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イーグルス

アメリカ合衆国のバンド

イーグルス英語: The Eagles /íːglz/「イーグルズ」)は、1971年にデビューしたアメリカロックバンドアメリカ西海岸を拠点に活動しながら世界的人気を誇り、トータルセールスは1億2000万枚を超える。

イーグルス
Eagles.jpg
基本情報
出身地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州
ロサンゼルス
ジャンル ロック
カントリー・ロック
ソフトロック
ポップロック
カントリー・ミュージック
活動期間 1971年 – 1980年
1994年 – 2016年
2017年 -
レーベル アサイラム・レコード
ゲフィン・レコード
共同作業者 Poco
フライング・ブリトー・ブラザーズ
ディラード & クラーク
ジェームズ・ギャング
公式サイト https://eagles.com/
メンバー ドン・ヘンリー
ジョー・ウォルシュ
ティモシー・B・シュミット
ディーコン・フライ
ヴィンス・ギル
旧メンバー グレン・フライ
バーニー・レドン
ランディ・マイズナー
ドン・フェルダー

主な代表曲は、「テイク・イット・イージー」「ならず者」「呪われた夜」「ホテル・カリフォルニア」など。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第75位。ウォール・ストリート・ジャーナル「史上最も人気のある100のロックバンド」7位[1]

目次

バイオグラフィー編集

ウエストコースト〜カントリーロックの時代編集

イーグルス結成の先駆けとなったのは、1971年にリンダ・ロンシュタットのバックバンド(Linda Ronstadt & Her Band )編成のためにミュージシャンが集められた機会であった。これにグレン・フライドン・ヘンリーランディ・マイズナーバーニー・レドンの4名が顔をあわせ、後に彼らは独立して、1971年8月にバンドを結成することを思いつき、ロンシュタットが所属していたアサイラム・レコード(拠点・ロサンゼルス)からイーグルスとしてデビューした。

メンバーのグレン・フライが、当時同一のアパートに居住していたシンガー・ソングライタージャクソン・ブラウンと共作した「テイク・イット・イージー」が、1972年にデビュー曲でいきなりシングル・ヒットを記録。続く「魔女のささやき」も全米ヒットとなった。デビュー当初は一般にはカントリー・ロックのイメージが強かった。

マルチプレイヤーであったレドンが演奏するテレキャスター、バンジョースティール・ギターマンドリンのサウンドが、バンドのイメージを決定付けていた。特に、バンジョーをフィーチャーした「早起き鳥」などの楽曲にみられるブルーグラス要素をロックのダイナミズムと融合させた点は斬新であった。

プロデューサーグリン・ジョンズで、すでにローリング・ストーンズの『ベガーズ・バンケット』やレッド・ツェッペリンデビュー・アルバムなど、ロック指向の強い多くの作品にエンジニアとして関わっていた経験を持つベテランだったが、同作のレコーディング時にはイーグルスをバラード・グループと見なして「君たちはロックンロールに向いていない」などと発言し、またどの程度カントリー的要素をブレンドするかといった意見について、しばしば衝突を繰り返したとされる。

2枚目のアルバム『ならず者』はコンセプト・アルバムで、基本的にはファースト・アルバムと同様のサウンド構成に留まり、バーニー・レドンのカラーが強いブルーグラス的な楽曲と、ロック的な要素の曲が共存しているものの、その音楽的成熟度としては格段の向上を見せた。タイトル曲の哀愁を帯びたバラードならず者は、後にリンダ・ロンシュタットやカーペンターズに至るまで、数多くのアーティストたちにカバーされるスタンダード・ナンバーとなっている。

元々の音楽的ルーツとしてカントリー・ロック志向が強い4人であったため、前作のレコーディングとプロモーションにはかなりの労力が注がれたが、セールス的には失敗といえる有様であった。そのため、3枚目の『オン・ザ・ボーダー』においては、よりロック的なアルバムにすべく、2曲を収録したところでプロデューサーがロック志向の強いビル・シムジク に替わった。同アルバムには、「過ぎた事」と「ジェームス・ディーン」という2曲の佳作が収録されている。また、バーニー・レドンの紹介で、彼の親友でアマチュア時代のバンドメイトであったフロリダ出身のギタリスト、元フロウFlow )のドン・フェルダーが収録曲中2曲において参加し、ロック的色彩を強めることとなった。ドン・フェルダーは後にメンバーとして正式加入しており、ツアーではカントリー的な楽曲ではレドン、ロック的な楽曲ではフェルダーがリード・ギターを主に担った。

ロックのスターダム、絶頂期へ編集

1975年、大ヒット・アルバム『呪われた夜』を発表。タイトル曲「呪われた夜」をはじめとし、グラミー賞、ベストポップボーカル賞を獲得した「いつわりの瞳」、ランディ・マイズナーがボーカルをとる「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」と3つのヒット曲を生んだ。オリジナル・メンバーの音楽的なルーツであるカントリー色の濃い楽曲も依然見られるものの、全体としてはよりロック色を強め、またタイトル曲ではAORファンク、ダンス・ミュージック的要素を盛り込むなど、音楽的な幅はさらに広がった。セールス的にも前作に続き大きな成功を収めている。

しかし、『オン・ザ・ボーダー』のころから続いていたメンバー間の軋轢がこのころから激化していた。デビュー当時には民主的なグループであったが、実質的に主導権を握ったドン・ヘンリーグレン・フライの2人の日頃からの高慢な態度にバーニー・レドンは業を煮やし、バンドの音楽的方向性への疑問も重なったことで1975年12月に脱退している。

それまでバンドの音楽的支柱のひとつであったレドンに代わるギタリストを探すのは難航したが、その間に初のベスト・アルバムグレイテスト・ヒッツ 1971-1975』をリリースした。このアルバムは全米だけでも3,800万枚以上の売り上げを記録し、全米歴代で最も売れたアルバムとして君臨し、プラチナ・ディスク認定第1号ともなった記念碑的作品となるなど、バンドの確固たる地位を築いた。

レドンの後任には、元ジェイムズ・ギャングのメンバーであったジョー・ウォルシュを迎えた。ウォルシュの加入には反対するメンバーもいたが、音楽的にはよりロック色を強める結果となった。1976年には、初来日公演を果たしている。

1976年、彼らの代表作となる『ホテル・カリフォルニア』を発表。当時のロック界ひいては都市社会の矛盾を揶揄したかのような歌詞と13本ものギターを重ねた完璧なサウンド・ワークによって、1970年代のアメリカン・ロックを代表する曲のひとつとなったフェルダーの曲にヘンリーが詩をつけたタイトル曲「ホテル・カリフォルニア」、かつての勢いを失いつつあったウェストコースト・ロックの凋落を皮肉るように、田舎町にやって来た新参者へ向けられた地元民の一時的な強い好奇心と彼が飽きられていく様を唱った「ニュー・キッド・イン・タウン」、エゴ社会に警鐘を鳴らすかのように、好き勝手にふるまう無頼者が実は虚勢に満ちており内面に苦悩を持つことを言外ににじませた「駆け足の人生」など、単に人間の性(さが)や振る舞いを唱っているように見えながらも暗に根深い社会問題を提起するような深みのある歌詞を、角度を替えた音響アレンジに乗せて展開した曲に散りばめてバンドとしての頂点を醸成し、全世界的な大セールスを記録し、バンドを押しも押されもせぬロック界の代表格にまで押し上げた。

バンド終焉へ編集

しかし、メンバー間の軋轢はさらに激しさを増し、ドン・ヘンリーとグレン・フライの高慢な態度の矛先はランディ・マイズナーに向けられるようになっていた。マイズナーは以前に比べて膨大になったツアーのストレスや、音楽的志向の違いも相まって、1977年のコンサート・ツアー中に脱退。マイズナーの後継として、元ポコティモシー・B・シュミットが加入した。

コンサート・ツアーを終えると、次のアルバム制作に取り掛かる。当初は2枚組で1978年にリリース予定だったが、レコーディングに難航し、1枚組に縮小の上1979年まで掛かった。そしてリリースされた『ロング・ラン』においては、ハードロック、バラードさらにディスコ・チューンにまで多様な音楽性に挑戦するが、製作ヴィジョンが曖昧で展開するサウンドにもっぱら主張や一貫性はないなどと批判された。『ロング・ラン』発売に合わせてコンサート・ツアーを行い、1979年には2度目の来日公演を果たす。

この頃、バンドは人気絶頂期だったものの、相変わらずグレン・フライとドン・フェルダーの不仲や、曲作りのスランプなどからバンドは1980年に活動を停止。そして1982年、正式にバンドの解散が発表された。

バンドの活動停止後は各メンバーが個別の活動に入り、各自のソロ・アルバムを発表したり、繋がりの深いウエストコースト系のアーティストを中心にレコーディングへのゲスト参加などを行っている。グレン・フライは「ユー・ビロング・トゥー・ザ・シティ」や「ヒート・イズ・オン」が大ヒットし、ドン・ヘンリーは「ボーイズ・オブ・サマー」と「エンド・オブ・ジ・イノセンス」でグラミー賞ベスト・ロック・ボーカル部門を受賞し、ソロとしても成功を収めた。

再結成以降編集

1994年に、第1期最終メンバーによって再結成。4曲の新曲とライブ収録曲を併収した変則アルバム『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』を発表し、以後世界規模でのツアーを繰り返し展開。この1994年以降を、ここではバンド活動の第2期とする。2004年から2005年にかけては、「Farewell I Tour」(第一回さよならツアー)と題されたツアーが行われたが、「さよなら」というのはジョークであり、その後も米国内外で公演が行われている。このツアーでも相変わらずの高い人気ぶりを見せつけ、各地のコンサートは大成功に終わり、収益面でも年間ランキングに顔を出すほどであった。

1995年に16年振り3度目の来日公演を東京横浜兵庫福岡で行ない成功を収めた。2004年には5大ドームと横浜アリーナにおいて、9年振り4度目の公演が行われた。

1998年に、ママス&パパスサンタナなどと共にロックの殿堂入りを果たした。

2000年に、ドン・フェルダーが「バンドに対して貢献していない」という理由によって、突然解雇される。彼はこれを不服として、解雇取り下げを求める訴訟をバンド側に対して行う。

2007年10月31日に、久々の新作『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』(19曲+ボーナストラック1曲入り、2枚組)を発売した。この作品は、13年振りとなるスタジオ・アルバムで、新曲のみで構成されたものとしては『ロング・ラン』以来であり、実に28年ぶりの作品となる。なお、前日の10月30日には、アメリカ国内においてウォルマートなどを介した先行リリースが実施された。全世界で爆発的なセールスを記録し、衰えぬ人気を示した。

2011年3月1日から6日にかけて、実に7年ぶりとなる5度目の来日ツアーを東名阪ドームで実施した。

2016年1月18日、創設メンバーのグレン・フライが死去。3月10日、ドン・ヘンリーが解散を表明した[2]

2017年、グレン・フライの息子ディーコン・フライ、さらにカントリーミュージシャンのヴィンス・ギルがゲストとして加わり、ライブ活動を再開[3]

2018年、北米ツアーを予定[4]

演奏スタイル編集

70年代を代表するバンドであり、ヒット曲を多数発表しているが、どの曲も美しいコーラスワークを聴かせる。デビュー前、グレン・フライは全員がボーカルを採れるバンドを目指していたが、ファーストアルバムの「イーグルス・ファースト」では、デビュー時のオリジナルメンバーであるグレン・フライ、ドン・ヘンリー、ランディ・マイズナー、バーニー・レドンの4人全員がリードボーカルを採り、コーラスワークもレベルの高いものとなった。その後、メンバーチェンジもあり、ロック色の強いバンドになっていったが、コーラスワークは維持され続けた。

ドン・フェルダー、ジョー・ウォルシュというテクニックの高いギタリストが加わってからは演奏能力も上がり、ライヴでもクオリティの高い演奏をみせていた。

ビートルズレノン=マッカートニーのように、ヘンリー=フライのコンビでヒット曲を連発していったが、レノン=マッカートニーは一方ほぼ完成させた楽曲に他方がアレンジなどの補完を行う関係だったのに対し、ヘンリー=フライのコンビは、主にヘンリーが作詞、フライが作曲を担っていた。

セールス編集

同年代に活躍したクイーンレッド・ツェッペリンなどと比べると実質的な活動期間が短く、リリース作品そのものが非常に少ないが、全米レコード協会(RIAA)の認定でアルバム総売上枚数が1億枚を超えているのは、イーグルスとビートルズエルヴィス・プレスリーガース・ブルックスレッド・ツェッペリンの5組だけである。そういう面からも、イーグルスの(特にアメリカにおける)人気ぶりが窺える。

作品編集

オリジナル・アルバム編集

ベスト・アルバムなど編集

※順位は全てビルボード誌による。シングルの順位も同様。

シングル編集

  • 1972年 Take It Easy (12位)
  • 1972年 Witchy Woman (9位)
  • 1972年 Peaceful Easy Feeling (22位)
  • 1973年 Tequila Sunrise (64位)
  • 1973年 Outlaw Man (59位)
  • 1974年 Already Gone (32位)
  • 1974年 James Dean (77位)
  • 1974年 The Best Of My Love (1位)
  • 1975年 One Of These Nights (1位)
  • 1975年 Lyin' Eyes (2位)
  • 1975年 Take It To The Limit (4位)
  • 1976年 New Kid In Town (1位)
  • 1977年 Hotel California (1位)
  • 1977年 Life In The Fast Lane (11位)
  • 1978年 Please Come Home For Christmas (18位)
  • 1979年 Heartache Tonight (1位)
  • 1979年 The Long Run (8位)
  • 1980年 I Can't Tell You Why (8位)
  • 1980年 Seven Bridges Road (21位)
  • 1994年 Get Over It (31位)
  • 2003年 Hole In The World (69位)
  • 2007年 How Long (101位)
  • 2008年 Busy Being Fabulous
  • 2008年 What Do I Do With My Heart

映像作品編集

  • 1994年 Hell Freezes Over --- 全世界で最も売れた音楽映像作品
  • 2005年 Farewell I Tour ~ Live From Melbourne

歴代メンバー編集

現在のメンバー編集

ドン・ヘンリー(Don Henley)
vo, cho, ds担当 1947年7月22日 - 1971年から在籍 テキサス州ギルマー出身
ジョー・ウォルシュ(Joe Walsh)
vo, cho, g, key担当 1947年11月20日 - 1975年から在籍 カンザス州ウィチタ出身
ティモシー・B・シュミット(Timothy B. Schmit)
vo, cho, b担当 1947年10月30日 - 1978年から在籍 カリフォルニア州サクラメント出身

過去のメンバー編集

バーニー・レドン(Bernie Leadon)
vo, cho, g, banjo, steel guitar, mandolin担当 1947年7月19日 - 1971年から1975年まで在籍 ミネソタ州ミネアポリス出身
ランディ・マイズナー(Randy Meisner)
vo, cho, b担当 1946年3月8日 - 1971年から1978年まで在籍 ネブラスカ州ブラフ郡スコッツブラフ出身
ドン・フェルダー(Don Felder)
g, cho担当 1947年9月21日 - 1973年から2000年まで在籍 フロリダ州ゲインズ出身
グレン・フライ(Glenn Frey)
vo, cho, g, key担当 1948年11月6日 - 2016年1月18日 1971年から2016年まで在籍 ミシガン州デトロイト出身

主なサポート・ミュージシャン編集

スチュアート・スミス(Steuart Smith)
g,cho,key,mandolin担当
スコット・クレイゴ(Scott Crago)
ds,percussion担当
ウィル・ホリス(Will Hollis)
key,cho担当
マイケル・トンプソン(Michael Thompson)
key,cho,accordion,trombone担当
グレッグ・スミス(Greg Smith)
baritone sax担当
ビリー・アームストロング(Billy Armstrong)
trumpet担当
アル・ガース(Al Garth)
violin,alto sax担当
クリス・モステール(Chris Mostert)
alto sax,tenor sax担当

コンサートツアー編集

日本公演編集

  • 1976年 One Of These Nights Tour
2月2日,3日 フェスティバルホール、4日 福岡市九電記念体育館、5日 神戸国際会館、7日 日本武道館、9日 名古屋市公会堂
  • 1979年 The Long Run Tour
9月17日,18日,19日,25日 日本武道館、21日 名古屋市国際展示場、22日 大阪万博記念公園お祭り広場
  • 1995年 Hell Freezes Over Tour
11月9日 阪神甲子園球場、11日,12日,20日,21日 横浜アリーナ、14日,15日 東京ドーム、18日 福岡ドーム
  • 2004年 Farewell I Tour
10月24日 札幌ドーム、26日 横浜アリーナ、30日,31日 東京ドーム、11月3日 大阪ドーム、5日 福岡ドーム、7日 ナゴヤドーム
  • 2011年 Long Road Out Of Eden Tour
3月1日 大阪ドーム、3日 ナゴヤドーム、5日,6日 東京ドーム

脚注編集

外部リンク編集