ウスティルーフ
ウスティルーフ(ウクライナ語: Устилуг)はウクライナのヴォルィーニ州ヴォロディームィル地区にある都市。西ブーフ川、ルハ川の河岸に位置する。都市の高さは海抜188 mである。面積は4.03 km²。人口は2,205人 (2011年8月1日)、人口密度は547.1 人 / km²。
ウスティルーフ | |||
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国 | ![]() | ||
州 | ヴォルィーニ州 | ||
地区 | ヴォロディームィル地区 | ||
団体コード | 720510400 | ||
人口 | 2,205人 (2011年8月1日) | ||
面積 | 4.03 km² | ||
人口密度 | 547.1 人 / km² | ||
郵便番号 | 44731 | ||
電話コード | +380-3342 | ||
インタネット | 公式サイト |
ウスティルーフは1150年に創建された。1653年に自治権を獲得した。1940年に市制施行された。
市内ではヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー駅がある。首都キエフまでの直線距離は453 kmであるが、鉄道で506 km、車道で506kmとなっている。州庁所在地までの直線距離は84 km、鉄道で150 km、車道で90kmとなっている。ウスティルーフの日は、7月12日となっている。
歴史編集
ウスティルーフはもとブク川の水運を主要な産業とするユダヤ人の村であり、19世紀なかばには人口の9割がユダヤ人だった[1]。第一次世界大戦後にはポーランド領ウシチウク(Uściług)となり、村から都市に昇格した。1939年のポーランド侵攻でウスティルーフはソ連に支配され、ナチス・ドイツのポーランド総督府と国境を接するようになった。ウスティルーフのユダヤ人の1⁄3はソ連政府によって別の町に移動させられた。1941年には爆撃によってウスティルーフの8割以上の家屋が破壊され、約500人が死亡した後、ドイツに征服された。ユダヤ人は強制収容所に入れられ、多くは殺害された[1]。
著名な人物編集
ウスティルーフはイーゴリ・ストラヴィンスキーが1914年まで夏の間を過ごしたことで知られる。ストラヴィンスキーの母の姉であるマリヤ・ノセンコ夫妻は1880年代はじめにウスティルーフに数千ヘクタールの土地を購入した[2]。ストラヴィンスキーは8歳のときに家族とともにはじめてウスティルーフを訪れ、いとこのエカテリーナ(後に妻となる)とはじめて会った[3]。大学を卒業した1905年にここでふたりは婚約を発表し、その後は第一次世界大戦の始まる1914年まで、夏の間をほとんど毎年この地で過ごした。ストラヴィンスキー本人の設計によって家が建てられ、1908年から住んだ[4]。『春の祭典』を含む多数の曲がここで書かれた。
2つの世界大戦で被害を受けたにもかかわらず、ストラヴィンスキーの家は現存するが、本来の設計からはかけ離れたものになってしまっている[4]。
脚注編集
参考文献編集
- (ウクライナ語) Історія міст і сіл Української РСР: Волинська область. — Київ: УРЕ АН УРСР, 1970.
- Stephen Walsh (1999). Stravinsky: A Creative Spring: Russia and France 1882-1934. New York: Alfred A. Knopf. ISBN 0679414843
外部リンク編集
- (ウクライナ語) 公式サイト