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ラジバグモンゴル語: ᠷᠠᠽᠢᠪᠠᠭ, ラテン文字転写: Razibaγ)は、モンゴル帝国の第11代大ハーンとしては第7代皇帝)。漢文史料では阿剌吉八阿里吉八(アリギバ)、阿速吉八[1]などと記される。読みは、ラキパクチベット語: ར་ཁྱི་ཕག, ラテン文字転写: Ra khyi phag)。治世の元号を取って天順帝と呼ばれることもある。

アリギバ
ᠷᠠᠽᠢᠪᠠᠭ
モンゴル帝国第11代皇帝(大ハーン
Ragibagh.jpg
在位 1328年10月3日 - 11月14日
戴冠 1328年10月3日
上都

出生 延祐7年(1320年)?
死去 天順元年10月13日
1328年11月14日)?
上都
王家 クビライ家
父親 イェスン・テムル
母親 バブカン
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天順帝 奇渥温阿剌吉八
第7代皇帝
王朝
都城 上都
陵墓 起輦谷(モンゴル高原
年号 天順 : 1328年

生涯編集

傍系から大ハーンに即位した泰定帝イェスン・テムルの長男。母のバブカンは長らく大ハーンの后妃を輩出してきた名門姻族コンギラト氏の出で、泰定元年3月20日1324年4月14日)に5歳で立太子された[1][2]致和元年7月1328年8月)、泰定帝が病により上都で崩御すると、泰定帝の寵臣であった中書丞相ダウラト・シャーによって大ハーンに擁立され、9月に上都で即位した[1]

しかし泰定帝の急死は、仁宗アユルバルワダの治世から不遇をかこっていたことに対し不満を募らせていた武宗カイシャン派の軍閥たちの決起を促した[3]8月、もう一つの都である大都に駐留していたキプチャク親衛軍の司令官エル・テムルは反乱を起こして大都の政府機関を占拠し、武宗の遺児の擁立を呼びかけた。ダウラト・シャーは梁王オンシャン(天順帝の従兄)を平章政事、中書右丞相のタシ・テムル中国語版を軍の司令官としてエル・テムルとの交戦の準備を進めた[4]

天順帝の即位と同じ9月、湖北江陵にいた懐王トク・テムル(武宗の次男)が大都に迎え入れられ、天順帝に対抗して大ハーンを称した。天順帝を擁する上都側は反乱を押さえ込むために大都へと侵攻したが、迎え撃ったエル・テムルらの軍勢に敗北し、上都軍は崩壊した。

10月になると内モンゴル東部を領する斉王オルク・テムルジョチ・カサルの子孫)が大都側について上都を囲み、天順帝とダウラト・シャーは完全に孤立した。ダウラト・シャーら上都側の首脳は大都軍に投降し、処刑された。天順帝も混乱の最中に没したが、どのような最期を遂げたかは不明である[1][4][5]

泰定帝の没後に起こったこれら一連の大ハーン位争いは、トク・テムルの立てた元号をとって「天暦の内乱」と呼ばれる。天順帝の死を知った上都側の支持者たちはエル・テムルに降伏する[5]が、天暦の内乱は終結を迎えず、トク・テムルとその兄コシラの間で帝位を巡る対立が続くこととなる。

出典編集

  1. ^ a b c d 新元史』巻十九 本紀第十九 泰定帝
  2. ^ ドーソン 1971, p. 189
  3. ^ 杉山 1996, pp. 205-207
  4. ^ a b 井ノ崎 1960, p. 460
  5. ^ a b ドーソン 1971, p. 197

参考文献編集

  • 井ノ崎隆興、「天順帝(元)」 『アジア歴史事典』6巻 平凡社、1960年。 
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社〈講談社現代新書〉、1996年6月。
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫〉、1971年6月。