アニェス・ダンティオケ

アニェス・ダンティオケ(フランス語:Agnès d'Antioche, 1154年ごろ - 1184年ごろ)またはアニェス・ド・シャティヨン(Agnès de Châtillon)は、ハンガリー王ベーラ3世の最初の妃。1848年ハンガリー革命の際に偶然アニェスの墓が無傷の状態で発見され、これが愛国的デモの機会を提供することとなった。アニェスはその遺体が調査された唯一の12世紀のハンガリー王妃であり、その容姿が復元されている。

アニェス・ダンティオケ
Agnès d'Antioche
ハンガリー王妃
Chatillon Anna arcrekonstrukció.jpg
在位 1172年3月4日 - 1184年ごろ
戴冠 1173年1月13日

出生 1154年ごろ
Attributed Coat of Arms of the Principality of Antioch.svg アンティオキア公国アンティオキア
死去 1184年ごろ
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国セーケシュフェヘールヴァール
埋葬 ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国セーケシュフェヘールヴァール、聖イシュトヴァーン大聖堂
配偶者 ハンガリー王ベーラ3世
子女 イムレ
マルギト
アンドラーシュ2世
シャラモン
イシュトヴァーン
コンスタンツィア
家名 シャティヨン家
父親 ルノー・ド・シャティヨン
母親 アンティオキア女公コンスタンス
宗教 キリスト教カトリック
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生涯編集

アニェスはルノー・ド・シャティヨン[1]アンティオキア女公コンスタンス[2]の娘である。

アニェスの生年月日は不明であるが、1153年5月に両親が秘密裏に結婚してまもなく生まれたとみられ、1154年を生年とすることが多い[3]。洗礼の際にアニェスの名がつけられたと考えられる[4]

父ルノーは1160年11月にムスリムに捕らえられ、15年間アレッポに監禁されていた。母コンスタンスは1163/7年ごろに死去し、東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスと結婚していた異父姉マリーがいるコンスタンティノープルを訪れた[5]。皇帝マヌエル1世の求めにより、アニェスはハンガリー王子ベーラと結婚した。ベーラは1166年にマヌエル1世の息子アレクシオスが生まれるまで、マヌエル1世の娘マリア・コムネナと婚約していた。アニェスとベーラの結婚式がいつ行われたかは不明であるが、1168年ごろで1172年以前であり[6] and no later than 1172.[7]1169年9月[8]または1171年3月[9]と考えられている。

アニェスは東ローマの宮廷で「アンナ」と名を変えた。ハンガリーの記録では常にアニェスはアンナの名で現れるが[10]、当時アニェスの名がハンガリーでは珍しかったためと考えられる。

アニェスとベーラはエルサレムに巡礼し、そこで聖ヨハネ騎士団に寄付をおこなった。1172年]3月4日イシュトヴァーン3世が死去し、同年夏にベーラはベーラ3世としてハンガリー王位につき、夫妻でハンガリーに移った。アニェスはベーラ3世と共に1173年1月13日セーケシュフェヘールヴァールの聖イシュトヴァーン大聖堂で戴冠を受けた[11]

アニェスの影響により、ハンガリーにフランスの文化様式が広まった[12]

また、アニェスは先祖のつながりからブルゴーニュのシトー会修道士と連絡を取ることができ、ハンガリーで初めてのシトー会修道士がブルゴーニュから移住した。1182年にハンガリーで最初に創建されたシトー会修道院は、実際にポンティニーおよびアニェスの先祖ドンジー家の所領の近くにあった3つの修道院と深いかかわりを持っていた[13]

アニェスの没年は、同時代のどの記録にも見られないが、1184年[14]かそれより少し前[15]に死去したと考えられている。アニェスはセーケシュフェヘールヴァールの聖イシュトヴァーン大聖堂に埋葬され、その遺体は19世紀後半に大聖堂の遺構で発掘された際に考古学者により確認された。その後、遺体はブダペストマーチャーシュ聖堂に夫ベーラ3世と共に改葬された。

子女編集

少なくとも6人の子女をもうけた[16]

脚注編集

  1. ^ Bernard Hamilton, The Leper King and His Heirs: Baldwin IV and the Crusader Kingdom of Jerusalem, (Cambridge University Press, 2000), 104-105.
  2. ^ Guida Myrl Jackson-Laufer, Women Rulers Throughout the Ages: An Illustrated Guide, (ABC-CLIO, 1999), 104.
  3. ^ M. Wertner: Az Árpádok családi története, Nagy-Becskerek 1892, p. 359; History of Hungary, ed. E. Pamlenyi, London 1975, p. 60, 608; J. Louda, M. MacLagan: Lines of Succession: Heraldry of the Royal Families of Europe, ed. II, London 1999, table 89.
  4. ^ 年代記作者オーブリー・ド・トロワ=フォンテーヌはコンスタンスとルノーの3人の娘のうちの1人でハンガリー王ベーラと結婚した娘の名をアニェスとしている(Chronica Albrici Monachi Trium Fontium [in:] Monumenta Germaniae Historica, XXIII, Hannover 1874, pp. 849–850)。一方、Lignages d'Outre-Merから見つかりバチカン図書館に収蔵されている断簡によると(Vaticanus Latinus 7806, Il parentado de Beimonte principe 9, fol. 172)、コンスタンスとルノーの娘は2人だけで、その名はジャンヌとマリーとしている。
  5. ^ S. Runciman: A History of the Crusades, t. II, Harmandsworth 1978, p. 365.
  6. ^ W. Dworzaczek: Genealogia, Warsaw 1959, table 84.
  7. ^ V. ö. Városy: Antiochiai Anna királyné, "Századok. A Magyar Történelmi Társulat Közlönye", 1886, p. 866.
  8. ^ P. Gautier: Les lettres de Grégoire, higoumène d'Oxia, "Revue des études byzantines", 31–32, 1973, p. 206: 「東ローマ皇帝に後継者が生まれた後、皇帝は娘マリアとアレクシオス(後のベーラ3世)との婚約を破棄し、その代わりに皇后マリーの妹とアレクシオスを結婚させた。」
  9. ^ L. Garland, A. Stone: Maria Porphyrogenita, daughter of Manuel I Comnenus [in:] De Imperatoribus Romanis: An Online Encyclopedia of Roman Rulers and Their Families 2006 [2015年3月30日閲覧]: アニェスは婚約した時に兄ボエモン3世と共にコンスタンティノープルを訪れた。
  10. ^ M. Wertner: Az Árpádok családi története, Nagybecskerek 1892, p. 358.
  11. ^ A magyar királyok koronázótemploma in: www.szikm.hu Archived September 5, 2013, at the Wayback Machine. [retrieved 30 March 2015].
  12. ^ G. Lukács: La Hongrie et la civilisation, Paris 1929, p. 361; A. Echols, M. Williams: An annotated index of medieval women, New York-Oxford 1992, p. 53; G. Moravcsik: Byzantium and the Magyars, Budapest–Amsterdam 1970, p. 129; G. Klaniczay: The chaste prince and the athleta patriae [in:] G. Klaniczay: Holy Rulers and Blessed Princesses. Dynastic Cults in Medieval Central Europe, Budapest 2002, p. 184. しかし多くの文献によると、ベーラ3世は東ローマ帝国のマヌエル1世の宮廷で過ごした後に西欧風にならうようになったという。
  13. ^ M. M. de Cevins: Les implantations cisterciennes en Hongrie médiévale [in:] Unanimité et diversité cisterciennes, ed. Nicole Bouter, Saint-Étienne 2000, pp. 458–459; F. L. Hervay, Ciszterciek [in:] G. Kristo (ed.): Korai magyar térténeti lexikon, Budapest 1994, p. 473, 479-480.
  14. ^ W. Dworzaczek: Genealogia, Warszawa 1959, table 84; A. Echols, M. Williams: An annotated index of medieval women, New York-Oxford 1992, p. 53.
  15. ^ M. Wertner: Az Árpádok családi története, Nagy-Becskerek 1892, p. 356; Ildikó Hankó: Királyaink tömegsírban, 2004 - year 1183.
  16. ^ Ildikó Hankó: Királyaink tömegsírban, 2004においては、名前未詳の7人目の子をアンナとしている。K. Éry, A.Marcsik, J. Nemeskéri, F. Szalai: Embertani vizsgálatok III. Béla és Antiochiai Anna földi maradványán [in:] 150 éve történt? III. Béla és Antiochiai Anna sírjának fellelése, Székesfehérvár 1999, p. 11.
  17. ^ Wihoda 2015, p. 299.
  18. ^ W. Dworzaczek, Genealogia, Warsaw 1959, table 84.

参考文献編集

  • Korai Magyar Történeti Lexikon (9-14. század), főszerkesztő: Kristó Gyula, szerkesztők: Engel Pál és Makk Ferenc (Akadémiai Kiadó, Budapest, 1994)
  • Wihoda, Martin (2015). Vladislaus Henry: The Formation of Moravian Identity. BRILL. ISBN 978-9004303836.