アブドゥッロ・ラヒンバエフ

アブドゥッロ(アブドゥッラ)・ラヒンバエヴィチ・ラヒンバエフロシア語: Абдулло (Абдулла) Рахимбаевич Рахимбаев, 1896年6月1日 - 1938年5月7日)、民族名アブドゥッラ(アブドゥッロ)・ラヒンボエヴィチ・ラヒンボエフウズベク語: Abdulla (Abdullo) Raximboyevich Raximboyev)は、ソビエト連邦で活動したウズベク人の政治家。

アブドゥッロ・ラヒンバエヴィチ・ラヒンバエフ
Абдулло Рахимбаевич Рахимбаев
Abdulla Raximboyevich Raximboyev
Rakhimbaev Abdullo.jpg
生年月日 (1896-06-01) 1896年6月1日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国サマルカンド州ホジェント郡ホジェント、ラッザク
没年月日 (1938-05-07) 1938年5月7日(41歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワブトヴォ射撃場英語版
出身校 赤色教授学院ロシア語版
マルクス・レーニン主義コース
タシュケント教職神学校ロシア語版卒業
前職 教師
所属政党 ボリシェヴィキトルキスタン共産党英語版ブハラ共産党ロシア語版ロシア共産党・全連邦共産党ウズベキスタン共産党
称号 レーニン勲章(1935年)
ホラズム人民ソビエト共和国赤旗勲章[1]
ホラズム人民ソビエト共和国労働赤旗勲章[2]

在任期間 1934年1月4日 - 1937年9月7日

在任期間 1920年8月 - 1921年5月
1922年6月 - 10月

Bukhara 08.png ブハラ共産党イタリア語版)中央委員会
責任書記
在任期間 1923年7月23日 - 11月

在任期間 1933年12月28日 - 1937年9月
中央執行委員会議長 シリンショ・ショテモル英語版
ミナヴァル・シャガダエフロシア語版[3]

Flag of Turkestan ASSR (1921-1923).svg トルキスタン共産党英語版(ボ)中央委員会
第二書記
在任期間 1923年 - 1924年
テンプレートを表示

生涯編集

青年期編集

1896年6月1日(ユリウス暦5月19日)[1]ロシア帝国サマルカンド州ホジェント、ラッザク[4]の小さなウズベク人商家に生まれた[2]ムッラーから初等教育を受けた後はマドラサに進み、余暇には家業を手伝った[5]。そのあとに進んだロシア語学校では生徒にロシア人風の姓を名乗ることが求められたが、当時のテュルク人には特定の姓を名乗る習慣はなかった[5]。そこでアブドゥッロは父の名である「ラヒンバイ」にロシア語姓風の語尾を付け、「アブドゥッロ・ラヒンバエフ」と名乗るようになった[5]。こうして1910年から1912年まで通ったサマルカンド男子ギムナジウムを優秀な成績で卒業すると[5]1917年にはタシュケント教職神学校ロシア語版も卒業し、この時までに14の言語を操れるようになったという[6]

革命期編集

やがて革命思想に接近するようになったラヒンバエフは、同年からホジェントでシューラ・イ・イスラームロシア語版の指導者となり、現地のムスリム労働者ソビエト書記を務めた[1]。翌1918年1月から12月まで教師として働くとともに[5]、ラヒンバエフは1919年1月にボリシェヴィキへ入党した[1]。当時の中央アジアは反革命勢力の方が力を持っていたが、ラヒンバエフは富裕層や聖職者とも対話することによってボリシェヴィキへの支持を集めようと試みた[5]。また、ボリシェヴィキの政策がロシア化の様相を帯びていると感じた際には、クリミア・タタール人の学者ベキル・チョバンザーデとも接触して少数民族の保護を試みた[5]

ラヒンバエフは1919年からゴロドノステップ郡ソビエト執行委員会書記やホジェント郡 (ru) ソビエト執行委およびホジェント市ソビエト執行委の議長を務め、同年12月から翌1920年5月まではトルキスタン共産党英語版サマルカンド州委書記に就いた[1]。同年8月から翌1921年5月まではトルキスタン自治社会主義ソビエト共和国中央執行委議長を、同年からはロシア連邦共和国人民委員会議ロシア語版全ロシア中央執行委ロシア語版およびロシア共産党中央委のトルキスタン局員とトルキスタン委員に、同年3月からは民族問題人民委員部参議員も務めている[1]

1922年6月から10月までは再度トルキスタン自治共和国中央執行委議長に就き、同年4月2日から翌1923年4月17日まで、および1924年5月31日から翌1925年12月18日まではロシア共産党中央委員候補、1923年4月25日から翌1924年5月23日まではロシア共産党中央統制委員ロシア語版を歴任[1]。1922年12月30日にはソビエト連邦の結成に関する条約ロシア語版への署名者の一人となった[7]

中央アジア国境策定交渉編集

1923年7月23日から11月まではブハラ共産党イタリア語版中央委責任書記、同年から翌1924年まではトルキスタン共産党中央委第二書記[7]、同年4月からはロシア共産党中央委の中央アジア国境策定ロシア語版担当局内部で、ウズベク小委員会議長を務めた[1]

この中央アジア国境策定交渉の際、ブハラ代表のファイズッラ・ホジャエフとともにラヒンバエフが推した「民族別共和国案」と、スルタンベク・ホジャノフロシア語版カザフ小委員会が推した「中央アジア連邦案」が対立する事態に陥った[8]。「連邦案」は中央アジアを広く遊牧するカザフ人にとって有利なものであったが、定住民族による国家の安定を重視したモスクワの介入により、ウズベク小委員会による「民族別共和国案」が勝利を収めることとなった[8]

 
1927年のウズベク社会主義ソビエト共和国(うち黄色い部分がタジク自治社会主義ソビエト共和国)

この決定により、ウズベク人の側は中央アジア南部の民族定住地域を広く「ウズベク社会主義ソビエト共和国」とすることができた一方、未だナショナリズムが未発達なタジク人は交渉に有能な代表を送ることすらできず、彼らが手にした「タジク自治社会主義ソビエト共和国」は、タジク人定住域の極一部に過ぎなかった[9]。加えてこの「タジク自治共和国」はウズベク共和国に従属する痩せた山岳地帯に過ぎなかったため、その後のタジク・ナショナリズムは反ウズベク感情に基づくしこりを残すことになった[9]

後半生編集

その後、1922年5月から1926年9月までは赤軍トルキスタン戦線ロシア語版革命軍事会議メンバー、1924年10月30日から1925年2月6日まではウズベキスタン共産党中央委臨時組織局書記、1924年11月18日から1925年2月13日まではウズベク共和国革命委員ロシア語版、1924年から1926年まではロシア共産党・全連邦共産党中央委中央アジア局員ロシア語版を歴任したが[1]、1926年10月から1928年6月までは中央アジアでのすべての役職を辞し、マルクス・レーニン主義を学ぶためモスクワへと派遣された[7]

同年1月から翌1929年5月までもモスクワで連邦中央民族出版社ロシア語版社長、翌6月から1933年12月まではロシア共和国教育人民委員部ロシア語版ソビエト少数民族委議長を務め、同月28日から1937年9月まではタジク社会主義ソビエト共和国人民委員会議議長英語版に、同時に1934年1月4日から1937年9月7日まではヌスラトゥッロ・マクスムロシア語版の後任として[7]連邦中央執行委議長の座にも就いていた[1]。また1935年12月20日には、農業分野での卓越したノルマ超過を賞して1370号目のレーニン勲章も授与されている[1]

粛清編集

 
ホジェンドに建つラヒンバエフ像

連邦党大会にも第10回ロシア語版から第14回ロシア語版までと第17回ロシア語版に出席し、連邦中央執行委大会にも第5回から第7回まで出席した[10]。しかし、連邦中央執行委議長に在職中の1937年9月7日に汎トゥラン主義[5]・反革命テロ組織に参加した容疑で[7]スタリナバードで逮捕され、モスクワのレフォルトヴォ刑務所英語版へ収監された[4]。そして長い拷問の末[5]、翌1938年5月7日に連邦最高裁軍事参議会ロシア語版はラヒンバエフに対しロシア共和国刑法ロシア語版第58条ロシア語版第1項のa、第8項および第11項に基づき死刑判決を言い渡した[2]。ラヒンバエフは同日ブトヴォ射撃場英語版にて銃殺されたが[4]1956年10月20日に名誉回復ロシア語版がなされた[2]

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k Рахимбаев Абдулло”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2020年5月14日閲覧。
  2. ^ a b c d Рахимбаев Абдулла Рахимбаевич [__.06.1896-07.05.1938 {род.6.1896г.}]”. Библиотека - "Люди и книги". AZ-libr.ру. 2020年5月14日閲覧。
  3. ^ Высшие органы государственной власти Таджикской ССР”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2020年5月14日閲覧。
  4. ^ a b c Ҳамдампур Ш. (2018年12月11日). “Хиёнати Абдулло Раҳимбоев”. Pressa.tj. https://pressa.tj/tajikistan/hiyonati-abdullo-ra-imboev/ 2020年5月14日閲覧。 
  5. ^ a b c d e f g h i Şamil, Əli (2013年6月27日). “Abdullo Raximboyev”. Əli Şamil. 2020年5月14日閲覧。
  6. ^ Раҳимбоев Абдулла”. e-tarix.uz. Abu Muslim. 2020年5月14日閲覧。
  7. ^ a b c d e Рахимбаев Абдулло”. Правители России и Советского Союза. www.praviteli.org (2015年10月4日). 2020年5月14日閲覧。
  8. ^ a b 帯谷知可「ソ連体制下のウズベキスタンの成立 - 中央アジア民族・共和国境界画定」『ウズベキスタンを知るための60章』帯谷知可編著、明石書店エリア・スタディーズ 164〉、2018年、92頁。ISBN 978-4750346373
  9. ^ a b 小松久男『革命の中央アジア - あるジャディードの肖像』東京大学出版会〈中東イスラム世界7〉、1996年、238-239頁。ISBN 978-4130250276
  10. ^ Рахимбаев / И. Кельдиев // Проба — Ременсы. — М. : Советская энциклопедия, 1975. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 21).
公職
先代:
トゥラル・ルィスクーロフロシア語版
  トルキスタン自治社会主義ソビエト共和国中央執行委員会議長
1920年8月 - 1921年5月
次代:
ナジル・チュリャクーロフロシア語版
先代:
ナジル・チュリャクーロフ
  トルキスタン自治社会主義ソビエト共和国中央執行委員会議長
1922年6月 - 8月
次代:
イナムジャン・ヒドゥイラリエフ
先代:
アブドゥラヒム・ホジバエフ英語版
  タジク社会主義ソビエト共和国人民委員会議議長英語版
1933年12月28日 - 1937年9月
次代:
ウルンバイ・アシューロフ