イオマンテ
イオマンテ(アイヌ語: Iomante)とはアイヌの儀礼のひとつで、ヒグマなどの動物を殺してその魂であるカムイを神々の世界に送り帰す祭りのことである。



用語・概説
編集イオマンテの語は、イ(i、'それを')+ オマン(oman、'行く、山にやる')+ テ(te、'~せる'、使役動詞語尾)からなり、すなわち'それを送る'という意味であるが[1][2][3][4]。「イヨマンテ」ともカナ表記される[5][6]。
「イ」(’それ’)とは恐れ多いカムイの名を直接呼ぶ事を避けた婉曲表現であり、従ってイオマンテとは熊に限らずカムイが来た「他界」に返す儀式の意である[3][7]。すなわち「イオマンテ」は語意からすれば、「熊送り」にかぎらず他の狩猟の獲物を送ることにも該当する言葉ともいえる[3][7]( § 熊以外のイオマンテ 参照)。
しかしながら一部地方では[注 1]、「イオマンテ」をあくまで飼育したヒグマを対象とする儀式のこととしており、一般の場合は「オプニレ」または「ホプニレ」(opunire, kamuy hopunire)という言葉をもちい、捕殺したヒグマ(や他の動物[注 2])を狩場で送る簡易な儀式の意味に充てている[9][10][注 3]
あるいは、取るに足らない小動物を送るのに「イワクテ」ともいう[12]。「イワクテ」は本来、破損した道具の魂を送ることであるが、リスやウサギなどの送りを「イワクテ」するともいう[13]。
儀式
編集冬の終わりに、山野でみつけた小熊か、穴で冬眠している間に生まれた小熊を狩る。母熊は殺すが[注 5]、小熊は集落に連れ帰って育てる[16][10]。最初は、人間の子供と同じように家の中で育て、赤ん坊と同様に母乳をやることもあったという[16][17]。大きくなってくると屋外の丸太で組んだ檻(ヘペレセッ heper-set)に移すが、やはり上等の[18](人間並みの)食事を与える[19]。1年か2年ほど育てた後[22]、熊祭の到来で檻から出される(別れの印として熊に酒を注いでふるまうともいう[23])。格子の間から「熊の綱」エペレトゥシ(heper-tush)[注 6]を垂らし、輪が(あるいは3本[6])首に(タスキ状に掛かったら[25])、下の丸太をはずして外に連れ出す[24]。式場には家屋の裏の祭場などを使う[23]。
この檻だしの段取りは、公開の場で観衆の見るなかでもおこなわれるが、女性たちが手拍子を打って[26]ウポポ(祭りの歌)を歌い、リムセを踊って熊をもてなす[27][28]。熊を綱で捕縛したら、蓑のようなポンパケ(イナウの削り花で編んだ網のような前垂れで、色鮮やかな布(サランペ)を縫い付けてある)[32]を着せて、その四隅の紐を腹側で結び、耳に穴をあけて耳飾り(カムイニンカリ)をつけ、役目の者たちが飛びのくと熊は"サランペ(色の布)をふり立てて跳ね回る"[33]。
小熊は広場に連れ出さられ、中央の地面に打たれた杭[31][注 7](棒[36])に縄で繋がれる[37]。この杭棒の先はイナウで装飾する[39]。
そしてまず、殺傷能力のひくい花矢が撃ち込まれる[37]。花矢(ヘペレアイ)は、矢先に木製の鉤がついており、皮膚には軽く刺さる程度である。矢尻は黒染めにして沈み彫りで模様が彫られる、赤い絹布(サランペ)などでも装飾する[40]。万が一刺さってしまったら、先端に笹の葉をつけた棒(タクサ)で矢を払う。花矢の儀式は日が暮れるまで続き、人も熊もつかれるので、また柱につないで休ませる[41]。屠殺には、二本の丸太[注 8]の間で首を挟んで絞め殺す装置(レクヌンパニ)を使う。熊が育ちすぎて困難な場合は、手練れのエカシに本矢で心臓を射抜かせる[25]。死ぬと、天に向かって矢を放ち、皆に合図する[31]。熊を育てた女子[31]。
ヒグマを解体してその肉を人々にふるまう[42][43]。式場のヌササン(幣場、神壇)には、特別のイナウを立て、ニカプンベ(綾蓆、花蓆)で飾りたて、エムㇱ(宝刀)、イカヨップ(矢筒)、シトキ(胸飾)などの鎧、シントコ(行器)などが並べてある[23][44]。また、団子(シト)[注 9]、干し魚、花矢などを蓆でくるみ、背負えるようにした「お土産」(ヘペレシケ)も用意されている[25]。熊を横たわらせたら、首には矢や干し鮭(サチェップ)の入った矢筒を翔け、ポンパケも載せる。ッキ(高杯)で酒も捧げる[46][注 10]。
頭部の皮は胴体につなげたまま、肉つきの頭骨だけを切り離して取り出し、下処理して[51]ほぼ頭骨だけにし、室内でウンメンケ/ウンメムケ(un-memke)という頭骨(マラット)を飾る大事な儀式を行い、神窓(kamui-puyar)から頭を外に出し、木の棒に固定しヌササンの突き立てて置くのが大体の流れで、これで頭蓋を送る祭り(マラットのオプニレ)が完了したこととなり、イオマンテもほぼ終了する[54][55][56]。
ウンメムケは、屋内の祭壇の前で執り行うが、場合によっては屋外のカムイヌサ(熊のヌササン)のところで行うこともある[57]。頭骨には、炉の前に据えて、首飾、団子(シト)、弓(クウ)、飾太刀(エムシ)を吊るしたり、エカシが祭典で使った冠(サパウンペ)供え、最後の訣別の祈り(カムイノミ)を捧げたりする[57][49]。シトもそうだが、濁り酒(トノト)やご飯もあらかじめとりわけておいた分を供物にくわえる[58][注 11]。終わると神窓から頭を外に出して、ユクサパオニ(yuk-sapa-o-ni、'クマ・あたま・のる・木'[60][61])に固定する[62][注 12]この頭骨にイナウ(削り花)[注 13]をつけたりもする)[52] 。また、ポンパケ(さきほどの蓑・前掛け)を頭骨から吊るされるように供えたり[62]、あるいは刺繍した衣服(kapar-amip)を着せたように装うこともあった[61][注 14]。
殺したばかりのカムイの遺体には、まだその魂 (ラマッ、ramat) が(両耳の間に留まっており)、これを分離して解放し家(神々の世界、カムイモシリ、kamuy mosir[63][64])に送り帰す、がための祭である[6]。宗教的には、ヒグマの姿を借りて人間の世界にやってきたカムイを一定期間大切にもてなした後、見送りの宴を行って神々の世界にお帰り頂くものと解釈されている。ヒグマを屠殺して得られた肉や毛皮は、カムイが置いて行った置き土産であり、これの礼としてもてなしで遇するのがイオマンテである[65][66][67]。熊への返礼の土産(ヘペレシケ)についてはすでに述べたが、花矢で射かけるのも贈物の意義があり、タクサではたき落とした矢の矢尻と柄がはなれて壊れると、花矢の魂が抜け去り、クマの魂が戻るカムイの国に送り届けられるものだとされている[25]。
地上で大切にされた熊のカムイは、天界に帰った後も再度肉と毛皮を土産に携え、人間界を訪れる。さらに人間界の素晴らしさを伝え聞いたほかの神々も、肉や毛皮とともに人間界を訪れる。こうして村は豊猟に恵まれる[68]。熊の再訪を願うために、人間からの上述のような土産を大量に捧げる。イオマンテの宴で語るユーカラは、佳境に入ったところでわざと中断する。神が続きを聞きたがり、再訪することを狙う[55][69]。
類似の熊送り儀礼は、樺太周辺のニヴフなど、ユーラシア・タイガの北極圏に近い内陸狩猟民族に広く存在している[70]。イオマンテもその一種である。
北海道におけるイオマンテの儀式は1955年に北海道知事名による通達によって「野蛮な儀式」として事実上禁止となった。2007年4月、通達を撤回している[71]。
儀式の進行
編集-
イオマンテの準備。画面右では長老がカムイに捧げるイナウを削り、女たちは酒の用意をしている。画面左では村人が熊の檻を囲んで踊り、神との別れを惜しんでいる。
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熊を檻から引き出し、ロープをかけて広場に連れ出す。右から、熊の世話係だった女性が従う。
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熊を広場の杭につなぎ、エペレアイ(儀礼用の矢。刺されにくく加工されている)を射かけ、「遊ばせる」。1914年に撮影された写真。
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熊を充分に遊ばせた後、丸太で首を挟んで魂と肉体を分離する。前方では、熊の世話係だった女性が泣き伏す。
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祭壇に魂と分離した熊の肉体を安置し、酒やイナウを捧げ丁重に祈る。この後、神霊の宿る熊の頭骨をヌササン(幣場)に掲げて盛大にイナウを捧げる。
熊以外のイオマンテ
編集熊以外の具体例では、シマフクロウ(コタンコロカムイ、'集落の守り神')のイオマンテを一部の地域では重視されているが[72]、梟送りは、カムイ・ホプニレとも呼称され[8]、シマフクロウの送りは、「モシリコロカムイ・オブニレ」とも表記される[30]。
またシャチ(レプンカムイ、'沖の神')を対象とするイオマンテもある[73][72][9]。キムンカムイ(ヒグマ)、コタンコㇿカムイ(シマフクロウ)、レプンカムイ(シャチ)などのイオマンテで送られるカムイは、神格の高いカムイであるとみなされる[74]。
先史と起源
編集その起源については諸説ある。
イオマンテ起源については池田貴夫 (2000年)が、諸説をまとめている[75][76]。渡辺仁(1974年)がオホーツク文化からの移入説を提唱[77](以下、 § オホーツク文化由来説参照)。
宇田川洋(1989年)によれば、まだ「原アイヌ文化」時代である15世紀(14世紀末)の頃から熊を「送り場」としただろう頭骨の出土例がみられるが、「狭義のイオマンテ」は 18 世紀中葉から世紀末以降だとしている[78][79]。中村和之も文献上の考察から、比較的後期のイオマンテ起源を考察する[79]。 [80]。
シャクシャインの戦い(1669年)を遡る1665年、,2頭の仔熊を得たシャクシャインが、1等をオニビシに譲るかをめぐり確執が生じたが[80]、この時期からイオマンテは成立したものと、アイヌ史教授の中村和之(1999年)は論じている[82]。
蝦夷が熊送りをおこなった文献例としては松宮観山『蝦夷談筆記』(宝永7/1710年)と坂倉源次郎『北海随筆』(元文4/1739年)が挙げられ、アイヌが捕えた子熊を(女性の乳を含ませるなどして)飼育し、年内の内にはと屠殺を行い、宴をおこなうという記述される。ただしその江戸期の筆者らは、肉を食う(熊胆を採取する)を目的したものととらえており、「熊送り」の部分は鮮明でない[80]。イオマンテについて詳述した古例は、秦檍麿によって) の『蝦夷見聞記』(寛政10/1798年)『蝦夷島奇観』(1799年)に"神は今日ヲマンテせり。よくよく飼養し給へ"と明言される[80]。
じつは樺太・北知床半島(現サハリンのテルペニア半島)のアイヌがイオマンテを行っていたというマルチン・ゲルリッツエン・フリースひきいる『フリース船隊航海記録』(1643 年)の記載があるが、従来見過ごされてきた文献例であると平山裕人が指摘する[83]。
オホーツク文化由来説
編集アイヌ文化期に先行する擦文文化期(13世紀まで)の遺構からは熊に関連する祭祀の痕跡が見当たらないことから、ふつうの「送り儀礼」であるオプニレや、ゆくゆくはより祭典化したイオマンテも、オホーツク文化(担い手はニヴフといわれる)からトビニタイ文化を経由してアイヌ文化が取り込んだとの見方がある[84]。この土器から金属器に変わった移り目を「アイヌ文化」時代の到来と一般にいい、前近世の1450–1667年を充てるが[85]、その頃にふつうの「送り儀礼」が伝来したというのはよしとして、宇田川の考証では、狭義の「子熊の飼育型のイオマンテ」の発祥は宇田川がいう「新アイヌ文化」(18世紀後半以降)のことだと思われるので、直結的には結びつかない隔たりがあると指摘される[86]。
縄文文化(アイヌ)由来説
編集このほか、縄文時代のイノシシ祭りの対象動物がクマに置換されたとする説もある(考古学者瀬川拓郎の説[87]。 (日本におけるイノシシ利用史も参照)。
春成秀爾(1995年)は、靺鞨文化の豚飼育が伝来したのをはじめに、やがて熊飼育の熊祭りに発展したとしている[89]
昔のかたちの再現
編集本来は、カムイであればどんな(狩猟動物の)カムイでも構わなかったと推考されている[90]。かつてアイヌが本州に居住していた頃に熊送りがおこなわれていたならば、対象はツキノワグマであったことは言うまでもない[4]。
映像作品
編集影響
編集昭和24年(1949年)、古関裕而作曲、菊田一夫作詞、歌唱伊藤久男/コロムビア合唱団による歌謡曲『イヨマンテの夜』がヒットし、広く知られるようになった。だが、歌詞、旋律ともにアイヌのイオマンテとはかけ離れている。「イヨマンテの夜」の旋律はアイヌの伝統音楽と関係のない歌謡曲調のものである。歌詞は、夜間にかがり火を焚いて儀礼を執り行うものになっているが、実際の送り儀礼は日中行う部分が多く、夜間にかがり火は焚かない。また前奏に銅鑼の音のような効果音が入り、歌詞にはアフリカの太鼓であるタムタムのような擬音が登場しているが、アイヌ音楽に銅鑼や掌で打つ太鼓は存在せず、歌の伴奏は手拍子のみである。
また、毎年10月中旬から11月末にかけ、「イオマンテの火まつり」という行事を阿寒湖温泉にて開催しているが、内容はアイヌ音楽や舞踊を中心にした演出であり、本来のイオマンテとは別物である。
漫画「がきデカ」でも、主人公のこまわり君がギャグとして披露するシーンがある。
脚注
編集注釈
編集- ^ 道東部落など[8]。
- ^ 道東部落ではカムイ・ホプニレを'山の狩場での熊送り'と狭義的に扱う。他の地域ではフクロウなど他の狩猟で得た動物にも用いられる[8]。
- ^ 「ホプニレ」とは ho「尻」+puni「何々を持ち上げる」[11]+ re(使役動詞語尾)で「(カムイを)起こさせる、発たせる」の意味。
- ^ 北海道(蝦夷地)には自然の状態ではヒグマが生息し、ツキノワグマは生息しない(ブラキストン線)[15]。
- ^ その際前述のカムイ・ホプニレを行う。
- ^ イラクサアイヌ語:モセ、moseで編まれた縄[24]。
- ^ 杭に繋がれた図像については工藤 (1926), pp. 49, 51参照。
- ^ あるいは5, 6本の丸太[31]。
- ^ 円盤状の、本来はウバユリの澱粉を素材とした円盤状の団子だが、米を使うようになり丸餅のようなものにとってかわった[45]。
- ^ のちには本土から清酒が容易に入手できるようになったが、それまでは自家製の濁り酒(トノト)を作っていたが、これは祭りに間に合わすためあらかじめ大量に仕込む必要があり、団子の製作と同様、女性に割り当てた仕事であった[47][48]
- ^ "熊送りや婚礼では、ひえで飯を炊いて椀に高盛りにして用いるのが、正式"[59]。
- ^ あるいは順序を逆に、室内で"頭骨飾りの木に固定された頭骨を神窓からヌササン(祭壇)へ"出す[55]。
- ^ または"木幣・削掛けつき酒箸 kike - ush pashui ・食箸 ipe- pashui 等"[61]
- ^ 久保寺談:"道東の部落では、仔熊の毛皮を着せるところもあると聞くが、私の調査では、未だ聞かぬところである"[61]。
出典
編集- 脚注
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- ^ 魚肉や昆虫、果実、イモ、トウモロコシ。また蜜や砂糖なども[16]。
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- ^ イヨマンテ実行委員会 (1985), p. 105.
- ^ 餌代などもあり、だいたい捕獲した同年の暮れか翌年春に行うというが[16]これは旧暦の話なので、一年後、翌年の2月に行うといえる[20]。上川地方でも餌代などで「一年が限度」[21]。宇田川は「我が子同様に二歳くらいまで育て」[10]。
- ^ a b c 工藤 (1926), p. 21.
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- ^ a b 佐藤直太郎「釧路アイヌの縞梟送り--モシリコロカムイ・オブニレ」『民間伝承』第25巻第1号、1961年2月、14頁。「「ポンパケ』といってチメシイナウ(削りかけだけのイナウ)を撚り合せて作った繩で組んだ目の荒い網に模様のある布切を縫いつけた晴れの着物を意味するものを、背中に着せて、柿の皮をよって造った縄をたすきにかけて、それに細い繩をつけて、その一端を一人のものが持って、万一にも飛び去ることがないようにする。」
- ^ a b c d e 工藤 (1926), p. 22.
- ^ 蓑のようとしたうえで、ポンパケはアイヌ語で前垂れを指す語とし、このようにより詳しく説明される[29]。シマフクロウ送りで鳥に着せるポンパケも同様(イナウの削り花で編んだ胴着に美しい模様の布をぬいつけたもの)と説明される[30]。または熊に着せる袖なしの美しい衣裳だとも形容される[31]。
- ^ アイヌ文化保存対策協議会 (1969), pp. 566, 570.
- ^ a b アイヌ文化保存対策協議会『アイヌ民族誌』第一法規、1969年、557頁。NDLJP:12142904 。
- ^ 金田一京助「国語学講習録」、岡書院、1934年、NDLJP:1210353。「しころの木(黄葉)などはまだはっきりは言えないが黄蘖の実を、しこのへいというのを、蘭語にやといっているものもあるが、アイヌ語ではこれを shikerepe と言い、それで、その木をば shikerepe - ni と言う。シケレとシコロと似ているように思われる」(1992年『全集』4巻、p. 423 )
- ^ 「ッシュットニ」[34](shutu-ni、棍棒の木)。旧い表記だと「ッ」を省く。その材木はキハダが使われるとある[34]。キハダのことは「シコロ」とも呼ぶらしいが、アイヌ語は s[h]ikerepe-ni[35]。
- ^ a b c アイヌ文化保存対策協議会 (1969), p. 557.
- ^ 池田 (2007), p. 51.
- ^ また、笹の葉をつけるコタンも多い[37]。西川北洋『明治初期アイヌ風俗絵巻』(1882 年頃)の解説参照[38]。
- ^ アイヌ文化保存対策協議会 (1969), pp. 42, 555.
- ^ アイヌ文化保存対策協議会 (1969), pp. 557, 570, 池田 (2007), p. 130も所引
- ^ アイヌ文化保存対策協議会 (1969), pp. 330, 559, 571.
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- ^ 下処理しとは、頭部から食べれる肉をそぎ、眼球をはずし、脳も搔きだして頭骨にすること[49][50]。
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- ^ 春成 (1995)[88]。宇田川(2002)による池田(2000)の孫引き。
- ^ 宇田川 (1989), p. 28.
参照文献
編集- 池田貴夫『クマ祭り(飼育を伴うクマの霊送り)の研究-民族文化情報とその表現をめぐる諸問題-』名古屋大学大学院人間情報学研究科、2007年7月31日。hdl:2237/10326 。
- イヨマンテ実行委員会『イヨマンテ: 上川地方の熊送りの記録』小学館、1985年、130頁。ISBN 9784096803110。NDLJP:12141895 。
- 宇田川洋『イオマンテの考古学』8号、東京大学出版会〈UP考古学選書〉、1989年。ISBN 9784000268271。 NCID BN03162536 。
- 宇田川洋「アイヌの人はどう生きたか-イオマンテを中心に-」『ものがたり日本列島に生きた人たち』《1(遺跡 上)》岩波書店、2000年、239–279頁。ISBN 9784000265218 。
- 佐々木利和「イオマンテ考―シャモによるアイヌ文化理解の考察」『歴史学研究』第613号、1990年11月、111-120頁、NDLJP:13002819。
- 中路正恒 著、赤坂憲雄; 中村生雄; 原田 編「イオマンテという送りの思想」『神々のいる風景』、岩波書店、63-88頁、2003年。ISBN 9784000268271 。
- 浪川健治「[1]」第4巻、北海道大学総合博物館、2008年3月、hdl:2115/34690、NAID 120000947275。
- 藤村久和「民族調査ノート(4) 白老地方の慣習」『季刊 北海道史研究』第12号、1977年2月28日、89-81頁。
関連項目
編集外部リンク
編集- アイヌ生活文化再現マニュアル[リンク切れ] - イオマンテの式次第の詳細あり。
- アイヌ民族文化財団 イオマンテの詳細情報あり