エマニュエル・ピロ
エマニュエル・ピロ(Emanuele Pirro 、1962年1月12日 - )は、イタリア出身のレーシングドライバー。エマニュエーレ・ピッロなどと表記されることもある。5度のル・マン24時間レース優勝経験を持つ。
エマニュエル・ピロ | |
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基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 同・ローマ |
生年月日 | 1962年1月12日(57歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1989 - 1991 |
所属チーム | ベネトン, スクーデリア・イタリア |
出走回数 | 37 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 3 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1989年フランスGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1991年オーストラリアGP |
プロフィール編集
F1以前編集
11歳の時、カートレースでキャリアを開始。1977年にはイタリア・カートレースでチャンピオンとなった。1980年にイタリアFフィアット・アバルトに転向し、初年度でチャンピオンを獲得した。
翌1981年にはヨーロッパF3へのステップアップを果たし初年度から1勝を記録、これを含め1984年までの4年間の参戦で計6勝・4PP・3FLを記録。2年目の1982年のランキング2位が最高となった。
1985年・1986年はオニクス・グランプリから国際F3000に参戦し、計3勝・3PP・3FLを記録。世界ツーリングカー選手権では1986年・1987年の参戦で3勝を挙げた。
1988年より、マクラーレンF1チームのテストドライバーを務める一方、全日本F3000に参戦。最後のレースとなった1989年第4戦鈴鹿では、優勝を飾っている。
F1編集
1989年シーズン、ベネトンはアレッサンドロ・ナニーニとジョニー・ハーバートのコンビでシーズンを戦っていたが、前年国際F3000で負った足の傷の癒えぬハーバートが第6戦アメリカGPをもって解雇され、その後任としてピロが抜擢された。これに伴いピロは全日本F3000への参戦を切り上げ、第7戦フランスGPにてF1デビューを果たした。
しかしナニーニに対し大きく遅れを取り、予選では10戦9敗。決勝でもナニーニが初優勝を含め4度(ピロと組んだ後に限れば3度)表彰台に立ったのに対し、ピロは入賞も最終戦オーストラリアGPでの5位のみという成績に終わった。結果的には6戦のみの参戦であるハーバートに対しても、ポイント・最高位ともに下回った。
1990年はスクーデリア・イタリアに移籍した。ウイルス性腸炎で開幕2戦を欠場し、第3戦サンマリノGPから参戦するもリタイヤが多く、14レース中完走3回、最高位10位という成績でノーポイントに終わった。
1991年もスクーデリア・イタリアから参戦し、第4戦モナコGPでは6位に入賞した。このシーズンはジャッドV10エンジン搭載し、前年と比較すると戦闘力はアップしたマシンではあったがシーズン全体では苦戦、前半には3度の予備予選落ちも喫した。
結局、1991年をもってピロはF1のシートを失うこととなった。
F1後、ル・マンでの活躍編集
その後はスポーツカー・レースに転向し、1994年・1995年にはイタリア・ツーリングカー選手権、1996年はドイツのSTWカップでチャンピオンを獲得するなどの成績を残す。
特にル・マン24時間レースにおいては1999年からアウディを駆り参戦。2000年~2002年、2006年・2007年と5度に渡り優勝を経験している。
2010年アブダビグランプリ[1]、2011年マレーシアグランプリ、2013年韓国グランプリでレーススチュワードに任命された[2]。
レース戦績編集
アメリカン・ル・マン・シリーズ編集
年 | チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 順位 | ポイント |
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1999年 | アウディ・スポーツ・ノースアメリカ | アウディ・R8R | LMP | SEB 5 |
ATL |
MOS |
SON |
POR |
PET |
MON |
LSV |
52位 | 20 | ||||
2000年 | アウディ・R8 | LMP | SEB 1 |
NÜR 3 |
SON 2 |
MOS Ret |
TEX 1 |
POR 4 |
PET 2 |
MON 2 |
LSV 1 |
ADE 5 |
3位 | 232 | |||
アウディ・R8R | CHA 6 |
SIL 5 |
|||||||||||||||
2001年 | アウディ・R8 | LMP900 | TEX 2 |
SEB 2 |
DON 2 |
JAR 2 |
SON 2 |
POR 2 |
MOS 1 |
MON 4 |
MIA 1 |
PET 1 |
1位 | 202 | |||
2002年 | アウディ・R8 | LMP900 | SEB 5 |
SON 8 |
MID 1 |
AME 2 |
WAS 3 |
TRO 2 |
MOS Ret |
MON 1 |
MIA 1 |
PET 6 |
4位 | 206 | |||
2003年 | ADT チャンピオン・レーシング | アウディ・R8 | LMP900 | SEB 2 |
ATL |
SON |
TRO |
MOS |
AME |
MON |
MIA |
PET |
18位 | 22 | |||
2004年 | アウディ・R8 | LMP1 | SEB 2 |
MID |
LIM |
SON |
POR |
MOS |
AME |
PET |
MON |
13位 | 22 | ||||
2005年 | アウディ・R8 | LMP1 | SEB 2 |
ATL 3 |
MID 3 |
LIM 2 |
SON 1 |
POR 1 |
AME 1 |
MOS 3 |
PET 1 |
MON 2 |
1位 | 182 | |||
2006年 | アウディ・スポーツ・ノースアメリカ | アウディ・R10 TDI | LMP1 | SEB |
TEX |
MID |
LIM |
UTA 1 |
POR 2 |
AME 1 |
MOS 4 |
PET 5 |
MON 5 |
5位 | 80 | ||
2007年 | アウディ・R10 TDI | LMP1 | SEB 1 |
STP 2 |
LNB 2 |
TEX 2 |
UTA 2 |
LIM 4 |
MID 1 |
AME 2 |
MOS 2 |
DET 1 |
PET |
MON |
4位 | 175 | |
2008年 | アウディ・R10 TDI | LMP1 | SEB |
STP Ret |
LNB 2 |
UTA Ret |
LIM 3 |
MID 2 |
AME 2 |
MOS 2 |
DET DSQ |
PET 1 |
MON 2 |
3位 | 156 | ||
2010年 | ドレイソン・レーシング | ローラ・B09/60 | LMP1 | SEB 4 |
LNB |
MON Ret |
UTA 2 |
LIM |
MID |
AME |
MOS |
PET |
12位 | 46 |
ル・マン24時間レース編集
年 | チーム | コ・ドライバー | 車 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | マルティニ・レーシング | ベッペ・ガビアーニ | ランチア・ベータ・モンテカルロ | Gr.5 | 47 | DNF | DNF |
1998年 | ガルフ・チーム・ダビドフ | トーマス・ブシャー リナルド・カペッロ |
マクラーレン・F1 GTR | GT1 | 228 | DNF | DNF |
1999年 | アウディ・スポーツチーム・ヨースト | フランク・ビエラ ディディアー・セイス |
アウディ・R8R | LMP | 360 | 3位 | 2位 |
2000年 | アウディ・スポーツチーム・ヨースト | トム・クリステンセン フランク・ビエラ |
アウディ・R8 | LMP900 | 368 | 1位 | 1位 |
2001年 | アウディ・スポーツチーム・ヨースト | トム・クリステンセン フランク・ビエラ |
アウディ・R8 | LMP900 | 321 | 1位 | 1位 |
2002年 | アウディ・スポーツチーム・ヨースト | トム・クリステンセン フランク・ビエラ |
アウディ・R8 | LMP900 | 375 | 1位 | 1位 |
2003年 | チャンピオン・レーシング | ステファン・ヨハンソン J.J.レート |
アウディ・R8 | LMP900 | 372 | 3位 | 1位 |
2004年 | ADT チャンピオン・レーシング | J.J.レート マルコ・ヴェルナー |
アウディ・R8 | LMP1 | 368 | 3位 | 3位 |
2005年 | ADT チャンピオン・レーシング | フランク・ビエラ アラン・マクニッシュ |
アウディ・R8 | LMP1 | 364 | 3位 | 3位 |
2006年 | アウディ・スポーツチーム・ヨースト | フランク・ビエラ マルコ・ヴェルナー |
アウディ・R10 TDI | LMP1 | 380 | 1位 | 1位 |
2007年 | アウディ・スポーツチーム・ヨースト | フランク・ビエラ マルコ・ヴェルナー |
アウディ・R10 TDI | LMP1 | 369 | 1位 | 1位 |
2008年 | アウディ・スポーツ・ノースアメリカ | フランク・ビエラ マルコ・ヴェルナー |
アウディ・R10 TDI | LMP1 | 367 | 8位 | 8位 |
2010年 | ドレイソン・レーシング | ポール・ドレイソン ジョニー・コッカー |
ローラ・B09/60-ジャッド | LMP1 | 254 | NC | NC |
ドイツツーリングカー選手権編集
年 | チーム | 使用車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2004年 | アウディ・スポーツ・チーム・アプト | アウディ・A4 DTM 2004 | HOC1 7 |
EST 11 |
ADR 9 |
LAU 6 |
NOR 9 |
NÜR 11 |
OSC 15 |
ZAN 7 |
BRN 5 |
HOC2 Ret |
11位 | 11 |
エピソード編集
- 好物の1つに寿司があった。
- 仲の良いドライバーの1人にパオロ・バリッラがいた。
- 1991年のサンマリノGP予備予選において、トラブルが出たチームメイトのJ.J.レートにTカーを貸したところ、レートは予備予選を通過し、自分は終了直前に5位に落ち(4位までが予備予選通過)不通過となった。貧乏くじをひいたピロは、憤りからか決勝を待たず帰宅。決勝におけるレートの3位表彰台を現場で見届けることはなかった(レートは大喜びでピロの肩を叩き、ピロは苦笑していた)。
- 続く第4戦モナコGP予選では、クレーンでの移動の際壁にヒットさせるというマーシャルの不手際により、レートのマシンが破損。この際ピロは前戦と異なり、レートにTカーを貸すことを拒否したという。
- 1990年に入院した原因は、他のカテゴリーに出場してたからとも言われていた。
脚注編集
- ^ “Pirro to be F1 steward in Abu Dhabi”. Yalla F1.com. (2010年11月10日) 2011年5月11日閲覧。
- ^ “Pirro to steward in Malaysia this weekend”. Yalla F1.com. (2011年4月6日) 2011年5月11日閲覧。
関連項目編集
先代: ピエルルイジ・マルティニ ヤニック・ダルマス ヨアヒム・ヴィンケルホック |
ル・マン24時間優勝者 2000 with: フランク・ビエラ トム・クリステンセン |
次代: フランク・ビエラ トム・クリステンセン エマニュエル・ピロ |
先代: フランク・ビエラ トム・クリステンセン エマニュエル・ピロ |
ル・マン24時間優勝者 2001 with: フランク・ビエラ トム・クリステンセン |
次代: フランク・ビエラ トム・クリステンセン エマニュエル・ピロ |
先代: フランク・ビエラ トム・クリステンセン エマニュエル・ピロ |
ル・マン24時間優勝者 2002 with: フランク・ビエラ トム・クリステンセン |
次代: トム・クリステンセン リナルド・カペッロ ガイ・スミス |
先代: J.J.レート マルコ・ヴェルナー トム・クリステンセン |
ル・マン24時間優勝者 2006 with: フランク・ビエラ マルコ・ヴェルナー |
次代: フランク・ビエラ マルコ・ヴェルナー エマニュエル・ピロ |
先代: フランク・ビエラ マルコ・ヴェルナー エマニュエル・ピロ |
ル・マン24時間優勝者 2007 with: フランク・ビエラ マルコ・ヴェルナー |
次代: リナルド・カペッロ アラン・マクニッシュ トム・クリステンセン |