アナタハンの女王事件

アナタハンの女王事件(アナタハンのじょおうじけん)とは1945年から1950年にかけて太平洋マリアナ諸島に位置する孤島アナタハン島で発生した、多くの謎が残る死亡事件。別名「アナタハン事件」「アナタハン島事件」。

アナタハンの女王事件
残留日本人救出のために島に接岸するボート(1950年6月)
残留日本人救出のために島に接岸するボート(1950年6月)
場所 現:北マリアナ諸島の旗 北マリアナ諸島
マリアナ諸島 アナタハン島
座標
日付 1945年 - 1951年6月
概要 孤島での共同生活中に争いが起こり、後に殺し合いに発展。サバイバル化。
原因 島内ただ一人の女性をめぐる闘争
武器 拳銃ナイフ
死亡者 行方不明者と合計で13名(女性絡みが3名、他は過酷な生活環境による過労死)
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アナタハン島の全景

目次

概要編集

 
比嘉和子(1952年)

日本の信託統治領であったサイパン島から北方約117キロに位置するアナタハン島は、東西の長さ約9キロ・幅3.7キロの小島で、最高点は海抜788メートルというなだらかな小島であった。この太平洋の孤島アナタハン島で、この島に派遣された32人の男と1人の女「比嘉和子[1]」と共同生活していくうちに、男性達がその女性を巡って争うようになり、男性が次々に行方不明になったり殺害されたりした。

第二次世界大戦末期に、南洋興発株式会社社員の妻である比嘉和子、同社員の男性上司、帝国陸海軍の軍人・軍属31人の計32人(日本人)は、この島に派遣され全南洋開発からの物資を受けつつ自給自足の生活で共同生活を送っていた。しかし、そのうち全員が1人の女性を巡って争うようになり、1945年8月の終戦までに行方不明者が2人出た。

この島に残留する日本人がいることを知ったアメリカ軍は、終戦後に拡声器で島の住人達に日本の敗戦を知らせたが、アナタハン島の日本人は信じず島を離れようとしなかった。その後アメリカ軍は、サイパン島一帯の信託統治の委譲などに手間を取られ、この島から離れようとしない日本人たちを構うことを忘れて行った。

1946年8月、彼らは島内に墜落したアメリカ軍のボーイングB-29の残骸を発見し、残骸の中から発見された4丁の拳銃を組み変え、2丁の拳銃が作られた。これ以降、銃の存在が権力の象徴となり、以来女性を巡って、男性達の間で公然と殺し合いが行われるようになった。

この後、1950年6月、アメリカ船の救出によって女性が脱出し、翌1951年6月には生き残った男性19人も救出された。この時点までに死亡した男性は行方不明を含め13人にのぼった。救出された人々は同年7月7日には日本本土に上陸して復員手続きを終えて解散したが、一部は同日に参議院引揚特別委員会に招かれて、懇談会を行ったという[2]

一連の怪事件がその後大々的に報道され、日本国内で「アナタハンブーム」となり女性のブロマイドがとても売れた。また、「男を惑わす女」としても報道され、大衆の好奇の目に晒されたばかりか映画化もされている。

孤島の上に、戦中から終戦の混乱と、その後のアメリカ信託統治への移行という、統治の空白地帯で発生した事件のため、現在でも死亡の原因について不明な点がある。

渡邉恒雄は当時週刊のタブロイド紙であった読売ウイークリーの若手記者時代に、アナタハンで暮らす日本人の情報をいち早くつかんでいた。当てもなく訪ねた三浦半島城ヶ島の漁師から偶然仕入れた話だったが、デスクが読売新聞に報告せず、ウイークリーの特ダネにしようとした結果、同紙が出る前日に毎日新聞が同じ話を社会面のトップで報じたため、特ダネを逃している[3]

関連映画編集

関連書籍編集

脚注編集

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  1. ^ 生年は1922年ないし1924年とされており、没年は1972年ないし1974年とされている。但し、享年は49(数え年51)と一致している。ノンフィクション作家前坂俊之は生没年を(1922-1972)としている。1944~45年では「当時24歳」と表記されているものが散見される。
  2. ^ 「孤島におくった七年 アナタハンから20名帰る 引揚復員」『朝日新聞』1951年7月7日朝刊3面
  3. ^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、91-92頁

関連項目編集

外部リンク編集