イネス・ゴロチャテギ(Ines Gorrochategui, 1973年6月13日 - )は、アルゼンチンコルドバ出身の元女子プロテニス選手。1993年全米オープン女子ダブルスで、南アフリカアマンダ・クッツァーとペアを組んで準優勝した選手である。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス9位。WTAツアーでシングルスの優勝はなかったが(準優勝2度)、ダブルスで7勝を挙げた。

イネス・ゴロチャテギ
Ines Gorrochategui
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
出身地 同・コルドバ
生年月日 (1973-06-13) 1973年6月13日(50歳)
身長 169cm
体重 58kg
利き手
ツアー経歴
デビュー年 1991年
引退年 1999年
ツアー通算 7勝
シングルス 0勝
ダブルス 7勝
生涯通算成績 392勝228敗
シングルス 210勝117敗
ダブルス 182勝111敗
生涯獲得賞金 976,039 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 3回戦(1993・97)
全仏 ベスト8(1994)
全英 4回戦(1995)
全米 3回戦(1996)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 3回戦(1993・94)
全仏 ベスト4(1993・94)
全英 2回戦(1995・96・99)
全米 準優勝(1993)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 19位
ダブルス 9位

ゴロチャテギはおじの手ほどきにより、7歳からテニスを始めた。ジュニア時代は、1991年全仏オープン女子ジュニア部門でシングルス準優勝・ダブルス優勝がある。同年にプロ入り。2年後の1993年全米オープンで、ゴロチャテギはアマンダ・クッツァーと女子ダブルスのペアを組んだ。その勝ち上がりの過程では、4人の日本人選手たちと対戦した。1回戦では飯田栄木戸脇真也組、3回戦は平木理化エミー・フレージャー組、準決勝では宮城ナナヤユク・バスキ組を破って勝ち進んだ。決勝でゴロチャテギとクッツァーはアランチャ・サンチェス・ビカリオヘレナ・スコバ組に 4-6, 2-6 で敗れ、準優勝に終わった。

イネス・ゴロチャテギは翌1994年全仏オープンで、4大大会女子シングルスの自己最高成績を出し、ベスト8に勝ち上がった。この大会では、2回戦で沢松奈生子に勝ち、3回戦で第15シードのヘレナ・スコバを破り、4回戦でクロアチアの新星イバ・マヨリを破って勝ち進んだが、初進出の準々決勝でシュテフィ・グラフに 4-6, 1-6 で敗れた。しかし、前年7月のフェデレーションカップで痛めた左膝の故障が悪化し、続くウィンブルドンで3回戦の試合に出場できなくなる。ゴロチャテギは左膝の関節鏡視下手術を受け、1994年のシーズン後半を棒に振った。ようやく1995年3月に復帰し、この年のウィンブルドンで4回戦に進出する。この対戦相手もグラフであった。1996年アトランタ五輪アルゼンチン代表選手として出場し、女子シングルスでメアリー・ジョー・フェルナンデスアメリカ代表)との3回戦まで進んでいる。

競技生活の早い時期に痛めた左膝に加えて、ゴロチャテギのテニス経歴は故障との闘いの連続だった。それでも、現役最後の年となった1999年フェドカップの「アメリカズ・グループA」でパトリシア・タラビーニとのダブルス戦をこなし、ウィンブルドンで4年ぶりの3回戦に進出している。最後のウィンブルドンでは、当時18歳のアンナ・クルニコワとの試合を 5-7, 1-3 で途中棄権した。ゴロチャテギの現役最後の大会は、1999年全米オープンであった。シングルスは1回戦でナターシャ・ズベレワに敗れ、ダブルスでは6年前の準優勝と同じアマンダ・クッツァーとペアを組んだが、2回戦でビーナスセリーナのウィリアムズ姉妹組に 7-6, 4-6, 4-6 で競り負けた。ズベレワとウィリアムズ姉妹との戦いを最後に、イネス・ゴロチャテギは26歳で現役を退いた。

ゴロチャテギは現役生活を通じてシュテフィ・グラフとの対戦が多く、5度の対戦はすべて4大大会であった。(1994年全仏オープン準々決勝・1995年全仏オープン1回戦・1995年ウィンブルドン4回戦・1997年全豪オープン3回戦・1999年全仏オープン2回戦)ゴロチャテギとグラフは、1997年の「ドイツ・オープン」でダブルスのペアを組み、1回戦で平木理化フロレンシア・ラバト(アルゼンチン)の組に敗れたこともあった。

参考文献 編集

  • WTAツアー公式メディア・ガイド、1996年版 (ツアーサイトから、大半の伝記情報が消滅したため)

外部リンク 編集