ゆきゆきて、神軍

ゆきゆきて、神軍』(ゆきゆきて、しんぐん)は、1987年公開の日本映画太平洋戦争の飢餓地獄・ニューギニア戦線で生き残り、「神軍平等兵」と称して慰霊戦争責任の追及を続けた奥崎謙三の破天荒な言動を追うドキュメンタリー[1][2][3]今村昌平企画、原一男監督。日本国内外で多くの賞を受賞した[3]。 

ゆきゆきて、神軍
監督 原一男
製作 小林佐智子
出演者 奥崎謙三
奥崎シズミ
撮影 原一男
編集 鍋島惇
公開 日本の旗 1987年8月1日
上映時間 122分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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キャッチコピーは「知らぬ存ぜぬは許しません」。

あらすじ編集

奥崎謙三は、第二次大戦中、召集され、日本軍の独立工兵隊第36連隊の一兵士として、激戦地ニューギニアへ派遣されていた元日本兵。ジャングルの極限状態のなかで生き残ったのは、同部隊1300名のうちわずか100名。かつて自らが所属した第36連隊のウェワク残留隊で、隊長による部下射殺事件があったことを知り、殺害された二人の兵士の親族とともに、処刑に関与したとされる元隊員たちを訪ねて真相を追い求める。すると、生き残った元兵士たちの口から戦後36年目にしてはじめて、驚くべき事件の真実と戦争の実態が明かされる。元隊員たちは容易に口を開かなかったが、奥崎は時に暴力をふるいながら証言を引き出し、ある元上官が処刑命令を下したと結論づける。この間、元兵士の親族は途中で同行から降り、以後は関係者が(実際の身分は明かさずに)その代理を務めた。映像として記録されるのはこの下りまでである。

映画の結末で、奥崎が元上官宅に改造拳銃を持って押しかけ、たまたま応対に出た元上官の息子に向け発砲し、殺人未遂罪などで逮捕されたことが字幕で紹介される。

映画外の話題となるが、奥崎は懲役12年の実刑判決を受けて服役し、釈放後は神戸市で妻とバッテリー商を営みながら、天皇の戦争責任を訴え、2005年に亡くなるまでアナーキストとして活動した[1][2][3]

出演者編集

  • 奥崎謙三
  • 奥崎シズミ(奥崎の妻、旧姓:石地)
  • 崎本倫子

スタッフ編集

  • 企画:今村昌平
  • 製作:小林佐智子
  • 撮影:原一男
  • 録音:栗林豊彦
  • 編集・構成:鍋島惇
  • 演出助手:安岡卓治大宮浩一
  • 撮影助手:高村俊昭、平沢智
  • 演出協力:徳永靖子、三宅雄之進
  • 選曲:山川繁
  • 効果:伊藤進一
  • ネガ編集:神谷編集室
  • タイトル:日映美術、8 - 8光映、にっかつスタジオセンターIMAGICA
  • 製作協力:今村プロダクション、ほか
  • 監督:原一男

製作編集

企画から撮影まで編集

原一男は1982年に奥崎謙三に初めて会い[4]、そのエネルギーに圧倒され、この人のドキュメンタリーを作ってみたいと考え、製作がスタートした[4]。原は奥崎の著書や資料を読み漁り、それに出て来る関係者に取材した[4]宮城県新潟県広島県など各地で調査で回っていくうち、"部下の処刑事件"が分かってきた[4]。結果的にこのエピソードが映画のメインになったが、最初の段階ではこのエピソードは本編の3分の1ぐらいの予定だった[4]。途中からこの"処刑事件"をメインでやろうと決めた。実際の事件は、戦争当時の話でもあり、証言も食い違い、真実はヤブの中になるだろうという予感はあったが、元兵士たちの過去の話、奥崎が未来へ向けてどう変わっていくか、自分たちと付き合うことによってどんな生き方に今後なるのか、リアルタイムのエピソードをドキュメンタリーで追う、という大まかなプランを立てた[4]。カメラを回す前に原と奥崎は何度か打ち合わせをした[4]。ドキュメンタリーのため、当然シナリオはないが、これを基にやっていこうというプロットは作成している[4]

撮影編集

撮影は1982年初頭から1983年春にかけて行われた。監督の原がカメラも兼ねた[5]。撮影が進んだある日、奥崎が撮影したフィルムと原が編集したフィルムを較べたいと言い出した[4]。生理的に逆なでされた気分になった原は非常に不愉快で、「奥崎さん、監督をなさりたいなら、自分でスタッフを集めて、どうぞ自由に撮って下さい。僕らは降ります」と言ったら、奥崎が「いえいえ、監督は原さんで結構です」と矛を収めた[4]。またある段階から「自分のやっている事、全部撮影して欲しい」と言い出した。16mmは高いので「オレはアンタの単なる随行記録班じゃないんだ、何を取るかはこっちが決めるんだ」と言い返した。最大の危機が奥崎がどうしてもラッシュを見せろというの仕方なく、当たり障りのないシーンを1時間ぐらい繋いで見せたとき[4]。奥崎がそのラッシュフィルムに感動して「原さんは何てダメな方なんでしょうとか何度も言いましたが、もう二度と映画をやめるなんて口が裂けても言いません」と言った後、奥崎から「ちょっと相談があるんですが」と言われ、別室で奥崎から「私は古清水さんを殺す決心をしました。是非、原さんにそのシーンを撮って頂きたいんです。これは私から原さんへのプレゼントです(笑)...OKかこの場で返事をして下さい」と言われた[4]。「考える時間を下さい」という余裕もなく、奥崎が恐ろしく体が震えて止まらない[4]。原がパッと浮かんだのは「迫ってくる奥崎の顔をカメラで撮らなくてはいけない」だったが、カメラはレンタルで高く、撮影のない日は返していたため、その日は持って来ていなかった。何とか返事を伸ばせば同じ話をカメラの前でするだろうと「恐いです。撮れる自信はありません」と言ったら、さっきまで「二度と映画をやめるなんて言いません」と言っていたのに奥崎は溜め息をついて「あー原さんは何てダメに人なんでしょう。もう映画はやめます。今まで撮影したフイルムは燃やして下さい」と言った[4]。原は「撮るというしかない」と考え、プロデューサーに相談したら「あなたがそのシーンを撮るなら、私はこの映画を降りる。あなたが撮るかどうかを考えていること自体がおぞましい」と言われた。多くの人に相談したら、作家はタブーに踏み込むべき、という人と、その犯行に至ったかを描くのが作家の仕事だという人がいた。その一人で映画公開時には亡くなった浦山桐郎から、「奥崎のオッサンもオモロイけど、のたうち回っているキミたちを見てる方が、よっぽどオモロイで!ドキュメンタリーだから、これからのことは、どうにでも撮れる。問題は過去だ。なぜ普通の庶民が反権力の思想を獲得していったかを描くべきだ」などと助言された[4]。結局、原も結論は出なかったが、映画は中止にならなかった[4]。その経緯については不明。田原総一朗には「『ゆきゆきて、神軍』はタブーの世界に一歩踏み込んでいったんじゃないか」と評価してもらったが[4]、原としては「踏み込み得たというものはない」などと話している[4]

撮影地は兵庫県神戸市広島県江田島大竹市など[2]。1983年3月、西ニューギニアで2週間ロケが行われ、クライマックスとして、奥崎が俘虜となった集落を訪れるシーンなどが撮影されたが、帰国当日にインドネシア情報省にフィルムを没収されたため、この「ニューギニア篇」は陽の目を見なかった[2][6]。その後、奥崎が逮捕、収監され、原監督は「もうダメだ」と一旦匙を投げたが[2]、「今ある分で何とかしよう」と[2]、1986年に改めて編集作業を行い作品を完成させた[2]

配給編集

最初は東映配給を依頼し[7]、東映は「これは面白い、ウチで上映したい」と全国公開ではなく、東映洋画系で封切ってみようと考えたとされるが[7]、東映は当時右寄りの映画が多く[7]、上映したら右翼団体からの妨害が予想され[7]、東映ファンを裏切りたくないと判断、配給を断念し単館での上映を薦めた[7]

作品の評価編集

公開は昭和も終わろうとする1987年[2]。同年8月から東京渋谷のユーロスペースで公開される[2]岩波ホールなども上映を検討したものの断念した結果であったが、3ヶ月は連日立見、結局ユーロスペース単館で5400万円ほどの興行収入をあげる大ヒットとなった[8]バブル期も間近な日本の若い観客たちは、極論を吐き殴りかかる幽霊のような奥崎をゲラゲラ笑ったという[2]。原は「奇矯さを認める『昭和』がまだ残っていた。ギリギリのところで奥崎さんはスーパースターになった」と評した[2]

映画公開中の同年9月18日は奥崎の妻・シズミの一周忌に当たり、ユーロスペースの観客および関係者に、拘留中の奥崎から贈られた[9]虎屋の特製「神軍饅頭」(神と軍の焼印を押した2個入り)が配布された[10][8]

アメリカマイケル・ムーア監督が「生涯観た映画の中でも最高のドキュメンタリーだ」と語っている[2]

受賞編集

1989年「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)では第40位にランキングされている。

備考編集

1987年9月4日広島高等裁判所における奥崎の第二回公判で、本作のビデオテープが弁護側の証拠として採用され、法廷内で上映された[12]。このとき初めて作品を鑑賞した奥崎は、原監督に「全く面白くありません」と感想を手紙で述べたという[13]

神戸の奥崎の家は今はなく、コインパーキングになっているという[2]

映像ソフト編集

関連書籍編集

  • 『ゆきゆきて、神軍 製作ノート + 採録シナリオ』 原一男、疾走プロダクション編著(話の特集・1987年)のち『ドキュメントゆきゆきて、神軍』 (現代教養文庫)
  • 『群論 ゆきゆきて、神軍』 松田政男高橋武智編著(倒語社・1988年)

脚注編集

  1. ^ a b 『ゆきゆきて、神軍』公式ホームページ” (日本語). 『ゆきゆきて、神軍』公式ホームページ. 2020年10月10日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 鈴木繁 (2013年8月31日). “映画の旅人 広島県江田島市 『平等兵』破天荒な闘い『ゆきゆきて、神軍』(1987年) 地獄語ることが戦友の慰霊 『戦えなかった戦争』の責任を追及する『ゆきゆきて、神軍』”. 朝日新聞be on Saturday e1–2 (朝日新聞社). オリジナルの2013年10月2日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20131002014442/http://www.asahi.com/shopping/articles/TKY201309030069.html 2020年10月10日閲覧。 
  3. ^ a b c 極限状態のジャングルを生き抜き天皇をパチンコで撃った元日本兵…寡黙な男を駆り立てたもの 「国に借りは作りたくない」奥崎謙三という囚人 #1
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 原一男「『ゆきゆきて、神軍』の核心を語る他」『シナリオ』1988年3月号、日本シナリオ作家協会、 16–26頁。
  5. ^ 原一男「撮影報告『ゆきゆきて、神軍』」『映画撮影』1989年7月30日発行 No.97、日本映画撮影監督協会、 29–33頁。
  6. ^ 『ゆきゆきて、神軍製作ノート』より。
  7. ^ a b c d e 山城新伍『一言いうたろか~新伍の日本映画大改造~』広済堂出版、1993年、88-89頁。ISBN 4-331-50421-2
  8. ^ a b 全国では最終的に興行収入1億円を超えると推定される。堀越謙三「インディペンデントの栄光・ユーロスペース 5」『ちくま』2014年12月号、26-29頁。
  9. ^ 『群論・ゆきゆきて、神軍』カバー折り返しの解説文より。
  10. ^ 『非国民 奥崎謙三は訴える!!!』(新泉社・1988年) p.221
  11. ^ 1987年度 日本映画ペンクラブ選定 ベスト5 | 日本映画ペンクラブ”. j-fpc.com. 2020年10月7日閲覧。 “■ 日本映画部門 1位:ゆきゆきて、神軍”
  12. ^ 『群論 ゆきゆきて、神軍』 p.331 - 339より。
  13. ^ 尾形誠規編 「ゆきゆきて、神軍」 『観ずに死ねるか! 傑作ドキュメンタリー88』 鉄人社、2013年4月6日、24-27頁。ISBN 978-4-904676-72-1 

関連項目編集

外部リンク編集