エクセター (重巡洋艦)

HMS Exeter after refit 1941 IWM A 3553.jpg
エクセター
艦歴
発注 デヴォンポート造船所に1928年3月15日発注
起工 1928年8月1日
進水 1929年7月18日
就役 1931年7月27日
退役
その後 1942年3月1日に戦没
除籍
性能諸元
排水量 基準:8,390トン
満載:10,410トン
全長 175.25m(p/p:575ft
水線長 164.6m(p/p:540ft)
全幅 17.67m(58ft)
吃水 6.17m(17ft)
機関 アドミラリティ式重油専焼三胴型水管缶8基
+パーソンズギヤード・タービン4基4軸推進
最大出力 80,000hp
最大速力 32.5ノット
航続性能 14ノット/10,000海里
燃料 重油:1,900トン
乗員 620名
兵装 Mark VIII 20.3cm(50口径)Mk.II 連装砲3基6門
Mk.V 10.2cm(45口径)単装高角砲4基4門
ヴィッカース Mk.III 12.7mm(50口径)単装機銃8基
53.3cm(21インチ)三連装魚雷発射管2基
装甲 舷側:
76mm(機関区水線部)
89mm(前後隔壁)
甲板:
25〜38mm(主甲板)
主砲バーベット
25mm(最厚部)
砲塔:
38〜51mm
主砲弾薬庫:
64〜127mm(最厚部)
水密隔壁:
89mm(最厚部)
司令塔:
-mm
航空兵装 なし
(1932年に水上機:2 機
カタパルト:固定式2基)
レーダー 279型(対空警戒)

エクセター (HMS Exeter, 68) は、イギリス海軍重巡洋艦[注釈 1]ヨーク級。艦名はデヴォン州エクセターに因む。 エクセターの名を持つ艦としては4隻目にあたる。 日本語ではエクゼター[2][3]エキゼター[4]エキセターと表記することもある[注釈 1][注釈 2]

第二次世界大戦の初期、ラプラタ沖海戦ドイツ海軍 (Kriegsmarine) のポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee) に損傷を与えて勝利に貢献したが、自らも損傷した[6]太平洋戦線に転戦後の1942年(昭和17年)2月下旬、スラバヤ沖海戦日本海軍重巡洋艦および水雷戦隊と交戦して損傷する[7]ジャワ島から撤退中の3月1日、エクセターは護衛の駆逐艦2隻(エンカウンターポープ)と共に日本海軍水上部隊と遭遇[8]、砲雷撃戦の末に3隻とも撃沈された[9]

概要編集

エクセターはイギリス海軍の1927年度海軍計画において1隻の建造が認められ、建造・就役した重巡洋艦だが、イギリス海軍における最後の重巡洋艦となった。エクセターと姉妹艦のヨーク (HMS York, 90) はそれまでの英連邦重巡洋艦の8インチ主砲8門(連装砲塔4基)とは異なり、8インチ主砲6門(連装砲塔3基)を装備した[10]。これは1921年 - 1922年におけるワシントン海軍軍縮条約による保有トン数量の制限の影響である[11]。本艦の発注は、ヨークの2年後であった。

艦形編集

 
1941年の修理後に撮られたエクセター。10.2cm単装高角砲が連装砲架4基となり、艦橋に遮風枠が設置されている。
 
1942年2月頃に撮られたエクセター。

エクセターの設計にあたっては、ヨークをタイプシップとして既存のカウンティ級で得られた運用実績により実戦的な設計がなされ、従ってエクセターの設計はヨークでの経験を踏まえた改良が組み込まれた。トップウェイトの増加に合わせて艦幅は1フィート広げられた。就役後に船首楼の側壁を魚雷発射管の手前まで伸ばし、居住空間を増した。

前後に長い艦橋の形状はより低くされ、水面から16 m 以内に抑えられた。ボイラーからの排煙管はボイラー室後方に収められ、ヨークでは傾斜した煙突が必要だったのが、エクセターだけは艦橋から離れた位置に直立した煙突を装備し、排気の確実な排気ができるようになった。その結果マストは直立し、後方の煙突は太くなった。

8インチ主砲塔の天板はヨークで考えられたカタパルトの装着には不適であったため、エクセターでは就役後に2番煙突の後方に航空施設を設け、中心線から斜め45度の角度で2基のカタパルトを埋没させた。この工夫により、風向きに関係なく水上機を発艦させることができた。水上機の運用には右舷にクレーンを装着した。

就役後の1941年の大修理の際に艦橋に遮風装置が付けられ、前後のマストを三脚型とし、新たに搭載した279型レーダーアンテナを設置した。また、1番煙突の側面にあった10.2 cm 単装高角砲4基が撤去されて、新型の10.2 cm 連装高角砲を艦橋と1番煙突の側面に1基ずつ計4基とした。

機関編集

搭載機関には重巡洋艦と同じく、ボイラーはアドミラリティ三胴式重油専焼水管缶8基、タービン機関はパーソンズ式オール・ギヤードタービンを4基4軸合計で最大出力80,000 shp で最大速力は32.5ノットを発揮した。

機関配置は前大戦時の装甲巡洋艦のように艦首側に缶室、艦尾側に機関室(推進機室)を配置する全缶全機方式であった。カウンティ級においては3本煙突であったが、追い風時に排煙が艦橋にかかるのを防ぐために前側2基と中央部の4基の排煙を1番煙突に導いたために煙突の本数は2本であった。

防御編集

舷側防御は機関区のみを防御する物で、高さ4 m の装甲板がもっとも厚い箇所が76 mm で、末端部は25 mm へとテーパーしており、前後隔壁の89 mm 装甲と接続されていた。

弾薬庫は舷側防御とは別個で、側盾が127 mm で前後隔壁と天蓋が76 mm であった。主砲塔は最厚部で25 mm でしかなく、バーベットは最厚部で19 mm である。水平防御は主甲板の平坦部が25 mm で傾斜部は38 mm であった。

機関区を守るだけの短い範囲内のみで艦首から艦橋脇、後檣から艦尾までの広範囲は無防御であり、その防御様式の正当性は実戦で証明された。

弾薬庫は艦中央部にあったものが艦前方および後方に分散配置され、「ボックス・シタデル(箱砲郭)」で守られた。10.2 cm 副砲兼高角砲は弾薬庫の移動に合わせて、容易に給弾できるよう前方に移動した。ラプラタ沖海戦ではこの強化された増設装甲帯がエクセターを助けたと考えられている。

武装編集

艦名 主砲 対空火器 備砲 機関砲 近接火器 雷装 レーダー その他
エクセター 20.3cm(50口径)連装速射砲3基 10.2cm(45口径)単装高角砲4基 4.7cm(40口径)単装機砲4基 4cm(39口径)単装ポンポン砲2基 なし 53.3cm魚雷発射管三連装2基 なし 1932年にカタパルトとフェアリー III型水上機搭載
エクセター(1933) 撤去 なし なし
エクセター(1935年) 12.7mm(62口径)四連装機銃2基 なし (1937年に水上機がウォーラス水上機に更新
エクセター(1939年) 撤去 なし
エクセター(1941年) 10.2cm(45口径)連装高角砲4基 4cm(39口径)八連装ポンポン砲2基 279型レーダー搭載

艦歴編集

エクセターはデヴォン州プリマスデヴォンポート造船所1928年(昭和3年)8月1日に起工し、1929年(昭和4年)7月18日に進水1931年(昭和6年)7月27日に竣工した。

1932年(昭和7年)には艦中央部の上部デッキに装甲が追加され、煙突後部に作業スペースが形成され、フェアリー III型水上機2基が搭載された。1935年(昭和10年)には.50"/62ヴィッカース機関銃が多数増設された。1937年(昭和12年)に水上機(偵察機)がスーパーマリン ウォーラス飛行艇に更新された。

 
ラプラタ沖海戦でのエクセターを描いた絵画。
 
スラバヤ沖海戦にて日本海軍の攻撃を受けるエクセター。

1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦が勃発すると、F.S.ベル艦長が指揮するエクセターは[注釈 2]、重巡カンバーランド (HMS Cumberland, 57) や軽巡2隻(エイジャックス、アキリーズ)と共に南アメリカ戦隊(G部隊)を形成した[12]イギリス海軍任務部隊一覧[13]。G部隊(ヘンリー・ハーウッド英語版代将)はフォークランド諸島に拠点を置いていた[14]

12月初旬、ハーウッド代将はドイツ海軍 (Kriegsmarine) のポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee) が南アメリカラプラタ河口に出現すると推理した[15]。ハーウッド代将は分散中のG部隊各艦に集合を命じ、修理中のエクセターにもフォークランド諸島からの出撃を下令する[15]12月12日午前7時、G部隊3隻(エイジャックス、アキリーズ、エクセター)はラプラタ川河口東方150マイルに集結した[16]

12月13日、軽巡エイジャックス (HMS Ajax, 22)、アキリーズ (HMNZS Achilles, 70) と共にラプラタ沖海戦でアドミラル・グラーフ・シュペーと交戦した[注釈 3]。 当初、シュペー側はイギリス側戦力を巡洋艦1隻とJ級駆逐艦2隻と誤認したので、相手が重巡1隻と軽巡2隻と気付いた時には逃げられなかった[18]。 砲火力で劣るイギリス巡洋艦3隻は、数的優勢と機動力でドイツ豆戦艦に対抗する[注釈 4]。 エクセターはエイジャックス(ハーウッド代将旗艦)[注釈 3]やアキリーズと別れてグラーフ・シュペーに攻撃をおこない、20㎝砲を何発か命中させた[2]。発射した魚雷は命中しなかった[20]。だがシュペーの反撃により、エクセターもひどく損傷する[13]。シュペーが発射した11インチ砲弾7発の直撃を受けた[21]。61名が死亡、23名が負傷[22]。艦橋を破壊され、各所で火災が発生、全ての8インチ砲塔が破壊されるか故障し、浸水で左舷に10度傾斜し速度も18ノット(33 km/h)に低下する[22]。最後の手段としてベル艦長はエクセターによるグラーフ・シュペーへの体当たりを決意したが、エイジャックスとアキリーズがシュペーの注意をひきつけたので「特攻」は未然に終わった[22]

後退を余儀なくされたエクセターはフォークランド諸島ポートスタンリーで応急処置を受け、イギリス本国に戻る[21]。その後1940年(昭和15年)2月から1941年(昭和16年)3月までかかってデヴォンポートで修理が行われた。エクセターが大口径砲の直撃を受けながらも沈没しなかったのは、乗組員によるダメージコントロールの努力と設計上の改良によるものであった。この時に対空火器が強化され、279型レーダーも装備された。なおベル艦長の後任としてエクセター艦長に補職されたベケット大佐は、修理完成直前に急死した。そこでオリバー・ゴードン大佐がエクセター艦長に任命された。

 
スラバヤ沖海戦で撃沈されたエクセター。

1941年に艦隊に復帰すると、エクセターも大西洋での船団護衛任務に就いた。その中にはドイツの戦艦ビスマルク (Bismarck) 追撃戦の間に行われた中東に向かうWS-8B船団の護衛を含む。7月、エクセターは極東へ向かった[23]。イギリスは東インド戦隊 (East Indies Squadron) と中国艦隊 (The China Station) を統合し、東洋艦隊 (East Indies Fleet) を新編する[23]

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争開戦により、大日本帝国枢軸国として参戦した[23]日本陸軍日本海軍南方作戦を発動し、東南アジアに侵攻する。イギリス東洋艦隊は緒戦のマレー沖海戦主力艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズレパルス)を失い、巡洋艦で日本軍に対抗することになった[注釈 5]。シンガポール脱出後のエクセターは、日本軍の侵入からオランダ領東インド諸島防衛を意図したオーストラリアイギリスオランダアメリカによる四国連合艦隊(ABDACOM)の一部を形成した[7]

マレー作戦比島作戦に勝利した日本軍は、ジャワ島スマトラ島攻略を目指して蘭印作戦を発動した[24]1942年(昭和17年)2月15日、エクセターはABDA連合艦隊(司令官ドールマン提督、旗艦デ・ロイテル)の指揮下、軽巡4隻(デ・ロイテル、ジャワトロンプホバート)、駆逐艦8隻と共にガスパル海峡を北上し、パレンバン方面の日本軍輸送船団攻撃に向かっていた[注釈 6]。日本軍偵察機は戦艦1隻(のちに航空偵察でホーキンス級重巡洋艦と訂正)、軽洋艦3隻・駆逐艦8隻と報告し、空母龍驤第四航空戦隊)艦上機および基地航空隊の一式陸上攻撃機九六式陸上攻撃機が反復攻撃を行った[25]。軽巡ホバート (HMAS Hobart) 等が軽微な被害をうけ[26]、エクセターも水上偵察機が破損したという。航空機の援護のないABDA連合艦隊は反転・避退した[27]

2月27日、エクセターはスラバヤ沖海戦[28]Battle of the Java Sea) に参加した[4]。ABDA部隊の多国籍巡洋艦は、デ・ロイテル(オランダ)、エクセター(イギリス)、ヒューストン(アメリカ)、パース(オーストラリア)、ジャワ(オランダ)の単縦陣を形成していたという[29]。第五戦隊(司令官高木武雄少将)、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)、第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将)と交戦中、おそらく第五戦隊(重巡羽黒)の20㎝砲弾が命中した[30]。直撃弾によりボイラー室が損傷して速力が15ノットに低下する[31]。後続艦は衝突を避けようとして針路を変更し[7]、さらに旗艦の意図が麾下艦艇に伝わらず、ABDA部隊の陣形が乱れる[32]。本艦は軽巡パース (HMAS Perth, D29) が展開した煙幕に覆われて窮地をのがれ、ドールマン少将(旗艦デ・ロイテル)よりスラバヤへの後退を命じられた[33]。また海戦の最中でエクセターを掩護した連合軍駆逐艦3隻(エレクトラ、エンカウンター、ジュピター)のうち[33]、駆逐艦エレクトラ (HMS Electra, H27) が佐藤康夫司令が指揮する第9駆逐隊(朝雲峯雲)と交戦して撃沈されている[34]

エクセターは駆逐艦2隻(エンカウンター、ヴィテ・デ・ウィット)に護衛されてスラバヤに戻った[35]。 生き残ったABDA艦隊残存艦のうち、アメリカ駆逐艦4隻はバリ海峡を通過し[36]バリ島沖合で警戒していた第21駆逐隊(若葉子日初霜)と測量艦筑紫を振り切って[35]オーストラリアへ脱出した[37]。だがエクセターは吃水が深くてバリ海峡を通過できず、ロンボク海峡は日本軍の警戒が厳しいと思われたので、バタビアからスンダ海峡を経由して脱出する航路を選んだ[38][注釈 7]

エクセターは辛うじて23ノットを出せるようになり[37]2月28日夜のうちにスラバヤを出発した[42]。エクセターが搭載していた飛行機は、陸上戦闘機のブリュースター"バッファロー"であったという[43]。 スンダ海峡に達した3月1日午前中、エクセター部隊(重巡エクセター、駆逐艦エンカウンター、ポープ)はオランダの病院船オプテンノール (Op Ten Noort) を捜索していた日本海軍の駆逐艦(第7駆逐隊)と遭遇、砲撃戦となった[44][45]。続いて偵察機に誘導された重巡洋艦2隻(第五戦隊高木武雄少将:那智羽黒)と駆逐艦2隻(山風江風)が出現する[46]。弾薬の不足していた第五戦隊は第三艦隊(司令長官高橋伊望中将)直率の重巡2隻(足柄妙高)と駆逐艦2隻()の援軍を要請し、第五戦隊と第三艦隊の両者でエクセター部隊を挟撃した(第2次ジャワ海海戦[8][47][48]。 圧倒的不利な情勢下でエクセター部隊は粘り強く戦ったが[49]、やがて砲撃雷撃の集中攻撃を受けたエクセターは右に大きく傾き始め[50]、13時30分に沈没した[51]。 さらに日本艦隊の追撃と空母龍驤が放った九七式艦上攻撃機等の支援により[52][注釈 8]、エクセターを護衛していたイギリス駆逐艦エンカウンター (HMS Encounter) 、アメリカ駆逐艦ポープ (USS Pope, DD-225) も撃沈された[54][注釈 9]

なおエクセターの沈没時、妙高偵察機が[55]、駆逐艦による雷撃とエクセター被雷の瞬間、および沈没を写真撮影した[56]。この写真[57]写真週報第215号に掲載された[9]大本営海軍報道部はエクセターがラプラタ沖海戦で自沈に追い込んだポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー (Admiral Graf Spee) の仇を討ったと宣伝している[9]

この日、駆逐艦天津風(第16駆逐隊)が病院船オプテンノール護送のため戦闘海域を航行していた[44]。するとABDA艦隊沈没艦の生存者多数を発見、所属する第二水雷戦隊の旗艦神通(司令官田中頼三少将)に救助を依頼すると漂流者に対し「別に救助船が来る」と英語で知らせ、その場を去った[44][58]。 その後、エクセターの艦長のO・L・ゴードン大佐を含む798名の連合軍将兵は日本海軍により救助され、各艦によってボルネオ島バンジャルマシンに連行されていた病院船オプテンノールに引き渡された[59](救助詳細は、工藤俊作 (海軍軍人)電 (吹雪型駆逐艦)などを参照)[60]。エクセターの料理人は腕利きで、重宝されていたという[61]。また山風に救助されていたエクセターの乗組員67名は、マカッサルでオランダ軽巡ジャワ (Hr. Ms. Java) の生存者と共に海軍陸戦隊へ引き渡された[62][63]

この救助の時の事を、雷艦長伝令だった佐々木氏は「流石イギリス海軍士官」と思ったといい、次のように回想している。

「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が『エクセター』副長(安全確認のため、艦長よりも先に上がった)、次に『エクセター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。」「当初『雷』は自力で動ける者を先に上げ、重傷者は後回しにしようとしたのですが、彼らは頑として応じませんでした。その後私は、ミッドウェー海戦戦艦『榛名』乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、これと対照的な情景を目にしました」[64]

原為一(当時、天津風駆逐艦長)も、オプテンノール(天応丸)におけるエクセター艦長の紳士的な態度について回想している[61]

創作への影響編集

1956年のイギリス映画、『ラプラタ沖海戦英語版(邦題:戦艦シュペー号の最後)』では、エクセターとしてフィジー級軽巡洋艦の軽巡洋艦ジャマイカ (HMS Jamaica, 44) が用いられ、ベル艦長はジョン・グレックソンが演じた。

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ a b 一等巡洋艦 “ノーフオルク Norfolk[1] 全要目{排水量9,850噸 速力32.25節 備砲20糎砲8門 10糎高角砲4門 魚雷發射管8門(53糎水上4聯装) 起工1926年2月 竣工1930年4月 建造所ポーツマス海軍工廠} 同型艦“デボンシヤイアー Devonshire” “シュロツプシヤイアー Shropshire” “サセックス Sussex” “ロンドン London” “ドーセツトシヤイア Dorsetshire
    この型は概ね1929年乃至30年竣工のもので現在英國海軍の第一線巡洋艦として重きをなしてゐる。特に英國海軍の一等巡洋艦は艦内の居住設備と航續距離に於ては列強巡洋艦中最も考慮されてゐる。兵装としては上記の外に3ポンド砲4門と小砲16門を有す。尚英國海軍には一等巡洋艦は以上記述した外に“ヨーク York”及び“エキセター Exeter”の2隻があり、現有量合計は19隻、その排水量合計183,396噸。而してロンドン條約に得たる保有量は15隻146,800噸である。
  2. ^ a b 獨艦スペーの行動[5] 一九三九年九月三十日、イギリスの汽船クレメントは、ブラジル沖のペルナンプコ附近で打沈められた。/ この報に接したイギリスの海軍省は、翌三十一日、同方面の英國汽船に警報を發して、ドイツの通商破壊艦が南米の東海岸沖に出没しつゝあることを知らせた。この警報には、ドイツの通商破壊艦が何艦であるかについては、何も語るところはなかつたが、これにも拘らず、右のクレメント號の乗員達が上陸した十月二日には、イギリスの或新聞は、右の獨艦を「豆戰艦」であると書いたものもある。/ この事件について、英國海軍省が、どんな處置をとつたかについては、われわれは知るところはない。たゞ組織だつた捜索が行はれてゐることと、南米の東岸沖には、代将(後に少将となる)サー・ヘンリー・ハーウードの指揮する三隻の英國巡洋艦があることだけはわかつてゐた。/ この三隻といふのは、ハーウード司令官の旗艦アヂャックス(艦長ウードハウス大佐、七〇〇〇噸、三十二節半、六吋砲八門)と、同艦の姉妹艦で新西蘭艦隊の一艦アキレス(艦長バーリー大佐)、並に、開戰と同時に再就役したエキセター(艦長ベル大佐)である。この三隻のうちで、エキセターは最大の巡洋艦で、八四〇〇噸、三十二節、六門の八吋砲をつんでゐた。
     ところで、ドイツ豆戰艦の脅威といふことは、極めてあり得べきことであつた。ドイツは、さういふものを三隻も持ってゐる。これ等は何れも噸數は一萬噸で、二十六節の速力と、六門の十一吋砲、八門の五.九吋砲をもつてゐる。この艦種は、どんな巡洋艦よりも大きな大砲をつみ、その防禦も良好で、現在の如何なる戰艦よりも大きい速力をもつてゐる。この豆戰艦より大なる大砲を有し、且優速をもつてゐるものは、イギリスの巡洋戰艦フードリナウンレパルスの三隻と、フランスの戰艦ダンケルクストラスブールの二隻のみである。/ この豆戰艦の一隻アドミラル・グラフ・スペーは、その乗組員の一人が書いた日記によれば、八月の二十一日に、ドイツの軍港ウヰルヘルムスハーフエンを出てゐる。同艦は、それからデンマークとノルウェーの沿岸を傳ひながら、アイスランドとファロー群島の間を通つて、大西洋に出た。(以下略)
  3. ^ a b 敵艦見ゆ![17](中略)それからの四日間は、スペーは南西に航してプレート河口方面に向ふつた。艦長ラングスドルフ大佐は、同方面で英艦の一又は二隻位には出逢ふものと豫期したかも知れない。しかし同艦に収容されていた英人捕虜の語るところでは ― この人達は非常に自由を許されて喜んでゐた ― 乗組の水兵達は、自分の艦が天下無敵であること、英國軍艦の多くは既に打沈められてゐると考へてゐること、ドイツでは、英國巡洋戰艦のフード、レナウン、レパルスの三隻は、アーク・ロイヤルと同様、戰闘に適せない程度の大損害を蒙つてゐると信じてゐたといふことである。
     十二月十二日午前七時、アヂャックス、アキレス、エキセターの三隻は、プレート河口の東方百五十浬の集合地點で相會した。ハーウード司令官は、その日の大部を、麾下艦長に獨歡と會した場合にとるべき戰術を説明するのに費やした。司令官の方針は、各艦個々に行動しながら敵と接戰し、かくして味方の砲を有効に使用するにあつた。それが終ると、司令官は自ら三隻を率ひて、これを實地に行ふ演習までも行つた。/ 十三日の日が明けると、天候快晴、視界は充分で、申分のない日和であつた。海上には南西の微風があり、海は輕いうねりをあげてゐた。英艦隊はアヂャックスを先頭に、アキレス、エキセターとこれにつゞき、單縦陣をつくりながら、十四節の速力で東北東の方向に航進した。/ 午前六時十四分、左舷正横の水平線上に煤烟を認めた。直ちにエキセターを派遣してこれを險べさしたが、二分後になつて、同艦は「ドイツの豆戰艦らしい」と報告した。/ 敵はたうとう現れたのだ! 
  4. ^ 一四 英海軍今後の戰果[19](中略)ハーウツド少将の言によれば、モンテヴィエド沖のグラーフ・シュペー號との遭遇戰は、次の如くであつた。彼は、グラーフ・シュペー號が、もし機會を與へるならば、その強力なる火器により、英の三巡洋艦を撃破するものと觀測してゐた。シュペー號は十一吋砲六門を二つの砲塔に装備してゐる。從つて一薺に砲撃する方向は二つしかないわけである。これをよく知つてゐた少将は、單縦陣を以て進み、これに砲火を集中する際に、シュペー號の側面に出る作戰を取らなかつた。即ちその軍艦三隻を長距離に分散せしめたため、シュペー號は三方向への砲撃を必要とするに至り、行動上また射撃上非常な不利に陥つてしまつた。/ その戰果は著しいものであつた。これを見ても、近年の英國海軍の猛訓練振りが理解出來るわけであらう。そして戰局の判斷と、指揮者の決心も重大事項であり、この點も平素より熱心に演練してゐる。且つ英國は、國家總動員の體制に向つて居り、今後、海軍が如何なる戰果をもたらすか、興味ある問題であらう。
  5. ^ 木俣滋郎『連合軍艦艇撃沈す』(2013年)94頁では、エクセターが第4巡洋艦戦隊に所属していたと記述する[23]
  6. ^ 出撃時は駆逐艦10隻だったが、オランダ海軍駆逐艦ファンゲントオランダ語版が座礁沈没、乗組員収容のため駆逐艦バンケルトが残留した[3]
  7. ^ 先行してスンダ海峡通過を目論んだ豪州海軍軽巡パース (HMAS Perth, D29) と米海軍重巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CA-30) および蘭海軍駆逐艦エバンツェン (Hr.Ms._Evertsen) は、日本軍上陸船団と護衛部隊と遭遇[39]バタビア沖海戦)、3隻とも撃沈された[40][41]
  8. ^ 第十一航空戦隊の水上機母艦2隻(千歳瑞穂)からも攻撃隊が発進したが、戦闘終了までに間に合わなかった[53]
  9. ^ 3月1日の戦闘で、第三艦隊(足柄、妙高)は20cm砲弾1,171発(さらに足柄は12.7cm高角砲14発)、第五戦隊(那智、羽黒)は20cm砲弾288発、雷は12.7cm主砲279発、重巡4隻(那智、羽黒、足柄、妙高)は魚雷合計24本、駆逐艦3隻(雷、山風、江風)は魚雷合計11本を発射した[51]

出典編集

  1. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 86(原本154-155頁)一等巡洋艦ノーフオルク
  2. ^ a b 連合軍対ヒトラー 1971, pp. 30-31.
  3. ^ a b 戦史叢書26 1969, pp. 317-318連合軍の反撃成らず
  4. ^ a b ニミッツ 1962, pp. 36-39ジャヴァ海海戦
  5. ^ 独英海戦記 1941, pp. 11-16原本2-12頁
  6. ^ 英国はいつまで戦へるか 1941, pp. 63-64(原本114-116頁)八 シュペー號をめぐつて
  7. ^ a b c 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 95-96スラバヤ沖海戦
  8. ^ a b 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 97-99有力部隊に挟撃される
  9. ^ a b c #写真週報第215号 p.10〔 独逸海軍の仇 エクゼターを屠る スラバヤ沖海戰 撮影海軍省 スラバヤ沖の海戰に敵の聯合艦隊を撃滅した帝國海軍は世界戰史に誇る赫ゞの偉勲を大東亞海に打ち樹てたが、この輝かしい戰勝を物語る寫眞がこんど海軍省から發表された。寫眞は英巡洋艦『エクゼター』が先つわが砲撃に傾き、驅逐艦の發射した魚雷にあへなく轟沈された状況をわが○○機が空中から具さに撮影したものである(以下略) 〕
  10. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 91-92異色の条約型重巡
  11. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 92.
  12. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, pp. 14-15.
  13. ^ a b 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 50-52英巡洋艦部隊「シュペー」を捕捉
  14. ^ ヒトラーの戦艦 2002, p. 102.
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  19. ^ 英国はいつまで戦へるか 1941, pp. 71-72原本130-132頁
  20. ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 111-117三対一の戦い
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  47. ^ 雷海戦記 2014, pp. 186-193エクゼターの最後
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  50. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 99-101咆哮する二〇センチ砲
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  62. ^ #S1703五戦隊日誌(1) p.30〔 尚山風ヲシテ敵駆(H10)[(註)後日山風ノ捕虜トセシハエクセター乗員ニシテ5S指令ノH10ノ乗員ナラザリシコト判明セリ]ノ乗員67名(内士官6)ヲ捕虜トセシメタリ 〕
  63. ^ #S1703五戦隊日誌(2) p.35〔 3-3|5S(妙高欠)江風「セレベス」島南方経由「スターリング」湾ニ航行 山風「マカツサル」着収容中ノ俘虜ヲ佐聯特ニ引渡シ同日出港「バンジャルマシン」ニ向フ 〕
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参考文献編集

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.A06031044500『週報第283号(1942年3月11日号)』。
    • Ref.A06031081000『写真週報第215号(1942年4月8日)』。
    • Ref.C08030043000『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030043100『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
  • 木俣滋郎『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7
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  • 重本俊一(当時、妙高乗組)「第一章 南溟の砲戦」『落日の日本艦隊 体験的連合艦隊始末記』光人社〈光人社NF文庫〉、2014年7月。ISBN 978-4-7698-2841-9
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  • 橋本衛『特型駆逐艦「雷」海戦記 一砲術員の見た戦場の実相』光人社〈光人社NF文庫〉、2014年8月(原著1999年)。ISBN 978-4-7698-2255-4
  • 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7
  • リチャード・ハンブル 著、実松譲 訳「3 ポケット戦艦「シュペー」」『壮烈!ドイツ艦隊 悲劇の戦艦「ビスマルク」』サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫 26〉、1985年12月。ISBN 4-383-02445-9
  • ドナルド・マッキンタイア 著、関野英夫、福島勉 訳「第三章 国旗の名誉のために死ね〈グラフ・シュペー〉の最期 ― ラプラタ沖海戦」『海戦 ― 連合軍対ヒトラー ―』早川書房、1971年7月。
  • 「丸」編集部編「萱嶋浩一 重巡「那智」神技の砲雷戦を語れ」『巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9 萱嶋は海軍大尉、那智主砲発令所長。
  • 三神國隆「第1章 スラバヤ沖海戦とオプテンノール号」『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年1月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2443-2
  • 安永弘『死闘の水偵隊』朝日ソノラマ文庫、1994年。 著者は「妙高」偵察機操縦者として戦況を観測・報告した。
  • 安永弘『サムライ索敵機 敵空母見ゆ! 予科練パイロット3300時間の死闘』光人社、2002年。 朝日ソノラマ文庫の改訂


関連項目編集

外部リンク編集