イジャスラヴリ公国ベラルーシ語: Ізяслаўскае княстваリトアニア語: Iziaslavo kunigaikštystė)後にザスラウエ公国リトアニア語: ziaslavo kunigaikštystė[注 1]とは、現ベラルーシザスラーウエを首都とした、中世ルーシの分領公国である。その歴史の後半にはリトアニア大公国に所属した。

歴史 編集

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ポロツクとその分領公国
P:ポロツク公国
V:ヴィテプスク公国 L:ルコームリ公国
D:ドルツク公国 O:ロゴジュスク公国
M:ミンスク公国 IZ:イジャスラヴリ公国
G:ゲルツィケ公国 K:クケイノス公国
周辺の主な公国
S:スモレンスク公国 KI:キエフ公国
N:ノヴゴロド公国T:トゥーロフ公国
(ポイントは首都の位置のみ。国境線は2014年現在)

公国の首都のイジャスラヴリは、10世紀末にキエフ大公ウラジーミル1世が、息子の一人であるイジャスラフのために建設した。都市の年代記上の初出は1127年の記述であり、また都市の名はこのイジャスラフにちなむ。イジャスラフは最初のイジャスラヴリ公となった。

イジャスラヴリ公国は11世紀に一時ポロツク公国に組み込まれるが、1101年ポロツク公フセスラフの死後に再び分離し、おそらくフセスラフの子のダヴィドの所領となった。1160年代には、イジャスラヴリ公国からロゴジュスク公国が分離した[1][2]。なお1180年代には、イジャスラヴリ公国はロゴジュスク公国の一部を占領している。

1320年代にはリトアニア大公国アルギルダスの所領となり、1345年にはアルギルダスの兄弟のヤヴーヌティスに与えられた。その後、リトアニアの貴族の家門の一つであるグレボヴィチ家ロシア語版に譲渡されるまで、ヤヴーヌティスの子孫がザスラウエ公(ザスラウスキー公)として統治した。なお、グレボヴィチ家のヤンロシア語版(1544年生 - 1590年没)の統治期には、イジャスラヴリの領主は公(クニャージ)ではなく、伯(グラフ)の称号を帯びるようになっていた。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 公国の名とその変遷は首都であった都市に基づく。名称の変遷に関してはザスラーウエ#歴史参照。

出典 編集

  1. ^ Алексеев(1966),p76
  2. ^ Довнар-Запольский(1891), p56

参考文献 編集

  • Алексеев Л. В. Полоцкая земля: Очерки истории северной Белоруссии в IX—XIII вв. — М.: Наука, 1966. — 295 с.
  • Довнар-Запольский М. В. Очерк истории Кривичской и Дреговичской земель до конца XII столетия / [соч.] М. Довнара-Запольского. — К.: типо-лит. И. Н. Кушнерев и К° в Москве, Киевск. отд, 1891. — VIII, 170 с.
  • Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. / Автор-составитель В. В. Богуславский. — М.: ОЛМА-ПРЕСС, 2001. — Т. 1. — 784 с.
  • Коган В.М. История дома Рюриковичей. — СПб.: Бельведер, 1993. — 278 с.
  • Коган В.М. Домбровский-Шалагин В.И. Князь Рюрик и его потомки: Историко-генеалогический свод. — СПб.: «Паритет», 2004. — 688 с

関連項目 編集