インテレクチュアル・ヒストリー

インテレクチュアル・ヒストリー (: intellectual history) は、知の営みについての歴史学のこと。インテレクチュアル・ヒストリーという用語は、これまで精神史知性史とも訳され、ときに思想史観念史心性史といった近隣分野と並列されてきた。これらの諸分野は、それぞれが重なりあう部分もあるので明確な線引きをするのは困難だろう。むしろ既存の学問の壁をこえて、分野横断的かつ多角的に問題の分析をおこなうのが、この手法の特徴でもある。

英語の intellectual history という表現は20世紀の早い時期から使われているが、その意味するところは時代により変化している。1980年代までは思想史と同一視することも可能であったかもしれないが、とくに後述のアンソニー・グラフトンの作品が発表された1990年代以降、人文主義や普遍史・年代学、文献学・聖書解釈学といった一口に「思想」とはくくれない知の営みの歴史を扱うにいたり、もはや思想史との単純な同一視も不可能となった感がある。旧来の「歴史学」と「思想史」のあいだに横わたる広大なフロンティアを開拓しているのが、現在の潮流といえる。

20世紀初頭編集

「インテレクチュアル・ヒストリー」という用語が生まれたのは、20世紀初頭のアメリカだといわれている。「過去の政治」をおもな研究対象としていた旧来の歴史学への批判として、いわゆる「新歴史学」 New History の潮流をつくったコロンビア大学のジェイムス・ロビンソンが1904年に開講した授業「西欧のインテレクチュアル・ヒストリー」が、大学において正式な講義のタイトルとして採用された最初のケースだといわれている。ロビンソンが意図していたものは、おおまかに「学問の歴史」を指すものであったようだ。

その後、1930年代まで同時期に胎動していた社会史とともに「ソーシャル=インテレクチュアル・ヒストリー」 Social and Intellectual history と呼ばれる講義が、アメリカの各地の大学で採用されるようになった。当時のインテレクチュアル・ヒストリーの旗手たちは、ドイツの歴史学の影響を受けていたようで、ヘーゲル学派の流れをくむエルンスト・カッシーラーなどにみられる「時代精神」 Zeitgeist を把握することを目標として掲げていた。17世紀アメリカ大陸の英国植民地におけるピューリタン主義などが研究対象として好まれた。

1980年代以前編集

ラヴジョイ学派の観念史編集

アーサー・ラヴジョイ (1873-1962) とその追従者たちによって展開された観念史 (history of ideas) は、第二次世界大戦以前の1920-1930年代にはじまり、1973年の『観念史辞典』 Dictionary of the History of Ideas に大きく結実した(その新版は2004年に出されている)。この研究手法は、しばしばインテレクチュアル・ヒストリーと混同されている。たしかに、現在のインテレクチュアル・ヒストリーの潮流の前段階として分野横断的・学際的な研究のモデルとなり、インテレクチュアル・ヒストリーが生まれてくる土壌をもつくったことは否めないが、かならずしも同一なものではない。

そもそも現在における混乱の大きな原因は、観念史研究の牽引者的な存在であった1940年創刊の雑誌 『観念史ジャーナル』 Journal of the History of Ideas に、2007年から後述するアンソニー・グラフトンが編集長として着任したことことで、雑誌名を変えることなくインテレクチュアル・ヒストリーの研究を中心に載せる雑誌に方向転換したことにある。これ以降(あるいはこの転換がはじまっていた2000年代)に同雑誌に触れることになった読者には、その差異が理解しづらいのは無理もない。しかし、ラヴジョイの進めていた観念史とのあきらかな方法論上の違いは否定することはできないだろう[1]

ヴァールブルク学派とウォーバーグ研究所編集

アビ・ヴァールブルク(1866-1929)と、ナチス政権の弾圧を逃れて英国のロンドン移設された彼の研究所に所属する研究者たち、そしてその追従者たちが生みだした伝統は、インテレクチュアル・ヒストリーの誕生にとって計り知れない影響を与えた。とくに「細部に宿る神を召喚する」というモットーのもとに、従来の学術伝統に縛られない分野横断的なコンテクスト重視の研究の方向性は、ドイツやイタリアといった大陸諸国での展開を積極的にとり込んだものである。それは、知の巨人たちに注目する旧来の哲学史・思想史における正典主義とは対極にあり、現在のインテレクチュアル・ヒストリーの潮流に受けつがれている[2]

ロジェ・シャルチエと読書史編集

アナール学派の流れをくみ、文化史の専門家フランスのロジェ・シャルチエとその周辺の研究者たちによる書物や読書についての歴史は、1970年代から盛んになった。従来の印刷・出版の歴史から読書という営為の歴史的な変遷の記述へと展開され、たとえば書物の欄外に記された読書人による覚書であるマージナリアへの関心など、現在のインテレクチュアル・ヒストリーの潮流に与えた影響は計り知れない[3]

クェンティン・スキナーとケンブリッジ学派編集

1970年代からケンブリッジ大学のクェンティン・スキナーらがおし進めた研究は、とくに政治思想史 (history of political thought) や経済思想史 (history of economic thought) に大きな影響を与えている。彼を中心とするケンブリッジ学派は、1984年に同大出版局から「コンテクストにみる諸観念」 (Ideas in Context) という叢書をスタートさせ、そのなかで「インテレクチュアル・ヒストリー」という語を意識的に使用している。しかし、このタイトルにある「諸観念」という語に見られるように、依然として観念史を強く意識しており、それに対抗するために「諸観念」を「コンテクスト」におくことを強調している[4]。叢書におさめられた初期のタイトルの多くは、旧来型の哲学史・思想史に近いものが多い。2011年に100冊を数えるに至った。

リチャード・ポプキンとその学派編集

初期近代における懐疑主義の伝統の研究で知られるリチャード・ポプキン(1929-2005)は、宗教と哲学・科学などの諸学との関連について幅ひろい関心をもっており、分野横断的な研究をおし進めた。諸学問の歴史における宗教的な要素・背景を重視するところに特徴がある。彼とその追従者たちは活発な研究活動を展開し、とくに後述するブリル書店の「インテレクチュアル・ヒストリー研究」(Studies in Intellectual History) 叢書を立ち上げ、成功に導いたことは特筆に値する[5]

インテレクチュアル・ヒストリー叢書編集

ブリル書店の有名な「インテレクチュアル・ヒストリー叢書」(Studies in Intellectual History) は、上述の R・ポプキンを編集主幹として、1987年の『イザーク・ラ・ペイレール』 Isaac La Peyrère (1596-1676) からスタートした。おそらくは「知的伝記」(intellectual biography) のジャンルを意識し、「インテレクチュアル・ヒストリー」(intellectual history) という用語を冠した叢書は、当時ほかに類を見なかっただろう。2015年4月現在までに、すでに240タイトル以上が出版されている[6]

1990年代以降の展開編集

アンソニー・グラフトンの仕事編集

米国プリンストン大学の歴史学教授アンソニー・グラフトンによる 1991年の『テクストの擁護者たち』 Defenders of the Text 以降のアメリカを中心とするインテレクチュアル・ヒストリーの展開には目をみはるものがあり、それまでの流れとは明らかに一線を画している[7]。読書の歴史に大きな影響を受けつつも、文献学・聖書解釈学、年代学といった分野に関心を寄せるグラフトンは、インテレクチュアル・ヒストリー研究における新しい時代を切り開いたといっても過言ではない。『テクストの擁護者たち』 とそれにつづく一連の作品によって彼が1990年代以降の歴史学に与えた影響は、ルネサンス学を震源として中世史や近代史の研究者たちを巻きこみ、科学史や医学史、書物・印刷史、文学・芸術史をはじめとする多様な分野に波及していった。

グラフトン学派のひろがり編集

グラフトンの影響を受けた人々の作品では、ポーラ・フィンドレンの1994年の主著『自然の占有:ミュージアム、蒐集、そして初期近代イタリアの科学文化』(ありな書房、2005年)が特筆に値する。また1997年のアン・ブレアのデビュ作 『自然の劇場:ジャン・ボダンとルネサンス科学』 は、より直接的な影響をグラフトンの仕事からうけた作品だ[8]。同様に、グラフトンの影響下に成立した1998年のキャサリン・パークとロレーヌ・ダストンによる『驚異と自然の秩序(1150-1750)』 は、多大なインパクトを世界の歴史家たちに与えた[9]。こうした研究者たちが2000年の 『自然の細目:ルネサンス期ヨーロッパの自然と諸学』 で一堂に会した[10]。さらにそのスピリットは、2005年の論集 『ヒストリア:初期近代ヨーロッパにおける経験主義と博識』 に受けつがれている[11]。またナンシー・シライシの 『歴史、医学、そしてルネサンスにおける諸学の伝統』(2007年)も、グラフトンの影響を抜きにして語ることはできない[12]。こうした歴史学に大きな変革をもたらした潮流の源が、まさに 『テクストの擁護者たち』 なのである。

国際インテレクチュアル・ヒストリー協会編集

1994年に英国のコンスタンス・ブラックウェルによって、『インテレクチュアル・ヒストリー財団』(Foundation for Intellectual History)を母体とした『国際インテレクチュアル・ヒストリー協会』(International Society for Intellectual History、略称 ISIH)が設立された[13]。関連するさまざな伝統や手法を尊重しつつ、研究を促進するのが狙いとなっている。1996年から2006年まで続いた『インテレクチュアル・ニューズ』Intellectual News 誌を引き継ぐかたちで、2007年に学術誌『インテレクチュアル・ヒストリー・レヴュ』Intellectual History Review が発刊された[14]

日本における展開編集

二宮隆洋の仕事(観念史とヴァールブルク学派の受容)編集

日本におけるインテレクチュアル・ヒストリーの展開を語るうえで、なくてはならない一人の人物が存在した。伝説的な編集者として日本における西洋人文学を文字どおり陰から支えていた二宮隆洋 (1951-2012) である。『エラノス叢書』 や 『叢書ヒストリー・オヴ・アイディアズ』 にはじまり、邦訳書を中心に集録する 『テオリア叢書』、『クリテリオン叢書』、『ヴァールブルク・コレクション』 といった数々のシリーズを企画し、「精神史」という用語で彼が日本に紹介した作品の多くはインテレクチュアル・ヒストリーの領域にくくられるべきものであった。彼の存在とプロダクトをなくしては、日本におけるこの領域の歴史は語れないのである。上述の観念史ウォーバーグ研究所の成果を日本に紹介した功績は忘れられてはならない[15]

シャルチエ学派とケンブリッジ学派の受容編集

シャルチエを中心とする読書の歴史は、1990年代から精力的に日本に紹介され、多数の邦訳書が出されている。一方、ケンブリッジ学派の成果はおもに政治思想史経済思想史の方面で積極的に邦訳・紹介されている。

脚注編集

  1. ^ http://jhi.pennpress.org/home/
  2. ^ http://warburg.sas.ac.uk/home/
  3. ^ R・シャルチエ『読書の文化史――テクスト・書物・読解』(新曜社、1992年)
  4. ^ http://www.cambridge.org/be/academic/subjects/politics-international-relations/history-ideas/series/ideas-context
  5. ^ Allison Coudert, "Richard Popkin's Contributions to Intellectual History," in The Legacy of Richard Popkin (Dordrecht: Springer, 2008), 15-26
  6. ^ http://www.brill.com/publications/brills-studies-intellectual-history
  7. ^ Anthony Grafton, Defenders of the Text: The Traditions of Scholarship in an Age of Science, 1450-1800 (Cambridge MA: Harvard University Press, 1991)
  8. ^ Ann Blair, The Theater of Nature: Jean Bodin and Renaissance Science (Princeton: Princeton University Press, 1997).
  9. ^ Lorraine Daston & Katharine Park, Wonders and the Order of Nature, 1150-1750 (New York: Zone Books, 1998).
  10. ^ Anthony Grafton & Nancy G. Siraisi (eds.), Natural Particulars: Nature and the Disciplines in Renaissance Europe (Cambridge MA: MIT Press, 2000).
  11. ^ Gianna Pomata & Nancy G. Siraisi (eds.), Historia: Empiricism and Erudition in Early Modern Europe (Cambridge MA: MIT Press, 2005).
  12. ^ Nancy G. Siraisi, History, Medicine, and the Traditions of Renaissance Learning (Ann Arbor: University of Michigan Press, 2007).
  13. ^ http://isih.history.ox.ac.uk/?page_id=11
  14. ^ http://isih.history.ox.ac.uk/?page_id=42
  15. ^ ヒロ・ヒライ + 小澤実編 『知のミクロコスモス』 (中央公論新社、2014年)、序文

参考文献編集

  • アンソニー・グラフトン 『テクストの擁護者たち:近代ヨーロッパにおける人文学の誕生』 ヒロ・ヒライ、福西亮輔訳 (勁草書房 BH 叢書、2015年)
  • 『テクストの擁護者たち』解題「インテレクチュアル・ヒストリーの新しい時代 (PDF) 」(461-468頁)
  • ヒロ・ヒライ+アダム・タカハシ『インテレクチュアル・ヒストリーと哲学史・思想史:対談』(BH 出版、2016年)
  • ヒロ・ヒライ+小澤実編 『知のミクロコスモス:中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』(中央公論新社、2014年)
  • ヒロ・ヒライ 「インテレクチュアル・ヒストリーとはなんですか?」 『UP』 (2013年12月)、7-10頁
  • ヒロ・ヒライ編 『ミクロコスモス:初期近代精神史研究』(月曜社、2010年)
  • ヒロ・ヒライ監修 『ルネサンス・バロックのブックガイド:印刷革命から錬金術・魔術までの知のコスモス』(工作舎、2019年)

関連項目編集