アブドゥッラフマーン (モンゴル帝国)

モンゴル帝国の官人

アブドゥッラフマーン(奥都剌合蛮、عبد الرّحمن 、Abd al-Rahmān、Abdur-Rahman、? - 1246年)は、モンゴル帝国の官人。アブドゥル・ラフマーンAbdur-Rahman)などとも表記される。

概要 編集

オゴデイの治世 編集

西域ペルシア系出身の色目人で商家の出身とされる[1]

『元史』巻146列伝146耶律楚材伝によると、アブドゥッラフマーンはウイグル人訳史(翻訳官)の安天合と第2代皇帝オゴデイの側近のチンカイ(鎮海)の推挙に用いられるようになったという[2][3][4]。これより先、モンゴル帝国は河南の金朝平定によって1238年(太宗10年/戊戌)までに税収が110万両(=2万2千錠)に増加していたが、1239年(太宗11年/己亥)12月にアブドゥッラフマーンはその倍額に当たる220万両(=4万4千錠)を撲買(徴税の請負)を行うと申し出た[5][6]。当然、この税収増額は民からの過酷な徴収の上に成り立っていたため、耶律楚材は声を荒げ涙ながらにアブドゥッラフマーンによる徴税を改めるよう訴えたが、オゴデイ・カアンは「試しにやらせてみよ」と述べて耶律楚材の進言を取り上げなかった[2][7][8]。こうして、翌1240年(太宗12年/庚子)正月にアブドゥッラフマーンは「提領諸路課税所官」に任じられ[9]、以後ヒタイ(旧金朝領華北)地方の徴税を務めるようになった[10]。徴税額が上がったヒタイ地方(漢地)では以前にも増してウイグル商人の高利貸しが問題となり、同1240年には利子は元金を超えないようにすべしとの命が出されるに至っている[5][11]

ドレゲネ称制期 編集

1241年(太宗13年/辛丑)10月、漢地にはそれまで中央アジア方面を治めていたマフムード・ヤラワチが「イェケ・ジャルグチ(大断事官)」として赴任した[12]。同年11月、『元史』太宗本紀によるとオゴデイ・カアンは狩猟に出た先でアブドゥッラフマーンが勧めた酒を夜通し飲み、夜が明けたところで急速に体調を崩し亡くなったという[13][14]。モンゴル帝国の慣例では皇帝の死後正皇后が次期皇帝の選出まで国政を取り仕切る事になっていたが、第一皇后のボラクチン・ハトゥンは既に亡く、第二皇后のモゲ・ハトゥンもオゴデイの後を追うように亡くなったことから、第六皇后に過ぎなかったドレゲネが次期皇帝の選出まで監国として国政を握ることになった(中国史上の文脈ではこの期間を「六皇后/ドレゲネ称制期」と呼ぶ)[15]

ペルシア語史料の『集史』「グユク・カン紀」には、ドレゲネ皇后とその侍従長であるファーティマ・ハトゥンは権勢を握ると個人的な復讐心からチンカイ、クルクズ、ヤラワチらオゴデイ時代の高官達を次々と罷免したと記される[15]。とりわけ、漢地総督のマフムード・ヤラワチは過去の遺恨からファーティマ・ハトゥンの命によって地位を逐われ、その後釜としてファーティマ・ハトゥンが推挙したのがアブドゥッラフマーンであったとされる[16]。一方、『元史』耶律楚材伝などではアブドゥッラフマーンと耶律楚材が朝廷内の主導権を巡って対立していたかのように記されるが[17][18]、実際には両者の対立はドレゲネ及びファーティマと旧政権高官の派閥抗争の一環に過ぎなかったようである[19]

この時期のアブドゥッラフマーンの施策として特筆されるのが、従来の正税(常賦)の他に別途銀7両を徴収する「7両包銀制」を導入しようとしたことである[20][21]。これは、従来軍役負担など(差役)のない一般民戸が地方税的なものとして治めていた税を国税として一本化し徴収するものであるが、あまりに民にとって大きな負担であるとの批判が寄せられ導入には至らなかった[22]。しかし、後に第4代皇帝モンケが即位すると漢地総督に復帰したヤラワチの下で徴収額を1両減らしただけの「6両包銀制」が正式に導入され、以後大元ウルスの時代にも「包銀制」として定着した[23]。また、西方のペルシア語史料にはモンケ・カアンが即位にあたって民の負担を減らすため「ヤラワチの税法」と呼ばれる統一税制を導入したことが記録されているが、この「ヤラワチ税法」こそ漢地における「包銀制」の原型に他ならないと明らかにされている。つまり、「7両包銀制」はアブドゥッラフマーンの独創にかかるものではなくヤラワチが中央アジアで始めた制度を漢地で採用したに過ぎず、モンゴル帝国にとって「包銀制」の導入は既定路線であったことには注意が必要である。ただし、ヤラワチが導入した「6両包銀制」でさえ民の負担が大きいとして実施から5年目で4両に減額(更に、1両分は銀納でなくてもよいとされた)されており、アブドゥッラフマーンの導入しようとした「7両包銀制」が民に過酷な負担を強いるものであったことも事実なようである[24]

失脚 編集

一方、アブドゥッラフマーンを登用したドレゲネは同時期に自らが産んだグユクを次期皇帝とすべく活動を行っていた[25]ジョチ・ウルスバトゥを筆頭として先代皇帝の庶長子に過ぎないグユクの即位に対しては強烈な反対が寄せられ、カアンを決める統一クリルタイがなかなか開かれなかったためにドレゲネ称制期は5年にも及んだが、1246年に遂にグユクは第3代皇帝として即位を果たした[26]。しかし、即位したグユクはドレゲネ称制期の路線を否定して父のオゴデイの政策を継承する道を選び、即位後最初の審理案件としてチンカイ、ヤラワチらの失脚を主導したファーティマ・ハトゥンを処刑した。これに並行してチンカイ、ヤラワチらの復権も果たされ、『集史』「グユク・カン紀」によるとアブドゥッラフマーンもまたグユクの即位直後に処刑され、ヤラワチが漢地総督に復帰したという。ファーティマ・ハトゥンとアブドゥッラフマーンの処刑は、グユクによる旧政権の粛正という側面を有していたと指摘されている[27]

アブドゥッラフマーンは『元史』「奸臣伝」に載せられるアフマド・ファナーカティーとともに悪評の人物として名高く、主に『元史』耶律楚材伝の記述によって漢人に対する過度な徴収が強調される傾向にある。しかし、前述したようにフレグ・ウルスの宰相のラシード・ウッディーンが著した『集史』等では漢文史料に見られるような悪評は記されず、アブドゥッラフマーンの始めようとした新税制もあくまでヤラワチが中央アジアで創始した税制に倣ったことが読み取れる。また、近年『元史』耶律楚材伝とその原型となった「中書令耶律公神道碑」が耶律楚材を称揚するために史実とはかけ離れた記述が多く見られていると指摘されていることも踏まえ、近年のモンゴル史研究では一面的な否定的評価が見直されている[28]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻2太宗本紀には「商人の奥都剌合蛮」と記されている
  2. ^ a b 小林1972,234-235頁
  3. ^ 安部1972,121-122頁
  4. ^ 藤野/牧野2012,166-167頁
  5. ^ a b 愛宕/寺田2008,89-90頁
  6. ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[十一年]十二月、商人奥都剌合蛮買撲中原銀課二万二千錠、以四万四千錠為額、従之」
  7. ^ 安部1972,122頁
  8. ^ 『元史』巻146列伝146耶律楚材伝,「自庚寅定課税格、至甲午平河南、歳有増羨、至戊戌課銀増至一百一十万両。訳史安天合者、諂事鎮海、首引奥都剌合蛮撲買課税、又増至二百二十万両。楚材極力辯諫、至声色倶厲、言与涕倶。帝曰『爾欲搏闘耶』。又曰『爾欲為百姓哭耶。姑令試行之』。楚材力不能止、乃歎息曰『民之困窮、将自此始矣』」
  9. ^ 『元史』巻2太宗本紀,「十二年庚子春正月、以奥都剌合蛮充提領諸路課税所官」
  10. ^ 藤野/牧野2012,165-166頁
  11. ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[十二年]是歳、以官民貸回鶻金償官者歳加倍、名羊羔息、其害為甚、詔以官物代還、凡七万六千錠。仍命凡假貸歳久、惟子本相侔而止、著為令。籍諸王大臣所俘男女為民」
  12. ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[十三年]冬十月、命牙老瓦赤主管漢民公事」
  13. ^ 小林1972,239-240頁
  14. ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[十三年]十一月丁亥、大猟。庚寅、還至鈋鉄𨬟胡蘭山。奥都剌合蛮進酒、帝歓飲、極夜乃罷。辛卯遅明、帝崩于行殿。在位十三年、寿五十有六。葬起輦谷。追諡英文皇帝、廟号太宗」
  15. ^ a b 佐口1968,pp.214-215
  16. ^ 『元史』巻153列伝40劉敏伝には、「1241年(太宗13年/辛丑)に漢地に赴任してきたヤラワチ(牙魯瓦赤)は以前から漢地総督府に勤めていた劉敏と対立し、罷免された。その後、グユクが即位するとアブドゥル[・ラフマンーン](奥都剌)とともに漢地総督府に務めた(『元史』巻153列伝40劉敏伝,「劉敏字有功、宣徳青魯人。……辛丑春、授行尚書省、詔曰『卿之所行、有司不得与聞』。俄而牙魯瓦赤自西域回、奏与敏同治漢民、帝允其請。牙魯瓦赤素剛尚気、恥不得自專、遂俾其属忙哥児誣敏以流言、敏出手詔示之、乃已。帝聞之、命漢察火児赤・中書左丞相粘合重山・奉御李簡詰問得実、罷牙魯瓦赤、仍令敏独任。復辟李臻為左右司郎中、臻在幕府二十年、参賛之力居多。丙午、定宗即位、詔敏与奥都剌同行省事」)との記述がある。安部健夫・牧野修二は以上の記述からアブドゥッラフマーンが実権を握った時期をオゴデイ没後のドレゲネ称制期に限ると考察しており、両者の論考はドレゲネ称制期に至って始めてアブドゥッラフマーンが漢地総督に任命したとするペルシア語史料の記述とも合致する(安部1972,122頁及び藤野/牧野2012,170頁)。なお、牧野修二は上記史料に基づいてアブドゥッラフマーンも「イェケ・ジャルグチ(大断事官)」の地位にあったとする(藤野/牧野2012,185頁)。
  17. ^ 小林1972,240-243頁
  18. ^ 『元史』巻146列伝146耶律楚材伝,「后以御宝空紙、付奥都剌合蛮、使自書填行之。楚材曰『天下者、先帝之天下。朝廷自有憲章、今欲紊之、臣不敢奉詔』。事遂止。又有旨『凡奥都剌合蛮所建白、令史不為書者、断其手』。楚材曰『国之典故、先帝悉委老臣、令史何与焉。事若合理、自当奉行、如不可行、死且不避、況截手乎』。后不悦」
  19. ^ Golev 2017,pp.141-142
  20. ^ 愛宕1988年,286-287頁
  21. ^ 安部1972,121-123頁
  22. ^ 特に、漢人世侯の一人張邦傑がこれに反対したことが記録されている(安部1972,121頁)
  23. ^ 安部1972,123-124頁
  24. ^ 安部1972,128-131頁
  25. ^ 佐口1968,p214
  26. ^ 佐口1968,pp.221-222
  27. ^ Golev 2017,p143
  28. ^ 「中書令耶律公神道碑」の厳密な再検討に基づく耶律楚材象の再考については、杉山正明『耶律楚材とその時代』白帝社、1996年に詳しい

参考文献 編集

  • 安部健夫『元代史の研究』創文社、1972年
  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 愛宕松男/寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫、講談社、2008年(初版1998年)
  • 川本正知『モンゴル帝国の軍隊と戦争』山川出版社、2013年
  • 小林高四郎『元史』明徳出版社、1972年
  • 藤野彪・牧野修二『元朝史論集』汲戸書院、2012年
  • Konstantin Golev, Witchcraft and Politics in the Court of the Great Khan: Interregnum Crises and Inter-factional Struggles among the Mongol Imperial Elite. The Case of Fāṭima Khatun Annual of medieval studiesat ceu VOL. 23 2017

関連項目 編集