メインメニューを開く

アウトレンジ戦法(アウトレンジせんぽう)とは、敵の火砲や航空機の航続距離など相手の射程外から一方的に攻撃を仕掛ける戦術および戦闘教義のこと。「アウト・レンジ」という表記も見られるが英語では一語(outrange)である。

目次

砲撃戦編集

アウトレンジの原理は単純で、敵艦の砲の射程外に自艦を置いて砲撃すれば、命中率は多少悪くとも一方的に損害を与えることができる。第一次世界大戦フォークランド沖海戦ではイギリス巡洋戦艦隊がドイツ装甲巡洋艦をアウトレンジしてほぼ無傷の決定的勝利を収めた。通常、このような状況では劣勢の側が戦いを避けるのだが、当時新式の巡洋戦艦は射程と速力の両方において旧式の装甲巡洋艦より優っており、ドイツ側は逃げることができなかった。

日米開戦以前、日本海軍ワシントン海軍軍縮条約1922年)やロンドン海軍軍縮条約1930年)により戦艦航空母艦巡洋艦の保有数が制限された。このため仮想敵国と想定していた、数で勝るアメリカ海軍を艦隊決戦で打ち砕くため模索したのがアウトレンジ戦法だった。そのため、決戦主義において主砲の有効射程で勝る大和型戦艦を建造した[1]

戦艦「大和」が建造された当時、英米の戦艦は40センチ砲を装備し砲撃距離は3万メートルであったが、「大和」は46センチ砲を装備し砲撃距離は4万メートルであり速力も他の戦艦より速かったため、逃げながら砲撃するアウトレンジ戦法を取れば、海戦の際絶対優位に立てると考えられていた[2]。但し、近年の研究では、大和型戦艦の主砲は単純に高威力化を狙ったもので、射程の増大は単なる副次的効果に過ぎなかったという意見もある。また、戦艦艦橋の測距儀から観測できる距離は、当時の戦艦主砲の射程よりも短いものであり、この点でも砲撃によるアウトレンジ戦法を疑問視する声もある。

航空戦編集

太平洋戦争における1944年6月マリアナ沖海戦で、小沢治三郎中将率いる日本海軍機動部隊艦載機の航続距離の長さを生かしてアウトレンジ戦法を行った。しかし、航空母艦沈没3、艦載機378機撃墜などの甚大な被害を出し「マリアナの七面鳥狩り」と呼ばれ、アメリカ軍に敗北した[1]

小沢は

ミッドウェー海戦で日本がやられたように敵空母の飛行甲板を壊すこと」
「相討ちはいけない、負ける」
「味方の艦を損傷させてはいけない、人命より艦を尊重させる、飛行機は弾丸の代わりと考える」
「ミッドウェーの失敗を繰り返さないように絶対に敵より先に漏らさず敵を発見する、攻撃兵力を割いても索敵する、三段索敵を研究せよ」
「陣形は輪形陣でなければならない」

と幕僚に指示し、攻撃は2段とし、まず零式艦上戦闘機の爆撃で先制奇襲して甲板を破壊し、主隊の飛行機で反復攻撃し撃破、追撃は前衛戦艦が全軍突撃するという案にした[3]。小沢は戦後、防衛庁戦史室でのインタビューに「彼我の兵力、練度からしてまともに四つに組んで戦える相手ではないことは百も承知。戦前の訓練、開戦後の戦闘様相を考え、最後に到達した結論は『アウトレンジ、これしかない』であった。戦後になってアウトレンジは練度を無視した無理な戦法とか、元から反対だったとか言い出した関係高官が出て来たが、当時の航空関係者は上下一貫してこの戦法で思想は一致していた。」と語っている[4]

日本海軍の敗因は、アウトレンジ戦法をとったことにより搭乗員が実際の戦闘までに2時間半程度もの長時間飛行を強いられ[5]、方向を間違えて行方不明になったり途中で撃墜される機が続出したこと[6]、アメリカ軍が高度なレーダーと無線電話で防空部隊を統制できた上に、近接信管(VT信管)装備の対空砲により濃密な艦隊防空能力を誇っていたこと[1]が挙げられる。

このアウトレンジ戦法に対して反対意見もあった。第二航空戦隊参謀奥宮正武少佐は、議論までしなかったが、空母「大鳳」の打ち合わせで、練度に自信がないため、反対意見を述べたという。また、角田求士は海戦後、搭乗員から「打ち合わせで遠距離攻撃は現在の技量では無理と司令部と議論した」と聞いたという[7]軍令部航空参謀源田実中佐は、搭乗員が環境になじむための飛行が必要であり、航続距離一杯だと攻撃も窮屈になり、回収できる帰還機も回収できず、搭乗員への負担も大きく心理的にも悪影響として飛行距離は150海里から250海里が妥当と考えて、現地に出張した際に小沢の幕僚に忠告したという[8]

652空飛行隊長として出撃した阿部善朗大尉は、日本の機体は防御力を犠牲にして航続距離を伸ばしたためアウトレンジは可能だが、航法誤差が大きくなるため技量が必須であり、「お前らは火の中に飛んで行け、俺は川の向こう側にいるぞ」というのと同じで攻撃隊の士気が高まらないという[9]。また、攻撃隊搭乗員にのみ過重な負担を強いることになった。刺し違える覚悟で200マイルに肉薄して攻撃隊を放つべきだった。そうすれば七面鳥でももっと多く敵空母を攻撃しえたはず、たとえ負けても帝国海軍の武勇を示し多少なりとも死に花を咲かせえたと思うという[10]

出典編集

  1. ^ a b c 松田 (2009) p.23
  2. ^ 羽仁謙三『海軍戦記―われ,単艦シンガポール港占領せり』文芸社205頁
  3. ^ 吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫315頁
  4. ^ 田中健一「マリアナ沖海戦 作戦指導批判に異論あり」『波濤』110号 1994年1月
  5. ^ 太平洋戦争研究会 (2010) p.86
  6. ^ 森山 (2010) p.369
  7. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦390頁
  8. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦390頁、源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫265-267頁
  9. ^ 阿部善朗『艦爆隊長の戦訓―勝ち抜くための条件』光人社165頁
  10. ^ 阿部善朗『艦爆隊長の戦訓―勝ち抜くための条件』光人社182頁

参考文献編集

  • 戦史叢書12マリアナ沖海戦
  • 阿部善朗『艦爆隊長の戦訓―勝ち抜くための条件』光人社
  • 松田十刻角田覚治: 「見敵必戦」を貫いた闘将』PHP文庫、2009年。ISBN 978-4569672885
  • 太平洋戦争研究会『零戦と日本航空戦史』PHP研究所、2010年。ISBN 978-4569776309
  • 森山康平『東条英機内閣の1000日: 権力が集中した時代の悲劇』PHP研究所、2010年。ISBN 978-4-569-79128-9