社長に反対されたと述べているが、岡田は企画が熱する頃合いを見計らっていた節があったといわれる[17]。晩年の桜田武日経連会長が岡田に「映画にならんかね」と持ち掛け[18]、製作を決めた[18]。岡田は「東映で映画化した彼(渡辺淳一)の作品、『ひとひらの雪』や『化身』『桜の樹の下で』『別れぬ理由』は、僕が作品に惚れたから映画化した」と話している[19]。1983年2月以降、東映の企画は全て岡田が決めるという方針を打ち出し[20][21]、「ゴタゴタ引っ張らず、企画を見て即決。ムダ金も使わずに済む。1本500万円ロスして10本なら5000万円です」と述べていた[20]。しかし吉田や天尾完次日下部五朗といった腹心プロデューサーや[22][23]、評価する監督が心血を注いで何度も提出したら採用することもあった[17][23]。岡田は「つくり手が何ものにも変えて情熱傾けるものは、ある程度の見通しが立ったら、やらせんとな」と述べている[24]

東映アダルト路線編集

岡田は1970年代後半から「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」の劇場アニメ[25][26][27]角川映画など他業種とコラボ[25][28][29]メディアミックスを進めて[30][31][32]、日本映画の幅を広げてきたが[25][29][31][33][34]大島渚らと討論会を行った1982年5月29日朝日新聞朝刊誌上で「ヤング映画を軸にして大人の映画を作っていきたい」と話し[35]、「アダルト映画」に切り換えていきたいという構想を持っていた[27][35]1986年5月9日読売新聞朝刊「論点」では「映画人口回復へ国際化など推進」という提言を寄稿し、その一つとして「映画の作り手の問題だが、最近の映画はアニメ、アイドル映画が全盛で、正月春休み夏休み期は、ヤング向け作品に映画館が席巻され、大人の見る映画がないとファンにお叱りを受けている。もともと映画は若者が客層の主軸を占めるものではあるが、大人にも受け入れられる作品を製作する必要がある。大人の映画を当てないとやはり新しい溝口健二黒澤明小津安二郎も育ってこない」などと話した[36][37]。東映は1980年代に入り『青春の門』や『ザ・レイプ』といった大人向けの映画を製作し[15][29][38]、1982年の五社英雄監督『鬼龍院花子の生涯』の大ヒットにより、次々に宮尾登美子作品を映画化しこの路線で大きな柱ができた[39][40][41]。岡田が「アダルト」という言葉をマスメディアで口に出したのは『鬼龍院花子の生涯』製作中の1982年2月で[42]、宮尾に続き目を付けたのが渡辺淳一だった[17][19]。また『ひとひらの雪』製作中の1985年に深作欣二高岩淡檀一雄原作の『火宅の人』の製作を岡田に訴えたら「いまのウチならもってこいや」とこれも製作を即決した[43][44][45]

「東映アダルト路線」は「大人の鑑賞に耐える映画」を強調し[46]、岡田が企画段階から参画してその良し悪しをジャッジし、宣伝などについても細かく指示を出した[47][48]。総原価6、7億円をかけ、配収7、8億円を狙うという基本が打ち出された[47]。「アダルト路線」は、宮尾作品、渡辺作品、ヤクザ映画、「極道の妻たちシリーズ」、吉永小百合主演映画、今村昌平監督作品などを指し[12][41][46][49]、途中不振作品も出たが[50]1990年頃までこの路線を続け実績を残した[12][29][49][51][52]。今日「アダルト」というとAVの急速な普及によって性的なニュアンスが含まれるが[53]、1980年代までは「アダルト」は大人を示す一般的な語で[53]、成熟した大人の価値観と結び付けられていた[53]

脚本編集

脚本荒井晴彦1984年の『Wの悲劇』で第39回毎日映画コンクール脚本賞第58回キネマ旬報脚本賞を受賞後の作品で[54]1980年代に入り、手掛けた作品のほとんどが賞を取り、当時は売れっ子脚本家の一人だった[55]。荒井と根岸吉太郎のコンビは『暴行儀式』『遠雷』『キャバレー日記』に次いで4作目となる。

本作は東映が早くから原作権を押さえ[17]、製作も決まり、映画化が最初に報道されたのは、単行本が出版された1983年秋だった[56]。この時は『陽暉楼』に続く"文芸女性映画路線"という話だった[56]。しかしこの後、荒井シナリオに原作者の渡辺が何度もクレームを付け難航し、再三シナリオの書き換えが行われ[6]、再びマスメディアに製作ニュースが取り上げられたのは1984年秋であった[57]。渡辺はシナリオ第一稿を読み「表現の仕方は悪いし、あまりにポルノチックなことを安直に出し過ぎ。一度は映画化をキャンセルすると言ったくらい原作の意図の一つであるエロチシズムの表現に対するアプローチが全く感じられない。私が生かして欲しかった小道具、例えば主人公とヒロインがヨーロッパ旅行するくだり。シンボリックに使った風景や言葉のニュアンスなどがほとんどカットされて、大人が耐え得るエロチシズムという点で原作と全く異質なものになった」などと手厳しかった[6]。脚本、監督が30代と若かったことも不満だったようで、製作決定後は「シナリオは不満だらけですが、映画の出来はシナリオだけではないしね。役者さん、中でも津川雅彦さんの経験豊富なオトナの演技や、カメラワーク、監督の演技指導に任せるしかないと思っています」などと話した[6]。荒井は『Wの悲劇』での盗作騒動の影響もあってかなりへこんでいたといわれる[6][58][59]。荒井は後に「『ひとひらの雪』は僕と根岸30代後半の実感です」などと反論している[60]。今日では大家の渡辺淳一であるが[61]、当時はまだそこまでではなく[61]、毎日新聞連載中に読者から抗議が殺到したような作品を東映が作れるのか不安視された[61]

キャスティング編集

ようやくシナリオが完成し、1984年秋に『上海バンスキング』(松竹他)の後、松坂慶子深作欣二のコンビで本作の製作を予定していると報道された[45][57][62]。性描写が過激なこともあり、ここからまたキャスティングや監督選定に難航した[63]高岩淡が時期は分からないが『空海』のお礼に佐藤純彌中国に行ったとき、『上海バンスキング』も中国で撮影していたので、松坂と深作を交えて『ひとひらの雪』の打ち合わせをしたと話している[64]。主人公の妻は別居という設定のため、出番は少なくても問題ないが、愛人役の二人である高村霞と相沢笙子の役が大きなウェイトを占め、松坂がどちらをやるのせよ、もう一人、実力あるいは人気女優をキャスティングしなければならず[65]、岡田社長は『Wの悲劇』で名声を高めた三田佳子に「裸になれ」と命じたが三田に断られ[66][注 1]、間もなく松坂も1985年のNHK大河ドラマ春の波涛』の主役に決まり[68]、裸の多い『ひとひらの雪』の出演を正式に断られた[59][62]。 

製作が公表されたのは、1985年1月11日に開催された東映新春パーティで「東映85年ラインアップ」としてだった[69]。当時は恋愛小説恋愛映画は作るのが難しい時代でもあった[7]。またそれまでの宮尾文学や吉永小百合主演の『天国の駅』などとも傾向が違う、東映として珍しい"文芸女性もの"だったことから[69]、岡田社長は「渡辺淳一だからOL層を狙った女性ものだが、これは"文芸ポルノ"だと思ってくれたらいい」などと話し[69]、1985年2月にクランクインを予定していると発表した[65]。しかし本作は同時期製作が進められていた他作品の影響を受け製作が遅れた[55][59]。松坂に続き深作も『敦煌』に気持ちが行っているし[65]、「『ひとひらの雪』みたいな不倫ものをやるなら『火宅の人』をやらせてくれ」と岡田に訴え[45][62][70]、岡田は先のような構想を持っていたため『火宅の人』の製作を承諾し[48][70][71]、これにより深作の降板も決まった[21][65]。また1985年のゴールデンウィーク明けの公開に延ばしていた予定を更に延ばすことになった[65]。ここは『瀬降り物語』が埋めた[65]。一旦流れたと噂も出たが[65][72]、「この企画はどうしても捨てがたい」と岡田が根岸吉太郎の監督起用を思いつき[21][62]、根岸が監督を引き受けたことでようやく製作の決定をみた[62][21]。根岸は1983年の『探偵物語』からここまで2年空いたが、その間、角川映画とトラブルがあり[62]NCPの企画が流れたりしていた[62]。今度は高村霞役に『序の舞』で脱いでいる名取裕子が決まったと報じられるも[59][62]、製作が進まない間に名取が『時代屋の女房2』(松竹)に飛びついた[62]。天才・根岸吉太郎を遊ばせておく訳にはいかない、と秋吉久美子を高村霞に決め、見切り発車で1985年4月2日に撮影を開始した[55][73][74]。当時は秋吉の着物のイメージが湧かず[73]、秋吉は相沢笙子側ではという声もあったが[73]、高村霞役が秋吉になった[73]。相沢笙子役に抜擢された沖直美は本作の前に出演した『MISHIMA』がこの年のカンヌ映画祭に出品され、第1回東京国際映画祭で上映拒否に遭うなど話題性は抜群だったが、日本では公開されず、話題の女優になり損ねていたため気合の入る撮影となった[75]。一年間の話のため、の花を撮る必要がありクランクインを急いだものと見られた[74]。秋吉は1983年の『陽暉楼』のヒロインに色々注文を付けて降板し、クランクイン直前に池上季実子に交代したり[76][77][78]落合恵子原作の松竹『シングルガール』(1983年)を降ろされたり[78]、トラブル続きだった[78]

エーゲ海に捧ぐ』『窓からローマが見える』と二本の映画監督作品がある池田満寿夫が俳優として唯一の映画出演。「長ゼリフが覚えられるかどうか心配なんです。役者がどれほど大変か、身を持って勉強させてもらいます」などと話した[79]。 

製作会見編集

正式な製作発表記者会見は撮入後の1985年5月16日に有楽町電気ビル外人記者クラブで行われた[75][80]。製作総指揮を執る岡田社長は「二年前から企画が持ち上がり準備を進めてきた。渡辺文学は男女の機微が非常に上手く描かれているが動きが少ないため映像化しにくい。今回は新たな挑戦として製作し、大ヒットさせる」などと話した[73][75]。渡辺は「ポルノでなくいい意味での成熟したエロスを映画にしてほしい」とまた注文をつけた[73]。撮影はかなり進んでいたため、高村霞を演じる秋吉久美子は「台本を読んで、あまりに赤裸々な性描写に思わず赤面しました。淫らな半面、精神は清潔。不思議なヒロインなのでファイトが沸きます」[63][75]津川雅彦は「僕にはここまで出来ないと思うくらいハード。中年男の欠点や、卑怯さを上手く演じて若い女性に"かわいい"と映ったら成功だと思う」などと話した[75][80]

撮影編集

主人公の伊織祥一郎を演じる津川雅彦はそれまであまりヒットに恵まれず[81]1969年デヴィ・スカルノスキャンダル以降は仕事のオファーが減り不遇をかこっていた[81][82]1981年東陽一監督『マノン』で初めて映画賞(ブルーリボン賞助演男優賞)を受けて浮上し[83]、『ひとひらの雪』で名声を得るきっかけをつかんだ[84]

劇中、妻から誕生日プレゼントと離婚届を渡され、ショックを受けた伊織がメロメロになり、結婚式で延々と下らないスピーチをしたあげく、泥酔して彼女のところで痛罵され、泥沼に落ちていくきっかけとなるシーンは、中年男の未練と卑屈さを象徴する大事なシーンだったが、土壇場で予算オーバーのためカットが決定した。津川は俳優生活で初めて職場放棄を決意し抗議、このシーンの撮影に至った[84]。津川にとってカツドウ屋気質の最期の矜持を守った忘れられない事件となった[84]。津川は「『ひとひらの雪』の台本を読んだ時、主人公の男に優柔不断さ、嫉妬深さ、しつこさ、未練がましさ、ずるさ等々、男の本質がよく現れていて、これは非常に面白いなと思った。未練がましい、嫉妬深いなどの形容詞は、これまで一般的には女性に対して使われるものだと思われてきた。しかし私は、これらの特徴は、女性よりもむしろ男性の方に顕著に見られるのではないかと考えている。これまで日本のラブストーリーのヒーローというのは、ただひたすら男らしく恰好いいものと相場が決まっており、めめしく、ずるい性格の男はたいがい脇役にまわされていた。しかし私はこういう男にこそ男らしいリアリティと魅力があらわれていると思い、そのみっともなさや駄目なところこそ演じていきたい、と渡辺先生に言ったら『実は僕もそういう風に考えて書いているんだ。雄々しいと書いて、めめしいと読むんだと人にも言っているんだよ』とおっしゃって下さった。私自身、世間に逆風を吹かせることの出来るような役に魅力を感じる質で、だから、渡辺先生の原作で、こういった役柄に恵まれたのは非常に幸運だったと思う」などと話している[85]。津川は本作に主演してから、"ラブシーンの上手い俳優No.1"と折り紙がつき[86]、色気のある中年俳優 No.1"の地位を決定づけた[84]。渡辺からも「五十代で品のいい好色を演じられる俳優は津川さんくらいしかいない」と称賛され、テレビドラマ舞台を含め、渡辺作品の顔となった[85][87]

野村芳太郎は「『ひとひらの雪』を見た。この作品では経験が肥やしになっていることに間違いない。自分に思いを寄せている女性を捨てて、見る人に悪感情を抱かせない男を演じられる俳優は今、彼しかちょっと見当たらない」と評価した[84]

孔雀ポーズ編集

本作は濃厚なセックスシーンが話題を呼び、撮影中もスタッフが思わず横を向くほどで、秋吉も「相当恥ずかしくて体調を崩した」と話した[6][88]。中でも当時のマスメディアグラビア等で盛んに扱われたのが、"孔雀ポーズ"といわれた着物をまくって後背位するシーンで[6][18][89]、このときの女性の形が孔雀に似ていることからそう呼ばれ[6]、"くじゃくする"と、"ひらひらする"(不倫する)は、当時の流行語になった[86]。津川に抱かれる秋吉のセリフ"ヤクザにしないで下さい"も流行語になった[18]

撮影記録編集

1985年4月2日秋田県豪雪地帯・稲積温泉でクランクイン[7][55][74]、津川と秋吉の食事シーン他。4月3日、山形県銀山温泉露天風呂で二人のファック・シーン。4月9日~10日、東京五反田遊歩道で津川と岩本、桜満開の夕景。4月16日~17日、セット撮影、津川の建築工房。4月24日、長野県谷川岳天神平スキー場。沖、岸部参加。この時期異例の吹雪で真冬設定のゲレンデを画にできた。4月27日都内千駄ヶ谷他。5月7日~8日、都内、千駄ヶ谷、大塚他。5月16日から28日まで、21日の吉祥寺東急イン羽田空港代々木など1日だけ都内ロケをはさみ、東映東京のメインセット・津川のマンションで延べ約10日間セット撮影。1985年6月20日善福寺伊織家ロケセットで津川と木内でクランクアップ[55][74]

作品の評価編集

興行成績他編集

性描写の激しさから一般映画に成らず[18][90]制限付き〈R〉指定となりマスメディアに盛んに取り上げられた[18][90]。男性層動員の狙いと相違して、平均年齢32~33歳の主婦OL中心の圧倒的女性層を動員し[18][90]、4億4000万円と健闘[12][91]。秋吉久美子の体当たり演技が評判を呼んだこともヒットの原因と評価された[91]。ビデオも人気が高く16000本売れた[12]。アダルト路線はビデオの売り上げが良いため、それらまで含めた映像トータルで商売を考えれば、映画興行はドローでもよいとされた[12]

評価編集

化身』の脚本を担当した那須真知子は「面白かった。根岸クンの中では一番好きです」と評価している[92]

影響編集

本作の製作を切っ掛けとして岡田社長と渡辺淳一にプライベートな付き合いが生まれ[17][19][93]、『化身』に続いて渡辺作品がほぼ独占的に東映で製作される切っ掛けになった[17][19][21][94]。岡田は「渡辺淳一作品は高級ブランドだ。ところがこれは文芸大作にしてしまうと問題がある。そこのところの見極めをするのがプロデューサーの目となるわけだ。勿論、気取ってもだめだ」などと解説している[21]。渡辺作品はその後も「東映アダルト路線」の中でも安定した成績を続けたことから[17][95]1997年の『失楽園』も最初は東映単独で製作を予定したが[96]、「東映で作っても普通の数字しか達成できないだろう」と岡田が判断し[96]角川歴彦が「ウチで作らせてくれ」と頼んで来たこともあり[97]、角川に譲り、角川映画部に全部任せた[96][97][98][99]

エピソード編集

  • 映画製作中の1984年の1月から3月まで『週刊朝日』で「女優問診」という渡辺淳一の連載対談があり、1984年1月20日号で麻雀仲間という山本陽子がゲスト出演[9][100]。本作『ひとひらの雪』のヒロイン・高村霞の"霞"の命名者は山本という。銀座バーで飲んでいるとき、渡辺の出す名前がどれもよくなく、山本が「それじゃ売れませんよ。"霞"ってよくわからない。"霞んでるみたいでね。わからない名前の方がいいんじゃない」と言うので、それを採用した。山本は「私、なんらかのものがいただけるんでしょうか」と言ったら、渡辺が「でも、ボクが上手く書いたから霞という名前が引き立ったんでね」と反論した。この対談で渡辺は山本の着物を予想したのか事前に打ち合わせたのかは分からないが、自身も和服で登場し、山本も予想通り淡いベージュ地にの無地っぽい着物で登場。渡辺は「今日の着物はいいね。好みだね」と何度も連発した[100]。山本は1986年1月2日テレビ朝日で放送された3時間ドラマ『ひとひらの雪』で高村霞を演じている[101]
  • 渡辺淳一が2014年4月に亡くなった際に、津川雅彦は本作に触れ「渡辺先生は『ひとひらの雪』はラブシーンが多くて飽きちゃったけど、秋吉さんの肌触りは良かった、とおっしゃってました」と話した[102]

テレビドラマ編集

ひとひらの雪
(ドラマ版)
ジャンル テレビドラマ
原作 渡辺淳一
脚本 柴英三郎
演出 大村哲夫
出演者 山本陽子
プロデューサー 千野栄彦近藤洲彦
制作 テレビ朝日
放送
放送国・地域   日本
放送期間 1986年1月2日
放送時間 木曜21:00 - 23:54
放送分 174分
回数 1
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テレビ朝日の3時間ドラマ(21:00〜23:54)

スタッフ
キャスト

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 三田は1987年に東映で映画化された渡辺作品『別れぬ理由』では主演しヌードも披露した[67]

出典編集

  1. ^ a b c セレクション7 2016, p. 702.
  2. ^ a b c d e f 渡辺淳一「『ひとひらの雪』(上・下)の渡辺淳一氏(作家)」『新刊展望』1983年7月号、日本出版販売、 3頁。
  3. ^ 『ひとひらの雪(上)』渡辺淳一 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS
  4. ^ a b 渡辺淳一|NHK人物録|NHKアーカイブス”. NHKアーカイブス. 2018年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月16日閲覧。
  5. ^ a b セレクション7 2016, pp. 690-693.
  6. ^ a b c d e f g h 「主演・秋吉久美子の『思わず赤面』という映画『ひとひらの雪』のあの部分」『サンデー毎日』1985年6月23日号、毎日新聞出版、 162-164頁。
  7. ^ a b c 「特集 ひとひらの雪 根岸吉太郎監督インタビュー」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1985年9月下旬号、 84-86頁。
  8. ^ 渡辺淳一の世界 1986, pp. 239-240.
  9. ^ a b 第189回 安倍首相の国語力、柳家小三治の手術、松茸の土瓶蒸し、淳ちゃん先生のこと... ×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その8)
  10. ^ セレクション7 2016, pp. 686-688.
  11. ^ a b 「ベストセラー「ひとひらの雪」に陶酔するサラリーマン 四十五歳の女願望」『週刊文春』1983年4月21日号、文藝春秋、 27-29頁。
  12. ^ a b c d e f 「興行価値」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1989年5月上旬号、 168頁。
  13. ^ ひとひらの雪 | WOWOWオンライン
  14. ^ ひとひらの雪”. 日本映画製作者連盟. 2018年3月16日閲覧。
  15. ^ a b 東映の軌跡 2016, pp. 304-305.
  16. ^ 私の新人時代 - 日本映画テレビプロデューサー協会 吉田達 (東映)春日太一[総特集] 五社英雄 極彩色のエンターテイナー河出書房新社KAWADE夢ムック 文藝別冊〉、2014年、93頁。ISBN 978-4309978512牧村康正・山田哲久『宇宙戦艦ヤマトを作った男 西崎義展の狂気』講談社、2015年、138頁。ISBN 978-4-06-219674-1
  17. ^ a b c d e f g 東映の軌跡 2016, p. 417.
  18. ^ a b c d e f g 「『エマニエル夫人』より『ひとひらの雪』」『週刊新潮』1985年10月10日号、新潮社、 15頁。
  19. ^ a b c d 渡辺淳一の世界 1986, pp. 221-222.
  20. ^ a b 活動屋人生 2012, p. 192.
  21. ^ a b c d e f 脇田巧彦・川端晴男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナルワイド版 特別ゲスト岡田茂 映連会長、東映社長、そしてプロデューサーとして」『キネマ旬報』1987年3月上旬号、キネマ旬報社、 93-94頁。
  22. ^ 中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』ワイズ出版、2004年、180頁。ISBN 4-89830-173-8
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参考文献・ウェブサイト編集

外部リンク編集