A1E1 インディペンデント重戦車
ヴィッカース A1E1 インディペンデント重戦車は、イギリスにおいて戦間期に製造された多砲塔戦車である。
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性能諸元 | |
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全長 | 7.6 m |
全幅 | 2.7 m |
全高 | 2.7 m |
重量 | 33 t |
懸架方式 | コイルスプリング ボギー式 |
速度 | 32 km/h |
主砲 | Ordnance QF 3ポンド(47 mm)砲 |
副武装 | ヴィッカース .303(7.7 mm)重機関銃×4挺 |
装甲 | 13-28 mm |
エンジン |
アームストロング・シドレー空冷V型12気筒ガソリン 370 hp |
乗員 | 8名 |
概要 編集
ヴィッカース社によって、戦間期の1925年に製造された。試作段階にしか達しなかったものの、多数の戦車の設計に影響を及ぼした。
戦車に”A”、装軌式装甲車に”B”、装輪式装甲車に”D”で始まる参謀本部制式番号(General Staff number)を付与する方針により、イギリス陸軍初の制式重戦車として"A1"の参謀本部制式番号が与えられた。これに1番目の試作車を意味する"E1"を加え、"A1E1"とされた。
インディペンデントは実戦には一度も参加しなかったが、各国陸軍は本車を模倣した。A1E1のデザインが影響したとみなせるものとしては、ソビエト連邦のT-28中戦車とT-35多砲塔戦車、ドイツのノイバウファールツォイク、さらにイギリス軍のMk.III中戦車と巡航戦車 Mk.I(3砲塔型)、日本の試製一号戦車、アメリカのT1重戦車などの戦車が挙げられる。ソ連赤軍のT-35多砲塔戦車は、本車の計画とレイアウトに多大な影響を受けたものであった。
また、A1E1が大型・高価な戦車(戦艦に相当)となる事から、それを補うための小型・安価な戦車(駆逐艦に相当)としてイギリスはカーデン・ロイド豆戦車を開発し、多くの国が購入、あるいは模倣した豆戦車を開発し、間接的な影響を与えた。
なお、A1E1が、多砲塔戦車の元祖とされるが(影響力という点では間違いではない)、厳密には、フランス陸軍のシャール 2C重戦車の試作車は、前後2基の砲塔(前が主砲塔、後ろが銃塔)を持つ多砲塔戦車であり、A1E1よりも4年も早い1921年に完成している。
[1] - シャール2C の側面図
歴史 編集
1924年にイギリス陸軍参謀本部は、歩兵の支援無しに単独で塹壕を突破可能な、重戦車の試作車を発注した。1925年に製造され、1926年に試作車が陸軍省に納入されたものの、資金不足のために開発は放棄されることとなった。
本車自体の開発は中止されたものの、中戦車 A6、Mk.III、巡行戦車 Mk.I、Mk.III、Mk.VI クルセイダーは、全て多砲塔であり、後の多くのイギリスの中戦車の設計に影響を与え続けた。
なお、中戦車であるものの、A6とMk.IIIは、重戦車であるA1E1と、主砲はどちらも3ポンド(47 mm)砲であり、大きさはほとんど変わらず、装甲厚と重量は半分となり、後部副銃塔の2基が減っている(その分、全長を短くできる)ものの、実質上、A1E1の準同型の量産車と言っても差し支えない(ただしMK.IIIも財政的な理由から量産されなかった)。
現在、インディペンデント多砲塔戦車はイギリスのボービントン戦車博物館で保存されている。
設計 編集
A1E1の計画は、1922年12月に、イギリス陸軍参謀本部が仕様書を作成した時に始まった。これは少なくとも9フィート (2.7 m) の塹壕横断能力を持つ無砲塔形式の戦車用であった。仕様を受け取ると、ヴィッカース社は、参謀本部のアイディアに従った車両の設計作業と、ヴィッカース社独自の多砲塔設計を開始した。2つの設計は参謀本部に提案され、参謀本部はヴィッカース社独自の多砲塔設計を選択した。
設計主務者はウォルター・ゴードン・ウィルソン(世界初の戦車の開発者の一人)。
インディペンデント戦車は多砲塔形式であり、中央の主砲塔はOrdnance QF 3ポンド(47 mm)砲を装備した。主砲塔を囲む4つの副銃塔は、それぞれ水冷式の.303(7.7 mm)ヴィッカース機関銃を装備した。副銃塔のうち2つは前方に、もう2つは後方に配置された。左舷後方副銃塔のみ、他の副銃塔より背が高くなっており、航空機に対処するために、高仰角をとることができた。この水冷式重機関銃は、本来は車体側面にスポンソン型式で2挺が装備されるはずであったが、ヴィッカース社の提案により、副銃塔形式に変更されたものであった。
車体前部に設けられた操縦席の後方に全周旋回可能な主砲塔が備わり、ここには車長用の全周旋回可能なキューポラが設けられた。各砲塔には目標指示器が装備され、車長はこの装置と車内通信機により射撃指揮を行うことが出来た。乗員は8名(操縦手・車長・砲手・装填手・機銃手×4)であった。
サスペンションを覆う両側面の装甲板(懸架框、けんかきょう)には、傾斜した泥落としと、その前方に、四角い開口部とその奥に乗降用扉が設けられ、当時の標準的な担架が通れるようになっていた。これにより、車内で負傷した乗員を引きずり出すことなく、車外に運び出すことができた。
車体後部に、排気量35.8リットル、出力370 hp(280 kW)の、アームストロング・シドレー製V12空冷ガソリンエンジンが搭載され、33 tという大重量にもかかわらず、32 km/hという(当時としては)高速を与えた。また、重さと速度を考慮して、特別に開発された、新しい油圧ブレーキシステムが組み込まれた。
車体前方には履帯のテンション・アジャスターと誘導輪(アイドラー・ホイール)が、車体後方には起動輪(スプロケット・ホイール)がある、後輪駆動方式であった。
1928年に、車体後部が強化のために改修された。
脚注 編集
出典 編集
- Tucker, Spencer (2004). Tanks: An Illustrated History of Their Impact. ABC-CLIO. pp. 49?51. ISBN 1576079953