イサキオス・コムネノス (アレクシオス1世の兄)

イサキオス・コムネノス (ギリシア語: Ἰσαάκιος Κομνηνός, Isaakios Komnēnos; 1050年ごろ – 1102/1104年[1])は、東ローマ帝国の貴族、軍人。弟のアレクシオス1世コムネノス (在位: 1081年–1118年)が東ローマ皇帝位を獲得するのを助け、国の内政を取り仕切った。

イサキオス・コムネノス
セバストクラトル
プロトプロエドロス英語版東方スコライ軍団長英語版としてのイサキオス・コムネノスの印章(1073年ごろ)。軍人の守護者である聖テオドロス英語版が描かれている。

出生 1050年ごろ
コンスタンティノープル
死亡 1102年-1104年
コンスタンティノープル
王室 コムネノス家
父親 ヨハネス・コムネノス英語版
母親 アンナ・ダラセナ英語版
配偶者 エイレーネー・バグラティオニ
子女
ヨハネス英語版アレクシオス英語版コンスタンティノス・コムネノス英語版アドリアノス英語版、ソフィア、エウドキア、名前不明の娘
信仰 東方正教会
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略歴

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イサキオスは、11世紀半ばのコンスタンティノープルで最上位級に位置する貴族コムネノス家の子として生まれた。叔父には、短期間皇帝となったイサキオス1世コムネノス (在位: 1057年 - 1059年)がいる。教養深く勇敢で、現皇帝家であるドゥ―カス家とも血縁関係を持っていたイサキオスは、1073年から1078年にかけてスコライ軍団長英語版アンティオキアドゥクスという2つの最高位軍事職を兼任した。セルジューク朝との戦争では目立った功績を挙げたわけではなかったが、1078年にコンスタンティノープルに帰還すると、皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスや皇后マリア・バグラティオニに気に入られた。イサキオスとアレクシオスの兄弟は、この皇帝夫妻の寵を利用して力を強めたうえで反乱を起こし、ニケフォロス3世を廃位した。1081年前半に皇帝に即位した弟アレクシオス(1世)は、新役職セバストクラトルを創設してイサキオスに与え、ほとんど共同皇帝のように遇した。その後イサキオスは生涯にわたり内政面で重要な役割を占め、度重なる陰謀や異端問題に対処してアレクシオス1世を支え続けた。

生涯

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軍人としての出世

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イサキオスは、スコライ軍団長英語版ヨハネス・コムネノス英語版アンナ・ダラセナ英語版の間の3番目の子(次男。長兄はマヌエル・コムネノス英語版(1045年ごろ - 1071年)。)として生まれた[2][3]。正確な生年月日は不明である[3]が、1050年ごろと考えられている[2]。イサキオスの姪に当たる皇女にして歴史家のアンナ・コムネナが著した『アレクシアス』(77–78)によれば、イサキオスは弟アレクシオス1世と比べると色白で髭も薄いという点以外はよく似た外見をしていたという。また狩猟と戦争を好み、よく前衛での戦闘にみずから身を投じたという。アンナ・コムネナやオフリドのフェオフィラクトら同時代人は、イサキオスが他人と友になれる美徳を持っていたと記録している。ただアンナ・コムネナは、彼に短気な一面があり、投げかけられたほんの一言に対して激昂することもあったと指摘している。イサキオスの教養深さは、いずれの文献でも言及されている点である。アンティオキア総主教英語版によれば、彼は聖典の解釈に通じていた。エウカイタのバシルも、彼が哲学的な幅広い知識を持ち合わせていたと記録している。ただイサキオス自身の著作で現存しているのは、新プラトン主義哲学者プロクロスに反論する哲学論文3本と、カルケドンのレオーン英語版 に反論する神学集成のみである[4][5]

イサキオスが生まれたコムネノス家は、11世紀半ばのコンスタンティノープルにおける最高級の貴族家系であり、叔父イサキオス1世コムネノス (在位: 1057年–1059年)が皇帝となっていた[6]。しかし母アンナ・ダラセナ英語版が1071年後半/1072年前半に訴追され追放されると、イサキオスも母とともにプリンキポ島英語版へ送られた。しばらくして、強大なコムネノス家との和解を図った皇帝ミカエル7世ドゥ―カス (在位: 1071年–1078年) はイサキオスを呼び戻し、1072年8月4日以降のある時にジョージア王女エイレーネーと結婚させた。エイレーネーはミカエル7世の妃マリア・バグラティオニの従姉妹だった[2][7]

間もなく、おそらく1073年に、イサキオスは東方スコライ軍団長[注釈 1]に任じられ、最高司令官(ストラテゴス・アウトクラトル)としてアナトリア方面のセルジューク朝との戦争に派遣された。セルジューク朝は1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ帝国を破った後、この地域へ勢力を拡大してきていた。イサキオスはカエサレア付近で起きた最初の戦闘でセルジューク軍に捕らえられ、身代金と引き換えに釈放された。その後、弟アレクシオスと共に、アンキュラ経由でコンスタンティノープルへ帰還した[9][10]。翌年、イサキオスはアンティオキアのドゥクスとして再び東方へ派遣された。前任者のイオシフ・タルカネイオテス英語版死後、その息子カタカロンはアンティオキアに広がる不穏な動きを抑え込めずにいた。騒擾を先導していたのは、アンティオキア総主教英語版アエミリアンだった。彼は、マンジケルトの戦い後に北方のタウロス山脈で半独立政権を築いていたアルメニア人豪族フィラレトス・ブラカミオス英語版と共謀していた可能性がある[9][11]。イサキオスは計略で総主教をアンティオキアから追放しようとしたが、総主教の支持者が反乱を起こしたので、武力制圧せざるを得なくなった[9][12]。1075年春、イサキオスはセルジューク朝と戦い、再び敗北して捕虜となった。この時はアンティオキア市民が金貨2万枚を身代金として供出したため解放された。この戦いでは、イサキオスの義弟(妹の夫)でロマノス4世ディオゲネス (在位: 1068年–1071年)の息子であるコンスタンティノス・ディオゲネス英語版が戦死している[13][14]。イサキオスは1078年前半までアンティオキアに滞在した後、コンスタンティノープルへ帰還した[15][16]

帝位簒奪クーデター

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首都に戻ったイサキオスは、瞬く間に新帝ニケフォロス3世ボタネイアテス (在位: 1078年–1081年)の寵を得た。イサキオスが献上したシリアの織布を、この老皇帝が気に入ったからだとされている。ニケフォロス3世はたびたびイサキオスを晩餐に同席させ、高位官職であるセバストス英語版や、皇帝の宮殿(ブーコレオン宮殿)内に住む権利などを与えた[15][16][17]。しかしこうした好意を向けられていながら、イサキオスとアレクシオスの兄弟は、ニケフォロス3世を廃位してコムネノス家のもとに帝位を呼び込む陰謀を企てていた。コムネノス兄弟はアレクシオスに入れ込んでいた皇后マリアを守るべく行動を始めた。マリアは前夫ミカエル7世との間の子コンスタンティノス・ドゥーカス英語版の将来を心配していた。というのもニケフォロス3世は、コンスタンティノス・ドゥーカスを差し置いて、シナデノスなる人物を次期皇帝にしようとしていたからである。アンナ・コムネナによれば、イサキオスとアレクシオスの兄弟は機を見てマリアに陰謀計画を打ち明け、コンスタンティノス・ドゥーカスの帝位継承権を守ると誓いを立てた[15][16]。加えてアレクシオスはエイレーネー・ドゥーカイナ英語版と結婚し、帝位を失っても未だ強い勢力を維持していたドゥーカス家の支持を取り付けた[18]

1081年1月後半、ルーム・セルジューク朝キュジコスを襲撃したのを受けて、ビザンツ帝国軍が首都に近いトラキアに集結した。これをクーデターを起こす好機と見たコムネノス兄弟は、2月14日土曜日に支持者たちを集め、翌日に密かにコンスタンティノープルから抜け出してハドリアノポリスへ向かい、ツルロス英語版で軍と合流した。軍を掌握した兄弟はコンスタンティノープルへ進軍し、郊外のスキザに陣を張った。ある作者不明の年代記によると、すでにハドリアノポリスでアレクシオスは皇帝即位を宣言し戴冠していた。しかしこのスキザ滞陣中、イサキオスがアレクシオスを差し置いて皇帝を称しようとする動きがあった。しかしドゥーカス家や軍の大部分がアレクシオスを支持していたので、イサキオスもしぶしぶこれに従った[15][16][19]。4月1日、コムネノス兄弟はコンスタンティノープルへ入城し、一家と共に宮殿に入った[15]

アレクシオス1世のもとで

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アレクシオス1世の肖像(12世紀ギリシアの写本)

アレクシオス1世が権力を掌握すると、イサキオスは最も忠実で確固たる熱烈な支持者となった[1]。アレクシオス1世はセバストクラトルなる地位を創設して兄イサキオスに与え、ほとんど皇帝と同列に遇することで報いた。アンナ・コムネナの言葉によれば、「なき皇帝」であった[1]。イサキオスは5月から6月にかけてドゥーカス家の要求を受け先帝の皇后であるマリア・バグラティオニをマンガナ修道院英語版に送り込んでいるが、この時点で彼はすでに新しいセバストクラトルの称号を名乗っている[20][21]

歴史家のポール・ゴーチェによれば、アレクシオス1世はイサキオスに「大異端審問官と社会秩序の守護者」の役割を任せた。イサキオスは特別に設置された法廷の長となり、アレクシオス1世から数々のデリケートな問題への対処を委ねられた。1081年秋にアレクシオス1世がノルマン人に対抗するためデュッラキウムへ遠征した際には、イサキオスはコンスタンティノープルに残って秩序の維持にあたった[20][21]。この遠征中、アレクシオス1世は常に兵士への給金不足に悩まされ、何度もコンスタンティノープルにいるイサキオスに資金繰りを要請した。イサキオスは最初の要請を受けた際にはコムネノス家や親族、支持者たちの中から資金を工面した。しかし2度目の要請を受けたとき、イサキオスや母アンナ・ダラセナらの首都首脳の資金繰りは行き詰った。長きにわたる議論の末、彼らは遥か昔のヘラクレイオス (在位: 610年–641年)の先例を持ち出し、教会財産を供出させるという挙に出た。1081/1082年の冬、イサキオスは抜き打ちでハギア・ソフィア大聖堂に乗り込み、総主教主催の宗教会議を召集させ、自ら演説し、教会の金銀製の物品を没収し鋳熔かして軍資金のための貨幣を鋳造することを聖職者たちに受け入れさせた[22]。宗教会議の参加者の中でイサキオスに反抗したのはヨハネス・メタクサスという名の輔祭だけで、彼はイサキオスを嘲りさえした。貴金属没収が始まると、宗教会議に出席していなかったカルケドン府主教英語版が公然とその政策やイサキオス本人を非難した。しかしレオーンは1086年1月に元老院英語版議員と高位聖職者の両者による法廷にかけられ、地位を追われた[23]

アンナ・コムネナによれば、イサキオスはその教養の深さを生かし、1082年2月に行われた新プラトン主義哲学者ヨハネス・イタロス英語版の異端審問を担当した。イサキオスはヨハネスが正統教義に反した教えを説いているという罪で、彼を教会裁判へ引き渡した[20][24]。1083年、イサキオスは高級な礼服をペトリツォス修道院に寄進した。この修道院は、将軍グレゴリオス・パクリアノス英語版が創設したものである[24][25]。1087年、バルカン半島をペチェネグ人が荒らした際、再び教会財産の没収が実施された。オクセイアのヨハネスによれば、一部の頑なな僧たちが貴重な祭具を隠そうとしたが、彼らは鞭打たれたり投獄されたりした。カルケドンのレオーンも再びこの政策を非難したので、この時も弟に代わりコンスタンティノープルを支配していたイサキオスは、1087年後半に彼をトラキアの黒海沿岸のソゾポリスもしくはメセンブリア英語版への流刑に処した[26]

1092/1094年、イサキオスの息子でデュッラキオン英語版のドゥクスに任じられていたヨハネス・コムネノス英語版が、アレクシオス1世に対する陰謀を企てたとしてオフリド大主教テオフィラクトに告発された。ヨハネスの裁判はフィリッポポリスでアレクシオス1世の面前で行われることもあり、イサキオスも急いで駆け付けた。イサキオス自身、息子が無実であるという確証を持っていなかったので当初は慎重に立ち回っていた。しかしアレクシオス1世にこの件を深掘りする意志が無いと気づくと、イサキオスは裁判に介入して息子を強く弁護し、弟アドリアノス・コムネノスと口論して彼を中傷の罪で告訴するまでに至った[20][24]

その頃、カルケドンのレオーンを巡る問題も再び火を噴き始めていた。レオーンの甥であるハドリアノポリスのニコラオスがレオーンに送った書簡によれば、イサキオスは教会財産没収に反発した者たちについて、彼らがイコンに華美な装飾を施し、イコンそのものへ描かれている成人に対するのと同じような崇敬を寄せている「物質崇拝者」 (ὑλολάτραι)だと非難したという。レオーンは返書で自らの立場を示す長大な神学主張を書き送ったが、これが大騒動を引き起こした。イサキオスは聖師父学や宗教会議の文献を集成し、レオーンからの批判に対抗した[27]。最終解決は、1094年後半にブラケルナエ宮殿英語版で開かれたブラケルナエ教会会議英語版に持ち込まれた。議長はアレクシオス1世が務め、イサキオスはコンスタンティノープル総主教ニコラオス・グラマティコス英語版やイェルサレム総主教シメオン2世と共に判事を務めた。結果的には、レオーンが自らの非を認めることで決着し、彼はカルケドン府主教の地位に復帰した。歴史家コンスタンティノス・ヴァルゾスの言によれば、これは「イサキオスの神学的かつ政治的な勝利」であった[28][29]

イサキオスは、カルディア英語版のドゥクスだったテオドロス・ガブラス英語版と、その息子グレゴリオス・ガブラス英語版の婚姻問題にも対処した。グレゴリオスは、もともとイサキオスの娘と婚約していた。しかし父テオドロスがアラン人の王女(イサキオスの妻の従姉妹)と再婚すると、グレゴリオスの婚約は教会法上禁じられている近親婚に該当するため、破棄されてしまった。そのため、テオドロスと中央のコムネノス皇帝家の関係にひびが入ったのである。テオドロスは忠誠心を示すため、息子グレゴリオスを人質としてコンスタンティノープルに差し出していた。1094年から1098年の間のある時、イサキオスはプロポンティス沿岸の自らの宮殿にテオドロスを招いてもてなし、事態収拾のための折衝を行った[20][30]。またイサキオスは、1097年から1104年の間に発生したアネマス兄弟と一部の軍・文高官が起こした政権転覆の陰謀の摘発にも重要な役割を果たした。彼はソロモンという元老院英語版議員を尋問し、陰謀の参加者や詳細を吐かせたのである。またそれから間もない時期には、医師バシル英語版としてしられるボゴミル派指導者の異端審問も指導している[31][32][33]

晩年には修道院に入り、その修道院の名をとってヨハネスという修道名を名乗った。母アンナ・ダラセナが死去すると、イサキオスもその「1年と数か月後」に死去した。これは1102年から1104年の間のこととされている。妻エイレーネ―も修道女となり、クセニアと名乗った。彼女もイサキオスの死から約1年後に亡くなり、夫妻の子はアレクシオス1世が引き取って面倒を見た[31][25][34]。イサキオスの名は東方正教会における正教勝利祭英語版でも讃えられている[35]

家族

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イサキオス・コムネノスはジョージア王女エイレーネ―と結婚し、4人の息子と、少なくとも2人の娘をもうけた[3][36]

注釈

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  1. ^ アンナ・コムネナは、イサキオスが西方(ヨーロッパ)の軍団も指揮していたとしている[8]

出典

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  1. ^ a b c ODB, "Komnenos, Isaac" (C. M. Brand), p. 1144.
  2. ^ a b c Gautier 1971, p. 221.
  3. ^ a b c Skoulatos 1980, p. 125.
  4. ^ Gautier 1971, pp. 225–226.
  5. ^ Skoulatos 1980, pp. 129–130.
  6. ^ ODB, "Komnenos" (A. Kazhdan), pp. 1143–1144.
  7. ^ Varzos 1984, pp. 67–68.
  8. ^ Gautier 1971, p. 222 (note 13)
  9. ^ a b c Gautier 1971, p. 222.
  10. ^ Varzos 1984, p. 68.
  11. ^ ODB, "Brachamios" (A. Kazhdan), p. 319.
  12. ^ Skoulatos 1980, pp. 125–126.
  13. ^ Gautier 1971, pp. 222–223.
  14. ^ Varzos 1984, pp. 68–69.
  15. ^ a b c d e Gautier 1971, p. 223.
  16. ^ a b c d Skoulatos 1980, p. 126.
  17. ^ Varzos 1984, p. 69.
  18. ^ ODB, "Alexios I Komnenos" (C. M. Brand, Ph. Grierson, A. Cutler), p. 63.
  19. ^ Varzos 1984, p. 70.
  20. ^ a b c d e Gautier 1971, p. 224.
  21. ^ a b Skoulatos 1980, p. 127.
  22. ^ Varzos 1984, pp. 72–73.
  23. ^ Varzos 1984, pp. 73–74.
  24. ^ a b c Skoulatos 1980, p. 128.
  25. ^ a b Gautier 1971, p. 225.
  26. ^ Varzos 1984, p. 74.
  27. ^ Varzos 1984, pp. 75–76.
  28. ^ Varzos 1984, pp. 76–77.
  29. ^ Gautier 1971, pp. 220, 226.
  30. ^ Skoulatos 1980, pp. 128–129.
  31. ^ a b Skoulatos 1980, p. 129.
  32. ^ Gautier 1971, pp. 224–225.
  33. ^ Varzos 1984, p. 77.
  34. ^ Varzos 1984, pp. 78, 79.
  35. ^ Gautier 1971, p. 226.
  36. ^ Gautier 1971, pp. 221–222.
  37. ^ Varzos 1984, pp. 124–144.
  38. ^ Varzos 1984, pp. 145–146.
  39. ^ Varzos 1984, pp. 147–154.
  40. ^ Varzos 1984, pp. 155–156.
  41. ^ Varzos 1984, pp. 157–159.
  42. ^ Varzos 1984, pp. 159–169.
  43. ^ Varzos 1984, pp. 169–172.
  44. ^ Varzos 1984, pp. 172–174.

参考文献

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