アデン危機(アラビア語:ثورة 14 أكتوبر(10月14日革命))は、1963年12月10日1967年11月30日にかけて、アデン保護領英語版南アラビア連邦で行われた、南イエメンイギリスから独立した戦争である。 ナセル大統領率いるエジプトが、汎アラブ主義の為に独立軍を支援した。 また、ソ連も独立軍を支援した。

アデン危機
英語:Aden Emergency
アラビア語:ثورة 14 أكتوبر(10月14日革命)
South Yemen in its region.svg
アデン保護領英語版の位置
1963年12月10日1967年11月30日
場所南アラビア連邦、アデン保護領
結果 イギリスの撤退
イエメン人民民主共和国(南イエメン)の独立
衝突した勢力

イギリス帝国の旗 イギリス帝国

Flag of the Popular Front for the Liberation of the Occupied Arabian Gulf.svgイエメン国民解放戦線英語版(NLF)
占領下の南イエメン解放戦線英語版(FLOSY)

支援組織
エジプトの旗 エジプト
イエメンの旗 イエメン・アラブ共和国(北イエメン)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
指揮官
イギリスの旗 ハロルド・ウィルソン首相
イギリスの旗マイケル・レ・ファヌ英語版海軍大将
イギリスの旗マイケル・ビーサム英語版空軍准将
イギリスの旗コリン・ミッチェル英語版陸軍中佐
Flag of the Popular Front for the Liberation of the Occupied Arabian Gulf.svgカーターン・ムハンマド・アル=シャアビー英語版
Flag of the Popular Front for the Liberation of the Occupied Arabian Gulf.svgアブドゥッラー・アル・アスナグ
エジプトの旗 ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領
戦力
イギリス軍:最高3万人[1](1967年11月時点で3500人)[2]
南アラビア連邦軍:1万5000人[3]
被害者数
イギリス
死亡:90~98人
負傷:510人[4][5]
南アラビア連邦
死亡:17人
負傷:58人
死亡:382人
負傷:1714人[6]
死亡合計:2096人[7]

背景編集

イギリス英領インドへの海路に発生する海賊対策の拠点として、アデンを占領していた。

1869年スエズ運河が開通すると、給炭港として重要性を増した。

1947年インド独立後は、イギリスにとっての重要性は低下した。

1956年7月26日エジプトナセル大統領がスエズ運河を国有化した。

10月29日イギリスフランスイスラエルがエジプトに侵攻し、第二次中東戦争が発生した。

11月2日アメリカソ連が共同で3国に圧力をかけ、撤退させた。

1958年、エジプトがシリアと連合し、アラブ連合共和国を建国した。

1961年、シリアがアラブ連合共和国から脱退し、連合は事実上消滅した。

NLFとFLOSYの誕生編集

1963年以降、様々な政治目標を持つ反イギリスゲリラが活動していたが、イエメン国民解放戦線英語版(NLF)と占領下の南イエメン解放戦線英語版(FLOSY)の2大組織に集約していった。 NLFとFLOSYはイギリスだけでなく相互に攻撃し合っていた。

闘争開始編集

1963年12月10日、NLFがアデンのコルマクサル空港で、ロンドンに戻る途中のイギリスのアデン高等委員会のケネディ・トレヴァスキスを手榴弾で攻撃した。 この攻撃で巻き込まれた1人が死亡し、50人が負傷した。 同日、アデンに緊急事態宣言が出された。

 
1965年のアデン

その後のNLFとFLOSYはイギリスへの攻撃を強め、コルマクサル王立空軍基地英語版への攻撃では、イギリス人の子供が1人死亡し、4人負傷した。 ゲリラは非番のイギリス人軍人や警察官を中心に殺害した。 殆どの攻撃はアデンの古いアラブ人地区であるクレイター英語版で行われた。 イギリス軍はNLFやFLOSYによってクレイターに武器が運び込まれるのをダラ道で阻止しようとしたが、あまり効果が無かった。 イギリス軍にも犠牲者は出たが、組織間抗争の為ゲリラの被害は遥かに大きかった。

1964年、地上作戦を行う為に第24歩兵旅団英語版が到着した。 彼らは独立戦争で敗北するまでアデンに留まった。

1965年までに、コルマクサル王立空軍基地では9つの飛行中隊が作戦を行っていた。 この中にはヘリコプターホーカー ハンターから成る輸送部隊が含まれた。 ゲリラはRP-3ADENで反撃した。

アデン街頭抵抗運動編集

 
アデン街頭抵抗運動
 
1967年のアデン

1967年1月19日~20日、NLFはアデン街頭抵抗運動英語版を仕掛けた。 アデン警察の手には負えなかった為、高等委員会のリチャード・ターンブル卿はイギリス軍を派遣して抵抗運動を蹴散らした。 しかし、すぐにFLOSY派の抵抗運動がそれに代わった。 抵抗運動とイギリス軍の戦闘は2月まで続いた。 イギリス軍は40回発砲し、ゲリラは60発の手榴弾で応えた。 飛行中のアデン航空英語版ダグラス DC-3が戦闘に巻き込まれ、墜落し乗客が全員死亡した。

アラブ人警察官の蜂起編集

1967年6月、第三次中東戦争が発生し、アデンの状況は更に悪化した。

6月20日、エジプトのナセル大統領の「イギリスが戦争でイスラエルを支援した」との主張に呼応した南アラビア連邦の何百人もの警察官が、イギリスに反旗を翻した(en:Arab Police mutiny)。 この蜂起はアデン武装警察にも広がり、22人のイギリス軍を殺害し、ヘリコプターを撃墜し、クレイターを獲得した。 イギリス人がアデンから避難する様子が、「不毛の岩から生ける石まで」と記録されている。

クレイターの戦い編集

クレイターの戦い英語版の結果イギリス軍は撤退したが、その間にイギリス海兵隊45コマンド英語版が高所からアラブ人兵士を10人射殺した。 しかし、アラブ人兵士は約400人でクレイターを防衛した。 NLFとFLOSYの兵士は市街地で銃撃戦を始めたが、放火や強盗、殺人等も発生した。 イギリス軍はクレイターの主要な出口を2つ封鎖した。 イギリス軍はシラ島のオスマン要塞から狙撃したが、装甲車の砲撃によって狙撃手は殺害された。

7月、スコットランドのコリン・ミッチェル陸軍中佐率いるアーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダーズ英語版がクレイターを制圧した。

イギリス軍の撤退編集

11月下旬、度重なるNLFゲリラの攻撃により、イギリス軍はアデンから撤退した。 この撤退はイギリスのハロルド・ウィルソン首相の計画より早かった為、後継政府を決める事が出来なかった。 その後、NLFはイエメン人民民主共和国(南イエメン)を建国した。

独立後編集

アデンのイギリス海軍基地は閉鎖された。

 
第1女王竜防衛隊(1967年・アデン)
 
警戒するイギリス兵(1967年・アデン)

脚注編集

  1. ^ Wars and Global Conflict: Confrontations and Hostilities”. Modern-Day Commando. 2014年6月26日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2014年6月26日閲覧。
  2. ^ Aden Emergency”. nam.ac.uk. 2016年10月10日閲覧。
  3. ^ ADEN EMERGENCY PSYOP 1963–1967”. PsyWar.Org. 2016年10月10日閲覧。
  4. ^ Roll of Honor
  5. ^ ADEN EMERGENCY PSYOP 1963–1967”. PsyWar.Org. 2016年10月10日閲覧。
  6. ^ ADEN EMERGENCY PSYOP 1963–1967”. PsyWar.Org. 2016年10月10日閲覧。
  7. ^ J.E.Peterson, British Counter-Insurgency Campaigns and Iraq. August 2009: p.12.

参考文献編集

  • Laffin, John (1986). Brassey's Battles: 3,500 Years of Conflict, Campaigns and Wars from A-Z. London: Brassey's Defence Publishers. ISBN 0080311857 
  • Naumkin, Vitaly, Red Wolves of Yemen: The Struggle for Independence, 2004. Oleander Press. ISBN 0-906672-70-8
  • Walker, Jonathan, Aden Insurgency: The Savage War in South Arabia 1962–67 (Hardcover) Spellmount Staplehurst ISBN 1-86227-225-5

外部リンク編集