アントニオ猪木対モハメド・アリ

1976年に行われたプロレスラー・アントニオ猪木とプロボクサー・モハメド・アリの異種格闘技戦

アントニオ猪木対モハメド・アリ(アントニオいのきたいモハメド・アリ)は、1976年(昭和51年)6月26日に行われた新日本プロレスの企画した格闘技世界一決定戦第2戦。日本プロレスラーであるアントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリによる異種格闘技戦で「世紀の一戦」とされた。試合会場は日本武道館

試合が行われた日本武道館
アントニオ猪木
モハメド・アリ

試合の実現

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1975年(昭和50年)3月に、WBAWBC統一世界ヘビー級チャンピオンのアリは自民党国会議員日本レスリング協会会長八田一朗に「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか?」と発言した。アリは大口をたたくことで有名で、当然この発言もアリ独自のリップサービスであることは世間も承知だった。

アリの発言を聞きつけたNET(後のテレビ朝日)の編成局長でスポーツ中継を多く手がけた永里高平は、アリとは当初高見山を対戦相手に画策し日本相撲協会と交渉をしていたが[1]、これを聞きつけた猪木は自分が名乗り出ることを永里に伝え、終生猪木を寵愛していたNET専務の三浦甲子二も、猪木でもいいのではと永里に案を振ったことで[1]、猪木が対戦相手に浮上した。三浦はプロレスファンには1983年の新日本プロレスのクーデター事件で猪木の復権をさせる鶴の一声をした人物として知られるが、資金面を含め多大な協力をし、政財界にも強い影響力を持ち、新日本プロレスと猪木、新間寿らのよき理解者であり、アリ戦実現にニューヨーク支局を担保に入れるなどまでして全面協力した。アリ戦の数日前には三浦は酔って猪木の家に上がり込んだあげく、猪木にマッサージさせたこともあり、美津子夫人は怒ったが、翌朝朝食を作って送り出してくれたという。この一件で三浦は猪木夫妻を気に入り、アリ戦後の借金も一部NETからの資金で肩代わりしてくれたという[2]

猪木は「100万ドルに900万ドルを足して1,000万ドル(当時のレートで30億円)の賞金を出す。試合形式はベアナックル(素手)で殴り合い。日時、場所は任せる」といった挑戦状をアリ側に送ったが、マスコミも現役のボクシング世界王者アリとプロレスラーが戦うなど実現は到底不可能と思っており、当初は冷めた反応だった。

しかし、この猪木の挑戦状に反応したアリは6月9日、マレーシアでのジョー・バグナーとの防衛戦前に東京に立ち寄り、フロイド・パターソンジミー・エリスらを従え高輪プリンスホテルで会見を開いた[3]。会見で新日本プロレスの杉田渉外係から「10分間でお前をマットに沈めてやる」と記載された猪木の挑戦状を渡された[3]アリは「俺なら5分でやっつける[3]」「猪木なんてレスラーは名前すら知らなかったが、相手になる。レスリングで勝負してやる」「バグナーとの試合が終わったら相談しよう[3]」と発言、これにより半信半疑だったマスコミも一気に火がつき、新聞でも大きく取り上げられることとなった。毎日新聞は猪木側が提示したファイトマネー1000万ドルに対しアリは「金の問題ではない」と返したと報じた[3]。ところが、ボブ・アラムを含めたアリのマネージャー群が、一連のアリの発言を撤回し、全てを白紙に戻してしまった。つまり世界的に有名なアリと知名度の低い日本のレスラーを戦わせるということなど、そう簡単に許可できるものではなかったのである。これに反発した猪木は、アリが逃げられないように外堀を埋めていった。10月に入るとアメリカヨーロッパのマスコミに対してアリ戦のアピール記事と写真を送りつけた。

1976年2月6日、猪木は「格闘技世界一決定戦」第1戦として1972年ミュンヘンオリンピック柔道金メダリストのウィレム・ルスカと対戦し勝利。

反響が大きくなってきて、アリ側も猪木の挑戦を無視できなくなり、ニューヨークロサンゼルスにおいて猪木と極秘会談を行った。試合形式、ファイトマネー、ルール問題が難航したが、ある程度まで交渉が進んで行き、1976年(昭和51年)3月25日にはニューヨークで調印式を行うこととなった。猪木は妻・倍賞美津子を連れ、袴姿で調印式に登場した。アリは、猪木の突き出た顎を指して「まるでペリカンのくちばしだ。お前のそのくちばし(顎)を粉々に砕いてやる」と挑発的な言葉を浴びせた。これに対して猪木は全く顔色を変えず、「私の顎は確かにペリカンのように長いが、鉄のように鍛え上げられている」「オレの顎はおまえのパンチなんかにびくともしないぜ[4]」「風が吹けば私はそよぐ。倒れはしない[4]」と返答。更に「日本語をひとつ教えてあげよう。アリとは日本で虫けらを指す言葉だ」と言い返したところ、アリは激高し「ペリカン野郎め。今すぐ叩きのめしてやるぞ」と大声で叫んだ。毎日新聞によると、3月31日、猪木が帰国し、試合形式(3分15ラウンド制)、ファイトマネーの額、アリのグローブは通常は8オンスだが4オンス、猪木は素手、ダウンの時はどちらかがギブアップ、のびるまで攻撃できるルールであることを明かした[5]

ファイトマネーの問題は、1,000万ドルを譲らないアリ側と、600万ドルを提示する猪木側で折り合いがつかず、調印式当日まで揉めた。しかし最後はアリ本人が「600万ドルは飲めないが、600万ドル以上ならOKだ」と言い、結局610万ドルで双方とも合意に達した。

アリのファイトマネーは興行収益の他にNET(後のテレビ朝日)、東京スポーツ社等、各方面から借金をしてアリに支払われる予定であった。試合前に180万ドル、試合後に120万ドル、クローズドサーキットの収入から310万ドル、合計610万ドルがアリのファイトマネー、300万ドルが猪木のファイトマネーとして予定された[5]。ただし、最終的に興行が失敗に終わったため、実際に猪木側がアリ側に支払った金額は180万ドルに留まったとされている。

この一戦のプロモーターであった康芳夫は、アリとその陣営はプロレスを馬鹿にしていたというが[6]、アリはもともとプロレスファンであることが知られており、来日前の1976年6月10日、当時のビジネスの拠点だったシカゴでのAWAの興行において、猪木戦のプロモーションとしてバディ・ウォルフらを相手にミックスド・マッチを行ったこともあり[7]、プロレスというエンタテインメントの特性などは詳しく理解していた。しかし両陣営の話が互いに一方的な条件を出し合い譲ることなく、事前交渉が決裂した形になったともされる。レフェリー兼外国人プロレスラーの世話係の担当であったミスター高橋は後に自著でアリを崇高な人格者と表現した上で、その取り巻きの態度の悪さには怒りを露わにしている。高橋はそれらの件について猪木も腹に据えかねる思いであったろうと推察している。

アリには試合に向けてヘッドコーチとしてアメリカテコンドーの父で統一教会[8](後の世界平和統一家庭連合)の李俊九英語版(ジョン・リー)がついた[9]

アリの来日とルール策定

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1976年(昭和51年)6月16日、アリが来日した。羽田空港には2000人のファンが押し寄せ、大混乱となった。6月18日に行われた会見の場では、両者は試合前からヒートアップをしており、アリのビッグマウス(リップサービス)がさらにそのムードを煽った。「猪木の汚い顔は見たくない」「俺は世界一有名な男。猪木は俺と戦ったおかげで有名になる男」など、会見中は止まることなく猪木を挑発し、その口を閉じることはなかった。また、アリは猪木に本気の力で技をかけたり、猪木はアリに松葉杖を送るパフォーマンスを行った[10]。猪木も「ウチの会社の宣伝マンとして雇いたい」とジョークを言ってアリを苦笑させるなど、前哨戦では互角の戦いを見せていた。

当時、新日本プロレス所属の現役プロレスラーであった山本小鉄は、のちにサムライTVの番組内にて「アリは単にエキシビションのつもりで来日したが、公開スパーリングでの猪木の本気振りを観て驚き、『試合をキャンセルする』と申し出た。その為『どんなルールでも構わないからとにかく試合をしてほしい』と交渉した結果、あのルールになった」と話している。通訳を務めたケン田島によると、アリは最初「それでリハーサルはいつやるんだい?」と聞いてきたという。「ノー! ノー! これはエキシビションではない。イッツ、リアルファイト! OK?」と伝えると驚いた表情で「何だと?」と返したという。アリのプロモーターであったボブ・アラムやアリの主治医であったファーディ・パチェコも、プロレスラーはパフォーマーやペテンだと思っていたため当初は真剣勝負だとは考えていなかったが、日本に到着して関係者が真剣だったことで、そこで初めてこの試合は真剣勝負なのだとわかったと回想している[11]

6月20日に後楽園ホールで入場料3千円が設定された公開スパーリングでは徹夜組もでた。ミスター高橋によれば、スパーリングに先立ってアリキックを考案していたほど入れ込んでいた猪木の真剣さを目の当たりにしたアリ側は、ルールの修正を求めるようになる。猪木側の交渉は新間寿に一任されており、ルール問題について連日の交渉に臨んだ。試合当日まで1週間を切ってもなお交渉が難航すると、アリ側は「それなら試合はせずにアメリカに帰る」と申し出た。この問題に頭を抱える新間に猪木は「(要求は)何でも飲め。俺はアリを困らせるために日本に呼んだんじゃなく、アリと試合をするために呼んだんだ」と促し、ルールは変更された。この時点で猪木は「アリに勝つ」ことではなく「アリと試合をする」ことに重点を置いていたと思われる。後楽園ホールでのスパーリングのほか、入場料2千円のアリのジムでの公開練習、参加費5万円の京王プラザホテルでのディナーパーティが行われた。パーティの定員は400人であったが完売した。

試合のルールは、タックルチョップ投げ技関節技などのほとんどのプロレス技が反則になるというもので、このルールは事前のルール決定の会談においての交渉によるものだったと言われている。一方、ノンフィクション作家柳澤健は取材の結果これらのがんじがらめルール説を否定しており、実際の禁止事項は、頭突きヒジ打ち膝蹴り頸椎や喉への打撃、スタンドでの蹴り(ただし膝をついたり、しゃがんでいる状態の時の足払いは許される)というものだったと主張している[12]。猪木が柳澤のインタビューを受けた際、これを否定する発言はしていない[13]。後年の猪木自身がメディアで試合を振り返った際は、『3分15ラウンド、ロープに触れた相手への攻撃は禁止、立った状態でのキックは禁止、頭突き、ひじ打ちは禁止』と説明されている[14]他、「競技者がロープに触れたときはブレークとなるというルール」でどう戦うつもりだったかを語っている[15]。なお、実際の試合では、猪木はタックルを10Rに一回、13Rに二回仕掛けている。

試合当日

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入場料金はロイヤルリングサイド席(後援者や関係者のみで、一般販売はせず)が30万円、特別リングサイドが10万円、リングサイドAが8万円、リングサイドBが6万円という異例の金額であった。この試合の宣伝ポスターは数種類存在し、そのひとつには俳優の石坂浩二によって描かれたものもある。猪木がこの試合のためにあつらえたガウンも石坂のデザインである。

試合当日は「格闘技オリンピック」と題して、ニューヨーク(WWWF主催興行、ショーダウン・アット・シェイとして)ではWWWFヘビー級王座戦としてブルーノ・サンマルチノスタン・ハンセン異種格闘技戦としてアンドレ・ザ・ジャイアントチャック・ウェプナーなど。シカゴではAWA世界ヘビー級王座戦としてニック・ボックウィンクルバーン・ガニアAWA世界タッグ王座戦としてディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンなど。ヒューストンではNWA世界ヘビー級王座戦としてテリー・ファンクロッキー・ジョンソン、ロサンゼルスではウィレム・ルスカ対ドン・ファーゴ英語版など。全米各地でイベントが開催された。これらの試合は猪木対アリ戦も含めて、全米で170か所、カナダで15か所、イギリスで6か所などでクローズドサーキット(劇場での有料中継)で流れた(入場料は1人20ドル)。

試合前にテレビカメラがアリの控え室に入り、アリの試合前の様子を撮影していたが、アリのスパーリングの時間になると取り巻きがカメラのレンズ部分に手をかざし、その場を覆い隠していた。これはガチガチに固めたバンデージと通常の10オンスのグローブが使われるヘビー級ボクサーの試合ではまず使われない4オンスのグローブを使用を隠すための物である[要出典]。一方、毎日新聞は試合の2か月以上前に猪木側からの情報としてグローブは通常は8オンスだが4オンスと報じていた[5]。また、「シリコンを拳に注射した」「石膏を仕込んだ」と訝しむ声も多くあり、ミスター高橋は暴露本の中で「バンデージを巻く際に退出を命じられた」と明かし、猪木自身も後にテレビ朝日で放送されたアリの追悼番組で「拳はセメントのように固かった」と述懐している。これに対して、元WBA、WBC世界ストロー級(後のミニマム級)王者の大橋秀行は「そんなことをしたらボクサー自身が拳を痛めてしまうため、100%ありえない」と否定している。ただしボクシングでボクサーがグローブやバンデージの中に硬質の物質を不正に仕込むのは古くから存在する手法である。有名なところでは、古くはジャック・デンプシーが石膏を仕込んでいたことをマネージャーが暴露、近年ではアントニオ・マルガリートが石膏を仕込んでいたことが発覚して処分されている[16]。また、2010年にはバンデージ内に異物を入れて固める不正が横行したことで、WBCが選手の使用したバンデージを試合後に回収するなどチェックをさらに強化している[17]

一方の猪木側の控え室にもカメラが入ったが、猪木は終始無言の状態であった。新間は自身の交渉でルールが圧倒的に猪木不利になってしまった償いとして「社長、黙ってこれを履いてください」と、猪木に鉄板入りのリングシューズを用意した。しかし猪木は「新間、俺は後で悔いの残る試合はしたくないんだよ」と答え、改造シューズの使用を断った(なお、試合で相手選手には内密で鉄板入りのリングシューズを履く行為は契約違反に該当し、相手に怪我をさせれば傷害罪も成立する)。

ちなみに猪木は後年、アリのパンチ力について「ちょっと小突かれた程度でグラグラッときた」「グローブに細工をしていようがしていまいが、あまり気にする必要はなかった。まともに喰らったら間違いなく立てない、超一流のパンチ」と述べている。

アリのマネージャーは伝説のプロレスラーフレッド・ブラッシーが務めた[11]。花束贈呈とラウンドガールは小牧りさ[注釈 1][18]山本由香利[注釈 2]

試合開始のゴングと共に、猪木はアリの足元にスライディングをして、アリを転倒させる作戦に出たが失敗。それから猪木は幾度となくリングの上に寝転がり、アリの脚を集中的に蹴った。そんな猪木の攻め方に、少し苛立ちを感じたアリは猪木に立つように挑発。猪木も何度か立ち上がりはしたものの、またアリの脚を狙いに寝転がった。猪木の蹴りによるダメージは確実にアリに蓄積していたが、試合中では脚の痛みを晒け出すことなく常に軽やかなステップを踏み続けた。猪木のセコンドを勤めたカール・ゴッチは、戦法に対して特にアドバイスをすることはしなかった。しかし後に、猪木にとって不利な試合ルールであったことに理解を示しつつも「戦法を間違えた」と評したことがある[19]

最終ラウンドに近づくにつれて、キックを受け続け体力も消耗していったアリのやる気は徐々に薄れていき、猪木を挑発することも無くなった。猪木もアリを転がすこともあったが決定打を出すことはできず、3分15ラウンドが終わった。

15ラウンドのほぼ全ての時間を寝ながら戦った猪木と何もなす術のないアリに対して、観客は物を投げたり、罵声を浴びせた。それどころか、翌朝のスポーツ新聞朝刊1面には、「世界中に笑われたアリ・猪木 スーパー茶番劇・何が最強対決だ」(日刊スポーツ)、「なんだ!!アリ・猪木 不快指数100でドロー がっかり世紀のストレスマッチ」(デイリースポーツ)、「ファン置き去り パンチもなければ投げもなし 15回ダンスと昼寝」(西日本スポーツ)、「高いでショー 1発3億円 わざナシ、勝負ナシ、バ声アリ」(スポーツニッポン)といった酷評が見出しとして踊っていた。

勝負は判定に持ち込まれたが、ジャッジ3人の判定は、この試合のメインレフェリーを兼任したジン・ラベールがドロー(ポイント:71対71)、遠山甲日本ボクシング協会公認レフェリー)が猪木(72対68)、遠藤幸吉がアリ(74対72)に付け、両者引き分けの裁定となった[20][21]。なお、ミスター高橋は遠藤が採点記入方法を間違えたと後年指摘しており、これがなければアリが勝利していたという[22]

試合後、アリは李俊九を同行し、月内に韓国に向かった。100万人以上の人々がオープンカーパレードでアリを応援した。アリと李は4日間ソウルに滞在し、その間にアリは12回以上のイベントに出演し、いくつかの特別イベントにも出席した[9]

その後、AP通信の報道によると猪木のアリキックによりアリの太ももは激しく腫れ上がり、膝の裏に血栓症を患い、サンタモニカの病院に入院した。かなりの重症であったが、9月に予定されていたケン・ノートン戦の準備のため、アリは7月4日(日)午後に短期間で強引に退院したという[23]。ボブ・アラムはアリの脚のダメージについて、脚を切断する寸前だったほど悪く、ケン・ノートンとの試合がキャンセルになるだけでなく、アリは一生障害を背負う可能性があったほど酷かったと語った[11]。主治医のファーディ・パチェコは脚の血栓が脳や心臓の血管を詰まらせて死に至ることを危惧。韓国で予定されていたエキシビジョンマッチを止めるようアリを説得している[11]

その後の猪木とアリ

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この一戦を終えた猪木の名は世界に広まったが、その広まり方に問題があり、ある媒体などは「足を広げた売春婦がリングの中にいた」と報じていた。しかしこれによって新日本プロレスはヨーロッパ各国でテレビ放送されるまでになった。1976年にはパキスタン遠征やドイツ遠征を果たしたことでも、それは証明される。

猪木および新日本プロレスは多額の借金を背負わされることになった。そのため、新日本プロレスはその後も人気のあった異種格闘技戦を、年間シリーズとは別に興行せざるを得なくなった。

猪木のファイトマネーはクローズドサーキットの収益から100万ドルを受け取る予定だったが、収益が見込みに達さず、その責任を取る形で猪木は社長から会長職に棚上げ、新間は営業本部長から平社員に格下げとなった。このファイトマネー問題で新日本側はアリ側に「こういう事態になったのはアリ側の強引なルール変更が原因でまともな試合ができなかったため」という理由で損害賠償を求め、アリ側も契約不履行の訴訟をするに至った。訴訟の途中で円高ドル安が進行して1ドル310円から200円台になったことから新間は弁護士から「和解せずに一度だけでも裁判を行ってはどうか」と勧められたが、後に新間は弁護士抜きでアリと話し合い、最終的に和解した上に再戦に関する文書まで書いた。

1977年から猪木はアリの映画『アリ/ザ・グレーテスト』の主題歌『アリ・ボンバイエ』(Ali Bombaye) をアレンジし自身の入場曲『炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜』として使用した[11]

ジャーナリストのアーロン・タレントによると猪木戦で負った血栓症の後遺症の影響でアリはその後、誰もノックアウトできずに終わった[11]

2人の関係は試合の後も続き、アリが自身の結婚式に猪木を招待。猪木が平壌で「平和の祭典」を行った際にはアリは、北朝鮮入りをして猪木とリック・フレアーの試合の立会人を務めた。1998年(平成10年)4月4日に東京ドームで行われたアントニオ猪木の引退試合には、アリがパーキンソン病で侵されていた体で無理を押して来日、リングに上がって猪木に花束を贈呈した。

2014年4月には、アリがツイッターで、猪木対アリの試合画像を添付して「元祖総合格闘家はモハメド・アリだろ?」とツイートしている[24]

2016年6月4日、前日の3日にアリが死去したという報が日本で伝えられると、猪木は所属事務所を通じて「逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。最近では、体調を崩されているということを聞いて心配しておりましたが、こうして、かつてのライバルたちを見送ることは非常に辛いものです。あの戦いから今年で40年。6月26日が『世界格闘技の日』と制定された矢先の訃報でしたので残念です」というコメントを発表した[25]

アリが死去した際には、ニューヨーク・タイムズ[26]ロサンゼルス・タイムズ[27]などで猪木対アリの特集記事が組まれた。

ソフト化

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本試合はのちに頻繁に行なわれた異種格闘技戦の始祖と言われているだけに、ビデオ、DVDなどのソフト化、ノーカット再放送の要望は高かったが、さまざまな問題(版権、ロイヤリティ等)でソフト化は実現してこなかった。再放送に関してはダイジェストで2度ほど放送されたことがあるが、ノーカット放映は2016年までされていなかった。ソフト化されない理由について、ワールドプロレスリングのプロデューサーだった松本は「売れるとは思えないから」と答えている。

そのような中、アリ側の権利関係などをクリアした上で、2014年6月26日に集英社から「燃えろ!新日本プロレス」シリーズの「エクストラ」として、2枚組DVDが発売された[28]

2016年6月3日にアリが死去したことを受け、テレビ朝日系列にて、同年6月12日の20:58 - 23:10[注釈 3]に追悼特別番組『モハメド・アリ緊急追悼番組 蘇る伝説の死闘「猪木VSアリ」』が放送された[29][30]。番組内では全15ラウンドをノーカットで放送するとともに選手、セコンドの声を解析、字幕としての反映をしている。

参考文献

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  • 柳澤健1976年のアントニオ猪木』文藝春秋、2007年3月15日。ISBN 978-4-16-368960-9http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163689609 
  • 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)pp8 - 11

脚注

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注釈

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  1. ^ 秘密戦隊ゴレンジャー』のペギー松山(モモレンジャー)の扮装で登場した。『ゴレンジャー』は本対戦のために放送休止している
  2. ^ 後述のDVDでは両者、顔にぼかしがかかってる。また2016年放送の再放送版では花束贈呈場面は削られ、ラウンドガール場面の放送は減らされた。
  3. ^ 日曜エンターテインメント

出典

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  1. ^ a b モハメド・アリvsアントニオ猪木「40年間語られなかった、ある真実」【後編】『ワールドプロレスリング』初代プロデューサーの回想(細田 マサシ) @gendai_biz”. 現代ビジネス. 2021年8月3日閲覧。
  2. ^ 『G‐SPIRITS』30号・平成26年2月5日発行/辰巳出版刊 より 堀内「そこにはちょっと面白い話があるんですよ。三浦甲子二という人物を御存じですか?」 ― プロレスを応援してくれたNETの専務で、豪傑だったと坂口さんは仰っていました。 堀内「(略)朝日新聞から来た三浦が編成担当だったんだけど、この人が凄いんですよ。アリとやる何日か前に、酔っぱらった三浦が“これから猪木のところに連れて行け!”と言い出してね。困った私が電話を入れたら、猪木は“いいよ、おいでよ”って。それで酔った勢いで行っちゃったんですよ。しかも家に上がり込んで、また酒を飲み始めたんです。それから布団を敷いてくれて横になったんだけど、三浦が猪木に“ここ揉め、あそこ揉め”と言い出したから、倍賞美津子が“大事な試合を控えているウチの主人に何をさせるの!? もういい加減に寝なさいよ!”って怒り出しちゃってね(笑)。あの時は、さすがの三浦も“ハイ!”ってすぐに寝た記憶がある(笑)。でも翌朝、倍賞美津子は朝飯を作ってくれて送り出してくれてね」 ― おそらく猪木さんが一番ピリピリしていた時期ですよね? 堀内「だから、猪木には“大事な試合の前なのに大変だったね。ゴメンね”って。その後、三浦は“猪木っていい男だな。倍賞美津子もいい女だな”ってやたらと誉めていましたね。そういうこともあってアリ戦の後に新日本プロレスは凄い赤字になったんだけれども、三浦は猪木を助けるためにポンと何億円か出したんですよ」
  3. ^ a b c d e 「アリにアントニオ猪木挑戦?? 東京に立ち寄り「五分でKOだ」」『毎日新聞毎日新聞社、1975年6月10日、15面。
  4. ^ a b 「アリと猪木「舌」の熱戦 そろって会見」『毎日新聞毎日新聞社UPI通信社)、1976年3月26日、夕刊、4面。
  5. ^ a b c 「1回3分の15回戦制 アリとアントニオ猪木」『毎日新聞毎日新聞社、1976年4月1日、14面。
  6. ^ 暗黒プロデューサー・康芳夫が語る:失敗に終わったロス五輪放映権獲得騒動の真相(サイゾー June 2007 より)・・・2”. 康芳夫 official HP (家畜人ヤプー.club) (2016年7月25日). 2021年8月3日閲覧。
  7. ^ 『Gスピリッツ Vol.12』P14-15(2009年、辰巳出版ISBN 4777806847
  8. ^ 増田紘一 著「勝共連合と国際謀略 訪米調査レポート」、日本共産党中央委員会出版局 編『韓国の謀略機関 国際勝共連合=統一協会』(初版)日本共産党中央委員会出版局、日本、1978年6月28日、150頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12282053/80。「統一教会には三人の重要なKCIA要員がついてるとみていますよ。一人は朴普熙という文鮮明の側近ナンバーワンで、(略)ジョン・リー(李俊九)、それに文鮮明です。」 
  9. ^ a b Jhoon Rhee, Father of American Tae Kwon Do”. www.jhoonrhee.com. 2019年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年5月16日閲覧。
  10. ^ “猪木とアリ、伝説の一戦から40年 世界格闘技の日制定”. https://www.asahi.com/articles/photo/AS20160516002459.html 
  11. ^ a b c d e f The Joke That Almost Ended Ali’s Career - ウェイバックマシン(2022年10月8日アーカイブ分) (Aaron Tallent) The Sweet Science.com 2016-07-10
  12. ^ “アリ対A.猪木 バンテージに石膏や裏ルールなど噂の真相”. 週刊ポスト. (2016年6月16日). https://www.news-postseven.com/archives/20160616_420603.html 
  13. ^ 柳澤健 『完本 1976年のアントニオ猪木』〈文春文庫〉猪木へのインタビューは文庫版のみの収録
  14. ^ “アントニオ猪木さんが明かした「アリ戦の真実」”. https://www.sponichi.co.jp/battle/news/2022/10/01/kiji/20221001s00003000231000c.html 
  15. ^ “【追悼】アントニオ猪木はなぜモハメド・アリと戦い、どう攻略しようとしていたのか[インタビュー特別公開”]. https://gonkaku.jp/articles/11708?page=2 
  16. ^ Cheating has always been part of boxing and MMAロサンゼルス・タイムズ 2016年6月10日
  17. ^ “バンテージ回収…トリプル世界戦で初適用”. スポーツニッポン. (2010年3月27日). https://www.sponichi.co.jp/battle/news/2010/03/27/kiji/K20100327Z00002990.html 2016年7月10日閲覧。 
  18. ^ “アリ氏に花束贈呈した“モモレンジャー”小牧りさ「別世界の人のよう」”. Sponichi Annex. (2016年6月5日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/06/05/kiji/K20160605012723550.html 
  19. ^ 篠原勝之『ケンカ道(けんかみち) その“究極の秘技”を探る』祥伝社〈ノン・ライブ〉、1987年12月、210頁。ISBN 4-396-62007-1 
  20. ^ 二居隆司 (2015年7月31日). “猪木VSアリ戦<5>…「どう見ても猪木さんの勝ちだよ」 : ライフ”. 読売新聞 (YOMIURI ONLINE). 2018年10月18日閲覧。
  21. ^ 【猪木さん死去】坂口征二戦“黄金コンビ”初のシングル対決ほか/名勝負ベスト30&番外編”. 日刊スポーツ (2022年10月1日). 2022年12月10日閲覧。
  22. ^ ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。ISBN 9784800289216 pp.218-219
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  26. ^ “Ali’s Least Memorable Fight”. ニューヨーク・タイムズ. (2016年6月5日). https://www.nytimes.com/2016/06/06/sports/who-lost-when-muhammad-ali-fought-a-pro-wrestler-the-fans.html 
  27. ^ “The Japanese pro wrestler who almost got Muhammad Ali's leg amputated”. ロサンゼルス・タイムズ. (2016年7月10日). http://www.latimes.com/sports/sportsnow/la-sp-japanese-muhammad-ali-20160606-snap-htmlstory.html 
  28. ^ “猪木VSアリ初DVD化!6月26日ノーカット版で発売”. スポーツ報知. (2014年5月25日). https://web.archive.org/web/20140524231009/http://www.hochi.co.jp/topics/20140525-OHT1T50039.html 
  29. ^ “テレ朝 12日にアリ氏追悼特番 猪木戦全15Rの全貌公開”. スポーツニッポン. (2016年6月7日). https://www.sponichi.co.jp/battle/news/2016/06/07/kiji/K20160607012738311.html 2016年6月8日閲覧。 
  30. ^ “モハメド・アリ 緊急追悼番組 蘇る伝説の死闘 猪木vsアリ”. テレビ朝日. https://www.tv-asahi.co.jp/ali_special/ 

関連項目

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外部リンク

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