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アブー・ヌワースAbū Nuwās; 757年頃 - 810年以後没)は、アッバース朝バグダードアラビア語詩人[1]。8世紀後半から9世紀初頭のカリフハールーン・ラシードからムハンマド・アミーンの頃に活躍した(#生涯)。享楽的な酒ほがい詩や恋愛詩で知られる(#作品)。同時代の清貧詩人アブル・アターヒーヤとは作風も好対照をなし、よく並び称される。彼らは共にアラビア語詩に新しい様式や内容の多様性をもたらした「モダン派」の代表的詩人として知られる(#作品)。

アブー・ヌワースは近世アラブ世界の民話の中で、その人物像や伝説が誇張や想像も交えながら語り継がれていった。『千夜一夜物語』にも「名君」というキャラクターを与えられたハールーン・ラシードの取り巻きという道化的役回りで登場する。民話上のキャラクターとしてのアブー・ヌワースは、歴史的に交易を通じてアラブ世界と文化的に接続していたスワヒリ文化圏など東アフリカ沿岸世界にも伝播した。アフリカ民話の世界に至っては歴史上の人物としての存在から遊離し、名前もアブヌワシアブナワスなどに現地音化してトリックスターとして活躍する。

20世紀初頭の象徴主義詩人ハリール・ジブラーンal-Funūn 誌上で描いたアブー・ヌワース(1916年6月、ニューヨーク)

近現代以降は、アラブ・ナショナリズムという文化運動の中で再発見されることとなった。

目次

名前と出自編集

「アブー・ヌワース」は通り名で、本名はハサン・ブン・ハーニィ・ハカミー[注釈 1]という[2]。父ハーニィはウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世の軍にいた兵士である[2]。母はゴルバーンという名のペルシア人の織工で、若い頃はバスラの食料品店で働いていたという[1]

父ハーニィはイエメンの部族バヌー・ハカムに帰属するマウラー(隷属庇護民)である[2]。直接的にはウマイヤ朝軍の武将ジャッラーフ・ハカミー英語版に帰属するイラン系の改宗者である[2]

「髪を束ねて房にしたおやじ」という意味を持つ「アブー・ヌワース」という通り名の由来には、いくつかの説があり、伝統的なものでは3つの仮説が流布されている。第1の仮説では、「ヌワース」とはある山の名前であるという。第2の仮説は、彼が長い髪の毛を房飾りのように垂らしていたので隣人が「アブー・ヌワース(房飾りの男の意)」と呼んだのであろうと推測する。第3の仮説は、かつて存在したヒムヤル王国最後の君主、ズー・ヌワース英語版に自分自身を重ね合わせて、彼が自分でそう名乗ったのであろうとするものである[3]:131-160

生涯編集

修行時代編集

アブー・ヌワースはアフヴァーズ生まれとされる[4]

アブー・ヌワースは、母がバスラの食料品雑貨屋サアド・ヤシラで売り子をしていた頃、まだ小さい子どもだった。その後、クーファへ行き、そこで当時の高名な古典アラビア語の碩学フランス語版の何人かに一対一で基礎的な教えを授かった[4]。彼はワーリバ・ブン・フバーブアラビア語版ハラフ・アフマルアラビア語版といった詩人たちに保護される前にはひどい環境で暮らしていた[4]

最初の師ワーリバは、単に訓練させるだけでなく、ギトンフランス語版、アラビア語の詩、リベルタンといった内容も教えた。師弟はしばしばクーファリベルタン(Mujjân al-Kûfa)として一緒に行動した[4]。伝承によると、アブー・ヌワースは、砂漠における詩情を追求するため、ワーリバの許可を得て師と別れてベドウィンのところへ去ったという。

その後、アブー・ヌワースが最後の師と仰いだのは詩人で高名な翻訳家であったハラフ・アフマルであった。伝承では、師は何千行にも及ぶ古典詩を暗記し終えるまでは、一行も詩を詠んではならぬと命じたという。アブー・ヌワースがすっかり暗記してしまい、詩作の許可を師に求めたところ、ハラフは駄目だと言い、今度は覚えた詩をすべて忘れることを命じた。アブー・ヌワースはすべて忘れた。そして詩を作ることが出来るようになった[4]。この忘却を強いるエピソードは、アブー・ヌワースの詩人としての形成期を象徴するエピソードであり、13世紀イフリーキーヤの百科全書家、イブン・マンズール英語版の『アブー・ヌワースに関する情報の書』に記載されている[3]:131-160

ハールーン・ラシードのころ編集

 
ハールーン・ラシードの肖像。ペルシアの細密画

おそらくはワーリバに連れられて、アブー・ヌワースは建設されたばかりのアッバース朝の首都バグダードに行き、ハールーン・ラシードに、その徳を讃えるマディーフ(頌詩)を献上したところ、気に入られ、お目通りが許された[3]:131-160。そのとき、バルマク家英語版出身の宮廷詩人アバーン・ブン・アブドゥルハミード・ラーヒキー英語版と仲良くなり、バルマク家英語版にも出入りするようになった[4]。もっとも、このバルマク家とのつながりは、ラーヒキーが自分のメセナ、ハールーン・ラシードから、潜在的なライバル、アブー・ヌワースを引き離しておこうとする打算の産物だった[3]:131-160

ともあれ、アブー・ヌワースは、エスプリとユーモアにあふれた詩情により、すぐにバグダードで有名になった。砂漠の伝統を受け継いだ主題は扱わなかった。都会生活を語り、葡萄酒の悦楽(khamriyyat)と少年愛(mujuniyyat)を卑近なユーモアを交えて謳った。のちにカリフとなる若いアミーンと親交を結んだのもこの時期である[3]:131-160

バルマク家はハーリド、ヤフヤー、ジャアファルと3代続けて宰相(ワズィール)位を世襲し、カリフ位を世襲するアッバース家に次ぐ権勢をほしいままにしていた。ハールーン・ラシードはバルマク家を排除することを決意し、803年にジャアファルらを粛清する。このときアブー・ヌワースはバルマク家の粛清を悲劇と捉え、彼らを悼む詩を作ってしまい、身の安全のためエジプトへ逃げたという説がある[2]。アブー・ヌワースは亡命中に、エジプトのディーワーン・ハラージュ[注釈 2]の長である、ハティーブ・ブン・アブドゥルハミード(al-Khatîb b. Abd al-Hamîd)を讃える頌詩を作った[2]

アミーンのころ編集

亡命はハールーン・ラシードが亡くなる809年まで続いたと見られる。ハールーン・ラシードの跡を継いだ息子アミーンは、22歳の享楽的な若者で、前にアブー・ヌワースに教えを乞うたこともある。アブー・ヌワースにとっては願ってもない幸運だった。ほとんどの研究者がアブー・ヌワースの詩作の大部分がアミーンがカリフを務めていた809年から813年までの間になされたと考えている。アブー・ヌワースが宮廷の求めに応じて吟じた詩の中でもっとも有名なものの一つが、アミーンを讃えたカスィーダ英語版である。

アブー・ヌワースと同時代のアブー・アムルという人物は、葡萄酒を詩にすることにかけては当代随一とした詩人の名前を三人あげたが、そのうちの一人がアブー・ヌワースだった[5]。また、アブー・ハティーム・マッキーという人物は、思索の奥底にある深い意味をアブー・ヌワースが掘り当てて言葉にしてくれることで、初めてその意味に気づくことがよくあると評した[5]

マアムーンのころ編集

作品の内容によると、アブー・ヌワースは投獄されたことがあるようである。そのため、アブー・ヌワースが酔っぱらって欲望のおもむくままの行状を繰り返すので、さすがのアミーンも腹に据えかね、アブー・ヌワースを牢屋に入れてしまった、というハバルがある。一方で、牢屋に入れたのはマアムーンであるとするハバルもある。アミーンとの内戦に勝利したマアムーンは、潔癖なところがあり、アブー・ヌワースに一切容赦がなかった。

アブー・ヌワースの最期に関する伝承は、不確かである上、矛盾しているが、いずれも悲劇的であるという点で共通している。ある伝承では次のような顛末である。マアムーンの側近のゾンボルという男が、アブー・ヌワースをたばかって、彼に正統カリフアリーを風刺する詩を作らせた。アブー・ヌワースはそのとき酔っぱらっていて、言われるままに作ってしまい、ゾンボルは抜け目なくその詩を皆に聞こえるように大きな声で公表した。これでアブー・ヌワースは、牢屋から抜け出せなくなってしまった[2]。その後、イスマーイール・ビン・アブー・セフルという男に牢屋の中で、毒か何かによって殺されたという。

別の伝承では、アブー・ヌワースは酒場で死んだということになっている[2]。また別の伝承では、ナウバフトというシーア派の、学のある有名な一族の家で殺されたということになっている。アブー・ヌワースは彼らと親交を結んでいたが、彼らを軽んじるような内容の詩をいくつか吟じてしまい、身の破滅になったという[2]

一説によると、アブー・ヌワースは牢屋に入れられることを恐れるあまり、過去の行いを反省し、とても信心深くなったという。一方で、悔悛の詩は、単にカリフの許しを得ようとしただけだとする説もある。

アブー・ヌワースが亡くなったという噂話(ハバルフランス語版、アラブのアネクドート)が飛び交い、友人たちが何人も家に押しかけ、彼の本を探したが、言葉の使い方に関する注意書きが手書きで少しばかり書いてある巻物一つを除いては、他に一巻も残っていなかったという[6]:131-160。また、昔からユダヤ人の墓地であったという丘に葬られたと伝えられている[6]:131-160

作品編集

ムフダスーン編集

アブー・ヌワースは、アラブ文学(アラビア語文学)史上、「ムフダスーン」(pl. al-Muhdathûn)と呼ばれる一群の詩人の一人とみなされている。「ムフダスーン」は「新しい」や「近代的な」を意味するアラビア語の単語「ムフダス」から語形変化した言葉である[7]。アラビア語詩の世界では8世紀はじめごろにバシャール・ブン・ブルドフランス語版が現れ、カスィーダ(定型長詩)に代表される古典的様式から離れ、近代的な詩を作ろうとした。バシャールの試みは当時の詩人たちの文学的流行となった。アブー・ヌワースはこうしたムフダスーンの代表格である[8]

ムフダスーンの登場以前、8世紀から9世紀にかけての時代、バスラとクーファでは、美しいアラビア語と優れた文芸を文献に残そうとする「文法学派」と呼ばれる知識人たちの活動があった。ムフダスーンは、彼ら文法学派の知的活動の成果を受けてアラビア語詩を再考した。バシャールは、諧謔と都会的なセンスを基調とする新しい価値観の持ち主であった[6]:28。バシャールはイスラーム興隆よりも昔の時代の文芸に理想を見出し、彼に続いたムフダスーンはその理想をさらに推し進めて、ベドウィンの時代のカスィーダよりも単純な語彙、当該時代の雄弁家よりも自由な形式で詩作を行った[6]:28。ベドウィン時代の主題は、「ガザル」という詩歌の新ジャンルにおいて換骨奪胎された[6]:66-69。ガザルは、古典的なカスィーダの導入部分である「ナスィーブ」(nasîb)から発展した詩形であり、苦い恋愛を中心主題とする[6]:66-69

カスィーダという形式にはそれにふさわしい内容があると観念されていたが、アブー・ヌワースは諧謔の助けを借りて、そうした固定観念から逸脱した。カスィーダは普通、野営地における嘆きのモチーフから始まるものである。「カスィーダの語り手は、打ち棄てられた野営地から始まって、止め処もなく哀れがましい話を始めるものだが、俺ならその野営地に近い居酒屋はどこにあるのか訪ねるところからはじめるぜ」と書いた[6]:67-68

二つの価値を持つ作品編集

アラビア語詩におけるアブー・ヌワースの卓越性は斬新な詩形によるものである。彼は古い時代の詩から多くを汲み取り、なおかつそれからの流れを断ち切った。バシャールに続いた「新しい時代の人々」(ムフダスーン)、特にアブー・ヌワースのような革新者が、自らのやろうとしていることに自覚的であったことは強調されねばならない[6]:67。アブー・ヌワースは、先イスラーム時代の詩を再認識し、散文と韻文を切り分けた文法学派の研究に学んだ。その点を考慮すると、アブー・ヌワースが師匠のハラフ・アフマルに強いられたという、有名な忘却のアネクドートが、また異なった様相を持ち始める[3]:143

アブー・ヌワースの詩には恋愛、特に少年愛を取り扱ったもの(ムジューニーヤ mujûniyya)だけでなく、権力者を讃えたり、風刺したりするものもある。讃える詩はカスィーダ、風刺する詩はヒジャーといい、アブー・ヌワースは自分に風刺の才能があることを自覚していた。アブー・ヌワースが特に好んだテーマは、飲酒と恋愛である[4]。ムジューニヤート(mujûniyyât)或いはハムリヤート(khamriyyât)と呼ばれる飲酒詩はバシャールが導入したムフダスーンの流れに連なるものである一方、恋愛詩は古典形式にのっとったもの(保護や禄を与える者を讃える詩)である。これはアブー・ヌワースという詩人が登場した時代を反映している。当時、文学的創作は二つの対照的な要因により決定付けられていた。一つ目は文法学者が確立した古典詩の規範的価値であり、知識人もこれにのっとって詩を鑑賞した。二つ目は詩人の地位と社会的機能である。詩人の社会的地位の確保や上昇は、詩人に禄を与える者に委ねられていた[4]。これら二つの要因により頌詩カスィーダが芸術の規範になり、カスィーダ古典詩の語彙、形式、主題を利用して詩作せざるをえない状況になった[4]

形式面と主題面での革新編集

アブー・ヌワースは、タルディーヤ(tardiyya)と呼ばれる狩猟詩を発明し、詩の一ジャンルになるまで狩猟詩の世界を高めた詩人とされる。狩猟の主題自体は、先イスラーム時代の詩人イムルル・カイスフランス語版のカスィーダやムアッラカートフランス語版にも見られる[6]:67-69[注釈 3]。同様に、ハムリーヤ(khamriyya)、ハムリヤートと呼ばれる飲酒詩の世界においても、アブー・ヌワースはこのジャンルを完成させたとされる。飲酒詩も歴史は古い。アムル・ブン・クルスームフランス語版のムアッラカートがある[6]:193-229。狩猟と飲酒という二つのジャンルは、自由奔放なレトリックを用いて人物を描写できるという点をアブー・ヌワースは指摘する。こうしたレトリックの使用はムフダスーンや初期のバディーウといった新しい様式に関係すると考えられている[9]

詩集の伝世編集

アブー・ヌワースは自分自身では詩集(ディーワーンフランス語版)を編んだりすることはなく、その作品はスーリーとハムザ・イスファハーニーがそれぞれ編んだ2系統の校定本により現代にまで伝わっている。スーリーは真作と判断したものだけを集めているのに対し、ハムザ・イスファハーニーは真作・偽作を問わず彼が集められたものすべてを収録した。そのため、ハムザ・イスファハーニーの校定本はスーリーのものの3倍の分量になり、1500作品13000行を有する[2]

 
レバノンの作家、芸術家の Omar farroukh (1906 - 1987)が描いたアブー・ヌワース。1960年作。

千夜一夜物語における登場人物として編集

アブー・ヌワースが生きた時代から数百年時代は下り、おそらくは近世のエジプトにおいて成立したとされる[10]千夜一夜物語』には、アブー・ヌワースが、同じく作中の登場人物の一人であるハールーン・ラシードの取り巻きの一人として登場する[11]:18。『千夜一夜物語』には特定の作者がいるわけではないが[10]、匿名の作者によりアブー・ヌワースには「やくざな無頼漢」という性格が与えられている[11]:18。実在のアブー・ヌワースにはハールーン・ラシードの寵を得たという確かな記録はないが、民衆の想像の世界では、時にはお忍びで冒険に繰り出す同カリフの宮廷の道化師、あるいは愉快な仲間という役どころが与えられている[11]:348-352

東アフリカにおけるアブヌワシ民話の広がり編集

東アフリカスワヒリ文化では、アブー・ヌワースがアブヌワシ (Abunuwasi) の名でよく知られており、あたかも中東アナトリアにおけるナスレッディン・ホジャばなしのように、アブヌワシが数多くの民話の中に登場する。アブヌワシはさらにキブヌワシ (Kibunuwasi) と名前がスワヒリ語化されることもあり、また、キャラクターも擬人化した野ウサギとなることもある[12]ザンジバルスワヒリ語詩人ハジ・ゴラ・ハジスウェーデン語版が説明するところによれば、西洋ヨーロッパによる植民地支配下のスワヒリ都市においては、東洋的な主題を持つ書籍の出版が一切禁止されたが、その中で唯一出版された非西洋的な主題を持つジャンルが、伝統的な昔話だったという[12]。そして、植民地時代にスワヒリ世界に浸透したイスラーム世界の民話がアフリカの口頭文芸と混淆し発展する中で、千一夜物語の一登場人物であるアブー・ヌワースのキャラクターがスワヒリ民話に多くのインスピレーションを与えたという[12]

アフリカの角地域においては、1940年代にエリトリアで収集された民話に、アブナワス (Abunawas) の名前がみられる。これは、物書きの前職を買われてアメリカ軍により元イタリア植民地、エリトリアの宣撫工作に送り込まれたハロルド・クーランダーが同地で収集したもので、1950年にエチオピアの昔話として英語で出版された。収集に際しては、エリトリアの大人が話した民話をイタリア語を話せる子供たちがクーランダーに通訳した。1963年には日本語にも翻訳されて『山の上の火』の題で岩波書店から出版されている。その中の一話「アブナワスは、どうしておいだされたか」(原題: How Abunawas was Exiled)で、主人公アブナワスは「とてもかしこい男」であり、王や商人といった権威者を頓智や屁理屈できりきり舞いさせる[13][14]

スワヒリ諸都市に地理的文化的に近いコモロ諸島においても、民話口頭伝承の各種テーマの中で、「アブヌワの物語群」が、動物に関するアフリカ起源の民話口頭伝承と並んで、最もよく話されていることが1970年代に書かれた小著の中で報告されている[15]:70

注釈編集

  1. ^ アラビア語: الحسن بن هانئ الحكمي الدمشقي‎, ラテン文字転写: al-Ḥasan b. Hāniʾ al-Ḥakamī al-Dimashqī
  2. ^ ハラージュと呼ばれる地租を取り立てる責務を負う役所である。ディーワーン・アル=ハラージュの長はその属州の統治も管掌する。
  3. ^ ムアッラカート63から69行目あたり[6]:67-69

出典編集

  1. ^ a b アブー・ヌワース『アラブ飲酒詩選』塙治夫訳、岩波書店岩波文庫赤785-1〉、1988年1月18日。ISBN 4-00-327851-8 解説
  2. ^ a b c d e f g h i j Wagner, E. (2014-08-01). “Abū Nuwās”. Encyclopédie de l’Islam. Brill Online. https://doi.org/10.1163/1573-3912_islam_SIM_0241 2018年5月12日閲覧。. 
  3. ^ a b c d e f Zakharia, Katia (2009). “FIGURES D’AL-ḤASAN IBN HĀNIʾ , DIT ABŪ NUWĀS dans le Kitāb Aḫbār Abī Nuwās d’Ibn Manẓūr”. Bulletin d'études orientales (Damas: IFPO) LVIII: 131-160. 
  4. ^ a b c d e f g h i Bencheikh, Jamel Eddine (2013-11-14). “ABU NUWAS (entre 747 et 762-env. 815)” (フランス語). Encyclopædia Universalis [en ligne]. http://www.universalis.fr/encyclopedie/abu-nuwas/ 2018年5月12日閲覧。. 
  5. ^ a b Arbuthnot, F. F. (1890). Arabic Authors: A Manual of Arabian History and Literature. Library of Alexandria. pp. 247. ISBN 978-1-4655-1080-8.  Section:3
  6. ^ a b c d e f g h i j k TOELLE, Heidi; ZAKHARIA, Katia (2009). A la découverte de la littérature arabe, du VIe siècle à nos jours. Paris: Flammarion, coll. Champs essais,. 
  7. ^ Translation and Meaning of محدث in Almaany English Arabic Dictionary”. 2018年2月14日閲覧。
  8. ^ ar, IBN QUTAYBA, Al-Shi'r wa l-shu'arâ', éd. Dâr al-kutub al-'ilmiyya, Beyrouth, 2009, p. 479-499
  9. ^ Al-JAHIZ, Al-Bayān wa-l-tabyīn, Caire 1948, I, 51, IV, 55, (『イスラーム百科事典Badīʿ KHALAFALLAH, M. の項からの孫引き)
  10. ^ a b 西尾哲夫『図説アラビアンナイト』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2014年1月20日、新装版、4-5頁。ISBN 978-4-309-76213-5
  11. ^ a b c 『アラブの民話』イネア・ブシュナク編、久保儀明訳、青土社、1995年9月20日。ISBN 4-7917-5401-8 (original: Bushnaq, Inea (1986) Arab Folktales, Pantheon Books, a Division of Random House.)
  12. ^ a b c Aiello Traoré, Flavia (2013-06-01). “Swahili Children’s Literature in Contemporary Tanzania”. Journal des africanistes [En ligne] 80 (1/2). http://africanistes.revues.org/2485 2015年6月26日閲覧。. 
  13. ^ Eritrean Print and Oral Culture: The Fire on the Mountain and Other Ethiopian Stories”. 2015年11月9日閲覧。
  14. ^ クーランダー、レスロー『山の上の火』渡辺茂男訳、岩波書店〈岩波おはなしの本 (4)〉、1963年7月18日。ISBN 978-4-00-110304-5
  15. ^ エルヴェ・シャニュー、アリ・ハリブ『コモロ諸島』花渕馨也訳、白水社文庫クセジュ〉、2001年8月10日。ISBN 978-4-560-05842-8(原著は1970年代に出版)