イリュリクムラテン語: Illyricum) は、それ以前にイリュリア王国だった地域に設立された古代ローマ属州である。現アルバニアドリン川から北はイストリア半島スロベニアクロアチア)、東はサヴァ川ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア)まで広がる。首都は現クロアチアの都市スプリトの近くのサロナエ(Salonae)におかれた。

イリュリクム属州の場所(120年頃のローマ帝国)

イリュリア王国は、ゲンティウスがイリュリア王であった紀元前168年共和政ローマに武力によって征服された。紀元前167年以降、イリュリア南部が分割されて正式にローマの保護領となった。

この地域は、ローマにとっては戦略的にも経済的にも価値が高かった。海岸線には重要な商業港が点在し、内陸部には金鉱山があった。またイリュリアはエグナティア街道の始点で、この道はアドリア海沿岸のデュラキウム(現ドゥラス)から東のビュザンティオンまで至るローマ街道だった。

紀元前59年にウァティニウス法(Lex Vatinia)が成立し、イリュリクムとガリア・キサルピナとはガイウス・ユリウス・カエサルの担当属州(provincia)とされた。ただし、このときは属州といっても「責任領域」という意味に近かった。属州イリュリクムとしての言及は、イリュリアをめぐるアウグストゥスの戦争(紀元前35年-紀元前33年)が終わり、紀元前27年のアウグストゥスの定めにおいて初めて登場する。このとき同時に、この地域(現在のアルバニアの大部分)の南側の領域はマケドニア属州とされた。イリュリクム属州は、ローマ帝国とパンノニア族などの部族集団との戦い(紀元前12年-紀元前9年)に勝利したことにより、領域を広げた。

その後、パンノニア族とダルマティア族が反乱を起こして9年に制圧され(バトの反乱、6年-9年)、10年にイリュリクム属州は解体された。新しく、北側にはパンノニア属州、南側にはダルマティア属州が設立された(ジェノ・フリッツなどの学者は属州再編を西暦20年-35年頃と考えている)。属州名からは失われたが、イリュリクムという名前はこの地域の呼び名としては生き残り、後の皇帝ディオクレティアヌステトラルキア(4分統治)において4つの法務官統治領(praetorian prefecture Latin: praefectura praetorio)を設立した際には、そのひとつをイリュリクム統治領( praetorian prefecture of Illyricum Latin: praefectura praetorio per Illyricum)と名づけた。ここには、パンノニア属州、ノリクム属州、クレタ島、およびトラキアを除くバルカン半島が含まれた。

この地域の人々は勇敢であると有名であり、ローマの軍人の重要な供給源となった。著名なローマ皇帝にもこの地域出身者がおり、アウレリアヌス帝、クラウディウス2世コンスタンティヌス1世ディオクレティアヌス帝や、東ローマ帝国皇帝のユスティニアヌス1世がそうである。

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