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アーディド1150年 - 1171年9月)は、エジプトを支配したファーティマ朝の第14代、最後のカリフ(在位:1160年 - 1171年)。

アーディド
العاضد لدين الله
ファーティマ朝カリフ
在位 1160年 - 1171年

出生 1150年
死去 1171年9月
王家 ファーティマ朝
父親 ユースフ(ハーフィズの子)
宗教 イスラム教イスマーイール派
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生涯編集

第11代カリフだったハーフィズの孫で、1160年に11歳で即位した。この頃のファーティマ朝はすでに末期的状況にあり、国内では政治的実力の無い幼君のもとで実権をめぐってシャーワルディルガームが抗争し、国外では肥沃かつ戦略的重要地であるエジプトをめぐってエルサレム王国をはじめとする十字軍ザンギー朝などのイスラム王朝が虎視眈々と機会をうかがっていた。シャーワルとディルガームの抗争は1163年になると激化し、不利な状況に陥ったシャーワルはザンギー朝に救援を要請する。ザンギー朝のヌールッディーンは配下の猛将・シール・クーフとその甥のサラーフッディーン(サラディン)を派遣し、1164年にディルガームは討たれた。

ところがその後、シール・クーフの勢力がファーティマ朝で絶大になったため、シャーワルはシール・クーフの排斥を目論んで1168年にエルサレム王国のアモーリーの軍をエジプトに誘引した。これに激怒したシール・クーフはサラーフッディーンと共にエルサレム軍を破り、1169年には裏切ったシャーワルを殺害した。これによりシール・クーフが完全なる権力者として君臨することとなり、アーディドもシール・クーフを宰相に任命せざるを得なくなったのである。

だが、シール・クーフは1169年3月に急死し、その軍は甥のサラーフッディーンが継ぐこととなった。アーディドはサラーフッディーンを新たな宰相に任命したが、ファーティマ朝の黒人宦官で権勢を誇っていたムータミン・アルヒラーファは、シール・クーフならまだしも30歳前後のサラーフッディーンなら排斥できると誤解し、黒人奴隷兵を集めて挙兵しようとした。だが8月のカイロ市街で行なわれたバイナルカスラインの戦いで黒人奴隷兵の軍勢は壊滅してムータミンも殺され、ファーティマ朝は完全にサラーフッディーンの支配下に入った。

1171年9月に22歳で死去した。アーディドの死により、ファーティマ朝は名実共に断絶し、サラーフッディーンのアイユーブ朝の時代に入ることになる。

アーディドは幼年で即位したという不幸もあるが、自身が才能に恵まれず政治にも無関心だったため、有力者の傀儡として宮中に籠もりきる人生を過ごした。ただ、サラーフッディーンに対する黒人奴隷兵の反乱はアーディドによる謀略ともいわれており、これが事実ならかえってアーディドはサラーフッディーンに新王朝創設の好機を与えてしまったことになる。なお、アーディドがサラーフッディーンと対立していたことを示す傍証がある。アーディドが亡くなる3日前、サラーフッディーンは第1金曜日のフトバ(説教)をアッバース朝カリフムスタディーの名のもとに行なってエジプトにスンナ派を復活させると(ファーティマ朝はイスマーイール派でスンナ派を弾圧していた)、第2金曜日のフトバからはアーディドの名を削除させている。これは事実上、サラーフッディーンによってアーディドはカリフ位を剥奪されたようなものであった。

参考文献編集

  • 佐藤次高 『イスラームの「英雄」サラディン-十字軍と戦った男』 講談社学術文庫、2011年
  • 大塚和夫 他 『岩波イスラーム事典』 岩波書店、2002年
先代:
ファーイズ
ファーティマ朝
14代
1160年 - 1171年
次代:
滅亡