エジプト王国
المملكة المصرية
ムハンマド・アリー朝
オスマン帝国領エジプト
1922年 - 1953年 エジプト共和国 (1953年-1958年)
イギリス・エジプト領スーダン
イタリア領リビア
エジプトの国旗 エジプトの国章
国旗国章
国歌: اسلمى يا مصر(アラビア語)
おお、エジプトを護れ
エジプトの位置
エジプト王国の位置(1923年)
:エジプト王国
薄緑:イギリス・エジプト領スーダン
黄緑:1934年にイタリア領リビアに割譲した地域
公用語 アラビア語
宗教 イスラム教
首都 カイロ
国王
1922年 - 1936年 フアード1世
1936年 - 1952年ファールーク1世
1952年 - 1953年フアード2世
首相
1922年 - 1922年アブドゥル・ハーリク・サルワト・パシャ
1924年 - 1924年サアド・ザグルール・パシャ
1952年 - 1953年ムハンマド・ナギーブ
面積
1937年[1]994,000km²
人口
1927年[1]14,218,000人
1937年[1]15,933,000人
1947年[2]19,090,447人
変遷
イギリスより独立 1922年2月28日
英埃同盟条約1936年8月27日
第一次中東戦争1948年 - 1949年
エジプト革命1952年7月23日
共和制に移行1953年6月18日
通貨エジプト・ポンド
現在 エジプト
エジプトの歴史

このテンプレートはエジプト関連の一部である。
年代については諸説あり。
エジプト先王朝時代 pre–3100 BCE
古代エジプト
エジプト初期王朝時代 3100–2686 BCE
エジプト古王国 2686–2181 BCE
エジプト第1中間期 2181–2055 BCE
エジプト中王国 2055–1795 BCE
エジプト第2中間期 1795–1550 BCE
エジプト新王国 1550–1069 BCE
エジプト第3中間期 1069–664 BCE
エジプト末期王朝 664–332 BCE
古典古代
アケメネス朝エジプト 525–404 BCE, 343-332 BCE
プトレマイオス朝 332–30 BCE
アエギュプトゥス 30 BCE–641 CE
サーサーン朝占領期英語版 621–629
中世
ムスリムによるエジプト征服英語版 641
ウマイヤ朝 641–750
アッバース朝 750–868, 905-935
トゥールーン朝 868–905
イフシード朝 935–969
ファーティマ朝 969–1171
アイユーブ朝 1171–1250
マムルーク朝 1250–1517
近世
オスマン帝国領エジプト 1517–1867
フランス占領期 1798–1801
ムハンマド・アリー朝 1805–1882
エジプト副王領英語版 1867–1914
近代
イギリス統治期英語版 1882–1953
エジプト・スルタン国英語版 1914–1922
エジプト王国 1922–1953
エジプト共和国 1953–1958
アラブ連合共和国 1958–1971
エジプト・アラブ共和国 1971–現在
エジプトの旗

エジプト王国(エジプトおうこく、アラビア語: المملكة المصرية‎, ラテン文字転写: Al-Mamlakah al-Miṣrayyah)は、現在のエジプト・アラブ共和国の地域を領土とし、1922年から1953年の間ムハンマド・アリー朝が支配していた王国である。エジプト革命により、共和制に移行されるまで存在した。

歴史 編集

ムハンマド・アリー朝の成立 編集

1805年ムハンマド・アリーオスマン帝国の属州エジプトの総督に就任し、マムルークなどの有力者を排除を行い、エジプトの支配体制を確立した。

1820年に後のスーダンに侵攻し、東部のフンジュ・スルタン国を滅ぼし、ダール・フール・スルタン国からコルドファンを奪い併合した。さらにギリシャ独立戦争の出兵の代償としてオスマン帝国にシリアの割譲を要求し、エジプト・トルコ戦争を起こし勝利するものの、列強諸国の介入により、ムハンマド・アリーは自らの子孫による総督の世襲を認めさせる代わりにシリアの割譲を諦めることになった。しかし世襲制を認められたことにより、ムハンマド・アリー朝が事実上成立した。

イギリスの保護国へ 編集

1869年スエズ運河が開通すると、エジプトの国際的な地位は高まった。しかし、スエズ運河の建設は財政上大きな負担となり、1876年にエジプトの財政は破綻し、イギリスフランスなどの列強諸国に管理されることになった。

1881年になると経済的な外国支配を打破すべく、アフメド・ウラービーらが民族運動(ウラービー運動、ウラービー革命ともいう)を展開する。これを危惧したイギリスは1882年に軍隊を派遣、これを鎮圧するとエジプトを占領した。これと並行して、スーダンにおいてマフディー戦争が勃発し、スーダンはエジプトからマフディーの支配へ移行した(イギリス・エジプト領スーダン)。

第一次世界大戦が勃発すると、イギリスはエジプトの保護国化を宣言、オスマン帝国から完全に分離させた。

第一次世界大戦後のエジプト 編集

1919年第一次世界大戦が終結し、エジプトは講和会議に独立のための使節を送ろうとしたが、イギリスの拒否により断念する。これにより、大戦以前からあった反英運動や独立運動がいっそう激しく行われるようになった。直接的な支配が不可能であると判断したイギリスは、1922年にエジプトを独立させることになった(エジプト革命)。

1923年に憲法を制定し、エジプトは立憲君主国となった。1936年イギリスと同盟条約を締結し、駐留イギリス軍の縮小に成功した。

第二次世界大戦とその後 編集

第二次世界大戦が勃発すると、1940年にエジプトはイタリア軍に侵攻されるが、1942年エル・アラメインの戦いバーナード・モントゴメリー率いる連合国軍エルヴィン・ロンメルが率いるドイツ・アフリカ軍団からなるドイツ・イタリア枢軸軍に勝利すると、独伊軍はエジプトから撤退、壊滅した。なお、この時のファルーク1世の連合国寄りの姿勢が、枢軸国派の将校が多かったエジプト軍内部の不満を高めた。

第二次世界大戦末の1945年3月にエジプトはシリアイラクヨルダンレバノンサウジアラビアイエメンに呼びかけ、アラブ連盟を結成した。1948年イスラエルが建国されるとアラブ諸国が宣戦布告第一次中東戦争が勃発した。しかし、「自国こそがアラブのリーダー」と自負したエジプトと同類であるイラク及びサウジアラビアなどと歩調が取れるはずもなく、1949年にイスラエルが勝利するとエジプトは敗戦国となった。こうして、エジプト王家に対する信頼は完全に失墜した。

エジプト革命 編集

1952年1月、エジプト各地で駐留イギリス軍が襲撃される事件が多発する。同年7月23日ムハンマド・ナギーブガマール・アブドゥル=ナーセル率いる自由将校団クーデターを決行した。7月26日ファールーク1世が退位し、幼いフアード2世を残してイタリアに亡命した。フアード2世が新たな国王に即位するものの、1953年6月19日に革命政権は王政の廃止と共和制移行を宣言し、エジプト革命は終結した。

歴代国王 編集

  1. フアード1世(在位:1922年 - 1936年
  2. ファールーク1世(在位:1936年 - 1952年
  3. フアード2世(在位:1952年 - 1953年

脚注 編集

  1. ^ a b c Bonné, Alfred (2003). The Economic Development of the Middle East: An Outline of Planned Reconstruction after the War. The International Library of Sociology. London: Routledge. p. 24. ISBN 978-0-415-17525-8. OCLC 39915162. https://books.google.com/books?id=hMFlGd1kbZQC&pg=PA24 2010年7月9日閲覧。 
  2. ^ Shousha, Aly Tewfik (1948). “Cholera Epidemic in Egypt (1947)”. Bulletin of the World Health Organization 1 (2): 371. ISSN 0042-9686. PMC 2553924. PMID 20603928. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2553924/. 

外部リンク 編集