エミー・シャルロッタ・アクテ(Emmy Charlotta Achté, 旧姓ストレメル (Strömer), 1850年11月14日1924年12月2日)は、フィンランド国立オペラ英語版で初のプリマドンナを務めたフィンランドメゾソプラノ歌手。1873年から1879年にかけてヘルシンキで歌唱し、劇的な役を得意とした。40年以上にわたって歌唱指導を行い、ヘルシンキ音楽院にオペラの講座を開設している[1][2]

エミー・アクテ
Emmy Achté
基本情報
生誕 1850年11月14日
フィンランド大公国の旗 フィンランド大公国オウル
死没 (1924-12-02) 1924年12月2日(74歳没)
 フィンランドヘルシンキ
ジャンル クラシック
職業 メゾソプラノ歌手

生涯 編集

オウルにエミー・ストレメルとして生まれ、ヘルシンキでエミリー・メケリン(Emilie Mechelin)の下で歌唱を学んだ。1869年から1873年にはストックホルムでフレドリカ・ステーンハンマル(1838年-1880年)に、パリでジャン=ジャック・マセに師事した[1][3]。1875年にフィンランド国立オペラの指揮者であったロレンス・ニコライ・アクテ英語版と結婚する[4]

カールロ・ベルグボム英語版が1873年にフィンランド国立オペラを創設すると、アクテはそこで1879年までの間のあらゆる主要なメゾソプラノの役を歌った。『イル・トロヴァトーレ』のアズチェーナ、『ユグノー教徒』のヴァランティーヌ、『魔笛』のパミーナなどである[2]。また、フィンランド、スウェーデンノルウェードイツでコンサートを開き、1878年にはヨーテボリのオペラ劇場で客演スターとして歌唱を披露している。アクテは1874年から40年以上務めた歌唱指導者としても記憶される[1]。1880年代のはじめにはドレスデンに赴き、オイゲン・ヒルダッハの下でさらなる研鑽を積んだ[2]。1892年にシベリウスクレルヴォ交響曲を歌っており[5]、1896年には『塔の乙女』の女城主役も演じている[6]

アクテは夫が運営していたカントル=オルガニスト学校で教員を務めた。1900年に夫に先立たれると1922年まで彼女自身が同校を率いた。1910年から1913年の間には私設のオペラ学校を経営、1912年にヘルシンキ音楽院にオペラの講座を開設した[1]。1910年からはヘルシンキのスウェーデン劇場英語版で劇と歌の指導に当たり、1912年からは数々のオペラの監督を務めた[7]

国際的な名声を博したオペラ歌手のアイノ・アクテイルマ・テルヴァニは彼女の娘である。1924年12月2日にヘルシンキで生涯を終えた[1]

出典 編集

  1. ^ a b c d e Hillila, Ruth-Esther; Hong, Barbara Blanchard (1997). Historical Dictionary of the Music and Musicians of Finland. Greenwood Publishing Group. pp. 3–. ISBN 978-0-313-27728-3. https://books.google.com/books?id=iUQDFlj1ykkC&pg=PA379 
  2. ^ a b c Emmy Ackté 60 år” (スウェーデン語). Nya Pressen (1910年11月14日). 2017年6月23日閲覧。
  3. ^ Achté, Emmy Charlotta” (スウェーデン語). Nordisk familjebok (1904年). 2017年6月24日閲覧。
  4. ^ Lorenz Nicolai Achté”. Geneanet. 2017年6月24日閲覧。
  5. ^ Sirén, Vesa (principal editor) (2005年7月3日). “Jean Sibelius, The Music – Kullervo”. The Sibelius Project. 2012年10月16日閲覧。
  6. ^ Jungfrun i tornet (The Maiden in the Tower), one-act opera”. Jean Sibelius. 2017年6月24日閲覧。
  7. ^ Achté, E. Ch.” (スウェーデン語). Nordisk familjebok: supplement. p. 23 (1922年). 2017年6月24日閲覧。