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アユルバルワダモンゴル語ᠠᠶᠤᠤᠷ ᠪᠠᠯᠪᠠᠳAyurbarwada漢字:愛育黎抜力八達、 1285年4月9日 - 1320年3月1日)は、元王朝の第4代皇帝(大ハーン)。『集史』などのペルシア語表記では اجورپريه بتره Ayūrparīya-bhadra など。名はアユルバリバドラとも読まれる。

アユルバルワダ
ᠠᠶᠤᠤᠷ ᠪᠠᠯᠪᠠᠳ
モンゴル帝国第8代皇帝(大ハーン
YuanEmperorAlbumAyurbarvadaBuyantuPortrait.jpg
在位 1311年4月7日 - 1320年3月1日
戴冠 1311年4月7日
別号 ᠪᠤᠶᠠᠨ ᠲᠤ ᠬᠠᠭᠠᠨ Buyantu Qa'an[1]
普顔篤皇帝
ブヤントゥ・カアン(中期音)
ボヤント・ハーン(近現代音)

出生 至元22年3月4日
1285年4月9日
上都路縉山県
死去 延祐7年1月21日
1320年3月1日
大都
配偶者 ラトナシリ
子女 シデバラウドゥス・ブカ
王家 クビライ家
父親 ダルマバラ
母親 ダギ
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目次

生涯編集

成宗テムルの早世した兄ダルマバラと、有力部族コンギラト出身の妃ダギの間の次男で、武宗カイシャンの弟。叔父のテムルが即位すると、兄とともに有力な後継者候補となることから、テムルの皇后ブルガンによって首都の大都から遠ざけられ、母ダギとともに河南にある所領の懐孟に押し込められた。

大徳11年(1307年)にテムルが崩御すると、ブルガンはカイシャンとアユルバルワダの兄弟が即位することを避けるため、密かに安西王アナンダを呼び寄せてハーンに即位させようとした。これに対してコンギラト部の血を引くハーンを立てることを望むコンギラト派の重臣たちは密かにアユルバルワダとダギを大都に呼び寄せ、アユルバルワダを擁立してクーデターを起こしてブルガンとアナンダを捕らえた。コンギラト派はさらにアユルバルワダをハーン位に就けようと目論んだが、モンゴル高原に駐留していた兄のカイシャンが大軍を率いて南下してきたため、アユルバルワダは単に摂政と称してカイシャンを迎え入れ、ハーンに即位した兄の皇太子となることを甘受した。

至大4年(1311年)、兄の死とともにハーンに即位すると、たちまち大徳11年のクーデターで活躍した母のダギおよびコンギラト派の重臣が政権を握る。カイシャン腹心の重臣が汚職の疑いで追放され一掃されると、カイシャン時代の財政最優先の国家体制が改められてその中心である尚書省が廃止され、唯一の中央行政官庁となった中書省の長官である右丞相にはダギの寵臣テムデルが就任した。

テムデルはカイシャン時代のインフレーション抑制策の目玉であった新紙幣の至大銀鈔を廃止し、世祖クビライ時代の至元鈔に戻した。代わりに商業税の徴収を強化するなど、徴税改革で収入増を図ろうとしたが、抜本的な改革は行われず、問題はそのまま先送りにされた。アユルバルワダの治世が後世に名を残したのはむしろ文化的な政策であり、『貞観政要』がモンゴル語に訳されて全国に配布され、漢文による法典が編纂され始めた。政府には漢人・非漢人を問わず儒学の素養を身に付けた知識人が集められ、延祐2年(1315年)には合格者数がきわめて少ないという限定的なものながら、科挙が復活した。

アユルバルワダの治世にはテムデルと、その後援者である皇太后ダギの権勢がハーンの権力をまったく上回り、ハーンの聖旨(ジャルリグ)よりも皇太后の懿旨(ウゲ)が権威を持つと言われるほどであった。このためアユルバルワダは宮廷に篭りがちになったが、晩年には御史台の弾劾によりついにテムデルを失脚させた。しかしまもなく延祐7年(1320年)に36歳で崩御すると、その子シデバラを即位させた皇太后ダギはテムデルを復職させ、その専権が続くこととなる。

アユルバルワダの治世は漢文化と知識人が優遇されたことから漢人編纂の歴史書では高く評価されており、元朝が征服王朝として成熟を示した時代と言われることもある。

系譜編集

后妃編集

『元史』巻106表1后妃表には2人の皇后の名前が記録されている。

  • 荘懿慈聖皇后ラトナシリ(阿納失失里)(?‐1322) コンギラト部出身。
  • ダルマシリ皇后(答里麻失里):出身部族、出自などの記録なし。

子女編集

脚注編集

  1. ^ モンゴル語で「富裕なハーン」を意味する。

関連書籍編集