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アルベルト・ラットゥアーダ

アルベルト・ラットゥアーダAlberto Lattuada, 1914年11月13日 - 2005年7月3日)は、イタリア映画監督脚本家である[1]

Alberto Lattuada
アルベルト・ラットゥアーダ
アルベルト・ラットゥアーダ
生年月日 (1914-11-13) 1914年11月13日
没年月日 (2005-07-03) 2005年7月3日(90歳没)
出生地 イタリアの旗 イタリア ロンバルディア州ミラノ県ミラノ
死没地 イタリアの旗 イタリア ラツィオ州ローマ県ローマ
職業 映画監督脚本家
ジャンル 映画ネオレアリズモイタリア式コメディ
活動期間 1940年 - 1989年
著名な家族 フェリーチェ・ラットゥアーダ
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来歴・人物編集

1914年(大正3年)11月13日、イタリア・ロンバルディア州ミラノ県ミラノで生まれる。父はオペラオペレッタを多数手がけた作曲家フェリーチェ・ラットゥアーダ(1882年 – 1962年)。最初は文学に興味を抱き、大学在学中の1932年(昭和7年)、反ファシズム雑誌『カミナーレ…』(Camminare..., 「歩く…」の意、隔週刊)の編集スタッフに加わる。

1940年(昭和15年)、脚本家および助監督として映画界のキャリアを始める。最初の作品はマリオ・ソルダティ監督のアリダ・ヴァリ主演映画『小さな古風な世界』(Piccolo Mondo Antico)である。1943年(昭和18年)には、映画『理想主義者ジャコモ』(Giacomo l'idealista)で監督デビューする。

第二次世界大戦終結後の1948年(昭和23年)、ナストロ・ダルジェント監督賞を受賞した前作 Il delitto di Giovanni Episcopo (「ジョヴァンニ・エピスコーポの殺人」)[1]同様、フェデリコ・フェリーニを脚本に起用しての映画『慈悲なき世界』は、ネオレアリズモ作品であった。1950年(昭和25年)、フェリーニと共同監督・共同脚本・共同製作した映画『寄席の脚光』は、フェリーニの初監督作品であった。時代のモードに沿い、「イタリア式コメディ」、ジャクリーヌ・ササール主演の青春もの、文芸もの、戦争もの、1970年代エロティック映画などをも手がけてゆく。共同執筆する脚本家もほとんど固定しておらず、またつぎつぎに違うスター主役の作品を手がけた。

1958年(昭和33年)、ディノ・デ・ラウレンティス製作によるイタリアとフランスユーゴスラヴィアとの合作映画『テンペスト』では、B班監督にミケランジェロ・アントニオーニを起用、こうした大作映画もラットゥアーダのものである。同年、『芽ばえ』でナストロ・ダルジェント脚本賞を受賞、1961年(昭和36年)、 L'imprevistoサン・セバスティアン国際映画祭監督賞を受賞、1963年(昭和38年)、 Mafioso で同映画祭金貝賞を受賞している[1]

1970年(昭和45年)、第20回ベルリン国際映画祭の審査員を務める[1]。1971年(昭和46年)、 Venga a prendere il caffè... da noi でナストロ・ダルジェント脚本賞を受賞、1984年(昭和59年)、ヴェネツィア国際映画祭でピエトロ・ビアンキ賞を受賞[1]、1993年(平成5年)には、映画界への長年の貢献によりフライアーノ国際賞を受賞している[1]

2005年(平成17年)7月3日、首都ローマアルツハイマー症により死去した。満90歳没。

フィルモグラフィ編集

脚本家時代編集

1940年代 - 1950年代編集

特筆以外は監督作。

オムニバス『街の恋L'amore in città』(参加監督ミケランジェロ・アントニオーニ、フェデリコ・フェリーニ、カルロ・リッツァーニ、アルベルト・ラットゥアーダ、フランチェスコ・マゼリ、ディーノ・リージ、チェーザレ・ザヴァッティーニ)の一篇

1960年代 - 1970年代編集

1980年代編集

ドキュメンタリー・オムニバス『12 registi per 12 città』(参加監督ミケランジェロ・アントニオーニ、ベルナルド・ベルトルッチジュゼッペ・ベルトルッチマウロ・ボロニーニ、カルロ・リッツァーニ、マリオ・モニチェリエルマンノ・オルミジッロ・ポンテコルヴォフランチェスコ・ロージマリオ・ソルダーティリナ・ウェルトミューラーフランコ・ゼフィレッリ)の一篇

関連事項編集

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  1. ^ a b c d e f g Alberto Lattuada, Internet Movie Database (英語), 2010年8月25日閲覧。

外部リンク編集