アッツ島沖海戦(アッツとうおきかいせん)は、第二次世界大戦中にコマンドルスキー諸島近海で起きた日本海軍アメリカ海軍との間の海戦[1]連合国軍側の呼称はコマンドルスキー諸島海戦Battle of the Komandorski Islands[2]

アッツ島沖海戦
USS Salt Lake City (CA-25) in action during the Battle of the Komandorski Islands on 26 March 1943 (80-G-73827).jpg
退避中、反撃する重巡ソルトレイクシティ(USS Salt Lake City)
戦争太平洋戦争
年月日:1943年3月27日(現地時間では26日)
場所アメリカ合衆国アッツ島
結果:引き分け(米側は日本軍の輸送作戦を阻止)
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
細萱戊子郎中将
森友一少将
チャールズ・マクモリス少将
戦力
重巡洋艦2
軽巡洋艦2
駆逐艦4
輸送船3
重巡洋艦1
軽巡洋艦1
駆逐艦4
損害
重巡洋艦1小破
戦死14、負傷26
重巡洋艦1小破
駆逐艦2小破
戦死7
アリューシャン方面の戦い

概要編集

アッツ島沖海戦、連合軍側呼称コマンドルスキー諸島海戦[3]1943年(昭和18年)3月26日(現地時間)3月27日(日本時間)にアリューシャン列島近海で行なわれた海戦[4]。 アメリカ海軍は日本軍のアッツ島方面への輸送を阻止しようとして艦隊を派遣、日本軍輸送船団を護衛する第五艦隊との間で昼間水上戦闘となった[5][6]。 日本艦隊の稚拙な指揮により[7]、米艦隊は退避に成功した[8][9]。また第五艦隊は海戦後に幌筵島へ帰投したため[10]アッツ島への輸送作戦も失敗に終わった[11][12]。これ以降、アリューシャン方面における日本軍の輸送作戦はきわめて困難になる[13][14]。本海戦の結果は、アッツ島玉砕の遠因となった[15]

日付変更線をまたいで行われた海戦なので資料によって日付と時刻にズレがある。日本側の記録がUTC+9を使用しているのに対してアメリカ側はUTC-10を使用しており、19時間の時差がある。

 
西アリーシャン列島の地図(1.アッツ島 7.キスカ島 14.アムチトカ島)

背景編集

経過編集

1942年(昭和17年)6月上旬、日本軍はミッドウェー島の占領をめざすミッドウェー作戦の一環としてアリューシャン作戦を発動、アッツ島キスカ島を占領した[16]。日本軍は輸送作戦を繰り返し行い、両島の守備を強化していった[17]。一方のアメリカ軍は、空襲と、潜水艦の投入によって日本軍に対抗した[2][18]。 一例として、7月5日の海戦では[19]、駆逐艦キスカ島沖でアメリカ潜水艦グロウラーの雷撃で沈没、同潜水艦により駆逐艦不知火が大破した[20](同日、近海で駆逐艦子日が潜水艦トライトンにより沈没)[21][22]。 同年10月17日にはキスカ島沖にて駆逐艦初春が空襲を受け朧が沈没、初春が大破した[23][22]。また輸送船も多数撃沈された。 同年10月下旬、日本軍はアッツ島を再占領して防備強化を開始したが[24][25]、飛行場の設営と防備強化はなかなか進まなかった[26][27]

アメリカ軍はキスカ島南東に位置するアムチトカ島に進駐、飛行場を建設した[28]。日本軍はアムチトカ島の米軍について知ったのは、1943年(昭和18年)1月24日の事であった[29]。アムチトカ島の飛行場は、キスカ島やアッツ島に対する空襲の拠点として機能した[30]。 また、2月にはチャールズ・マクモリス少将が指揮する連合軍艦隊が進出し、日本軍の輸送船を攻撃しはじめる[31]。2月19日、米艦隊はアッツ島を砲撃し、翌日にはアッツ島輸送に従事中の輸送船「あかがね丸」を重巡洋艦インディアナポリスが撃沈した[32](あかがね丸事件)[33]

日本軍の輸送作戦編集

1943年(昭和18年)2月5日、日本軍は北部軍を改編する形で北方軍(司令官樋口季一郎陸軍中将)を新編し(大陸命第747号)、北海守備隊を第五艦隊司令長官の指揮下からのぞいて北方軍の隷下においた(大陸命第748号)[34][35]。 「北太平洋方面(千島方面防衛ヲ含ム)ニ関スル陸海軍中央協定」において陸海軍の分担が定められ、同年2月末を目途としてアッツ島とキスカ島に航空基地を建設することを目指した[36]。また「(一)幌筵(又ハ船団集合地)以東ノ輸送ハ主トシテ海軍之カ実施ヲ担任シ陸軍ハ所要ノ船舶等ヲ以テ之ニ協力スルモノトス 兵員及緊急ヲ要スルモノ竝ニ鳴神島ニ至ルモノハ敵情ニ応シ海軍艦艇ニ依リ輸送ス/(二)陸軍輸送船ニハ護衛(間接護衛ヲ含ム)ヲ附スルヲ原則トス」という項目があった[36][37]。 2月13日、大本営は北海守備隊の編成を改定する[38]。キスカ島に第一地区隊(隊長佐藤政夫陸軍大佐、歩兵三個大隊)、アッツ島に第二地区隊(隊長山崎保代陸軍大佐、歩兵二個大隊)を配置することとした[39]。西部アリューシャンの防衛は日本陸海軍が共同で担当することになったが、この二重構造はその後の戦局に悪影響を与えたとみられる[40]

2月15日、北方軍司令官・第五艦隊司令長官・大湊警備府司令長官の間で協定がむすばれ、キスカ島とアッツ島に対する輸送作戦「ア号作戦」を実施することになった[27][41]。これに対し、連合軍はアムチトカ島の飛行場を拠点に空襲を強化し、さらに水上艦艇部隊が進出して日本軍の補給線を脅かした[1]。2月19日、連合軍艦隊はアッツ島を砲撃し[42]、翌20日には同島近海で輸送船「あかがね丸」を撃沈した(前述)[12][43]。 このため、この方面を担当する日本海軍の北方部隊(第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将、五艦隊参謀長大和田昇大佐)は、輸送船の護衛と米艦隊の撃滅に従事することになった[44]。アッツ島へは輸送船で輸送をおこない、アッツ島からキスカ島へは潜水艦で輸送する[12]

3月10日、第二十一「イ」船団[11][12](特設水上機母艦君川丸、輸送船粟田丸崎戸丸)は重巡洋艦2隻(那智摩耶)・軽巡洋艦2隻(多摩木曽)・駆逐艦(若葉、初霜、雷、電、薄雲)の護衛の下でアッツ島に到着[45][46]、輸送を成功させた[47][48]

続いて3月22日、第二十一「ロ」船団[11](輸送船浅香丸、崎戸丸、三興丸)が重巡2隻(那智〈第五艦隊旗艦〉、摩耶)と第一水雷戦隊(司令官森友一少将)等に護衛されて幌筵島を出航した[49][50]。この船団は、新任のアッツ島守備部隊隊長山崎保代陸軍大佐(第二地区隊長)以下陸兵550名と、火砲、糧食、飛行場資材等を搭載していた[12]

マクモリス少将も日本軍の輸送を予想し、本海戦の数日前から重巡洋艦ソルトレイクシティなどからなる艦隊でアッツ島沖を遊弋ゆうよくしていた[51]

戦闘編集

日本艦隊は天候悪化のためアッツ島突入を1日おくらせ27日と決定した[12]。また日本艦隊主力は、合同できなかった第二護衛部隊(駆逐艦〈薄雲〉、輸送船〈三興丸〉)との合流をめざし、27日午前2時に一旦反転した[52]。当時の日本艦隊は主隊(第二十一戦隊〈那智、摩耶、多摩〉、第21駆逐隊〈若葉初霜〉)、護衛部隊(第一水雷戦隊〈阿武隈〉、第6駆逐隊〈〉)、「ロ」船団(浅香丸、崎戸丸)という区分である[53]

3月27日未明、アッツ島とカムチャッカ半島の中間海域で、重巡(那智、摩耶[54])・軽巡(多摩、阿武隈)・駆逐艦(第21駆逐隊〈若葉、初霜〉、第6駆逐隊〈雷、電〉)及び輸送船2隻(浅香丸、崎戸丸。アッツ島守備部隊隊長山崎保代陸軍大佐同乗)からなる日本艦隊(重巡2、軽巡2、駆逐艦4、輸送船2)と、重巡ソルトレイクシティ、旗艦/軽巡リッチモンド、ラルフ・S・リッグス大佐指揮下駆逐艦4隻(ベイリー、コグラン、デイル、モナガン)からなるアメリカ艦隊(重巡1、軽巡1、駆逐艦4)は、互いを警戒していて偶然遭遇した[51]。 連合国軍艦隊が日本軍輸送船団を撃滅しようと進撃し、これを日本軍護衛艦隊が阻止・邀撃しようという点で、スラバヤ沖海戦と似た状況であった[51]。北方へ向かう日本艦隊は先頭から那智(旗艦:細萱中将)- 摩耶 - 多摩 - 若葉 - 初霜 - 阿武隈(一水戦旗艦:森少将) - 雷 - 浅香丸 - 崎戸丸 - 電からなる単縦陣で、その後方からベイリー - コグラン - リッチモンド - ソルトレイクシティ - デイル - モナガンという米艦隊単縦陣が追尾するという状況であった[55][56]

午前2時頃、艦隊最後尾にいた駆逐艦電が敵艦隊発見を第一水雷戦隊司令部(阿武隈)に報告したところ、同司令部は第二護衛船団(三興丸、薄雲)と判断して第五艦隊司令部に報告しなかったとされる[57]。阿武隈水雷長も、後方から接近する艦影を当初は別働隊の輸送船団と考えており、敵艦隊と判明して司令部は大慌てになったと回想している[58]。 3時5分(日の出一時間前、現地時間及びアメリカ側の記録では26日8時ごろ、以下UTC+9で記述)、リッチモンドのレーダーは日本艦隊を補足、マクモリス少将は輸送船をねらって艦隊を突進させるが、相手が重巡2隻を含むとは気が付いていなかった[59]

3時10分、浅香丸はマスト発見を報告、続いて阿武隈も米艦隊の存在を全軍に通報した[52]

3時20分、阿武隈は「米重巡オマハ型1・駆逐艦2」、続いて「ペンサコラ型軽巡1・駆逐艦2」を報告、細萱司令長官は日本艦隊は護衛してきた輸送船に電の護衛をつけて北西方向へ退避させ、那智以下は面舵反転、右旋回しながら南下してアメリカ艦隊に接近した[52]。これは米艦隊の退路(アリューシャン方面)を断つと同時に、風上側(当時北東の風)を占位して有利に攻撃をおこなう意図があった[60]

3時40分、互いが徐々に距離を詰め、ほぼ同時刻に射撃を始め、砲撃戦を主体に戦闘が展開された。アメリカ艦隊のマクモリス少将は迎撃する日本艦隊を無視して輸送船の撃滅を狙う[61]。細萱中将はこれを阻止するため突撃を下命するが、双方とも高速発揮が可能な巡洋艦部隊であり、互いに決定的なダメージを与えられなかった[61]

日本艦隊では、第一水雷戦隊の戦闘準備が遅れていた[62]。戦闘準備をしていなかったため、司令部は大慌てだったという[58]。また燃料節約のためボイラーを一缶のみに落としていたため速力を上げられず、32ノット発揮可能になったのは午前4時頃であったという[63]。このため重巡2隻(那智、摩耶)が戦闘の主軸を担った。那智水雷長によれば、予想外の敵艦隊出現により慌てた結果ヒューマンエラーが発生して砲塔の電源を切ってしまい[64]、主砲方位盤が使用不能になる[65]。そこで各砲塔での個別照準・個別射撃になったという[65]

日本艦隊は午前3時42分に砲撃を開始すると、那智は2-4分後に酸素魚雷8本を発射した[66]。摩耶は4時7分に魚雷を発射したが命中しなかった。那智も集中砲火を浴び、雷からは那智艦橋から黒煙が上がる光景が見られた[67]。ソルトレイクシティの第三・第四斉射が命中したとみられる[61]。那智水雷長は駆逐艦の砲弾だと回想する[68]。艦橋後部への命中弾で主砲射撃指揮装置が故障(那智水雷長の回想とは異なる)[65]、砲側照準となる[66]。摩耶でも射撃指揮の混乱から数分間射撃を中止した[66]。遠距離砲戦に終始する那智・摩耶に対し、三番艦多摩は米艦隊に接近する針路をとって主隊から分離、合同したのは6時30分であった[66]

対する米艦隊も、戦闘の中止を検討していた。トーマス・C・キンケイド提督はマクモリス少将に対し、5時間以内の航空支援と「退却戦を考慮する要あり」の通信を送る[69]。米艦隊は西へ向かったのち、戦闘を切り上げるべく南へ転針する[69]。好機とみた細萱司令長官は5時2分に全軍突撃を下令、ところが米艦隊の砲撃が一水戦旗艦阿武隈に集中し、同水雷戦隊は速度を落としてしまった[66]

一方でソルトレイクシティも重大な損傷を受けた。日本側重巡の主砲弾が中甲板を貫通、機関室に漏水が発生、機関が一時停止したため、旗艦リッチモンド及び駆逐艦4隻は煙幕を展開して日本艦隊の視界を遮った[69]。もしこの時に那智・摩耶を含めた全日本艦隊が突撃していれば、米艦隊は全滅していたと思われる[66]

形勢不利となった米艦隊は、これ以上の西方への逃走は日本軍勢力圏に近づいてしまうと判断し、南方へ転針する[66]。細萱司令長官は再び突撃命令を下令した[66]。だが日本艦隊は最短接近針路をとらず、米艦隊の後を追い掛けるような航路を選択したため、距離は一向に縮まらなかった[67]

午前6時、第一水雷戦隊は艦隊に接近、6時15分に魚雷を発射、その後阿武隈は6時37分に砲撃を開始、雷・初霜は6時40分に砲撃を開始した[70]。その後も追撃戦が展開されたが、アメリカ艦隊の駆逐艦に煙幕や雷撃で追撃を妨害された。さらに米艦隊は最後の弾着による水柱に向けて急転舵てんだをおこなう射弾回避運動を実施して、ほとんど命中弾を受けなかった[59]。しかし、ソルトレイクシティに那智の主砲弾が命中、ヒューマンエラーも重なって同艦の機械は一時停止し、海上に停止する[59]。那智の艦載偵察機一号機はこれに気付き無線で伝えたが、那智はこれを受信できなかった[71]

マクモリス少将は駆逐艦デイルに煙幕展開を命じ、また残りの3隻に魚雷攻撃を命じた[59]。米駆逐艦3隻は煙幕の中から飛び出して突撃し僚艦を掩護、これに那智は気をとられ、米重巡にとどめをさせなかった[66]

アメリカ艦隊の左舷側を航行する第一水雷戦隊は那智・摩耶に後続すべく90度右に変針し、アメリカ艦隊の右舷側に出ようとした[72]。一方、アメリカ艦隊は左に90度変針して東方へ退避をはかった。6時50分、マクモリス少将はソルトレイクシティ乗員のリッチモンドへの移乗を下令、ところが奇跡的に機械が動き出しソルトレイクシティは脱出に成功した<[66]。7時頃、細萱中将は旗艦那智の損害及び空襲、そして艦隊の砲弾不足・燃料不足を警戒し[73]、ソルトレイクシティの撃沈まであと一歩のところで撤退を決定、アッツ島への輸送も中止された[74]

結果編集

アッツ島沖海戦は、航空機や潜水艦の介入なしに行われた、太平洋戦争中の数少ない海上戦闘となった[74]。戦力は日本艦隊側が優勢だったが、アメリカ艦隊に接近できず遠距離砲撃のみとなり、双方とも決定的な損害を与えることができなかった[75][9]。 那智は20cm砲弾832発[注 1]、摩耶は主砲904発・高角砲9発・魚雷8本・艦上機1機を主砲爆風で破損投棄[77]、ソルトレイクシティは832発、日本艦隊は魚雷43本、米艦隊は魚雷5本をそれぞれ発射、特に魚雷は1本も命中しなかった[74]

戦略的にみると、米艦隊は「日本軍のアッツ島への増援を阻止する」という目標を達成した[74]。逆に日本側は、アリューシャン作戦の強行を主張していたはずであった細萱中将の誤った判断(敵空襲部隊の到着は海戦終了の遥か数時間後)、決定力不足(自艦のわずかな損害等を気にし今そこにあった勝利をみすみす逃してしまった)が災いとなってしまい、同時に主目的であったアッツ島陸軍守備部隊への増援・武器弾薬・物資等の補給が絶たれた[12]。4月上旬、第五艦隊は駆逐艦薄雲による輸送作戦を計画したが、悪天候等を理由に中止された[78][79]山崎保代部隊長のアッツ島上陸は当初計画から大きく遅れ[80]、伊号第31潜水艦によって4月18日着となった[81][82]。またアッツ島・キスカ島への補給は、当分の間、潜水艦や小規模輸送に限定することとした[83]。北方軍司令官の報告によれば、キスカ島の弾薬は0.6会戦分で糧食は八月末まで、アッツ島は弾薬一会戦分で糧食は四月末まで(北海守備隊参謀の報告によれば食い延ばして五月中旬まで)という状況であった[84]

本海戦の結果は、後のアッツ島の戦いに少なからず影響したとみられる[85]。米艦隊撃滅を期待していた大本営では、第五艦隊の「われ敵を東方に逸す。追撃をやめ幌筵に帰投す」の電報をうけ落胆したという[10]。侍従武官城英一郎大佐は昭和天皇に対する軍令部総長の奏上を聴いて、以下のように記録している[4]

一六〇〇、軍令部総長〔奏上〕。今朝〇三三〇、熱田島西方160′附近にて、輸送掩護中の5F(「那智」「摩耶」「多摩」d×4 特巡、T×3)は、ホノルル型重巡×1、オマハ型×1、d×4と遭遇、四時間に亘り交戦せしも、敵は煙幕にて避退。相当の損害を与へしも、遂に之を逸せり。惜しかりし、再びかかる好機には恵まれざるべし。 — 昭和18年3月27日土曜日、城英一郎著/野村実編『城英一郎日記』256頁

また本海戦は、スラバヤ沖海戦サマール島沖海戦と並び、「戦前『米軍の三倍』とまで言われていた日本海軍の遠距離砲撃の命中精度が実は米軍並み、下手をすればそれ以下」だった例として挙げられることがあり、一部で論議を呼んだ。

黛治夫[注 2]は砲術科の立場からアッツ島沖海戦を振り返り、第五艦隊の将校に問題があったと海軍反省会で指摘している。黛によれば、戦闘後の研究会で二神延三(海兵51、海戦時の摩耶砲術長)が、徹甲弾と通常弾を区別せずに発射していたと証言していた[86]。違う性質の弾頭を同時に発射するため、散布界が安定しなくなるという。また第五艦隊司令部が米軍機の空襲を恐れすぎて米艦隊に接近しなかったこと。さらに、日本海軍は平素の射撃訓練において主砲方位盤が破損・故障したことを想定した砲側照準訓練(各砲塔の照準器を用いる)を軽視しており、従って本海戦において那智の方位盤が損傷(もしくは故障)[65]すると何も出来なくなったという、訓練上の欠陥も指摘している[87]。摩耶は接近するアメリカ巡洋艦と遠ざかるアメリカ巡洋艦を取り違えた[88]。さらに高角砲のためのデータを主砲砲術長に送り、残弾があったにも関わらず全弾撃ち尽くしたと勘違いするという失態を犯した[89]

同じく阿武隈以下一水戦艦艇も敵艦隊の予想進路を間違え、逆に発射運動のため敵から遠ざかるという失敗を犯した[90]。2隻の輸送船の護衛に回った電の詳報は戦闘に参加した他の第五艦隊各艦の消極的姿勢を強く非難している[91]

海戦後の4月1日、細萱中将は第五艦隊司令長官(北方部隊指揮官)を解任され、後任として河瀬四郎中将が着任した[78][92](ただし細萱と河瀬の人事は、海戦前の3月17日に内定済み)[93][94]。 また第一水雷戦隊司令官森友一少将は6月初旬に脳溢血で倒れ[95]、後任として木村昌福少将が6月8日附で第一水雷戦隊司令官に任命された[96][97]

同年の1943年(昭和18年)2月に日本軍のガタルカナル島撤退が行われ[98]ソロモン諸島の戦いは1つの山場を越え、次にニュージョージア島の周辺で日本軍とアメリカ軍の攻防が予想される状況であった[11][99]。そのため、アメリカ領を初めて占領されたアメリカ軍にとっては意義のあるアリューシャン方面の戦いの前哨戦にあたる海戦であったが、日米の双方ともに重要視されなかった。政略的にみると、アメリカ領土の一部を占領されている事に対する国民感情、ソ連が対日参戦した場合に飛行機の中継基地にしたいとの思惑から、米軍はアッツ島・キスカ島の攻略作戦を発動する[100]。5月12日以降の戦闘により、山崎部隊長率いるアッツ島の日本軍守備隊は5月29日に玉砕した[101]アッツ島の戦い[102][103]キスカ島に対してはケ号作戦(キスカ島撤退作戦)が実施され、日本軍は7月末にキスカ島から撤退した[101][104]。アメリカ軍はコテージ作戦を発動し、無人になっていたキスカ島を奪回した[105]。その後、太平洋戦争終結まで同方面で大きな戦闘が起きることはなかった[106]

外山三郎(海軍少佐、駆逐艦時津風航海長等、防衛大学校教授)はアッツ島沖海戦の細萱中将と、キスカ島撤退作戦の木村少将を対比して「軍隊は即指揮官なりということを改めて痛感させられる。すなわち弱将のもとでは勝利は覚束なく、一度勇将が現われれば、霧が晴れるごとく戦場の問題の多くは、難なく解決されるのである」と結んでいる[107]

参加艦艇編集

日本海軍
アメリカ海軍

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 『図説海軍水雷戦隊(986)』178頁では、那智(砲弾709発、魚雷16本)、摩耶(砲弾904発、魚雷8本)、日本艦隊合計43本発射と記述する[76]
  2. ^ 太平洋戦争時、砲術科の黛治夫大佐は水上機母艦秋津洲艦長、重巡利根艦長等を歴任した。

出典編集

  1. ^ a b 戦史叢書66 1973, pp. 414-417アッツ沖海戦
  2. ^ a b #モリソンの太平洋海戦史218頁
  3. ^ 戦史叢書102 1980, p. 170a昭和18年(1943年)3月27日/アッツ島沖海戦(アッツ島第2次輸送船団部隊〈第5艦隊掩護、輸送船3隻〉、アッツ島西方海面で米艦隊と遭遇し、第5艦隊4時間にわたり米艦隊を追撃したが決定的戦果なく輸送断念、米側は「コマンドルスキー諸島海戦」と呼称)。
  4. ^ a b 城英一郎日記 256頁〔 (昭和18年)三月二七日(土)曇 〕
  5. ^ 大本営海軍部 1982, pp. 129-132「アッツ島沖海戦、惜しくも米艦隊を逸す」
  6. ^ 図解海軍水雷戦隊 1996, p. 178aアッツ島沖海戦
  7. ^ 図説太平洋海戦史第3巻 1995, p. 79.
  8. ^ 艦長たち続編 1984, pp. 188-192「慌てて敵艦隊を逃がす」
  9. ^ a b 戦場の将器 1997, p. 147.
  10. ^ a b 大本営海軍部 1982, p. 130.
  11. ^ a b c d 戦史叢書29 1969, p. 405.
  12. ^ a b c d e f g 戦史叢書66 1973, p. 415.
  13. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 407-408.
  14. ^ 戦史叢書102 1980, p. 170c昭和18年(1943年)3月30日/第5艦隊、アッツ島沖海戦後の北東方面の輸送は船団輸送を霧の季節(7月ころ)まで断念し、その間は潜水艦輸送・応急的艦艇輸送・漁船の集団輸送を併用する方針に変更。
  15. ^ 図説太平洋海戦史第3巻 1995, pp. 84a-86[解説]二の(二)アッツ島沖海戦失敗の影響
  16. ^ 戦史叢書102 1980, p. 125昭和17年(1942年)6月8日/北海支隊はアッツ島、海軍陸戦隊はキスカ島を占領。
  17. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 278-279「長期確保に対する防衛計画と防備実施の状況」
  18. ^ 戦史叢書29 1969, p. 275.
  19. ^ 戦史叢書102 1980, p. 129昭和17年(1942年)7月5日/水上機母艦千代田、運送船アルゼンチナ丸(陸戦隊・特殊潜航艇・水上戦闘機等搭載)キスカ入港、第18駆逐隊キスカ港外で雷撃を受ける。
  20. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 272-273.
  21. ^ 戦史叢書29 1969, p. 274.
  22. ^ a b 海軍駆逐隊 2015, pp. 310-311.
  23. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 337-338.
  24. ^ 戦史叢書29 1969, pp. 363-367「アッツ島の再占領と北海守備隊の編成発令」
  25. ^ 戦史叢書102 1980, p. 147昭和17年(1942年)10月30日/北千島要塞歩兵隊アッツ島に上陸(第2次上陸11月12日、増強部隊上陸11月25日)。
  26. ^ 戦史叢書66 1973, pp. 137-139西部アリューシャン方面の防衛問題
  27. ^ a b 戦史叢書66 1973, p. 149現地陸海軍協定と「ア」号輸送
  28. ^ ニミッツの太平洋海戦史 1962, pp. 154a-160アッツとキスカの奪回
  29. ^ 戦史叢書66 1973, p. 138.
  30. ^ 大本営海軍部 1982, pp. 126-128「アリューシャンに暗雲」
  31. ^ ニミッツの太平洋海戦史 1962, p. 154b.
  32. ^ 戦史叢書29 1969, p. 404.
  33. ^ 重巡摩耶 2002, p. 170.
  34. ^ 戦史叢書66 1973, pp. 139-144北東方面統帥機構の改編と防備の強化
  35. ^ 戦史叢書102 1980, p. 163昭和18年(1943年)2月5日
  36. ^ a b 戦史叢書66 1973, pp. 141-143.
  37. ^ 戦史叢書66 1973, pp. 146-147陸海軍中央協定の問題点
  38. ^ 戦史叢書102 1980, p. 164a昭和18年(1943年)2月13日/大本営、北海守備隊を編成改正し兵力を増強。
  39. ^ 戦史叢書66 1973, pp. 144-145北方軍の性格と北海守備隊の増強
  40. ^ 戦史叢書66 1973, pp. 145-146北海守備隊の隷属問題
  41. ^ 戦史叢書102 1980, p. 164b昭和18年(1943年)2月15日/北方軍・第5艦隊・大湊警備隊間にアッツ・キスカの飛行場設定及び軍需品輸送等に関する現地陸海軍協定締結。
  42. ^ 戦史叢書102 1980, p. 165a昭和18年(1943年)2月19日/米水上艦艇、アッツ島砲撃。
  43. ^ 戦史叢書102 1980, p. 165b昭和18年(1943年)2月20日/陸軍輸送船あかがね丸、アッツ島入港直前に米艦隊に撃沈される(2月28日、海軍の北方部隊はアッツ島輸送を集団輸送方式に改む)。
  44. ^ 重巡摩耶 2002, p. 171.
  45. ^ 戦史叢書29 1969, p. 442.
  46. ^ 日本海軍の栄光 1983, pp. 18-19.
  47. ^ 戦史叢書102 1980, p. 167昭和18年(1943年)3月10日/アッツ島輸送船団(3隻、水上戦闘機6機・水偵3機・人員342名・軍需品約700屯搭載)、北方部隊主力の掩護下にアッツ島揚陸に成功(~13日幌筵帰着)。
  48. ^ 城英一郎日記 252頁〔(昭和18年)三月一四日(日)(中略)○5F〔の〕熱田島輸送船は、幌筵帰着 〕・〔(昭和18年)三月一五日(月)(中略)○キスカ方面、敵空襲、5Fはアッツに相当物件を揚陸せり。〕
  49. ^ 太平洋海戦史4 1985, p. 180.
  50. ^ 戦史叢書102 1980, p. 169昭和18年(1943年)3月22日/アッツ島第2次輸送船団(北方部隊主力護衛、輸送船3)、幌筵出港(27日アッツ海戦生起のため途中から帰還)。
  51. ^ a b c #モリソンの太平洋海戦史219頁
  52. ^ a b c 図説太平洋海戦史第3巻 1995, pp. 80b-81.
  53. ^ 太平洋海戦史4 1985, p. 179「アッツ島沖海戦まで」
  54. ^ 大本営海軍部 1982, p. 131重巡妙高と記述するが、摩耶の誤認。
  55. ^ 図説太平洋海戦史第3巻 1995, pp. 80a-81第二図 アッツ島沖海戦合戦図
  56. ^ 雷海戦記 2014, p. 299「アッツ島沖海戦行動図(0507ごろの態勢)」
  57. ^ 雷海戦記 2014, p. 297.
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  62. ^ 図説太平洋海戦史第3巻 1995, pp. 82a-83[解説]二の(一)戦闘記録]
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  79. ^ 戦史叢書102 1980, p. 170b昭和18年(1943年)3月30日/海軍北方部隊指揮官、「雷・薄雲」の両駆逐艦にアッツ強行輸送を下令(4月2日出撃したが荒天のため不成功、4月8日再行したが敵機の触接をうけ帰投)。
  80. ^ 戦史叢書102 1980, p. 173昭和18年(1943年)4月18日/北海守備第2地区隊長山崎保代大佐、アッツ島到着。
  81. ^ 太平洋海戦史4 1985, p. 182「(三)アッツ島沖海戦失敗の影響」
  82. ^ 戦史叢書29 1969, p. 453.
  83. ^ 戦史叢書102 1980, p. 170d昭和18年(1943年)3月30日
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  88. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 173-174.
  89. ^ 海軍艦隊勤務 2001, p. 188.
  90. ^ 戦史叢書29 1969, p. 512.
  91. ^ #電詳報其弍(5)1712 pp.16-17〔 七.所見 (イ)近迫攻撃ニ缺クルモノアリ (ロ)射撃ニ関シ更ニ研究ノ余地大ナリ斯カル戰斗ヲ以テセバ晝間同等程度ノ兵力ニテハ敵ニ打撃ヲ與フルコト不可能ナリ (ハ)水雷戦隊ノ遠距離少数射線発射又研究ノ余地大ナリ (ニ)積極的戦法ニ缺クルモノ大ナリ 〕
  92. ^ 戦史叢書102 1980, p. 171昭和18年(1943年)4月1日/第5艦隊司令長官交代(細萱戊子郎中将→河瀬四郎中将)。
  93. ^ 城英一郎日記 253頁〔 (昭和18年)三月一七日(水)晴 一五〇〇~一五四五、海相内奏。鮫島〔具重〕8F、小林〔仁〕4F、細萱〔戊子郎〕、三川〔軍一〕出仕、井上〔保雄〕大警、河瀬〔四郎〕5F(以下略) 〕
  94. ^ 城英一郎日記 258頁〔 (昭和18年)四月一日(木)曇、稍寒し(略)午後、小林〔仁〕中将(長官)/4F、井上〔保雄〕中将〔大湊警備府〕(大警長官)親補式。他に、鮫島〔具重〕8F、河瀬〔四郎〕5F長官、高木〔武雄〕高雄警備府長官親補せらる。〔久邇宮〕朝融王殿下、一九聯空司令官。(以下略)〕
  95. ^ 日本海軍の栄光 1983, pp. 64-67.
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  104. ^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 121-124「敵の失策をついて避退成功」
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参考文献編集

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  • 池田清野村実ほか、近現代史編纂会・編『海軍艦隊勤務』新人物往来社、2001年。ISBN 4-404-02914-4
  • 石橋孝夫「海戦史を漁る アッツ島沖海戦」『世界の艦船』No.272、海人社、1979年8月、 139 - 145頁。
  • 元「阿武隈」主計長海軍主計少佐 市川浩之助『キスカ 日本海軍の栄光』コンパニオン出版、1983年2月。ISBN 4-906121-29-2
  • 生出寿「第十二章―アッツ・キスカ占領と撤収開始」『連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1993年5月。ISBN 47698-2009-7
    (409-418頁)獅子奮迅 <駆逐艦「皐月」艦長・杉山忠嘉中佐の証言>(杉山は、アッツ島沖海戦時の那智水雷長)
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社、1984年4月。ISBN 4-7698-0231-5
    (184-200頁)「独断反転」<駆逐艦「榧」艦長・岩淵悟郎少佐の証言>(岩淵は、アッツ島沖海戦時の阿武隈水雷長)
  • 城英一郎著『侍従武官 城英一郎日記』野村実・編、山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。
  • 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0
    • (302-312頁)戦史研究家佐伯玲治『北方から南方へ第二十一駆逐隊の栄光 初春、子日、初霜、若葉。第一水雷戦隊の初春型駆逐艦四隻の転戦譜
  • 『[証言録] 海軍反省会』3、戸高一成 編、PHP研究所、2012年2月。ISBN 978-4-569-80114-8
  • 外山三郎「第八章 北方を明渡したアッツ島沖海戦」『敗因究明に主論をおく太平洋海戦史 4』(ガダルカナル海戦、ソロモン・ニューギニア海空戦及びアッツ島沖海戦)、教育出版センター、1985年12月。ISBN 4763268031
  • 外山三郎「第八章 アッツ島沖海戦」『図説 太平洋海戦史 写真と図説で見る日米戦争』第3巻、光人社、1995年9月。ISBN 4-7698-0711-2
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(訳)、恒文社、1962年12月。
  • 橋本衛『奇蹟の海から 特型駆逐艦水兵物語』光人社、1984年3月。ISBN 4-7698-0230-7
    橋本は駆逐艦「雷」砲術員として本海戦に参加。
  • 橋本衛『特型駆逐艦「雷」海戦記 一砲術員の見た戦場の実相』光人社〈光人社NF文庫〉、2014年8月(原著1999年)。ISBN 978-4-7698-2255-4
  • 林譲治(文)、吉原昌宏(画)『コンバットAtoZシリーズ4 図解 海軍水雷戦隊』並木書房、1996年9月。ISBN 4-89063-073-2
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8
    当時「阿武隈」副長・海軍中佐斎藤弥吉『ケ号作戦に燦然たる「阿武隈」の戦功 第一水雷戦隊旗艦として有名を馳せた長良型6番艦の航跡
  • 『北東方面海軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社戦史叢書29〉、1969年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<6> 昭和十八年六月まで』第66巻、朝雲新聞社、1973年6月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。
  • サミュエル・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』大谷内一夫(訳)、光人社、2003年8月。ISBN 4-7698-1098-9
  • 山本親雄「第4章 攻勢防御ならず」『大本営海軍部』朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1982年12月。ISBN 4-257-17021-2

関連項目編集