アール・デュー英語: Earl Dew, 1921年 - 1941年2月2日)は、アメリカ合衆国騎手

略歴 編集

アイオワ州サック郡サック市生まれ。父が騎手だったことから、幼年期より馬に慣れ親しんでいた。

1937年、16歳でサラブレッド競馬のプロ騎手としてシカゴで騎乗を開始、1938年までには当地で頭角を現した。その後ニューオーリンズフェアグラウンド競馬場に移り、1939年11月29日に脚を骨折するまでリーディングジョッキーの座を守った。やがて、サンタアニタパーク競馬場などを経て、メキシコティフアナにあったアグア・カリエンテ競馬場で騎乗した[1]

1940年、デューはウォルター・テイラーという騎手と全米リーディングジョッキー争いを演じていたが、1940年の最終日の騎乗でテイラーが落馬負傷したこともあって、通算287勝を挙げて全米リーディングジョッキーの座を獲得した。テイラーとの差はわずか1勝であった。

1941年1月7日、アイオワ州の州都デモインにおいて、大リーグ選手ボブ・フェラーとともに表彰された。同年2月2日、主戦場のアグア・カリエンテ競馬場において、リーディングジョッキーの表彰と記念の金時計の授与式が行われたが、授与式後に行われた第6レースで騎乗馬が直線半ばで故障し、落馬したところにさらに2頭の馬が激突するという事故に遭遇、頭蓋骨骨折による脳内出血の為、搬送中の救急車の車中で死亡した。

3月3日には、デューが騎乗したことのあるサンタアニタパーク競馬場で追悼式が行われた。遺体は生まれ故郷のアイオワ州サック市に葬られている。

騎乗馬 編集

脚注 編集

  1. ^ Press, the United (1941年1月1日). “IOWA LAD, 19, PILOTS 287 VICTORS IN 1940; Dew First on Subdeb in Santa Anita Opener, Breaking Tie With Taylor for Lead REGRETS RIVAL'S MISHAP New Champion, in Saddle Four Years, Twice Won on Five Mounts This Season” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/1941/01/01/archives/iowa-lad-19-pilots-287-victors-in-1940-dew-first-on-subdeb-in-santa.html 2022年3月10日閲覧。