イスマーイール1世 (ナスル朝)

ナスル朝第5代君主

イスマーイール1世(アブル=ワリード・イスマーイール・ブン・ファラジュ, アラビア語: أبو الوليد إسماعيل بن فرج‎, ラテン文字転写Abuʿl-Walīd Ismāʿīl b. Faraj, 1279年3月3日 - 1325年7月8日)は、第5代のナスル朝グラナダ王国の君主である(在位:1314年2月 - 1325年7月8日)。ムハンマド2世の娘のファーティマ英語版の息子であったイスマーイール1世は、母系から統治者の地位を継承した数少ないナスル朝の人物の一人であり、イスマーイール1世の王統は現代ではアッ=ダウラ・イスマーイーリーヤ・アン=ナスリーヤ(イスマーイールのナスル朝)として知られている。

イスマーイール1世
أبو الوليد إسماعيل بن فرج
グラナダのスルターン
在位 1314年2月 - 1325年7月8日

全名 アブル=ワリード・イスマーイール・ブン・ファラジュ
出生 1279年3月3日
ヒジュラ暦677年シャウワール月17日)
死去 1325年7月8日
(ヒジュラ暦725年ラジャブ月26日)
アルハンブラ宮殿グラナダ
子女 ムハンマド4世
ユースフ1世英語版
王朝 ナスル朝
父親 アブー・サイード・ファラジュ英語版
母親 ファーティマ・ビント・アル=アフマル英語版
宗教 イスラーム教
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イスマーイールの母方の叔父にあたるナスルの治世中に、マラガの総督を務めていた父親のアブー・サイード・ファラジュ英語版がイスマーイールを擁立して1311年に反乱を起こした。最終的に反乱軍は不人気であったナスルを退位に追い込み、イスマーイールは1314年2月にスルターンの地位を宣言した。その後は治世の初期をグアディクスの拠点からスルターンの地位の奪回を試みたナスルとの戦いの中で過ごした。ナスルは追放された当初、総督としてグアディクスの統治を認められていたが、一方でカスティーリャ王国アラゴン王国に支援を求め、両国はローマ教皇からナスル朝に対する十字軍の承認を確保した。戦争は断続的な停戦を挟みながら続き、戦いは1319年6月25日に起こったベガ・デ・グラナダの戦い英語版で最高潮に達した。この戦いではウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラー英語版が率いるナスル朝軍がカスティーリャ軍を圧倒し、ナスル朝が完全な勝利を収めた。幼少のアルフォンソ11世の摂政であったペドロ・デ・カスティーリャ英語版フアン・デ・カスティーリャ英語版が戦いの最中に死亡したことでカスティーリャは指導者不在となり、ナスルへの支援を停止せざるを得なくなった。

その後、1322年にナスルが死去したことで領土の統一を果たしたイスマーイールは、1324年から1325年にかけてバサオルセ英語版ウエスカル英語版ガレラ英語版、およびマルトスを含むカスティーリャとの国境付近に位置する複数の城を占領して勝利を収めた。この時の軍事行動の出来事には、イベリア半島における攻城戦での初めての大砲の使用と、イスラーム教徒の年代記において悪名高いマルトスへの攻撃時の残虐行為が含まれている。一方、建築事業ではアルハンブラ宮殿の複合施設とその一部であるヘネラリフェ、さらにアルカサル・ヘニル英語版に新たな建造物を加えた。イスマーイールは1325年7月8日に私的な理由から親族のムハンマド・ブン・イスマーイールによって暗殺され、10歳の息子のムハンマド4世が後継者となった。現代の歴史家は、イスマーイール1世を治世中の軍事的勝利によって国家の地位を向上させた有能な統治者として位置づけている。

背景編集

 
イスマーイール1世までの初期のナスル朝の系図。枠内の人物が歴代のスルターン。

イスマーイール1世として知られるアブル=ワリード・イスマーイール・ブン・ファラジュ[1]は、ファーティマ・ビント・アル=アフマル英語版アブー・サイード・ファラジュ・ブン・イスマーイール英語版の息子ある[2]。イスマーイールの母のファーティマはムハンマド2世(在位:1273年 - 1302年)の娘であり、同じくムハンマド2世の息子で後継者であったムハンマド3世英語版(在位:1302年 - 1309年)とナスル(在位:1309年 - 1314年)の兄弟である。イスマーイールの父のアブー・サイードは、王朝の創設者であるムハンマド1世(在位:1238年 - 1273年)の兄弟のイスマーイール・ブン・ナスルの息子であり、王族の一員でもあった。このため、イスマーイールは父親と母親の両方の系統からナスル朝の統治者と血縁があった。母親を通してはムハンマド2世の孫であり、ムハンマド1世の曾孫あったが、父親を通してはムハンマド1世の大甥であった[2]。アブー・サイードはムハンマド2世の治世中にファーティマと結婚した。そしてムハンマド2世にとっては信頼できる相談相手であり、従兄弟でもあった。また、アブー・サイードはムハンマド2世によってマラガの総督に任命された[2]。マラガは首都のグラナダに次ぐナスル朝における2番目に大きな都市であり、最も重要な地中海に面する港湾都市であった。歴史家のレオナード・パトリック・ハーヴェイ英語版は、もしマラガを保有していなければ、「グラナダは孤立した山岳地帯の都市にすぎなかった」と指摘している[3]。アブー・サイードの父のイスマーイール・ブン・ナスルも1257年に死去するまでマラガの総督を務めていた[4]

ナスル朝は1230年代にムハンマド1世によって建国されたイベリア半島で最後のイスラーム国家であった[5]。外交と軍事的な戦略を組み合わせることによって、王朝は北のカスティーリャ王国モロッコのイスラーム王朝であるマリーン朝という二つの大きな隣国に挟まれていたにもかかわらず、独立を維持することに成功した。ナスル朝はいずれかの勢力に支配されることを避けるために、両者と断続的に同盟関係を結ぶか、時には武力に訴え、さもなければ両者が互いに戦うように仕向けた[6]。ナスル朝のスルターンは時折カスティーリャにおいて重要な収入源となっていた貢納金を支払ったが、これはナスル朝にとっては重い負担であった[7]。また、カスティーリャの視点ではナスル朝の君主は国王の臣下であったが、イスラーム教徒は史料の中で決してそのような関係にあるとは説明しなかった。実際にはムハンマド1世は時と場合に応じて他の異なるイスラーム教徒の君主に対しても忠誠を宣言していた[8]

初期の経歴編集

 
ナスル朝の各都市を表した地図。緑色がナスル朝の領域。

イスマーイールは1279年2月11日に父親のアブー・サイードがマラガへ総督として派遣された直後の1279年3月3日(ヒジュラ暦677年シャウワール月17日)に誕生した[9]。母親のファーティマはアブー・サイードの出発時には妊娠後期であったため、恐らくイスマーイールはグラナダの王宮複合施設であるアルハンブラ宮殿で生まれたと考えられている[9]。一方でマラガに対するナスル朝の支配は、アシュキールーラ家英語版による長期に及んだ反乱の後に奪還されたばかりであったため、依然として不安定な状態にあった[9]。イスマーイールとファーティマはその後マラガに移り、そこで父親はムハンマド2世とムハンマド3世の下で有能な統治者であるとともに信頼できる助言者として仕えた[10]。イスマーイールにはムハンマドという名前の弟がいたが、ムハンマドが生まれた日付は不明である[11]。イスマーイールは若い頃、父親と母方の祖父であるムハンマド2世の寵愛を受けていたと伝えられている[9][12]。伝記作家たちはイスマーイールについて、狩猟を愛し、長い暗赤色のひげを生やした人物であったと説明している[9]

イスマーイールの母方の叔父であるスルターンのナスルは、その治世の最後の数年間に宮廷での評判を落とした[1]。当時と近い時代に生きた歴史家のイブン・ハルドゥーンは、ナスルとそのワズィール(宰相)の「暴力と不正への傾倒」によるものであったと記しているが、ハーヴェイはこの説明をプロパガンダであるとして否定し、「ナスルが打倒された正確な理由は不明である」としている[13]。歴史家のアントニオ・フェルナンデス・プエルタスは、ナスルの不人気の理由を周囲の貴族たちから度を越していると見なされた科学、とりわけ天文学に関する活動と結び付けている。さらに、ナスルはキリスト教徒の母親による教育とカスティーリャフェルナンド4世(在位:1295年 - 1312年)との良好な関係のために、過度に親キリスト教徒派なのではないかと疑われていた。また、ナスルのワズィールであるイブン・アル=ハッジもスルターンに対してあまりにも強い影響力を持っていると考えられていたために人気がなかった。両者はしばしばカスティーリャの様式の衣装をしていたことでより印象を悪くしていた[14]。ハーヴェイは同様に、ナスルの治世中に起こったマリーン朝とキリスト教国であるカスティーリャ王国とアラゴン王国に対する戦争でナスル朝が喫した敗北について、ナスルが「おそらく不当に」非難されたと述べている[13]

ナスルは治世の初期の1310年11月に、廃位された先代のスルターンであるムハンマド3世を復位させようとしたクーデターに直面した[15]。クーデターの試みは失敗に終わったものの、宮廷で出会った反ナスル派に促されたアブー・サイードが、母親の血統によってスルターンの地位への強い権利を有していた息子のイスマーイール擁立して翌年に別の反乱を起こした[14][16]。アントニオ・フェルナンデスによれば、アブー・サイードの決断は、クーデターが失敗した後にナスルの命令でムハンマド3世が溺死させられたことが動機の一つとなっていた[14]。しかし、この暗殺がいつ起こったのかについては異なる説明が存在する。14世紀のナスル朝の歴史家であるイブン・アル=ハティーブは、1311年2月中旬、1312年の2月から3月の間、1312年2月12日、および1314年1月21日の4つの日付を挙げているが[17]、歴史家のフランシスコ・ビダル・カストロは、反乱が起こってからかなり後の最後の日付(1314年1月21日、ヒジュラ暦713年シャウワール月3日月曜日)に暗殺が実行されたとしている[18]

アブー・サイードが率いるイスマーイール支持派の反乱軍は、アンテケーラマルベーリャベレス=マラガを奪い、ベガ・デ・グラナダ英語版へ進軍した。そしてアラビア語の史料においてアル=アトシャ(恐らく今日のラチャル英語版と考えられている)と呼ばれる場所でナスルの軍隊を打ち破った[14][19]。アブー・サイードはグラナダへの包囲を開始したが、長引く軍事行動を支えるだけの物資が不足していた[14]。1312年5月28日にはフェルナンド4世の弟でインファンテペドロ・デ・カスティーリャ英語版が率いるカスティーリャ軍がアブー・サイードとイスマーイールを破った[20]。アブー・サイードは講和を求め、アブー・サイードがマラガの総督の地位を保持し、スルターンへの納税を再開する条件の下で8月5日に和平が成立した[14]

政権の獲得編集

 
1314年にイスマーイールがグラナダに入城した際に通過したエルビラ門。

スルターンの報復を恐れたアブー・サイードは、自身のカーティブ(書記官)であるイブン・イーサーを秘密裏の取引の交渉のためにマリーン朝へ派遣した。そして交渉の結果、アブー・サイードは北アフリカのサレの総督の地位と引き換えにマラガをマリーン朝へ譲り渡すことになった。しかし、交渉の存在はマラガの人々に知られるところとなり、この取引は背信行為であると見なされた。市民は蜂起し、イスマーイールを指導者として支持してアブー・サイードを権力の座から引きずり下ろした[21]。イスマーイールは父親を拘束しなかったが、マラガで監視下に置いた。そしてアブー・サイードはイスマーイールが市外を訪れている間に逃亡を試みた疑いを掛けられ、マラガの市民に捕らえられた。イスマーイールは父親が危害を加えられる前に到着し、カルタマ英語版の城への投獄を命じた。後にアブー・サイードはイスマーイールの治世中にサロブレーニャ英語版の城に移され、そこで1320年に死去した[21]

スルターンのナスルへの反発はその後も続き、反ナスル派の人々はグラナダの宮廷からマラガのイスマーイールの拠点に逃れた[19]。そして程なくしてイスマーイールは母親のファーティマとマラガを守るアル=グザート・アル=ムジャーヒディーン英語版[注 1]の司令官であるウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラー英語版の助けを借りて反乱を再開した[24]。イスマーイールがグラナダへ進軍を続けるにつれて軍隊の規模は膨れ上がり、首都の住民はイスマーイールのために城門を開いた。イスマーイールはエルビラ門英語版(イルビラ門)からグラナダに入り、ナスルが留まっていたアルハンブラ宮殿を包囲した[25]。ナスルはフェルナンド4世の死と幼少のアルフォンソ11世(在位:1312年 - 1350年)の即位後にカスティーリャの摂政の一人となっていたペドロ・デ・カスティーリャに助けを求めようとしたが、カスティーリャの支援は間に合わなかった[20]。その一方で、イスマーイールはアルバイシンの古い城塞(qasba qadima)に拠点を構えた。フランシスコ・ビダルによれば、イスマーイールは1314年2月14日(ヒジュラ暦713年シャウワール月27日)に自らをスルターンと宣言した[9]。その後、イスマーイールとナスルはナスルがスルターンの地位を放棄してアルハンブラ宮殿をイスマーイールに明け渡すことで合意に達した[1]。イスマーイールは2月16日にアルハンブラ宮殿に入り、イスマーイールの即位式は2月28日(ズルカアダ月12日)にアルハンブラ宮殿で執り行われた[9]。ナスルは2月19日の夜に東部の都市であるグアディクスに向けて出発することが認められ[9]、そこで総督として統治した[1][25]。一方、イスラーム百科事典のナスル朝の項目では、ナスルはグアディクスへ2月8日(シャウワール月21日)に出発したと説明している[1]

治世編集

スルターンの地位の防衛編集

イスマーイールは治世の最初の数年間を、自身を「グアディクスの王」と称し、独立して都市を支配したナスルとの対立の中で過ごした[9]。ナスルは身の安全の保証をイスマーイールが侵害したとして非難し、君主の地位を取り戻すために親族や自身に仕える人々からの支援を求めた[9]。北アフリカから追放された王子であるアブドゥルハック・ブン・ウスマーンとハンムー・ブン・アブドゥルハック英語版がナスルを支持し、両者はナスルに従ってグアディクスへ向かった[13]。一方でイスマーイールは(カスティーリャ王が臣下であるとみなしていた)ナスルを支持するカスティーリャの介入を見越して国境地帯に警戒態勢を敷いた[26]。さらに、ウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーをアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの司令官としての地位に加えてジュンド(正規軍)の西部地域の司令官に任命し、カスティーリャの脅威への対応を委ねた[27]

イスマーイールは1315年5月から45日間にわたってグアディクスを包囲したが、包囲作戦は失敗に終わった[9]。一方でナスルはカスティーリャとアラゴンに支援を求めた。アラゴン王ジャウマ2世(在位:1291年 - 1327年)は何ら具体的な支援を約束しなかったが、ペドロ・デ・カスティーリャは1316年の春にカスティーリャの貴族を招集し、ナスル朝に対する軍事行動に向けた支援態勢を確保した[28]。カスティーリャは再び包囲を受けたグアディクスに支援部隊を派遣したものの、ウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーが率いるナスル朝軍によって迎撃され、5月8日にアリクン英語版に近いグアダオルトゥナ英語版(ワディ・フォルトゥナ)で大規模な戦闘に発展した[9][28]。同時代のイスラーム教徒とキリスト教徒の史料はこの戦いの勝者について意見を異にしているが、現代の歴史家はカスティーリャが戦いに勝利したと結論付けている。ハーヴェイとアントニオ・フェルナンデスは、カスティーリャ軍が戦いの後にさらにグラナダへ接近したという事実に基づき、カスティーリャ側が辛うじて勝利を収めたと推測している[1][29]。一方、歴史家のジョゼフ・F・オキャラハンは、1,500人のイスラーム教徒が死亡するという結果に終わったカスティーリャ側の「完全な勝利」であったと述べている[30]。イスマーイールはグアディクスへの包囲を解き、グラナダへ撤退することを余儀なくされた。翌月にはペドロ・デ・カスティーリャがカンビル英語版、アルアマル、ベナクシクサルを含むいくつかの城を占領し、イスナジョス英語版の郊外を焼き払った[29][30]。その一方でイスマーイールはセウタを統治するアザフィー家英語版のヤフヤー・ブン・アビー・ターリブと同盟を結び、ヤフヤーは海戦でカスティーリャ軍を破り、その後ジブラルタル包囲英語版した。しかし、カスティーリャが救援部隊を派遣したことで包囲作戦は放棄された[9][31]。1316年の夏の後半にイスマーイールとペドロ・デ・カスティーリャは1317年3月31日までの停戦に合意した[30]

ペドロ・デ・カスティーリャは1317年に再びナスル朝へ侵攻し、7月に平原地帯の農村部から略奪した後にベルメス英語版を占領した。その後、イスマーイールは再度の停戦と引き換えにカスティーリャへ貢納することで同意した[31]1318年の春には戦争が再開し、9月までにイスマーイールとペドロ・デ・カスティーリャは再び停戦に合意した[32]。しかしながら、一方でカスティーリャとアラゴンは1317年にローマ教皇ヨハネス22世(在位:1316年 - 1334年)から十字軍教皇勅書を確保していた。さらに、ヨハネス22世は戦争を支援するために教会によって徴税された資金の使用を許可していた。このため、イスマーイールはさらなる攻撃が差し迫っていると予測した[33]。イスマーイールはマリーン朝のスルターンであるアブー・サイード・ウスマーン2世(在位:1310年 - 1331年)に支援を求めた。これに対してウスマーン2世は、以前にマリーン朝の君主の地位の獲得を企てたウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーを引き渡すようにイスマーイールへ要求した。しかし、イスマーイールはこの条件の受け入れを拒否した[34]

 
1360年時点のイベリア半島の勢力図。南部の茶色の部分がナスル朝。

ペドロ・デ・カスティーリャはさらなる侵攻に向けた準備を開始し、教皇勅書の存在を理由に停戦を破棄してナスル朝からの貢納を停止せざるを得ないとイスマーイールに通告した。イスマーイールはこれを背信行為であるとして非難した[34]。この時点では、恐らくペドロ・デ・カスティーリャの意図はナスルの地位の回復にはなく、むしろナスル朝の完全な征服にあった。そしてペドロ・デ・カスティーリャは次のように宣言した。「たとえ神が私に力を与えたとしても、もし数年以内にグラナダの国をヒスパニアの王による支配の下に取り戻せないようであれば、私はドン・サンチョの息子ではなくなってしまうだろう」[34][35]。ペドロ・デ・カスティーリャは1319年5月にナスル朝の領土へ侵攻し、同月26日にティスカルを占領した。軍隊には共同の摂政であるインファンテのフアン・デ・カスティーリャ英語版も加わり、両者は6月中旬にグラナダに向けて進軍した[36]。そして6月23日にグラナダの近くに到着し[36]、翌日にはペドロ・デ・カスティーリャがグラナダの城門付近に野営地を築こうとした[37]。しかし、フアン・デ・カスティーリャを始めとする軍内で反対意見が出たために25日には撤退を始めた[29][37]。同じ日にウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーが率いるイスマーイールの軍隊がフアン・デ・カスティーリャに率いられた撤退中の後衛部隊を攻撃して反撃を開始した。ペドロ・デ・カスティーリャはウスマーンの5,000人の騎兵に対して、9,000人の騎兵とより多くの歩兵の部隊を投入することで対抗した[36]

その後に続いて起こったベガ・デ・グラナダの戦い英語版はイスラーム教徒の完全な勝利に終わった。ペドロ・デ・カスティーリャは部隊を先導しようとしていた最中に襲撃されて打撃を受けたか[29]、ナスル朝軍の騎兵に自ら突撃した際に揉み合いとなったことで落馬し、その後すぐに死亡した[36]。フアン・デ・カスティーリャはペドロ・デ・カスティーリャの死の知らせを聞いた後に部隊を立て直そうとしたが、突然「死んでも生きてもいない」行動不能な状態に陥り、その後、夜の間に死亡した[36][注 2]。ペドロ・デ・カスティーリャの死とフアン・デ・カスティーリャが行動能力を喪失したことで軍隊は混乱に陥り、残りのカスティーリャ軍の指揮官たちは無秩序に撤退を始めた[40]。しかし、カスティーリャ軍が戦闘の体制を整えようとしていると考えていたナスル朝軍は、カスティーリャの陣営を攻撃して多くのカスティーリャ人を捕らえるか殺害し、野営地を略奪した。ナスル朝とカスティーリャの双方の作家は、この結果を神の審判によるものと見なし、イブン・ハルドゥーンはこれを「真の信仰を支持する神の介入の中でも最も驚くべきものの一つ」と強調している[41][42]

統治の安定と強化編集

 
ヘネラリフェの宮殿に刻まれたイスマーイールを讃える詩。

ベガ・デ・グラナダの戦いでのカスティーリャの二人の摂政の死とその軍隊の完全な敗北によって、イスマーイールの君主の地位に対するカスティーリャの脅威は事実上消滅した。カスティーリャの宮廷が混乱した状況にあったために、国境地帯の都市の地域連合であるエルマンダード・ヘネラル・デ・アンダルシア英語版がナスル朝との交渉に動いた[43]。1320年6月18日にバエナ英語版でエルマンダードとイスマーイールの間で8年間の停戦が合意され、カスティーリャによるナスルへの支援は実質的に終了した[1][44]。エルマンダードの各都市は条約に署名するために代表を派遣し、新しい摂政がこの条約を受け入れた場合にのみ摂政を承認することを互いに誓約した[44]。ナスル朝に対する十字軍の教皇による承認と資金をも受け取っていたアラゴンのジャウマ2世は、当初は「神への酷い仕打ち」であり、君主によって承認されていないと公言して条約を結んだエルマンダードを非難したが、結局はジャウマ2世も1321年5月にイスマーイールと5年間の停戦条約を結んだ。また、イスマーイールはナスル朝とアラゴンを隔てていたカスティーリャの領土の一部であるムルシアの指導者として行動していたドン・フアン・マヌエルとも和平交渉を行った。この時の和平の条件にはナスル朝がアラゴンに対する戦争時にムルシアの領土を利用できるという条項が含まれ、その場合にはムルシアはアラゴンにナスル朝の軍隊の移動を警告してはならないとされた。しかし、ナスル朝とアラゴンの間の平和は維持され、両国の停戦条約は1326年に更新された[43]。そして1322年にナスルがグアディクスで後継者を残すことなく死去し、イスマーイールは自身の統治下で正式にナスル朝の領土を再統一した。ナスルの死は今やイスマーイールの支配について争われる余地がなくなり、イスマーイールから始まる新しいスルターンの王統への道が開かれたことを意味した[25]

バエナで締結された条約の存在にもかかわらず、ナスル朝とカスティーリャの間で結ばれていた他のいくつかの条約の期限が切れたことで紛争が再開された。アルフォンソ・ホフレ・テノーリオ英語版が率いるカスティーリャ艦隊が海戦でナスル朝を破り、キリスト教徒の記録によれば、1,200人のイスラーム教徒が捕えられてセビーリャへ移送された。その一方でイスマーイールは、ナスルによる脅威が去り、カスティーリャの宮廷が指導力を欠いていたことで積極的な行動に出るようになり、国境地帯の支配力の強化と要塞の奪還のためにカスティーリャとの国境を越えて軍事行動を展開した。1324年7月にイスマーイールはグアディクスに近いバサを奪還した。そして1324年または1325年のいずれかにオルセ英語版ウエスカル英語版ガレラ英語版を占領し[注 3]、これらの攻城戦の中の一つで大砲が使用された(次節参照)[1][9][45][46]。イスマーイールは征服した土地の防御体制の再構築を命じ、自らウエスカルの堀の構築に取り組んだ[9]。また、イスマーイールのいくつかの軍事的功績を讃える詩がアルハンブラのヘネラリフェに存在するダール・アル=マムラカ・アル=サイーダ(幸福な王国の家)に刻まれた[47]。そして1325年6月22日から7月6日にかけて行われたマルトスの包囲戦がイスマーイールにとって最後の軍事行動となった。しかし、イスマーイールは都市への攻撃中に部隊の統制を失い、部隊は都市を略奪して住民を虐殺した。結果的に生じたこの残虐行為はイスラーム教徒の年代記作者によって強く非難された[9]

大砲の使用に関する記録編集

複数の歴史家が1324年もしくは1325年に行われたイスマーイールの包囲戦の一つで大砲が使用されたことを伝えている。これは恐らくイベリア半島における最初の大砲の使用例であると考えられているが、使用に関する詳細と解釈については異なる説明が存在する。オキャラハンはガレラで、フランシスコ・ビダルはウエスカルで大砲が使用されたと明記している[9][48]。一方、歴史家のラシェル・アリエ英語版は、曖昧な表現や解釈なしにギリシアの火がウエスカルに対して用いられたと記している[26]。ハーヴェイはギリシアの火と大砲の両方の可能性を検討し、イブン・アル=ハティーブがこの出来事の記録に使用したアラビア語はナフト(naft)であり、ギリシアの火と翻訳することができるものの、アル=アンダルス・アラビア語では同様に大砲や火薬を指す場合もあると指摘している。そしてハーヴェイは後者の解釈を主張している。この解釈は、装置が鉄球(kurra hadidin)を発射し、その際に「轟音」を発したとイブン・アル=ハティーブが述べており、これらの詳細も別の目撃者(ハーヴェイは名前を記していない)によって裏付けを与えられていることを根拠にしている[46]。この武器は包囲戦において守備側を降伏へ誘導したとみられているものの、短期的にはそれ以上の影響を及ぼすことはなかったと考えられている[46]。その後、イスマーイールの息子であるユースフ1世英語版の治世中に起こった、戦略的により重要なアルヘシラス包囲戦英語版1342年 - 1344年)でナスル朝が再びこの武器を使用したことが記録されている。西ヨーロッパの他の場所では、よく知られている1346年クレシーの戦いで大砲が使用された[1][49][50]

政策と統治体制編集

 
イスマーイールによって建造されたプエルタ・デ・ラス・アルマス。

イスマーイールは他のナスル朝のスルターンと比較して、より厳格で正統的なイスラーム法の適用を推し進めた。伝記作家はイスマーイールによる強制的なアルコールの禁止について強調しており、イスマーイールはこれに違反した者への刑罰を増やした。また、男性が参加している集会での女奴隷の歌手の演奏を禁止した。そしてユダヤ人に対してはそれと分かる印を身に付けるように命じたが、これはイスラームの君主からはめったに強制されることのなかった慣習である[9]。さらにイスマーイールはユダヤ人にジズヤ(人頭税)を課し、それによってかなりの歳入を得た[51]

イスマーイールの大臣の中でアブー・ファトフ・アッ=フィフリーとアブル=ハサン・ブン・マスウード・アル=ムハーリビー(以下、イブン・マスウード)が共同でワズィール(宰相)の職務に当たった[52]。また、イスマーイールは著名な詩人であったイブン・アル=ジャイヤーブ英語版を王室の書記官に任命し[9]、同様にムハンマド・ブン・アル=マフルーク英語版をワキール(wakil)の肩書を持つ財政担当官に任命した[53]。ムハンマド・ブン・アル=マフルークは、イスマーイール暗殺時の襲撃中に受けた傷がもとで死亡したイブン・マスウードの後を受けてムハンマド4世の治世下でワズィールとなった[53][54]。さらに、イスマーイールはカスティーリャ系カタルーニャ人でイスラームへ改宗したアブー・ヌアイム・リドワーンを王子のムハンマドの家庭教師に任命した。アブー・ヌアイムは若いムハンマドがスルターンの地位についた際にもムハンマドに対する影響力を維持し、ハージブ(侍従)に任じられた。そして続くユースフ1世の治世とムハンマド5世英語版(在位:1354年 - 1359年1362年 - 1391年)の治世の初期までその地位にあった[55]。政治的な案件では、イスマーイールは父親と不和になったにもかかわらず母親のファーティマからの協力も得た。歴史家のマリア・ヘスス・ルビエラ・マタ英語版によれば、この点ではファーティマは夫と同様に「優れた資質を備えていた」[56]。司法では、ムハンマド3世とナスルに仕えていたアブー・ジャアファル・アフマド・ブン・ファルクーンに代えて、ヤフヤー・ブン・マスウード・ブン・アリーをカーディー・アル=ジャマー(カーディーの長官)に任命した[57]

家族編集

イスマーイールは少なくとも3人のウンム・ワラド英語版(内妻)との間に4人の息子と2人の娘を儲けた。イスマーイールはアルワという名前のキリスト教徒を寵愛し、アルワは息子のムハンマド(後のムハンマド4世)とファラジュ、そして娘のファーティマとマルヤムを産んだ。もう一人のウンム・ワラドであるバハールはユースフ(後のユースフ1世)を産み、さらに別のウンム・ワラドが同名の末子であるイスマーイールを産んだ[9]。イスマーイールが死去する頃、アルワが詳細の不明な反抗的行動を取ったことでイスマーイールはアルワと別れた。アルワはムハンマド4世が死去した1333年にはまだ存命であった[54]

暗殺編集

イスマーイールは1325年7月8日(ヒジュラ暦725年ラジャブ月26日月曜日)に、サーヒブ・アル=ジャズィーラ(アルヘシラス総督)として知られるスルターンの従兄弟(同じイスマーイールの名を持つ)の息子(従甥)であるムハンマド・ブン・イスマーイールによって暗殺された[9][58]。イスマーイールの殺害当時11歳でグラナダに住んでいたイブン・アル=ハティーブ[59]、スルターンが以前に詳細不明の過失行為を犯したムハンマドを厳しく非難し、その叱責がムハンマドを酷く傷つけたためにイスマーイールの殺害を決意したと記している。キリスト教徒による史料では別の暗殺の動機を記録している。『アルフォンソ11世年代記』によれば、ムハンマドがマルトスであるキリスト教徒の女性を捕らえ、イスマーイールはその女性を貰い受けたいと望んだ。しかし、スルターンはムハンマドが非礼とみなした態度でその要求を口にし、ムハンマドは要求を拒否した。その後、ムハンマドはウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーとこの件について意見を交わし、ウスマーンはイスマーイールを殺害する陰謀に加担することに同意した[60][61]。ハーヴェイは「秘密裏に何が起こったのか」についてのこのような生々しい詳細を含む部外者による説明は、とりわけ他の史料と説明が食い違っているために信頼に値しない可能性があると注意を促している[62]

暗殺はアルハンブラ宮殿において白昼堂々と一般市民とナスル朝の高官がいる前で起こった[63]。ムハンマドは観衆の中央でイスマーイールを抱擁した際に袖の中に隠し持っていた短剣を3回イスマーイールへ突き刺した。その内の一つは鎖骨のすぐ上の首に刺さった。イスマーイールは崩れ落ちるように倒れ、ワズィールのイブン・マスウードに対して助けに来るように促した。ムハンマドとその協力者たちはイブン・マスウードと格闘となった。剣による戦いが続き、その後に共謀者たちは逃走を図った[64]。しかし間もなく共謀者たちは発見され、イブン・ハルドゥーンによれば、その場ですぐにウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーによって殺害された[65][66]。遺体はアルハンブラ宮殿の壁に吊るされ、共謀者たちの家は暴徒によって略奪された[65]。その間、イスマーイールはターバンで傷を塞いで生き続け、母親のファーティマの邸宅に運ばれたものの、そこで傷がもととなって死亡した[63]。イブン・マスウード(戦闘で重傷を負っていた)とファーティマはイスマーイールの10歳の息子であるムハンマド(ムハンマド4世)の継承を確保するために廷臣たちを呼び集めた[67][54]。そしてイブン・マスウードはおよそ1ヶ月後に負傷が原因となって死去した[54]。ウスマーンは暗殺には関与しておらず、その後も宮廷において影響力のある人物であり続けた[67]

イスマーイールは祖父のムハンマド2世も葬られていたアルハンブラ宮殿の王立墓地(rawda)に埋葬された。2世紀近く後にグラナダが降伏した際に最後のスルターンのムハンマド11世(ボアブディルの名でも知られる)がこの墓地から遺体を掘り起こし、アルプハラス英語版の領地の一部であるモンドゥハルに改葬した[68]

遺産編集

 
ナスル朝のスルターンの系図。イスマーイール1世から始まる王統は、アッ=ダウラ・イスマーイーリーヤ・アン=ナスリーヤ(イスマーイールのナスル朝)として知られている。

文化的で洗練された人物であったイスマーイールは、存命中にアルハンブラの複合施設とヘネラリフェの宮殿に多くの建造物を加えた[69]。1319年のカスティーリャに対する勝利後にはアルカサル・ヘニル英語版の宮殿を増築し、アルハンブラ宮殿の一部を構成するアルカサバにプエルタ・デ・ラス・アルマスを建造した。また、一部の建築物は後のコマレス宮へ発展した[69]。イスマーイールが使用した大砲はイベリア半島での戦争における重要な技術的進展を示しており、ナスル朝がイベリア半島でしばらくの間単独で享受していた利点であった。実際に1322年から1324年にかけて続いたアルヘシラスの包囲戦でナスル朝が大砲を用いたのに対し、カスティーリャはまだ自らの大砲を所有していなかった[70]。しかし、カスティーリャ人は最終的に独自の大砲を開発し、ナスル朝よりもうまく活用した。大砲は城壁を守るよりも破壊することにより能力を発揮した。そしてその後1492年のグラナダの征服に至るまで、カスティーリャはより頻繁に攻撃的な姿勢を示すようになり、地政学的な均衡を崩して最終的な勝利を得ることになった[71]

イスマーイールの死後、10歳の少年であった息子のムハンマドがムハンマド4世(在位:1325年 - 1333年)として後継者となった[69]。また、イスマーイールのもう一人の息子であるユースフは、後にユースフ1世英語版(在位:1333年 - 1354年)としてムハンマド4世の後を継いだ[2]。イスマーイールから始まるスルターンの王統は、現代ではアッ=ダウラ・アル=イスマーイーリーヤ・アン=ナスリーヤ(イスマーイールのナスル朝)と呼ばれ、初代のムハンマド1世ラカブであるアル=ガーリブ・ビッ=ラーフ(神の恩寵による勝利者)にちなんで名付けられた最初の4人のスルターンが属するアッ=ダウラ・アル=ガーリビーヤ・アン=ナスリーヤ(アル=ガーリブのナスル朝)と対比されている[72]。ナスル朝には明確な君主の地位の継承に関する規則はなかったものの、イスマーイール1世は母系から地位を継承した数少ない統治者の一人であった。他にはユースフ4世英語版がナスル朝における同様の事例となっている[56]

イスマーイールへの評価に関して、オキャラハンはイスマーイールを「ナスル朝で最も有能な君主の一人」と呼んでいる[48]。一方でフランシスコ・ビダルは、イスマーイールの治世の特徴として「非常に活動的であるとともに好戦的であり、アル=アンダルスを敵に対してより強力な立場へと導いた」と指摘している[9]。歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディ英語版は、イスマーイールについて「暗殺されていなければさらに多くのことを成し遂げていたかもしれない」と述べ、「活発で有能な統治者」であったと評している[73]。同じようにハーヴェイは、もし早期の死がなかったならば、ベガ・デ・グラナダの戦いでの成功に続いて「長く成功した統治を享受する運命にあったように思える」と記している[46]

脚注編集

注釈編集

  1. ^ ジハードの戦士」を意味し[22]、イベリア半島のキリスト教諸王国からナスル朝を防衛するためにマリーン朝から国外追放されたベルベル人を採用して組織された軍事集団[22][23]
  2. ^ 現代の歴史家はフアン・デ・カスティーリャが脳卒中を起こしたとする見解を示している[38][39]。一方、16世紀の歴史家のヘロニモ・スリタは、著作の『アラゴン連合王国年代記スペイン語版』の中で、非常に熱い日に重い鎧を着ていたことで脱水症を引き起こし、これが原因で死に至ったと説明している[39]
  3. ^ それぞれの都市の占領の日付は参考文献によって異なっている。Vidal Castro: Ismail I は3か所とも1324年に占領されたとしているが、Latham & Fernández-Puertas 1993, p. 1023は全て1325年の占領としている。一方、Harvey 1992, p. 184はウエスカルの占領を1324年と記しているものの、他の都市の占領の日付は記していない。

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h i Latham & Fernández-Puertas 1993, p. 1023.
  2. ^ a b c d Fernández-Puertas 1997, p. 2.
  3. ^ Harvey 1992, p. 158.
  4. ^ Fernández-Puertas 1997, p. 1.
  5. ^ Harvey 1992, pp. 9, 40.
  6. ^ Harvey 1992, pp. 160, 165.
  7. ^ O'Callaghan 2013, p. 456.
  8. ^ Harvey 1992, pp. 26–28.
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v Vidal Castro: Ismail I.
  10. ^ Boloix Gallardo 2016, pp. 276–277.
  11. ^ Boloix Gallardo 2016, p. 276.
  12. ^ Boloix Gallardo 2016, p. 279.
  13. ^ a b c Harvey 1992, p. 180.
  14. ^ a b c d e f Fernández-Puertas 1997, p. 4.
  15. ^ Vidal Castro 2004, p. 361.
  16. ^ Rubiera Mata 1975, pp. 131–132.
  17. ^ Vidal Castro 2004, pp. 362–363.
  18. ^ Vidal Castro: Muhammad III.
  19. ^ a b Rubiera Mata 1975, p. 132.
  20. ^ a b O'Callaghan 2011, p. 134.
  21. ^ a b Fernández-Puertas 1997, pp. 4–5.
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  29. ^ a b c d Harvey 1992, p. 181.
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  34. ^ a b c O'Callaghan 2011, p. 143.
  35. ^ Al-Zahrani 2009, p. 357.
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  38. ^ Arranz Guzmán 2012, p. 27.
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  43. ^ a b O'Callaghan 2011, pp. 147–148.
  44. ^ a b O'Callaghan 2011, p. 147.
  45. ^ O'Callaghan 2011, pp. 148–149.
  46. ^ a b c d Harvey 1992, p. 184.
  47. ^ Fernández-Puertas 1997, p. 6.
  48. ^ a b O'Callaghan 2011, p. 149.
  49. ^ Harvey 1992, pp. 199, 230.
  50. ^ O'Callaghan 2011, p. 195.
  51. ^ Arié 1973, p. 215.
  52. ^ Arié 1973, p. 206, also note 7.
  53. ^ a b Arié 1973, p. 214.
  54. ^ a b c d Vidal Castro: Muhammad IV.
  55. ^ Arié 1973, p. 264.
  56. ^ a b Boloix Gallardo 2016, p. 281.
  57. ^ Arié 1973, pp. 279–280.
  58. ^ Vidal Castro 2004, pp. 371–372.
  59. ^ Vidal Castro 2004, p. 374.
  60. ^ Vidal Castro 2004, p. 375.
  61. ^ Harvey 1992, p. 185.
  62. ^ Harvey 1992, pp. 185, 187.
  63. ^ a b Vidal Castro 2004, p. 377.
  64. ^ Vidal Castro 2004, pp. 375–376.
  65. ^ a b Vidal Castro 2004, p. 376.
  66. ^ Vidal Castro 2004, pp. 379–380.
  67. ^ a b Catlos 2018, p. 344.
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  69. ^ a b c Fernández-Puertas 1997, p. 7.
  70. ^ Harvey 1992, pp. 199–201, 230.
  71. ^ Harvey 1992, pp. 230–232.
  72. ^ Fernández-Puertas 1997, pp. 1, 5.
  73. ^ Kennedy 2014, p. 287.

参考文献編集

イスマーイール1世

1279年3月3日 - 1325年7月8日

先代:
ナスル
スルターン
1314年2月 - 1325年7月8日
次代:
ムハンマド4世