広平王アルクトゥモンゴル語: Aruqtu、? - 1351年)は、大元ウルスに仕えたアルラト部出身の高官の一人。モンゴル帝国建国の功臣の一人、アルラト部ボオルチュの玄孫に当たる人物。

元史』などの漢文史料では阿魯図(ālŭtú)と記される。

概要 編集

アルクトゥはボオルチュ・ノヤンの後継者ボロルタイの息子のウズ・テムル(ウルグ・ノヤンとも)の息子のムラクの息子として生まれた。アルクトゥの先祖ボオルチュはチンギス・カンに仕えて「四駿」と称された人物で、四駿の子孫は代々ケシクテイ(親衛隊)長官の地位を世襲し、帝国内における高い地位を保持してきた。アルクトゥも父祖同様にまずケシクテイに入り、翰林学士承旨を経て、知枢密院事となった。アルクトゥの父のムラクは「天暦の内乱」において敗北した上都派についたことで「広平王」の印を没収されていたが、ウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)の即位を巡る政争の中でアルクトゥは復権を果たし、後至元3年(1337年)には「広平王」位を継承しボオルチュ家当主となった。

至正4年(1344年)、それまで朝廷で最大の実力者であったトクトが弾劾されて失脚すると、周囲の高官によってアルクトゥがその後任に推薦され、同年5月に中書右丞相とされた。同時期に中書左丞相とされたベルケ・ブカとアルクトゥはカアンの行幸に従うのに車を並べて出入りをともにするほど良好な関係で、朝野は両者が協力して国政に当たるのを喜んだという[1]。丞相としてのアルクトゥの業績としては、至正5年(1345年)にトクトが総責任者として編纂を進めていた『遼史』、『金史』、『宋史』を完成させたことや[2]、完成した『至正条格』をウカアト・カアンに進呈した[3]ことなどが知られている。

数年にわたって友好関係にあったアルクトゥとベルケ・ブカであったが、至正6年(1346年)に入り両者の関係は破綻する。ベルケ・ブカは以前の実力者トクトの排除を以前からアルクトゥに相談していたが、アルクトゥは「我らとていつまでも丞相の位にいられるわけではなく、いつかは丞相の地位を退く日が来る。その時人々は我々を如何に評するであろうか」と述べ、ベルケ・ブカの要請を断った。ベルケ・ブカはその場ではアルクトゥの言葉に従ったが、アルクトゥの態度には不満を抱き、遂にアルクトゥを弾劾して朝廷から追放するに至った。アルクトゥの一族の者達はベルケ・ブカの措置に怒り、「アルクトゥ丞相は何故直接カアンに直接見えて弁解しないのか」と訴えたが、アルクトゥは「我は建国の功臣ボオルチュ・ノヤンの末裔であり、丞相の地位を得るのに苦労する身ではない。カアンの御指命とあらば敢えて丞相の地位を辞退することはないが、御史台が我を弾劾するというのならば丞相の地位を退くべきである。なんとなれば、御史台とはクビライが設置した機関であり、御史台に逆らうというのはクビライに逆らうに等しいからだ」と述べて潔く丞相の地位から身を退いた。アルクトゥの失脚後、ベルケ・ブカは遂に中書右丞相となったが、アルクトゥが示唆したように長くその地位を保つことはできなかった。

至正11年(1351年)、アルクトゥは復権して太傅とされ、カラコルム方面に派遣されたが、間もなく亡くなった[4]

モンゴル年代記における記述 編集

17世紀に編纂されたモンゴル年代記の一つ、『蒙古源流』にはウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)に仕えた「アルラトのボオルチュ・ノヤンの末裔で、ラハという者の息子のイラク丞相」なる人物が登場する。「イラク」という人名は「ムラク」に由来すると考えられるが、「ウカアト・カアンに仕えた丞相」という点ではムラクの息子のアルクトゥに近く、恐らくこの人物はムラク、アルクトゥ父子を混同して作り上げた人物像であると考えられる[5]

イラク丞相はジュゲ・ノヤン(明朝の建国者朱元璋に相当する)が生まれた時、その家から五色の虹が立ったのを見て、モンゴルにとって悪しき兆候であり早く殺すべきであると進言したがウカアト・カアンはこれに従わなかった。その後、ジュゲ・ノヤンが成長すると「私の東の州の国人を、ジェイ老爺の息子のジュゲとブカ兄弟が首領になれ」と述べて大権を任せ、結果としてジュゲ・ノヤンの叛乱によってウカアト・カアンは大都を失ってしまう[6]

無論、このような『蒙古源流』の記述は史実と全く異なるものであるが、「ジュゲ・ノヤンとブカを東の州の国人の首領とした」というのは、アルクトゥ(=ジュゲ)とベルケ・ブカ(=ブカ)が1344年から1346年にかけて国政を取り仕切っていた史実を下敷きにした伝承ではないかと考えられている。この伝承においてジュゲ・ノヤンの生年(甲申=1344年)がアルクトゥとベルケ・ブカが丞相の地位に就いた至正4年(1344年)と一致するのも、「ジュゲ・ノヤン」がアルクトゥをモデルの一人としていることを示唆していると考えられる[7]。総じて、モンゴル人の間でもアルクトゥは元末において大きな役割を果たした重要な人物として断片的ではあるが伝承が伝えられていたことが窺える。

アルラト部広平王ボオルチュ家 編集

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻139列伝26阿魯図伝,「阿魯図、博爾朮四世孫。父木剌忽。阿魯図由經正監襲職為怯薛官、掌環衛、遂拜翰林学士承旨、遷知枢密院事。至元三年、襲封広平王。至正四年、脱脱辞相位、順帝問誰可代脱脱為相者、脱脱以阿魯図薦。五月、詔拜中書右丞相経監修国史、而別児怯不花為左丞相、従駕行幸、毎同車出入、一時朝野以二相協和為喜」
  2. ^ 『元史』巻139列伝26阿魯図伝,「時詔修遼経金経宋三史、阿魯図為総裁。五年、三史成。十月、阿魯図等既以其書進、帝御宣文閣、阿魯図復与平章政事帖木児塔識経太平上奏『太祖取金、世祖平宋、混一区宇、典章図籍皆帰秘府。今陛下以三国事績命儒士纂修、而臣阿魯図総裁。臣素不讀漢人文書、未解其義。今者進呈、万機之暇、乞以備乙覧』。帝曰『此事卿誠未解、史書所系甚重、非儒士泛作文字也。彼一国人君行善則国興、朕為君者宜取以為法;彼一朝行悪則国廃、朕当取以為戒。然豈止儆勧人君、其間亦有為宰相事、善則卿等宜仿效、悪則宜監戒。朕与卿等皆当取前代善悪為勉。朕或思有未至、卿等其言之』。阿魯図頓首舞蹈而出。右司郎中陳思謙建言諸事、阿魯図曰『左右司之職所以賛助宰相。今郎中有所言、与我輩共議見諸行事、何必別為文字自有所陳耶。郎中若居他官、則可建言、今居左右司而建言、是徒欲顕一己自能言耳。将置我輩於何地』。思謙大慚服。一日、与僚佐議除刑部尚書、宰執有所挙、或難之曰『此人柔軟、非刑部所可用』。阿魯図曰『廟堂即今選儈子耶。若選儈子、須選強壮人。尚書欲其詳讞刑牘耳、若不枉人、不壊法、即是好刑官、何必求強壮人耶』。左右無以答。其為治知大体、類如此」
  3. ^ 欧陽玄『至正条格序』(『圭斎集』巻7、 四部叢刊初編本)には、「上乃勅中書専官典治其事、遴選枢府・憲台・大宗正・翰林集賢等官明章程習典故者、遍閲故府所蔵新旧条格、雑議而圜聴之、参酌比校、増損去存、務当其可。書成、為『制詔』百有五十、『条格』千有七百、『断例』千五十有九。至正五年冬十一月十有四日、右丞相阿魯図……等入奏、請賜其名曰『至正条格』。上曰、可。既而群臣復議曰、『制詔』、国之典常、尊而閣之、礼也……『条格』・『断例』、有司奉行之事也……請以『制詔』三本、一置宣文閣、以備聖覧、一留中書、一蔵国史院。『条格』・『断例』、申命鋟梓示萬方。上是其議」とある
  4. ^ 『元史』巻139列伝26阿魯図伝,「先是、別児怯不花嘗与阿魯図謀擠害脱脱。阿魯図曰『我等豈能久居相位、当亦有退休之日、人将謂我何』。別児怯不花屡以為言、終不従。六年、別児怯不花乃諷監察御史劾奏阿魯図不宜居相位、阿魯図即避出城。其姻党皆為之不平、請曰『丞相所行皆善、而御史言者無理、丞相何不見帝自陳、帝必辯焉』。阿魯図曰『我博爾朮世裔、豈丞相為難得耶。但帝命我不敢辞、今御史劾我、我宜即去。蓋御史台乃世祖所設置、我若与御史抗、即与世祖抗矣。爾等無復言。阿魯図既罷去、明年、別児怯不花遂為右丞相、不久亦去。十一年、阿魯図復起為太傅、出守和林辺、薨、無嗣」
  5. ^ 岡田2010,191頁
  6. ^ 岡田2004,161-175頁
  7. ^ なお、「漢人でありながらモンゴル帝国の高官となった」という点では太平(タイピン)もジュゲ・ノヤンのモデルの一人になっていると考えられる(岡田2010,191頁)

参考文献 編集

  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 新元史』巻121 列伝第18
  • 蒙兀児史記』巻28 列伝第10