イタリア領リビア

かつて北アフリカに存在したイタリアの植民地
イタリア領リビア
Libia Italiana  (イタリア語)
ليبيا الإيطالية  (アラビア語)
イタリア領トリポリタニア
イタリア領キレナイカ
1934年 - 1947年 イギリス軍政下のリビア
フランス軍政下のフェザーン
リビアの国旗 リビアの国章
イタリア王国旗国章(1940年-1947年)
リビアの位置
1941年のイタリア領リビア
  イタリア領リビア
公用語 イタリア語
アラビア語リビア方言
アラビア語
ベルベル語
ドマリ語
首都 トリポリ
イタリア王
1934年 - 1943年 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
総督英語版
1934年1月1日 - 1940年6月28日イタロ・バルボ
1940年7月1日 - 1941年3月25日ロドルフォ・グラツィアーニ
1941年3月25日 - 1941年7月19日イータロ・ガリボルディ
1941年7月19日 - 1943年2月2日エットーレ・バスティコ
1943年2月2日 - 1943年5月13日ジョヴァンニ・メッセ
面積
1939年1,759,541km²
変遷
トリポリタニアキレナイカの統合 1934年1月1日
連合国軍によるリビア占領、イタリア支配の終結1943年5月13日
連合国軍へ完全譲渡、英仏分割軍政の開始1947年2月15日
通貨イタリア・リラ
現在リビアの旗 リビア

イタリア領リビア(イタリアりょうリビア、イタリア語: Libia italiana, アラビア語: ليبيا الإيطالية‎)は、1934年1月1日に成立したイタリア領トリポリタニアイタリア領キレナイカの2地域を合わせたイタリアの植民地である。1943年5月13日連合国に完全に占領され、第二次世界大戦後の1947年2月15日連合国へ正式に領土を割譲されたことでイギリス軍フランス軍による分割統治が開始、名実ともに消滅した。

リビアの歴史
Coat of arms of Libya Tobruk Government.svg
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リビアの先史時代英語版

リビア ポータル
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歴史編集

元々、チュニジアを含めた北アフリカに対する利権を巡りイタリア王国と対立をしていたフランス第三共和国1881年チュニジアに対する侵攻を強行、これを脅威と受け止めたイタリアは1882年にフランスに対する利害が一致したイタリアとビスマルク体制を構築中のドイツ帝国、そしてオーストリア=ハンガリー帝国未回収のイタリア問題を抱えながらも一時の同盟を築くこととなる。1878年に開かれたベルリン会議ではフランスのチュニジア占領に関して反対していたイタリアに対し、フランスはイタリアによるトリポリタニアの占領を誘いにかけ1902年トリポリタニアとチュニジアに関する協力協定を締結。1900年代に入ると、イタリアのメディアは盛んにトリポリタニア占領を煽り、不況の渦中にいるオスマン帝国飛び地であったリビア地域に対してイタリアの植民地拡大を呼びかけ始めた。

1911年9月29日、イタリアはオスマン帝国に対し最後通牒統一と進歩委員会に対し提示。オスマン帝国はイタリア王国に対してトリポリタニアの形式的宗主権を認めてくれれば、実効支配を委ねてもよいと返答。オスマン帝国に対し「満足できる回答ではない」として開戦を宣言。伊土戦争が終結後、第一次ローザンヌ講和条約を締結。リビアはイタリアへと割譲され、イタリア領トリポリタニアイタリア領キレナイカとしてそれぞれ二つが成立、その後は領土を拡大し続け、1934年に両者は統合されイタリア領リビアとなる。

 
イタリア領リビアの拡大
  オスマン帝国によるイタリアへ対するリビア割譲地域(1912年)
  フランスによって割譲された領土(1919年)
  イタリアによる非支配地域であったクフラ征服(実効支配自体は1919年に、領土確定は1931年)
  イギリスによって割譲された領土(1926年)
  イギリスによって割譲された領土(1934年)
  フランスによって割譲された領土(1935年)

第一次世界大戦編集

1918年秋、トリポリタニア共和国が独立宣言を発したが、列強からは支持を得られず、1923年ごろには崩壊することとなった。

第二次世界大戦編集

1940年6月10日ムッソリーニ政権下のイタリア政府はイギリス及びフランス第三共和国に対し宣戦を布告

 
エジプト侵攻前のアフリカ勢力図

1940年9月7日、ムッソリーニはエジプトに対する侵攻を命令。9月9日にはイタリア空軍機とイギリス空軍機による航空戦が行われ、9月13日には本格的なエジプト侵攻が開始、北アフリカ戦線が開かれることとなる。

その後、コンパス作戦を発動したエジプト方面から迫るイギリス軍に対しイタリア軍は敗北、ベンガジまで押しもどされたものの、その後に到着したエルヴィン・ロンメルが指揮するドイツアフリカ軍団によって押し戻すことに成功。しかしながらエル・アラメインの戦いによってイギリス連邦諸国軍に対する敗北によりアフリカにおける連合国の優位が確定。追い打ちを掛けるように連合国軍がトーチ作戦を発動し現在のモロッコ及びアルジェリアが存在するカサブランカオランアルジェに対し上陸、5月13日に北アフリカの枢軸国軍は降伏し、リビアを含めた北アフリカは完全に連合国軍へ占領された。

 
戦中から戦後にかけてまでのフランスとイギリスによるリビア分割占領

その後リビアは1947年パリ条約によってイタリアは海外植民地の放棄を決定され、連合国軍へ完全に譲渡されることになり、フェザーン地域はフランス軍に、トリポリタニア及びキレナイカ地域はイギリス軍によって軍政が敷かれることとなる。1949年6月、キレナイカ地域にてサヌーシー教団リビア連合王国の前進となるキレナイカ首長国 (enとして独立を宣言し、1951年にはフェザーンとトリポリタニアを併合、リビア連合王国が成立する。