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インド共産党Communist Party of India)は、インド共産主義政党。英語による略称はCPI1925年12月25日結成とされるインド共産党が、1964年に分裂した後、党内に留まった穏健派が同党を引き継いだ。これ以降、同党はインド共産党または便宜的にインド右派共産党と呼ばれることとなる。

インドの旗 インド政党
インド共産党
Communist Party of India
CPI-banner.svg
党旗
成立年月日 1925年12月25日
ローク・サバー議席数
2 / 545   (0%)
(N/A[1]
ラージヤ・サバー議席数
2 / 245   (1%)
政治的思想・立場 共産主義
公式サイト [1]
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目次

歴史編集

第三インターナショナルの第二回大会の直後、インド共産党は、1920年10月17日にソ連のタシュケントで設立された。リーダーはマノベンドラ・ナス・ロイであった。

 
党大会でのダンゲ(1958年)

その後、マハーラーシュトラ州の創立に重要な役割したことで知られるシュリパド・アムリト・ダンゲ英語版が事実上のリーダーとなり、第一回党大会を開いたボンベイを拠点とする。

1930年代後半にインド国民会議(ヒンドゥー系)と協力し、勢力を拡大した。1942年6月の独ソ開戦を「人民の戦争」と規定し、イギリスの戦争を支持したことで同年7月にイギリスから合法政党の地位を与えられることになった。一方、インド国民会議はイギリスから弾圧を受けることになった。しかし、このことが後にインド国民会議から「民族の裏切り者」という批判を受けることになり、戦後の独立交渉時に政治的発言力を奪われることとなった[2]

インド共産党は最盛期はインド国民会議に次いで大きい政党であり、1957年には世界的にも珍しい普通選挙を通じた共産党政権(インド初の非会議派州政権)がケーララ州で発足してE・M・S・ナンブーディリパド英語版が初代州首相に就任した。1970年代はインディラ・ガンディー政権と協力してケーララ州ではC・アチュタ・メノン英語版を首相に選出して会議派との連立政権を樹立し、メノンはK. N. ラージ英語版とともにインド経済の理想的なモデルとしてケーララ・モデル英語版を確立した[3][4]。しかし、インド共産党マルクス主義派との分裂などを経て、1980年代から衰退することとなった。

インド国民会議を中心とする統一進歩同盟に、インド共産党マルクス主義派とともに閣外協力していたが、2008年7月米印原子力協力に反対して閣外協力を解消した。

党名編集

党名は原語に忠実に訳せばインド共産党となるが、日本語ではこれに右派が付されることがある。これは旧インド共産党が、1964年穏健派(ソ連派)と急進派に分裂し、急進派がインド共産党マルクス主義派(インド左派共産党)となったことで、旧インド共産党と、両党を区別する必要が出たからである。

両党はともに共産主義政党であり、本来ならばわずかな政策の違いで右派左派という言葉を付するべきではないという主張がある。また右派・左派を付する名称はインド国内では成されない。この場合インド右派共産党はインド共産党(CPI)、インド左派共産党はインド共産党マルクス主義派(CPI-M)という名称になるが、日本語ではCPI-Mの党名が長くなることで、右派・左派を用いて区別するケースがある。しかしこの名称はあくまでも便宜上のものである。またCPIとCPI-Mは左翼戦線を構成し選挙協力関係にあるなど、両党の対立は激しいものではない。

出典編集

  1. ^ Lok Sabha. “Members Seventeenth Lok Sabha Party-wise List(第17回ローク・サバ― 議会政党別リスト)”. ローク・サバー公式サイト. 2019年5月31日閲覧。
  2. ^ 「改訂版 世界の民族地図」p191 高崎通浩著 1997年12月20日初版第1刷発行
  3. ^ Kerala Model & development”. Dawn.com. 2010年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年7月17日閲覧。
  4. ^ KN Raj passes away”. Oman Tribune. 2010年7月17日閲覧。

外部リンク編集