ウリヤンカダイまたはウリヤンハタイモンゴル語:ᠤᠷᠢᠶᠠᠩᠬᠠᠳᠠᠢ、転写:Uriyangqadai, Uryankhatai1200年 - 1271年)は、モンゴル帝国元朝に活躍した将軍。モンゴル系ウリャンカイ部出身のスベエデイの息子。アジュの父。『元史』などの漢語表記では兀良合台・兀良哈台、『集史』などのペルシア語表記では اوريانكقداى بهادر Uriyānkqadāī Bahādur。

生涯編集

遼東遠征編集

オゴデイの治世において、金朝遠征の翌年、1233年3月遼東方面を領有していた 大真国蒲鮮万奴を討伐することが決議され、オゴデイの長子グユクカチウン家のアルチダイが派遣されたが、ウリヤンカダイはこの遠征でグユクに扈従して蒲鮮万奴の軍を撃破する功績を上げた。

ヨーロッパ遠征編集

1236年にはじまるバトゥの西方遠征(バトゥの西征英語版)では再びグユクや父スベエデイらとともに従軍した。途中、グユクは遠征軍総司令のバトゥと諍いしたためオゴデイの命令によってモンゴル本土へ召還されたが、ウリヤンカダイはその後もバトゥの遠征軍のもとでピャスト朝ポーランド王国(孛烈児)を攻撃(モンゴルのポーランド侵攻)するなど東欧での作戦に従事していたようである。

クリルタイ(1248年)編集

1248年にグユクが没した後、グユクの第一皇后オグルガイミシュが摂政監国となり自子を次期モンゴル皇帝に推戴するためクリルタイの開催を目論んだが、ウリヤンカダイはジョチ家やトルイ家の王族たちとともにバトゥの遠征軍にも参加していたトルイ家の長子モンケの推戴を主張し、ジョチ家とトルイ家によってモンケ擁立のクリルタイが開かれたが、これをオグルガイミシュからの使者が謀反を疑い詰問したところ、ウリヤンカダイは「これはクリルタイによってすでに議決されたことである」と主張し論破したという。

雲南遠征編集

1251年、モンケが第4代モンゴル皇帝に即位すると、南宋遠征の一環として雲南・大理遠征が議決された。南宋遠征軍の右翼軍の大将としてクビライが任じられると、ウリヤンカダイはこの宿将に任じられた。翌1252年に息子のアジュ(阿朮)をともなって四川方面に南下して金沙江を渡り大理国に迫った。クビライの右翼軍は大理を包囲して降伏させ、大理国王段興智を捕虜とした(段興智は旧領を安堵されて、管領として摩訶羅嵯に封じられた)。雲南に都元帥が置かれ、この功績によりウリヤンカダイは大元帥となった。

この時、クビライは兄である皇帝モンケと戦線の方針を巡って対立があったようで、クビライは南宋遠征軍の司令官から更迭させられ、本拠地の上都金蓮川へ北還したが、ウリヤンカダイは右翼軍の指揮権を委譲されて、後にチャガタイ王家の第6代当主となるアビシュカカチウン家のチャクラ、エジルなどの王族たちとともにそのまま雲南の遠征軍のうちに留め置かれた。ウリヤンカダイの右翼軍はそのまま南征したのち北に取って返し、東方三王家の首班テムゲ・オッチギン家の当主タガチャルの指揮する左翼軍が襄陽を陥落させ、鄂州で合流する計画であったという。

元越戦争編集

1257年、さらに南下して安南こと陳朝大越国に入り(元越戦争英語版)、大羅城(ハノイ)を包囲して陳朝皇帝陳煚の軍を破り、服属させた。陳朝には三年一貢を課したという。

南宋遠征編集

安南から北上して南宋を攻め、湖南方面から首都臨安に迫る勢いであった。同時にモンケが兄弟やその他の王族諸侯たちともに本軍を率いて四川に入り、戦線に復帰したクビライはタガチャルとともに中都燕京から開封へ南下し、鄂州を攻撃する計画であったという。1259年8月18日、モンケが合州(現在の重慶市)の包囲中に釣魚山で陣没すると、雲南のモンケ本軍は北に向かって撤収を開始した。

ウリヤンカダイの右翼軍は南方に孤立する形になり、退路を求めて広西桂林湖南江西の各都市を攻撃しながらも華南方面をさまようことになった。9月下旬にクビライは長江北岸まで来ており、ここでモンケの訃報に接した(半月程前の汝南駐留中に既に非公式的ながらクビライ陣営にも訃報が届いていたようである)が、ウリヤンカダイの軍を回収するためそのまま長江を渡って対岸の鄂州を包囲した。3カ月クビライはこの地に留まり、南宋側と賈似道率いる部隊と停戦交渉を行った。

この最中にウリヤンカダイ軍はようやくクビライ側と連絡が取れるようになったため、クビライはモンケの名代として南宋遠征に加わった全軍に撤退命令を下し、ウリヤンカダイ軍と合流するため副官で正妃チャブイの甥にあたるバアトルを殿軍として残し、12月23日に翌年のクリルタイ開催を見越し鄂州を発ち、長江を渡って本拠地である北の上都開平府へ急行した。その後ウリヤンカダイ軍とバアトル率いる軍と合流したが、1260年3月に停戦の取り決め通りに両軍が船橋を掛けられた長江を渡ろうとしたところ、賈似道の軍から攻撃を受けた。損害そのものは軽微だった。

モンゴル帝国帝位継承戦争編集

ウリヤンカダイとバアトルの諸軍はクビライ選出のクリルタイから約4カ月後の1260年5月には上都開平府に到着した。同月、カラコルムクリルタイで選出されたアリクブケが大ハーンに即位。二人の大ハーンが並立すると、1260年以降にはクビライとアリクブケの間で皇位継承戦争が勃発するが、ウリヤンカダイはクビライを支持した。

晩年編集

これ以降のウリヤンカダイの事蹟は殆ど記録にないが、1262年山東の漢人軍閥の李璮の挙兵には、ジョチ・カサル家の王族のカピチ率いる討伐軍の後方部隊として息子のアジュを派遣するなどしている。 1271年(至元六年)に71歳で没した。

子孫編集

漢文史料の『元史』には闊闊帯(kuòkuòdài)と阿朮(āzhú)という2人の息子がいたことが記録されており、この2名はそれぞれ『集史』のكوكچو(kūkuchū)とآجو(ājū)に相当すると考えられている。

ココチュ/ココテイ編集

『集史』によると、スブタイ自らが率いていた「千人隊(ミンガン)」を継承したのはココチュであったという。このココチュは『元史』に記される「都元帥ココテイ」と同一人物とみられ、李璮の鎮圧鎮圧直後に陣没した[1]。死後、その地位は兄弟のアジュに引き継がれた[2]

アジュ編集

南宋遠征の副将格として活躍し、南宋の平定に大きな功績を残した。

ウリヤンカン部スブタイ家編集

脚注編集

  1. ^ 『元史』巻5世祖本紀2,「[中統三年九月]癸酉、都元帥闊闊帯卒於軍、以其兄阿朮代之、授虎符、将南辺蒙古・漢軍」
  2. ^ 堤1992,36頁

参考文献編集

  • 植松正『元代江南政事社会史研究』汲戸書院、1997年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 堤一昭「元代華北のモンゴル軍団長の家系」『史林』75号、1992年
  • 堤一昭「元朝江南行台の成立」『東洋史研究』第54巻4号、1996年
  • 堤一昭「大元ウルスの江南駐屯軍」『大阪外国語大学論集』第19号、1998年
  • 堤一昭「大元ウルス江南統治首脳の二家系」『大阪外国語大学論集』第22号、2000年
  • 元史』巻121列伝18
  • 新元史』巻122列伝19
  • 蒙兀児史記』巻29列伝11