ウィリアム・エドウィン・ホーイ

ウィリアム・エドウィン・ホーイ(William Edwin Hoy、1858年6月4日 - 1927年3月3日)は、アメリカ合衆国出身の宣教師で、合衆国・ドイツ改革派教会から派遣されて明治時代の日本で活躍した。東北学院三校祖のひとり。

W. E. ホーイ

来歴編集

1858年ペンシルベニア州ミフリンバーグ英語版に生まれる。1882年にフランクリン・アンド・マーシャル大学英語版を卒業、さらにランカスター神学校英語版で3年間学んだ後の1885年、ドイツ改革派教会の日本派遣宣教師の公募に応じて日本に渡る。英学者斎藤秀三郎が通訳を務めた。

1885年(明治18年)12月1日来日、当時28歳、独身の青年宣教師であった。来日後間もなく、東北地方での伝道活動の協力者を求めていた押川方義と出会い、2人は仙台を東北伝道の拠点とすることで一致する。ホーイそして1886年、仙台で押川と共に仙台神学校(現在の東北学院)を創立する。1893年には英文誌<Japan Evangelist>を創刊。

東北学院は順調に発展していったが、やがて「日本の伝道は日本人の手で」という押川との意見対立が鮮明になり、1900年、D・B・シュネーダーに後事を託して東北学院を去った。その後は活動の舞台を清国に求め、湖南省岳州に教会、神学校(湖濱学校)などを設立する。1927年中国内部の動乱(共産主義)で伝道活動が不可能になったため、上海に避難。アメリカに帰国する途中、船中で病没。遺体は故郷ミフリンバーグの教会墓地に埋葬された。

ホーイと東北学院編集

東北学院の創立編集

[1][2][3]

 
ウィリアム・E・ホーイ William Edwin Hoy1885
 
東北學院 神学部 


ウィリアム・E・ホーイは東北学院/North JapanCollegeを「北日本の鍵」と呼んだ。



「私の日本到着の三日後に、私に対してなされた押川兄弟の懇願に耳をかさず、東京に留まることも出来たかもしれません。そうなれば仙台はその広大で将来性に富む活動と共に未知の地であり続けたでしょうし、東北学院も存在せず、私の残りの生涯を終えることも可能なのです。


しかし、ああ、日本人への魂の愛、神への愛が、私にこの地で安んずることを許さないのです。神は私に豊富な経験をお与えになりました。私はこれまでと同様に断固として前進する覚悟でおります。押川やシュネーダーの様な人々の道徳時・霊的支持によって、私は前進することが出来ます。未来は招いているのです。ああ主よ、私は東北学院の建設において、私自身をあなたに聖別して捧げます。それは、あなたがこれまで、かくも豊かに祝された、この学校が日本の救いに向けて、一層大いなる永遠の真理と命の殿堂となるためです」

— Ibid, Feb.13,1893.ウィリアム・エドウィン・ホーイ 合衆国・ドイツ改革派教会伝道局幹事キャレンダー宛[4]

仙台神学校(東北学院)と東華学校(同志社)編集

押川・ホーイ 新島・デフォレスト

宮城英学校(東華学校)の設立は、1885(明治18) 年12月、アメリカ再訪の旅を終え帰国した新島襄が、 (京都に戻る直前に)富田鐵之助(当時、日本銀行 副総裁)宅を訪れ相談したことが契機である。この時、新島は、「押川方義が数週間前に富田宅を訪れ、 仙台に女子学校の設置を計画していると話した(男 子学校の話はない)」ことを聞かされ驚愕する。1886(明治19)年に入ると、富田と新島は、仙台での男子中等教育学校(英学校)設立構想を着々と具体化するが、押川も、男子学校設立を考えるようになり、学校設立を一致(連合)して行いたいと新島 に申し入れるようになる(当時、押川等の一致教会と新島等の組合教会の合同問題も起きており、押川は、これに賛成の立場をとり、新島は反対の立場であった)。押しの強い押川に対して、新島は、逡巡の色を示すが、この新島を激励・リードしたのは、 8歳年長の富田であった。当時、日本銀行副総裁の富田鐵之助は、数回にわたり新島を同行して、宮城 英学校設置を「時の」文部大臣森有禮に陳情し、その支援を要請する。 森は、明治政府の最初の外交官でもあり、1870(明治3)年に少辦務使(アメリカ)に任ぜられるが、 1871(明治4)年、幕末に密航状態で渡米した新島を訪れ、新島のパスポート発給に尽力していた。また、富田は、森(少辦務使の後に代理公使)の下で ニューヨーク副領事を務め、森が駐英公使になると、 森に請われてイギリス公使館の一等書記官を務めていたのである。 こうした濃密な人間関係の中、森も、上京した宮城県令・松平正直に対して学校設置の内話をし(学校の設置認可権は、県知事(県令)にあった)、幕末に仙台藩開国派として富田とも交流が深かった仙台区長・松倉恂からは、仙台に来着したばかりのホ ーイの動向も伝えられるなどしている。学校設置をめぐる環境は、現職の文部大臣や宮城県令・仙台区長の後ろ盾があり、明らかに富田・新島の側に圧倒的に有利であったのである。

1885年(明治18年10月17日)付 新島襄小崎弘道に書簡。 「・・・・・殊ニ東奥ハ、随分昔時ヨリ学者の輩出セシ所、先見家之起リシ所、其地方ニ向ヒ我輩福音之網羅ヲ皇張セサルベカラズ・・・・又仙台之如キハ人間之多キ所此ヨリ二千三百里北辰直下ニ十字架ヲ立テン事ハ、小生平素之宿志ナリ、兄ニ於而如何ト為ス」

同11月2日 新島襄から、小崎弘道、松山高吉への書簡。 東北伝道と学校開設に対する非常に強い決意を伝える。 「仙台地方着手ニツキ、東京宣教師、又教会中誤テ喋々スルモノアルモ決シテ顧慮スル勿レ、今日此好機ヲ失ハバ、他日該地方ニ伝道スルノ機会ヲ失フベシ、不動、不撓、定論ヲ執シ、容々易々ニ他人ノ動カス所トナリ賜フ勿レ、該地ヲ十字旗下ニ降スルハ今日ニアリ、進ンテ取ルベシ、主ノ賜フ所ヲ他人ノ喋々ニヨリ鳥有ニ属セシムルコト勿レ、別シテ仙台ノ如キハ一大都市ナリ、一ニノ会社ヨリ巳ニ着手スルモ我輩ノ侵入ヲ拒ムノ一理ナシ、働キテノ多ク行ク程該地方ノ幸福タルベシ、之ヲ拒ムルノ輩アラハ、此レ主ノ為ニ働ク者ニアラス、乃チ宗派ノ為ニ働クナリ、願フハ他人ノ喋々ニ耳ヲ傾クル勿レ、此ノ好機ヲ失イ賜フ勿レ、」

富田鉄之助「鉄雲日記」 「新島襄外国ヨリ帰リ来リ、明日西京ニ帰ル由ニテ来訪ス、仙台ニ学校ヲ建ンコトヲ企テ、相談セラル」 新島襄「出遊記」 「十二月十三、十四日の頃東京にあり、富田氏の家を訪う。幸に同氏に面会し予の東北策を陳じ、学校を仙台に開くべきか、将た福島に設くべきかを問うに、氏は仙台は奥羽の中央たれば、宜しく仙台に設くべきことを勧め呉れたり。」 この日の会談で富田は新島が仙台に男子学校を設立するならば、新島を信じ応分の協力をすることを約束した。(この時、押川方義も仙台に学校設立の計画をしていることを知る。) この富田日記にみられるように、新島の発起で富田が相談を受け、それから設立に向けて動き出した ことがわかる。  この会談を起点として、富田の仙台における学校創立の熱意は昂揚し、富田を代表とする旧仙台藩士が組織する「仙台造士議会」を中心に、地元の人々も大賛成し、その実現に向かって動き出した。 [5]

同2月11日 大阪で、アメリカンボードの会議が開催され、協議の結果、次の事が決められた。 ①ミッション本部に3人の宣教師の派遣を要請する。 ②東京の合衆国・ドイツ改革派教会宣教師と「断判」する。交渉要員はダニエル・クロスビー・グリーンジョン・デフォレストとする。 ③当方は男子校、先方が女学校の案もしくは両方が合同で男子校を開校する案を出す。

同2月12日 グリーン、デフォレストの2名が、一致教会(日本基督一致教会)宣教師(ウィリアム・エドウィン・ホーイ)と懸け合いに行くので、「此度ノ好機会ハ再難度、今、之ヲ失ハ向来之東北伝導上ハ非常ノ損亡ヲ来スベキ、云々ヲ陳べ」と断固として推進することを、両宣教師に勧めて欲しいと依頼した。

新島の押川に関する最初の印象は、「畏ろしい人」であったが、ギュリックの印象は、「好人物のうえに英語力、雄弁術(現存の日本人中、おそらく最高) に優れ、指導力も伊勢時雄に匹敵する」であった。他方、押川の新島観は、「傑出した人物」ではあるが、「神経質の人、熱心なる人、信ずる所を行く人、事業のためには何事も犠牲にする人、米国を非常に愛せる人」であった(東北学院百年史)・本井(1995)。


同2月17日 富田から新島宛の書簡。 松平正直宮城県令が上京、森文部大臣と学校創設の話をしたことと、押川方義にも仙台に英学校開設計画があることを知らされた。その上で、「同規模同類ノモノ二校相立」は得策ではないので、押川方義と調整されたいという要請であった。

同2月28日 富田が、森文部大臣、松平宮城県令、鈴木大亮を招待して、仙台の学校設立を協議、熱心に働きかけた。

同3月5日 新島から富田宛書簡。 仙台でホーイが有志を募り土地を買い入れて校舎を建築中という情報について、富田に問い合わせる。

同3月7日 富田より新島への返信。 ホーイとは如何なる人物かを糾し、あくまでも申し合わせの通り、初志貫徹をはかりたいと伝えてきた。


同3月20日 新島、押川会談(第1回)於神戸 押川は、「仙台ニ諸方ヨリ着手スルヨリモ、一方ニ着手スルナラバ、他ノ人ハ他所ニ着手スルガ伝道上、経済上得策デアル」そして、仙台に帰ったら学校設立の模様を逐一報告すると述べた。新島は、報告を待つと答えて会談は終わった。

同3月22日 新島から富田への書簡。 押川との会談の結果と、アメリカンボードから「新島仙台ニ赴クベシ」の電信を受け取ったことを知らせた。

同3月23日 富田より新島への書簡。 仙台の松倉恂、岩淵廉にホーイの動きを調査させ、その結果を知らせてきた。

同3月26日 富田から新島への書簡。 新島の書面での押川等の動向と、仙台からの報告は全く符写しない。押川の心情甚だ不審であるから、あれこれ考えず、一刻も早く仙台で学校設立の趣意書を新島と東京の仙台人、仙台の有志などの連名で公表し、有志家を募ることこそ緊要だと述べた。

同3月29日 新島から富田への書簡。

押川の方で英学校建設に取り組むのであれば、「重複ナルモ、無益ナレバ予ハ手ヲ引クベキヤ否ヤ」の照会をしたのである。押川との会談後、新島は押川の強引さに押されてか、すっかり弱気になり、仙台での英学校設立について逡巡するのである

同4月3日 富田から新島への書簡。 「・・・・・・・押川氏企度之義ニ付テ尊兄至極御懸念ノ様拝察致候処、小生ニハ左ノミ心配ハ不仕候.其仔細ハ押川氏仙台ノ人望ト動作ハ過日両度申上候如ク、決シテ恐ルル様ニハ無之候、且亦御互ニテ企候義ハ未タ発表コソ不致候得共已ニ三、四名ノ名望家ニ相ハカリ何レモ大賛成、加ルニ県令ヘモ篤ト内談相遂ケ着手ノ節ハ尽力致候事ニ内約相調居候得ハ、小生ノ方指置、他人ニ尽力致候事難有成今日之場合ニ御座候、押川氏自力ヲ以テ創設致し候事ナレハイザシラズ他力ヲ借リ得ル事ハ十分出来得ベキ場合ニ無之故先ツ恐ルゝニ足ザル事ト自信致居候・・・・・・・中略

就キテハ矢張先達内談致候主趣ヲ以、創設ノ要領ヲ発表、着手順序ヲ計画致度所存ニ御座候、

・・・・・・(中略)着手ハ速ナル方、機会ハ不可失候得ハ御繰合次第速ニ御出京願上候右要用ノミ如比ニ候、」

この書簡の中略の部分で、富田は重要な下記の提案をしている。

「然レトモ段立御申越之次第モ有之候間、御手許方ト、仙台ノ方ト両端宜敷ニ斟酌シ、先ツ着手之場合丈ハ、小生初メ名望家ヲ以テ発起人ト相定メ発表シ有志家ヲ集メ金力家ヲ誘ヒ、尊兄ト米人トヲ相聘シ候事ニ候バ御斟酌之筋道ニモ相叶候判ト愚按致候、尊兄如何カ、若右愚按之通リニ可然ト御見込ニ候バ尚篤ト御相談相遂度候条、一寸御出京相願度候、御相談ノ様ニヨリテハ仙台迄御下リ不被下ハ難相叶場合モ可有之候、宜敷御含ヲ以御出京相願候」

同5月17日 新島、押川会談(第2回) 「松山ノ宅ニテ押川氏ト面会シ、仙台ノ事ヲ計ル事定マラズ」。押川は、「教会ノ一致(合同)セサル内デモ、学校ノ一致(連合)ヲ望ム」とまで発言したが、「事定マラズ」であった。

同5月18日 新島、押川会談(第3回)小崎宅 押川は「一致シテ共ニヤリタシ」と云うが、「何ノ決リタル事」もなく別れる。

同5月19日 新島、押川会談(第4回)於南小田原の某宅 この時、仙台の情報が富田を通して新島に知らされており、押川は、県令からすでに富田の学校計画があるので、これに賛成するから、押川の計画を助ける訳には参らぬと断られ、仙台に同種の学校をつくるのは無益であると言われていた。押川は松倉にも働きかけたが、富田氏の報を待つといわれ、松倉は押川の求めに応じていない。

押川は仙台においては四面楚歌の状態で、とにかく一致してやりたいと主張した。この席で、新島は先の富田の提案通りの「予ハ発起人ノ地位ニ立タス、又主人ノ場合ニ立入ラス成ル可ク丈ケ仙台人ニ譲リ予ハ招待ヲ受ケタル客人トナルノ意ヲ押川兄ニ陳シタリ」の発言をした。 同6月1日 松平県令が清奇園を訪ね、学校創立の件につき協議、ほぼ決着をみる。黒川剛、芳賀真咲、十文字信介同席。面談中、押川が来訪されたが、「・・・・・止ム事ヲ得ス同兄ニ面談スルヲ辞ス」

同6月2日 松平県令主催の晩餐会が把翠館で行われ、新島、デフォレストとともに出席。有志家より5000円の寄附があったことを披露。さらに学校の宗教的基盤を、同志社と同一にすることの保証も確約した。 「・・・・・・仙台ニテ如斯事速ニ運フ事トハ思ハサリナリ」という程の進展ぶりであった。

同6月3日 デフォレストは、ホーイと押川に会い、男子校設立計画から全面的に撤退し断念する'との回答を得た。 1886(明治19)年6月3日、来仙中の新島は、父危篤の報を受け仙台を発つ。その日の夕刻には、ホーイと押川を招いての夕食会が開かれた。この席上、押川は、 the governor(松平)、富田、松倉のところに進み 出ると、皆が「一致」を説く。しかしながら、押川 は、一致は困難であり「弊害」も出かねないことから、自分の望を断念し、全面的に撤退すると述べた後、宮城英学校の「成功」を祈るのであった。(The Evolution of a Missionary, p.151)。

ホーイとデフォレスト編集

「涙あふれる場」であり「悲しい勝利」

ホーイも、 同じ考えであったが、無念さは隠せなかった。ホー イにとっては「涙あふれる場であり」、もとからの「一致論者」のデフォレストにとっては、「悲しい勝利」であった。これについて、『東北学院百年史』 は(前掲の『デフォレスト伝』の翻訳として)、「次いでホーイが同じような口調で話したが、無念さは 隠しようがなかった。しかし、ホーイが言うところでは、私たちは同じ主によって導かれており、その 導きのもとにあるからには、争ってはならないと信じている、と。それは悲しみの涙の時であり、私にとっては心寂しい勝利であった」『デフォレスト伝』p314という流暢な表現を用いて紹介している。

東華学校の開校編集

ここに、学校の教育と 経営の分離が行われ、「半官半民」・「事実上の公設民営」の学校がスタートする。

男子学校設立をめぐる、新島と押川の交渉過程において、新島が押しの強い押川に押され設立を 逡巡したとき富田は、新島に男子学校設立を強く求めたのである。具体的に言えば、富田を中心とする仙台の有力者が学校を設立し、(新島襄が設立者からはずれ)校長として新島を招く方針に切り替え、新島の同意を得たのである。富田等を設置者とすることで、新島と押川の軋轢を回避し、新島の杞憂を取り除き、学校を設置する方針をとったのである。

明治20年より21年と東華学校は順調な成長段階を踏んでいった。しかし、日本国内の世情は、キリスト教主義学校の維持発展には障害となる風潮が兆していた。


1891(明治24)年には、第二高等中学校(旧制第二高等学校の前身)の「補充科」の廃止問題が起こった。すなわち、文部省の管理のもとにあり、 全国で5校の設置が予定された高等中学校を「高等教育機関(高等学校)」へ移行するにあたり、「補充科」での「中等教育」を廃止するという問題である。 これまで、宮城県では、財政問題を回避するために、尋常中学校を廃止し、第二高等中学校の「補充科」 に公的な男子中等教育を委ね、東華学校を支援してきたのであった。明治24年12月の宮城県議会では、 尋常中学校再興派と東華学校存続派が対立したが、 明治25年から尋常中学校を再興すること議決し、東華学校の廃止が決まったのである。 『デフォレスト館建造物調査報告書』では、尋常中学校が兵役免除の恩典が受けられる学校の創設を決議したとしている。確かに、私立学校にとっては、徴兵猶予と上級学校入学の資格認定は、教育の質と生徒数の確保に関わる経営上の死活問題であった。後日 になるが、東北学院でも、多数の成績優秀な生徒が 官立学校に転学することに起因する問題が浮上し、 1901(明治34)年5月に文部大臣あてに徴兵猶予認定願を出す。何度かの折衝を経て、明治35年1月に、 普通科(後に中学部と改称)が徴兵猶予の資格認定 が出る(明治36年6月、専門学校入学資格の認定)。 そして、東華学校の廃止が決まると、教員が総辞職する事態になるが、生徒を宮城県尋常中学校で受け入れることで問題の解決が図られ、日本人教員の 多くも尋常中学校に異動する。また、栗原基等15名 ほどは、東北学院に編入する。こうして、1892(明 治25)年3月24日、東華学校は、5年半の短い教育の 役割を終え、閉校となる。


他方、デフォレストによれば、「新島先生の逝去、 条約改正に関し外国人を嫌悪する反動力、東華学校 は宗教学校との世評」から、「聖書」の削除が求められ、さらに「尋常中学を当地に再興の議」が出始 めたのである(太田(2007)、p.225)。デフォレスト ら外国人教師(宣教師)にとっては、「聖書」の削除を日本人教師とともに「校事」として決定するこ とはできず、東華学校の隆盛のためには「総辞職が 必要不可欠であった」のである。

宮城県議会での主たる論点は、第二高等中学校の 「補充科」の廃止にともなって、宮城県の「公的機関」による中等教育に「空白」が生じると見るか、 これまで通りに財政負担が軽い「半官半民」の東華学校を支援しこれを機能させるか、という問題であった。


1888年(明治22年2月11日) 「帝国憲法』」の発布、続いて「教育勅語」発布

同12月 県議会で県立尋常中学校再興を決議し、東華学校の廃止を決定した。この決定をみて、今度は東華学校の教員が一斉に総辞職することになった。

同3月24日

東華学校閉校編集

日本国内の世論は反欧化主義となり、教育勅語の発布により一挙に国粋主義、排外主義、反キリスト教主義への途を辿っていった。 東華学校は、この逆風の中で明治22年8月の副校長市原盛宏のアメリカ留学、続いて精神的支柱であった明治23年1月の新島襄の急逝でさらに追い打ちをかけられた。

東華学校閉校の要因は種々挙げられるが、まず非クリスチャンの東華議会商議員たちが聖書科削除をすれば反キリスト教感情が薄まると考えたこと、一方外国人宣教師たちは、自分達教員である限り、学校への敵意はとり除けないと考えて総辞職したこと。なんといっても最大の要因は、徴兵令第13条認定による兵役免除の特典をもつ、宮城県立尋常中学校の設置である。これにより財政的にも存続不可能となり、開校以来5年半という短い期間を以って、東華学校は明治25年3月24日閉校となったのである。当初、押川は、宮城英学校 (東華学校)とは別の男子学校の設立を模索し、これが困難になると新島と「一致」して設立をめざしたが、最終的には、「一致」は困難であり、「弊害」 さえも出かねないとして、この男子学校の設立には 加わらなかったが、「事実上の公設民営」の弱点が露呈し、押川の危惧が顕在化したのであった。

押川との別れ編集

1898年(明治31年)4月1日付けで、押川が「帝国全域で伝道を展開するため」二年間の休暇を願い出た時、少しも驚きを持って受け止められなかった。押川は院長の職に留まるが給料は半減するということで合意が成立する。

東京へ移る前に押川は「十分な給料を払って自分の代わりに任命することを願っていますが、学院憲法は宣教師の一員たる副院長が、院長不在の場合には院長の代理をするように定めています」と語る。

ホーイの解釈では、押川にとって東北学院は活動の場として余りに狭すぎた。

「もはや彼(押川)から多くの奉仕を期待しませんが、これが彼を満足させる最善の途と考えます」

Ibid,Nov.6,1897.Mission Proceedings,Nov.16,1897 [6]

院長押川の名声は全国に聞こえ、押川の雄志は仙台の地に限られることなく、その視野はあるいは北海道(同志会)へ、あるいは朝鮮半島(京城学堂)へと拡がり、ついに東北学院長を辞して上京、政治や実業へと幅広い活動を展開するようになる。他方、ホーイの目も清朝末期の混乱の中にあった中国へと向かう

ホーイの中国伝道編集

 
ホーイ送別会1900年(明治33年)Farewell for Hoy.

健康上の理由もあって、 1900(明治33)年東北学院を辞したホーイは、家族と共に中国湖南省の岳州に転じ、そこに伝道・教育・医療の有力な拠点を築き上げ、1927(昭和2)年の死にまで及ぶ。ホーイ夫人とその娘も第二次大戦後まで中国伝道に献身した。米・日・中そして天の四つの国の市民にふさわしい生涯であった。 ホーイは、広範な伝道活動を続け、1893年には隔月号の英文誌<Japan Evangelist>を創刊した。1898年に喘息の療養のために中国の上海へ行ったことがきっかけとなり、1900年に日本での活動を辞して、中国伝道へ赴いた。清国の湖南地方での25年間活動し、神学校、青年教育の向上、教会設立、医療活動事業とめざましい働きをなした。しかし、1927年の中国内部の動乱から避難して帰国する船上で、宣教に生涯を捧げた69年間の幕を閉じた。Hoy, William Edwin | BDCC [7][8][9]

ホーイとシュネーダー編集

 
リズィ・R.プルボー嬢.エンマ・F.プルボー嬢.D.B.シュネーダー師と妻.W.E.ホーイ師と妻.J.P.モール師と妻.キティ・プルボー嬢/(Miss Lizzie R. Poorbaugh. Miss Emma F. Poorbaugh. Rev. D.B. Schneder and wife. Rev. W.E. Hoy and wife. Rev. J.P. Moore and wife. Kitty Poorbaugh.1888年

1918年(大正8年)3月1日、仙台市の中心部を焼き尽くた大火によって、かけがえのない中学部の建物が完全に灰となった。 中学部が燃え落ちる絶望の中でシュネーダーは緊張と憔悴とで崩れ落ちる。

中学部はシュネーダーにとって、働き盛りの労苦に満ちた長い年月の成果の全てであった。生徒たちはシュネーダーを連れ戻した。シュネーダーは祈る。「神が将来への望みと勇気をお与えくださるように」と。

最も尊かったのはウイリアム・ホーイ博士からの寄付であった。この東北学院の創設者の一人は、次のような言葉を添えて、百ドルの献金を送って来た。

「東北学院設立の第一年目に、誰の助けも借りないでその基をたずさえた労苦は、なにびとにも十全には知り得ないところでありましょう。東北学院が今回の大火のごとき災難に見舞わた時、この献金を捧げますのは、かの設立の精神を込めてであります」[10]

ホーイその生涯編集

 
ウィリアム・E・ホーイ William Edwin Hoy, cofounder of the University


ウイリアム・E・ホーイは1858年、アメリカのペンシルヴァニアに生まれ、青年期に当時のアメリカに燃え上がっていたキリスト教の海外宣教の奔流のような運動に加わってアジアに向かい、1885年たまたま横浜に寄港して、そこで日本、それも仙台を自らの 宣教の使命の地と確信したのであった。その翌年から彼は仙台において押川、数年後に来仙したシュネーダーと共に、東北最初のキリスト教学校の運営に尽くした。ホーイの東北学院への思いは強く、熱く、時に押川の方針と対立することもあったが、学院のその後の歴史は、彼を抜きにしてはありえなかった。盗難にあった学校の大金のために、持ち金も給与もはたいて、ほとんど独力で弁済した。 喘息を持病としていたホーイ、病状の悪化によって、東北学院の働きに一区切りをつけ、転地療養もかねて中国に渡る。体調を回復したホーイは上海などで宣教し、成功を収める。1926 年病気が再発してついに帰国を決意、横浜に寄港した後、アメリカに帰ろうとしたがかなわず、船中で没した。69才、人生の大半、身も心も外国伝道に捧げた生涯であった。ホーイ夫人とその娘も第二次大戦後まで中国伝道に献身した。米・日・中そして天の四つの国の市民にふさわしい生涯であった[11][12][13]。 1927年(昭和2年)ホーイが船の上で死去したとの悲報が届いた時、D・B・シュネーダーはかつての同労者ホーイを「キリスト教の歴史上、最も偉大な宣教師のひとり」と呼んだ。[14]

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ https://jihou.tohoku-gakuin.jp/archive/249/jiho_249_04.pdf
  2. ^ https://jihou.tohoku-gakuin.jp/archive/250/jiho_250_02.pdf
  3. ^ 東北学院の歴史”. 東北学院大学 (2019年5月28日). 2019年9月10日閲覧。
  4. ^ 『ウィリアム・ホーイ伝:苦闘の生涯と東北学院の創立』1986年 p,145
  5. ^ 「宮城英学校の設立始末」 太田雅夫著
  6. ^ 『ウィリアム・ホーイ伝:苦闘の生涯と東北学院の創立』1986年 p,165
  7. ^ https://www.tohoku-gakuin.jp/archives/100years/100years_02/100years_02_11.html
  8. ^ http://jihou.tohoku-gakuin.jp/archive/92/jiho_092_01.pdf
  9. ^ http://jihou.tohoku-gakuin.jp/archive/92/jiho_092_02.pdf
  10. ^ 『シュネーダー博士の生涯:その人とその時代』p123 1976年5月
  11. ^ https://jihou.tohoku-gakuin.jp/archive/248/jiho_248_06.pdf
  12. ^ https://jihou.tohoku-gakuin.jp/archive/249/jiho_249_04.pdf
  13. ^ https://jihou.tohoku-gakuin.jp/archive/250/jiho_250_02.pdf
  14. ^ 『シュネーダー博士の生涯:その人とその時代』p156 1976年5月

参考文献編集

  • 『キリスト教人名辞典』 日本基督教団出版局、1986年
  • ウィリアム・C・メンセンディク著、出村彰訳 『ウィリアム・ホーイ伝:苦闘の生涯と東北学院の創立』 東北学院、1986年
  • 東北学院百年史編纂委員会 『東北学院百年史』 学校法人東北学院、1989年
  • 学校法人東北学院 『東北学院の歴史』 河北新報出版センター、2017年 ISBN 978-4-87341-366-2

関連項目編集

外部リンク編集