イロコイ劇場火災

イロコイ劇場火災Iroquois Theatre fire、イロコイげきじょうかさい)[1] とは、1903年12月30日イリノイ州シカゴにあったイロコイ劇場で発生した火災及び将棋倒し事故群衆事故)である。

イロコイ劇場火災
IroquoisTheater.jpg
イロコイ劇場 火災直後
日付1903年12月30日
時刻午後3時15分ころ
場所アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
原因アーク灯の故障によるモスリン・カーテンの発火
死者602+
負傷者250

米国史上で最悪の劇場火災であり、単一の建物としても最悪の火災である。少なくとも602人が死亡した。

劇場編集

イロコイ劇場は、シカゴのステート・ストリートとディアボーン・ストリートと間の、西ランドルフ・ストリート24–28丁目にあった。その立地が選ばれたのは、警察がパトロールする安全なループ(Loop)買い物地区に近く、主に町の外からの日帰り旅行の女性たちを引きつけるためであった。[2]この劇場は、労働争議[3]や、いち筆者によれば[2]、必要なドローイング複数を定刻に完成させる、建築家ベンジャミン・マーシャルの説明されない無能さによって、長期間の延期を経て1903年11月23日に開場した。開場されるや、演劇批評家らによって賞賛された。ウォルター・K・ヒル(Walter K. Hill)は『New York Clipper』(『Variety』)にて、「イロコイは、シカゴで最も美しい...そして有能な判断者らは、アメリカ国内で建築の完成度において匹敵する劇場はほとんどないと述べている」と評した。("the most beautiful ... in Chicago, and competent judges state that few theaters in America can rival its architectural perfections ...")[4]

イロコイには1602名の収容能力があり、座席は3種あった。メイン・フロアは、『オーケストラ』(orchestra)あるいは『パーケイ』(parquet)として知られ、ホワイエおよびグランド・ステア・ホールと同一層に約700座席あった。第2層『ドレス席』(dress circle)あるいは『[第1]バルコニー』([first] balcony)は、400席超あった。第3層『天井桟敷』(gallery)は、約500席であった。第1層に4つ、上方に2つ、ボックス席があった。[5]

この劇場には、入口が1つしかなかった。ホワイエからバルコニー層に通じる広い階段室1つも、天井桟敷層への階段複数に達するのに用いられた。劇場設計者らは、これは、座席の料金にかかわらず常連客らに「見てそして見られる」("see and be seen")ことを許す、と主張した。しかしながら、共通の階段室は、各バルコニーごとに個別の階段室と出口を必要とするシカゴの消防条例を無視していた。天井桟敷を出る人々はバルコニー層を立ち去る群衆に遭遇し、上層から降りる人々はホワイエのオーケストラ層の常連客らと交差する構造だったため、設計は大惨事をもたらすとことが予想されていた。[6]バックステージ・エリアは異常に大きかった。楽屋は5つの層にあったし、エレベーター1機が俳優らを舞台層にはこぶために利用可能であった。フライ天井桟敷(fly gallery)(ここに背景が吊り下げられていた)も異常に大きかった。

火災ののち、1904年にイロコイ劇場はコロニアル劇場と改名され再開場したが、後の1925年に取り壊された[7]。翌年の1926年には、同敷地にオリエンタル劇場が建てられた。

火災前に注目された火災に対する即応性編集

事前に「絶対耐火」("Absolutely Fireproof")と広告されていたにもかかわらず、[8]火災準備に無数の欠陥が見られた。

  • Fireproof Magazine』編集者は、建築中の建物を見て回り、以下のものに注目した。「取入口、あるいはステージ・ドラフト・シャフトの欠如。(プロセニアム)アーチ[注 1]のむきだしの増強。あらゆるものに接するウッド・トリムの存在と、出口の不適当な準備」[9]("the absence of an intake, or stage draft shaft; the exposed reinforcement of the (proscenium) arch;the presence of wood trim on everything and the inadequate provision of exits.")
  • 公式の開場の前に劇場の非公式な見回りをおこなったシカゴ消防署長は、スプリンクラー、警報装置、電話、そして水道がないことに注目した。署長は劇場の防火消防監督担当官(fire warden)に不備を指摘したが、もし彼がオーナーらのシンジケートに問題を持ち上げれば、ただ監督担当官が免職されるだけとなるため何もできない、と言われた。署長が問題を部隊長に報告したときも、劇場にはすでに防火消防監督担当官がいたため、彼は再び何もできないと言われた[10]
  • 現場の消防設備は、「キルファイア」消火器("Kilfyre" extinguishers)6つで構成されていた。キルファイアは、住宅の煙突火災を消すためにも販売された、ドライ・ケミカル消火器の一種であった。それは、約3ポンド (1.4 kg)の白い粉、ほとんどが重炭酸ナトリウムでいっぱいの、2 in × 24 in (5.1 cm × 61.0 cm)のスズのチューブから成っていた。使用者は、炎の基部をめがけて、チューブの内容物を「むりやり投げつける」("forcibly hurl")ように指示されていた。火災はステージの上方高くで始まっており、この時キルファイアが投げられたが、無益にも床に落ちた。[11][12]

火災編集

 
逃げようと努めている、パニックを起こした芝居好きたち(画家の想像)
 
アリ(alley)の上方のはしごを登っている芝居好きたち(画家の想像)
 
ダン・マッカヴォイ(Dan McAvoy)Mr. Blue Beard を演じた俳優

事故当日の1903年12月30日の水曜日、イロコイでは、人気のドルリー・レーン・ミュージカル『Mr. Blue Beard』がかかっており、これは開場の夜以来毎日かかっていた。劇である伝統的な青ひげ民話のバーレスクは、ダン・マカヴォイがあおひげ役、エディ・フォイ(Eddie Foy)がシスター・アン役で特別出演し、これは彼に肉体的なコメディー・スキルを披露させる役割があった。ダンサー ボニー・マギン(Bonnie Maginn)も Imer Dasher 役で、キャストのなかにいた。開場の夜以来の入場は失望させられ、人々は悪天候、労働争議などの要因で追い払われていた。12月30日のパフォーマンスは、大入り満員札止めの聴衆をひきよせた。チケットは劇場の全席で完売した。くわえて、劇場の裏側にある「立ち見」席("standing room" areas)にもさらに数百名の観客が滞在していた。マチネーに参加する推定2,100〜2,200人の常連客の多くは子供であった。立ち見席があまりに混雑していたので、一部常連客は通路に座り、出口を塞ぐほどであった[13]

第二幕開始直後の午後3時15分頃は、男8人と女8人がダブル・オクテットのミュージカル曲『In the Pale Moonlight』を演じており、ステージは青みがかったスポットライトで照らされ、夜景を連想させていた。この際、おそらくは電気短絡の結果として、アーク灯からの火花がモスリン・カーテンに点火した。舞台係1人がキルファイアのキャニスターを火にかけようと努めたが、火災はステージ上方高くのフライ天井桟敷にすぐに広がった。そこでは、数千平方フィートの高さに可燃性の塗装されたキャンバスの背景のフラットが吊り下げられていた。舞台監督がアスベスト・ファイア・カーテンを下げようと努めたが、ひっかかって上手くいかなかった。初期の諸報告では、それはステージ上方でアクロバット師らの1人を運ぶトロリー・ワイヤーによって止められたとされた[13][14]が、のちの調査では、カーテンはプロセニアム・アーチの下に突き出たライト・リフレクターによってブロックされていたことが示された。[15]のちにカーテンの一部を試験した化学者の1人は、このカーテンは主にアスベストと混ぜられた木パルプで構成されており、「火災のときには役に立たないであろう」("of no value in a fire")、と述べた。[16]

当時ステージを続ける準備をしていたフォイは、外に走り出て、群衆をしずめようとして、まず自分の息子が舞台係の世話になっていることを確かめた。彼はのちに、「第一幕の間、外の群衆をながめたとき、これほど多くの男女子供が聴衆にいるのは初めてだと思った。天井桟敷でさえ、母親子供でいっぱいであった」("It struck me as I looked out over the crowd during the first act that I had never before seen so many women and children in the audience. Even the gallery was full of mothers and children.")[13]と述べている。フォイは火災後、ステージに残り、燃えている舞台背景の大きな瓦礫が彼の回りに落ちたときでさえ、常連客らにパニックを起こさないように促したその勇気のために、広く英雄視された。[17]

このときまでに、あらゆる層の常連客の多くが劇場から逃げようとしていた。一部は、建物北側の掛け布のかげに火災非常口が複数あるとわかっていたが、なじみのない跳ね上げ錠(bascule locks)を開けられなかった。バー・オーナーの元シカゴ・コルツの野球選手フランク・ハウスマン(Frank Houseman)は、ドアを開けるのを断った座席案内人を無視した。彼は、自宅のアイス・ボックスにも同様の錠前があったために、ドアを開けることができた。ハウスマンは、別のドアをむりやり開けたことを、ボストン・ビーンイーターズ(Boston Beaneaters)をやめたばかりであった、友人の外野手チャーリー・デクスター(Charlie Dexter)の功績に帰した。[18]第3のドアは、獣じみた力か突風かのいずれかで開いていたが、残りのドアの大部分は開けることはできなかった。一部常連客はパニックを起こし、必死に火災から逃げようとして他人を押しつぶしたり踏みつぶしたりした。[19]多数の人々が、袋小路の罠にかかったり、窓つきのドアのように見えるだけの窓にすぎないものを開けようと努めたりして、死亡した。

ステージ上のダンサーらも、バックステージと無数の楽屋のパフォーマーらとともに逃げざるを得なかった。数人のパフォーマーらと舞台係らが、建物のメイン後部出口からの脱出に協力した。その出口は非常に大きなストック両開きドア(stock double doors)から成っており、これは通常ならば、大きなフライ背景を移動させ、ピースやプロップを劇場の舞台裏にセットするのに役立つものであった。この扉が開いたとき、氷のような風が中に吹き込み、新鮮な酸素が建物内の炎に補給され、火災を実質的に成長させた[20]。多くの人が燃えている劇場から、石炭のハッチ(coal hatch)や楽屋の窓をとおって逃げ、またある人たちは西ステージのドアから逃げようとし、俳優らは半狂乱になって外に出ようとしてドアのほうへ押しすすみ、ドアが内側に開いて詰まった。偶然に、通り過ぎる鉄道員は、群衆がドアを押しているのを見て、通常持ち歩いている道具を使用して、ちょうつがいを外側からはずし、俳優らと舞台係らが逃げられるようにした。それとは別の人が、通常は背景のために使用される北側の巨大な両開きの貨物ドアを開けた途端、冷たい空気の「サイクロンみたいな突風」("a cyclonic blast")が建物内に突入し、巨大な火球(fireball)が生じた。[21]ステージ上方の通気孔は釘または針金で閉じられていたため、代わりに火球は外に向かって進み、動かないアスベストのカーテンの下に隠れたり、50フィート (15 m)先のドレス席と天井桟敷のかげの通気孔に向かって疾走したりした。熱いガスと炎がオーケストラ席の人々の頭上を通り、天井桟敷とドレス席層の、袋小路の罠にかかっている常連客らを含む、あらゆる可燃物を焼却した。

オーケストラ・セクションの人々は、ホワイエから出て正面ドアから脱出したが、ドレス席と天井桟敷で火球から逃げた人々は、ホワイエにたどり着けなかった。これは、強固な鉄の格子(公演中は、より安い席の常連客らが、より高価な下の層にこっそり下りるのを防ぐために閉鎖されていた)が階段室をふさいでいたからである。多くの観客がこの階段室のふもとに集まり、何百人もの人々が踏みつけられたり、押しつぶされたり、窒息させられたりしたため、当火災事故の中でも最大の死者数を生んだ。

北側の非常口から脱出できた常連客らは、未完成の火災避難装置に身を置いた。多くの人がこの狭い火災避難装置から跳び降り、あるいは落下して死亡した。最初に跳び降りた人々の身体が、彼らのあとに続く人々の落下を受け止めやわらげた。

劇場の北にあるノースウェスタン大学(Northwestern University)の学生らは、隙間にはしごで、それから屋上どうしの間にいくつかのボードで間に合わせの橋を架け、なんとか渡ることのできた数人を救った。

イロコイには、火災報知箱や電話(fire alarm box or telephone)はなかった。シカゴ消防署の消防車13は、燃えている劇場から一番近い消防署に走るように命じられた舞台係によって火事を知らされた。[注 2] 現場に向かう途中の午後3時33分頃、消防車13のメンバー1人が報知箱を作動させて追加のユニットを呼び出した[注 3]。到着後最初の活動は、火災避難装置に閉じ込められた人々の救助に焦点を合わせた。 カウチ・プレイス(Couch Place)として知られる、劇場の北方の路地は狭く、煙で充満していた。空中はしごは、路地や黒い網に使用することはできず、煙に隠れて、役に立たないと判った。[22]

劇場地区をパトロールしている官吏の1人が、人々が、一部は衣服が燃えながら、パニックで建物から出てくるのを発見したため、シカゴ警察署も出動した。彼はランドルフ・ストリートの交番から電話をかけ、笛で呼び出された警察はすぐに現場に集まり、交通整理を行いながら、避難を支援した。犠牲者の中には女性も多く、市に存在する30の制服女性警官隊(city's 30 uniformed police matrons)の内、一部が呼ばれた[注 4][23]

余波編集

 
犠牲者らの遺体を護衛している警察官ら
 
馬挽きの救急車は、犠牲者らの遺体でいっぱいである
 
劇場マネージャーのデーヴィスは1904年1月に逮捕され、犯罪的怠慢で訴えられ、無罪判決を言い渡された

大衆のパニックが続き、燃えさかる建物からの脱出を試みた。中で袋小路の行き止まりにつき当たった者の多くは、遺体の山をよじ登り越えようとした。ブロックされた出口のいくつかでは、遺体が高さ10フィートに積み重なった。犠牲者らは火、煙、そしてガスで窒息死するか、もしくは後から逃げてきた他のおびえた劇場の常連客らの突入によって圧死するかした。火災当日に575人が死亡したと推定されている。その後の数週間で、少なくとも30人がけがのために死亡した。(比較すれば、シカゴ大火の死者は約300名であった。)イロコイ火災の犠牲者の多くは、モントローズ共同墓地(Montrose Cemetery)、カルヴァリー共同墓地(Calvary Cemetery)(イリノイ州エヴァンストン(Evanston))、セント・ボニフェース(Saint Boniface)、マウント・グリーンウッド(Mount Greenwood)、マウント・ホープ(Mount Hope)、マウント・オリヴェット(Mount Olivet)、オーク・ウッズ共同墓地(Oak Woods Cemetery)、ローズヒル共同墓地(Rosehill Cemetery)、グレースランド共同墓地(Graceland Cemetery)、フォレスト・ホーム共同墓地(Forest Home Cemetery)(フォレスト・パーク(Forest Park))、およびウォルドハイムユダヤ人共同墓地(Waldheim Jewish Cemetery)に埋葬された[24][25][26][27][28]

300人程度の俳優、ダンサー、そして舞台係のうち、死亡したのは空中曲芸師(ネリー・リード(Nellie Reed))、端役の俳優1人、座席案内人1人、そして女アテンダント2人(two female attendants)のわずか5人であった。空中曲芸師の役割は、観客上空に飛び立ちトロリー・ワイヤーで妖精としてピンクのカーネーションを彼らにふりまくことであった。彼女は登場を待つ間にステージ上方に閉じ込められた。彼女は火災の間に倒れ、重傷を負い、3日後に火傷と内部の傷で死亡した。[29]

この火災の影響を受け、大晦日のニューヨーク市では、一部の劇場で立ち見席が撤去された。また、建物消防法(Building and fire codes)がのちに改正された。全国とヨーロッパの一部の都市では、劇場が改修のために閉鎖された。すべての劇場の出口は明確なマークを付けねばならなくなり、ドアは仮に外側から引き開けることができなくても、内側から押し開くことができるように形成せねばならなくなった[14]

火事ののち、火災監督官(fire inspector)は無料チケットで買収されて規則違反を黙認したとされた。[30]市長は、シカゴ市内の全劇場に火事の後、6週間閉鎖するように命じた。[31]

公衆の憤怒の結果として、市長カーター・ハリソン・ジュニア(Carter Harrison, Jr.)をふくむ、多くの関係者が犯罪で訴えられた。だが3年後、ほとんどの訴えは、オーナーらの弁護団の遅らせる戦術と、都市の建物安全条例における抜け穴や不十分さのために却下された。レヴィ・メイヤー(Levy Mayer)は劇場の擁護者(defender)であり、そのマネージャーはウィル・デーヴィス(Will Davis)であった。

イロコイの外装は大部分が無傷であった。建物はのちにコロニアル劇場(Colonial Theater)として再開場し、これは1925年に取り壊され、オリエンタル劇場(Oriental Theater)に道を譲った。[32]

生存の可能性を減らした追加的要因編集

ステージ上の危険から聴衆を守る編集

可燃性の背景と支えに本来備わるリスクは、1903年の時点で認識されていた。2つの機能、ステージ・エリアに火を閉じ込める『安全カーテン』(safety curtain)と、ステージ上部の屋根から煙と熱を逃がす『煙ドア』(smoke doors)が組み合わさり、劇場の火災安全(fire safety)を高めた。この配置は、陰圧を生じさせる。ステージ・エリアは煙突になり、新鮮な空気が出口ドアを通って聴衆エリアのなかに入るようになっていた。しかし当時イロコイでは、ステージ上方の煙ドア複数は固く閉じられていた。これは、煙が人々の脱出する出口の多くを通って建物の外に流れるしかなくなる、ということを意味した。

  • ステージの屋根にある天窓は、火災の間は自動的に開き、煙と熱を逃がすためであったが、閉じて固定されていた[33]
  • カーテンは定期点検がされておらず、劇場員が下げようとしたときもつかえてしまった[34]
  • カーテンは耐火性でなかった。ワイヤーを織りまぜられたアスベストで作られたカーテンは、火に対する強力で効果的な障壁の役割を果たすはずであった。事故後イロコイのアスベスト・カーテンは、下りなかっただけでなく、脆弱かつ可燃性であることも判明した。Western Society of Engineersの化学者グスタヴ・J・ジョンソン(Gustave J. Johnson)は、火災後、物質の一片を分析し、「[それ]は、木パルプである。パルプをアスベスト繊維と混ぜることによって、カーテンの寿命は延び、費用は安くなり、ワイヤ・ファンデーションはなしですまされるかもしれない...その結果、カーテンは都市の条例内には入るかもしれないが、火災のときは役に立たない」("[It] was largely wood pulp.By mixing pulp with asbestos fiber, the life of the curtain is prolonged, the cost is cheapened, and the wire foundation may be dispensed with...It results in a curtain that may get inside city ordinances, but is of no value in a fire.")[35] と述べた。

緊急事態の避難編集

劇場のオーナーらは、出口が30か所あれば内部の全員が5分間で建物から脱出できるだろう、と主張した。これ以前の1881年にはオーストリアのウィーンで発生したリングシアター火災(Ringtheater fire)で少なくとも384名が死亡した事故もあり、1903年の時点で聴衆は火の危険性に気づいていた。

  • 出口のドアは、内側へ開く構造であった。火災当時は殺到した群衆が内側からドアに押しつけられたため、ほとんど開くことができなかった。外に出るのに十分なほどドアを開くことができても、その後ろから人々がドアを押し続けたので、一部はドアの開口部に押し込まれた。こんにちでは出口のドアは外に開き、観衆が脱出する際もドアを開けたままにできる。
  • 出口の表示はなかった。出口の多くは可燃性のカーテンで隠されていた上、多くは施錠されていた。
  • 劇場スタッフは火災訓練をしたことが一度もなかった。彼らは出口に不慣れで、スタッフの一部には施錠されている出口のドアを開けることを拒否した者もいた。
  • 非常灯はなかった。メインのオーディトリアムの照明は全く灯されず、劇場はパフォーマンス中と同様に薄暗いままであった。何トンもの舞台背景が燃えたままステージ上に倒壊したとき、電気配電盤が破壊され、すべての電灯が消えた。
  • パフォーマンス中、安価なチケットで入場した観客が劇場の他の部分に着席しないように、階段室は鉄のゲートでふさがれていた。(火災当日、劇場に空席はなかった)
  • 出口ルートの多くは、混乱させる構造であった[20]
  • 出口のように見えるが実はそうではない装飾的な「ドア」("doors")がいくつかあった。200名が、出口とはなりえない一つの通路で死亡した。
  • 北壁の鉄の火災避難装置は、少なくとも125名の死亡につながった。上のプラットフォームには、降りる道がなかった。氷のような、細い階段やはしごを使うのは危険であり、また煙と炎が道をふさいだため、人々はすべての層で袋小路の罠にかかることとなった。

記念物編集

識別するマーキングのない、彫刻家 Lorado Taft による、ブロンズのバスレリーフの記念物が、市庁舎のラサール・ストリート(LaSalle Street)通り入り口の中に置かれた[36]。『Chicago Tribune』は1911年12月31日にマーカーを説明し、「宇宙の子供たちを保護する世界の母性、子供の遺体は巨大な男らによって担架で運ばれ、先立たれた母親がそれのうえに身をかがめている」("the Motherhood of the World protecting the children of the universe, the body of a child borne on a litter by herculean male figures, with a bereaved mother bending over it")と描写している。記念物は、1951年に建物が取り壊されるときまで、ワッカーのイロコイ病院(Iroquois Hospital on Wacker)内にあった。その後1960年に建物のラサール・ストリート入り口近くの現在の場所に設置されるときまで、市庁舎の倉庫に保管されていた。記念物は2010年11月5日にふたたび除幕式が行なわれ、説明のプラークがユニオン・リーグ・オヴ・シカゴ(Union League Club of Chicago)から寄贈された。除幕式には、シカゴ市議会議員ら、ユニオン・リーグ・クラブ、タフトの孫娘が出席した[37][38]

シカゴは、最後の生存者が死亡するときまで、市役所で毎年追悼式を行なった[36]

火災の5年後に、モントローズ共同墓地(Montrose Cemetery)の創立者アンドルー・キルヒャー(Andrew Kircher)は、悲劇を記念する記念物を地上に建てた[39]

展開編集

イロコイ火災は、イギリスで最初に発明されたパニック・バーの広範な実装を、ビクトリアホールの大惨事(Victoria Hall disaster)に続いて促した。パニック出口装置は今や、高占有スペースのための建築規則で必要とされ、フォン・デュプリン社(Von Duprin company)(今や Allegion の一部)の火災につづいてアメリカで大量生産された[40]

火災の第2の結果は、各パフォーマンスの前にアスベスト・ファイア・カーテン(またはシート・メタル・スクリーン)を上げ、その後、観客をステージから分けるために下げる必要があったことである。

第3の結果は、公共の建物のすべてのドアは出口方向に開かなければならないということであったが、しかしその実践は、1908年のコリンウッド学校火災(Collinwood School Fire)まで全国的にならなかった[41]

大衆文化編集

この大惨事における、常連客らに秩序ある避難を促す俳優として、エディ・フォイ(Eddie Foy)の役割は、映画『The Seven Little Foys』でボブ・ホープによって再現された。

2011年、シカゴの Neo-Futurists 劇団は、ジェイ・トーレンス(Jay Torrence)によるショー『Burning Bluebeard』を制作したが、これはエディ・フォイを含むパフォーマーらの遠近法からのイロコイ火災の物語を詳述している。この劇は批評の称賛を受け、『Chicago Tribune』によって「2011年ベスト・オヴ・フリンジ」("2011 Best of Fringe")の1つに[42]、WBEZラジオによって「2011年のおかしなショー5選」の1つに[43]、『Time Out Chicago』のKris Vireによる「"Twelve Outstanding Ensembles of 2011"」の1つに[44]、選ばれた。ルフィアンズの劇団(Ruffians theater company)は、2013年以来、毎年クリスマス休暇中、主にオリジナルのキャストで、制作を再開している。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ ステージ上方のコンクリート・アーチ。
  2. ^ 消防車13は当時、ノース・ディアボーン・ストリート209番地(209 North Dearborn Street)に置かれていた。それはその後ノース・コロンビア・ドライヴ(North Columbus Drive)に移動した。
  3. ^ これはシカゴの「電話および箱による警報」("still and box alarm")と呼ばれている。 a "still alarm" is one where the fire alarm boxes remain "still." 「電話による警報」("still alarm")は、火災警報箱がいまだなお「静かな」("still")ものである。Alarms received by telephone are considered still alarms, so the term remains in use today.電話で受けた警報は、静かな警報と見なされており、それでこの用語はこんにち用いられている。
  4. ^ 1885年から、シカゴ警察は、中年女性らに女性受刑者らとともに働かせた。市内初の「女性警察官」("policewomen")は1913年に任命された。

出典編集

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  41. ^ Collinwood School Fire”. Encyclopedia of Cleveland History. Case Western Reserve University (2008年3月27日). 2011年12月5日閲覧。
  42. ^ Metz, Nina (2011年12月21日). “Best of Chicago's fringe theater scene in 2011”. Chicago Tribune. 2013年12月21日閲覧。
  43. ^ Molzahn, Laura (2011年12月21日). “2011's funniest and best-dressed Chicago shows”. WBEZ.org. 2013年12月21日閲覧。
  44. ^ Vire, Kris (2011年12月25日). “Twelve outstanding ensembles in Chicago theater”. Time Out Chicago. 2013年12月21日閲覧。

参照編集

  • Brandt, Nat (2003). Chicago Death Trap: The Iroquois Theatre Fire of 1903. Southern Illinois University Press. ISBN 0-8093-2490-3. https://books.google.com/books?id=_OYZDgAAQBAJ&pg=PA1 
  • Hatch, Anthony P. (2003). Tinder Box: The Iroquois Theatre Disaster, 1903. Chicago: Academy Chicago Publishers. ISBN 0-89733-514-7 
  • McCurdy, D.B. (1904). Lest We Forget: Chicago's Awful Theater Horror. Chicago: Memorial Publishing 

外部リンク編集

座標: 北緯41度53分5秒 西経87度37分43秒 / 北緯41.88472度 西経87.62861度 / 41.88472; -87.62861