イヴァン・マゼーパ

ウクライナの政治家、軍人

イヴァン・マゼーパウクライナ語: Іван Мазепаポーランド語: Jan Mazepa Kołodyńskiロシア語: Иван Степанович Мазепа1639年3月20日 - 1709年9月21日)は、ウクライナ政治家軍人コサック国家ヘーチマン1687年 - 1709年)、神聖ローマ帝国公爵1707年 - 1709年)。キエフ地方のウクライナ系シュラフタ出身。

イヴァン・マゼーパ
Portret Mazepa.jpg
紋章
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称号 ヘーチマン1687年 - 1709年
公爵1707年 - 1709年
身分 貴族
家名 マゼーパ家
民族 ウクライナ人
父親 ステパーン・マゼーパ
母親 マルィーナ・モキイェーウシカ
生没 1639年3月20日 - 1709年9月21日
出生 Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg ポーランド・リトアニア共和国 ポーランド王冠領英語版(現: ウクライナマゼープィンツィ
死亡 オスマン帝国(現:モルドバの旗 モルドバベンデル
宗教 正教徒
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ウクライナ・コサックの棟梁になって以後、コサック国家の復興を目指して領土拡大に成功し、ウクライナの文化、とりわけ正教会の発展に大きく貢献した。しかし大北方戦争ロシア・ツァーリ国ピョートル1世からスウェーデン・バルト帝国カール12世に寝返り、ピョートル1世に背いた罪でロシア政府によって職位剥奪され、ロシア正教会によって破門され、コサックの敗北のうちに病死した。独立したコサック国家を成立させる努力がためにボフダン・フメリニツキーに次ぐウクライナ第2の英雄と考えられている。

生涯編集

ポーランド・リトアニア共和国ポーランド王冠領英語版(現在のウクライナ)ビーラ・ツェールクヴァ近郊のマゼープィンツィ村にウクライナ貴族のウクライナ・コサックの子として生まれた。父のステパーン=アダーム・マゼーパ (Степан-Адам Мазепа) はポーランド王国に仕えながらも、フメリニツキーの乱に加わった。マゼーパは父の影響下の元で、ポーランド王ヤン2世小姓となった。1659年から1663年には外交官にもなっている。1665年まで西欧で軍事教育も受けている。

1663年、マゼーパはポーランドの宮廷を離れ、故郷ウクライナへと帰郷した。彼がウクライナへ戻ったことについて、ジョージ・バイロンが詩にしているが、マゼーパの同世代人による創作である。彼については、後にヴォルテールダニエル・デフォーの詩や著書になるなど、伝説と伝承に彩られたコサックの英雄となっていった。

マゼーパは1687年にヘーチマンとなったが、モスクワ大公国ロシア・ツァーリ国)とは必ずしも悪い関係ではなかった。大北方戦争への参戦は、一説によると、モスクワにおいて酒に酔ったツァーリピョートル1世に侮辱されたことがあり、ウクライナへの帰途において反乱を決意したと伝えられている。自らの野望のために大ロシアの地へスウェーデンカール12世を引きずり込んだとも言われている。

1704年、マゼーパはカール12世のポーランド侵攻に乗じてドニエプル川右岸(右岸ウクライナ)を占領した。1706年にスウェーデン軍がポーランド・リトアニア共和国の大半を占領すると、マゼーパはスウェーデン軍と画策してロシア遠征を企図した。

 
ポルタヴァの戦いに敗れた老マゼーパとカール12世

マゼーパは3万のコサック兵と補給をもってスウェーデン軍と合流する予定であった。しかし、ピョートル1世はマゼーパの反乱を察知し、ロシア軍を差し向けた。1708年にコサック兵はロシア軍の急襲によって壊滅し、ヘーチマン国家の本拠地バトゥールィンも陥落した。マゼーパは辛くも逃れ、カール12世の本軍と合流した。

1709年、マゼーパのいるスウェーデン軍は、ポルタヴァでロシア軍と戦った(ポルタヴァの戦い)。しかしロシアの焦土作戦によって疲弊したスウェーデン軍は、ロシア軍の前に壊滅に帰した。マゼーパはカール12世と共にモルダヴィアベンデルに逃亡、病を患い、志半ばで病没した。

マゼーパの悲劇は早くから伝説化された。ヴォルテールやダニエル・デフォーなどが伝え、ジョージ・バイロンやヴィクトル・ユゴーが詩にし、アレクサンドル・プーシキン は物語詩『ポルタヴァ(英語版)』を著した。またハンガリーピアニストフランツ・リストによってユゴーの詩に基づいて交響詩マゼッパ」、ピョートル・チャイコフスキー はプーシキンの詩に基いて歌劇マゼッパ 」を書き上げた。

脚注編集

関連項目編集

外部リンク編集