ヘリオガバルス

エラガバルスから転送)

マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスラテン語: Marcus Aurelius Antoninus Augustus[1]203年3月20日 - 222年3月11日)は、ローマ帝国第23代皇帝で、セウェルス朝の第3代当主。ヘリオガバルスHeliogabalus )、またはエラガバルスElagabalus )という渾名通称で呼ばれることが多く、これはオリエントにおけるヘーリオス信仰より派生した太陽神エル・ガバル(「山の神」の意)を信仰したことに由来する[2]。歴史上最古の著名なトランスジェンダーであったとされる。

ヘリオガバルス(エラガバルス)
Heliogabalus (Elagabalus)
ローマ皇帝
Bust of Elagabalus - Palazzo Nuovo - Musei Capitolini - Rome 2016 (2).jpg
「ヘリオガバルス胸像」(カピトリーノ美術館所蔵)
在位 218年6月8日 - 222年3月11日
別号 ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス
Varius Avitus Bassianus

全名 カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス
Caesar Marcus Aurelius Antoninus Augustus
出生 203年3月20日
エメサ(現在のシリア・アラブ共和国・ホムス
死去 222年3月11日
ローマ
継承 アレクサンデル・セウェルス
配偶者 ユリア・コルネリア・パウラ
  アクウィリア・セウェラ
  アンニア・アウレリア・ファウスティナ
  ヒエロクレス(男性)
子女 アレクサンデル・セウェルス従弟・養子)
王朝 セウェルス朝
父親 セクストゥス・ウァリウス・マルケルス
母親 ユリア・ソエミアス・バッシアナ
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セウェルス朝の初代皇帝セプティミウス・セウェルス外戚にあたるバッシアヌス家出身のシリア人で、元の本名はウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌスVarius Avitus Bassianus)といった。セウェルスの長男であったカラカラ帝が暴政の末に暗殺されるとバッシアヌス家もまたローマより追放されたが、彼の母ユリア・ソエミアス英語版は密かにセウェルス朝復権の謀議を画策した[注釈 1]。血統上、カラカラ帝の従姉にあたるソエミアスは自身が夫との間にもうけた子息アウィトゥス(ヘリオガバルス)が先帝カラカラの隠し子であると主張して反乱を起こした。戦いは既に帝位にあったマクリヌス側の敗北に終わり、セウェルス朝復権を名目としてわずか14歳のヘリオガバルスが皇帝に即位した。

しかし、彼の統治はしばしば今までも登場した暴君達の悪名すらも越える、ローマ史上最も異常な君主として記憶されている。ヘリオガバルスは放縦と奢侈に興じ、性生活に耽溺し、しかもその性癖は倒錯的で常人には理解し難いものであった[4]。また、宗教面でも従来の慣習制度を無視してエル・ガバルを主神とするなど奇抜な政策を行った。

ヘリオガバルスの異常な性生活についての話題は、彼の政敵によって誇張された部分があるとみられているが[5]、後世の歴史家からも情事にふけって政治を顧みなかった皇帝としてあまり評判はよくない[4][6]。『ローマ帝国衰亡史』で知られる18世紀イギリスの歴史家エドワード・ギボンにいたっては「醜い欲望と感情に身を委ねた」として「最悪の暴君」との評価を下している[7]19世紀前半のドイツの歴史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブールもまた、主著『ローマ史』のなかでヘリオガバルス帝の異常性について言及している[8][注釈 2]。近年では母や祖母の影響、異様な若さ、性別に違和感を抱えていたことから同情的な見方をされることも多い。

生涯編集

生い立ちから皇帝即位編集

皇帝ヘリオガバルス(ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス)は、元老院議員の父セクストゥス・ウァリウス・マルケルス英語版と母ユリア・ソエミアス英語版の子として203年シリアのエメサ(現在のホムス)で生まれた[2][9]。父マルケルスは騎士階級出身で、のちに元老院入りを果たした人物であり、母方の祖母ユリア・マエサはエメサの町の大祭司[要曖昧さ回避]ユリウス・バッシアヌス英語版の娘で、セウェルス朝の開祖セプティミウス・セウェルスの皇妃ユリア・ドムナの姉であった[4][10]。したがって、彼の母ユリア・ソエミアスはセウェルスの嫡男であるカラカラ帝とは従姉弟の関係にあり、皇帝家の一員であった[9]。幼少期のウァリウス・アウィトゥスは母方一族の生業である神官として養育されたとみられる。「ヘリオガバルス」とは元来エメサ土着の太陽神であった[2]。少年は長じて太陽神ヘリオガバルス(エル・ガバル)の司祭を務め、のちに、その名をそのまま自分の通称とした[2]。やがて皇帝となる少年ヘリオガバルスは美貌に恵まれていて、とても美しい容姿だった[11]

残虐な性格で浪費家として知られていたカラカラ帝は共同統治者で弟のゲタ帝と、その一派2万人以上を殺害するなどの暴政によって元老院からの信望を失い、217年4月8日メソポタミアハッラーンで暗殺された[2][6]。カラカラには子どもがなく、新しい皇帝にはクーデターの首謀者であった近衛隊隊長のマルクス・オペッリウス・マクリヌスが即位した[2]

即位したマクリヌス帝は、北アフリカマウレタニアの出身で、騎士身分で初めて皇帝位に就いた人物であったが、セウェルス一族を宮殿から一掃することで、セウェルス朝復活の目論見を防ごうとした[9][11]。それに対し、中東の属州シリアに幽閉されたセウェルス一族のうち、カラカラ帝の伯母ユリア・マエサは自らの孫であるヘリオガバルスを帝位に就ける陰謀をめぐらした[9]。マクリヌス帝は、その子息ディアドゥメニアヌスと共同で統治したが、東方の大国パルティアに敗れて屈辱的な講和を結んだため、軍隊からの信頼を失っていた[11]

14歳の少年であったウァリウス・アウィトゥス(ヘリオガバルス)は既に先帝カラカラとは女系を通じて親族であったが、未亡人となっていた少年の母ソエミアスは、帝位継承をさらに正当化しようとして、自ら従弟カラカラのだったと公言し、少年は先帝と密通して生まれたカラカラの落胤であると主張した[2][4][9]。これは、少年の祖母にあたる母ユリア・マエサの意向を受けたもので、マエサは自分の娘を姦婦にしてでも孫を帝位に就かせたかったのである[2][注釈 3]。マエサは、軍人に人気のあったカラカラ帝の威光を利用する作戦を採り、つづいてセウェルス家のを駆使して第3軍団「ガッリカ」の兵士将軍を買収して自陣営の戦力を調達した。

218年5月16日の夜、少年の一行はエメサに駐屯するローマの軍団に潜入した[2]。それに対し、軍団指揮官のヴァレリウス・エウティキアヌス英語版はウァリウス・アウィトゥス少年への忠誠を正式に宣言した[12]。挙兵に際して、ヘリオガバルス少年は「ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス」という従来の名を、カラカラの本名になぞらえて「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」と改名した[13]

ヘリオガバルスの反乱を知ったマクリヌス帝は直ちに遠征軍を派遣したが、そのなかで軍団兵による内乱が発生した。指揮官は暗殺され、兵士たちは指揮官の首をローマに送り返すと、ヘリオガバルスの軍勢に合流した[14]オリエント諸州の兵たちは、ヘリオガバルスを支持したのである[11]

軍の反乱を前にマクリヌス帝はヘリオガバルスを「偽のアントニヌス」と痛罵し、反乱は発狂した神官による暴挙であると記した手紙をローマの元老院に書き送った[15]。元老院はマクリヌス帝の言い分を認めて、軍の意向とは異なり、ヘリオガバルスを僭称帝とする決議を可決した[16]

元老院の支持を得たマクリヌス帝は自ら軍を率いて親征を開始したが、マエサに買収された第2軍団「パルティカ」の裏切りによってアンティオキアの戦い英語版において敗北した[14]。マクリヌスは命からがら戦場から脱してイタリア本土へ戻ろうとしたが、カッパドキアで捕らえられ、斬首の刑に処せられた[2][14]。同じく捕らえられたマクリヌス帝の子ディドゥメニアヌスも処刑された[14]

アンティオキアでの勝利をもとに、ヘリオガバルスは元老院の許可なしに皇帝即位を宣言した[17]。これは完全に、ローマ法の定める秩序に違反した行為であったが、3世紀に即位したローマ皇帝にはしばしばみられた行為ではあった。また同時に、本人の意思であったか定かではないが、ヘリオガバルスはマクリヌス帝の治世を批判する手紙を元老院に送付して行為の正当化を図っている[18][注釈 4]

結局のところ元老院は、218年の6月、既成事実を追認するかたちでヘリオガバルスの帝位を認め、また、彼がカラカラ帝の実子であることを承認した[20]。同時に暴君とその母として忌避されていたカラカラとユリア・ドムナをとして祭るという要求も承諾し[21]、逆にマクリヌス帝が「名誉の抹殺」(ダムナティオ・メモリアエ)に処されることになった[17]。また、新しい近衛隊長には反乱の立役者ヴァレリウス・エウティキアヌス英語版が任命された[22]

暴君誕生 編集

 
ヘリオガバルス帝が描かれたデナリウス銀貨

218年の冬、ヘリオガバルス帝と重臣たちは小アジアのニコメディア(現トルコ共和国イズミット)で過ごしていたが[20]、同時代を生きた歴史家カッシウス・ディオは、この少年皇帝が特異な人物であることは既に明らかになっていたと指摘している。皇帝ヘリオガバルスは、皇帝として「自制心をもって慎重に生きる」ようにと説教をした家庭教師に不信感を抱き、結果的に殺してしまったと伝えられる[23]。同時期にユリア・マエサ神官にして皇帝という人物を元老院が受け入れるように、神官のローブを身にまとったヘリオガバルス帝の肖像をウィクトーリア女神像の前に掲げさせた[20]。元老院の議員は議事堂のウィクトーリア女神像に捧げ物をする習慣があったので、神官姿のヘリオガバルス帝に捧げ物をするかたちになった。

この様なヘリオガバルス帝の行動からか、後盾であった反マクリヌス派の軍勢はヘリオガバルスを推挙したことを後悔し始め[24]ゲッリウス・マキムス英語版将軍に率いられた第4軍団「スキュティカ」、および元老院議員のウェルスに扇動された第3軍団「ガッリカ」(彼ヘリオガバルスの皇帝就任に助力した)の兵士がヘリオガバルス帝を裏切り、ニコメディアからローマに向かうヘリオガバルス帝を襲撃する事件が起こっているが、この時まだヘリオガバルス帝は14歳であった。[25]。しかし、反乱軍は足並みが揃わずに自壊し、「ガッリカ」は消滅した[26]

皇帝の一族はシリアからローマをめざしたが、アンティオキアやニコメディアに長期間逗留し、上述のように途中で反乱があり、また、天から降ってきた(隕石)と信じられていた、底が平らで先の尖った円錐形の形状をもつ巨大な「黒い石」を御神体としてエメサの神殿から運び出したため、一行のローマ到着は遅れに遅れ、219年の初秋、ようやくローマに到着した[2]。ローマ入城の際、人びとは新皇帝の出で立ちをみて驚愕した。少年皇帝は、地面に届きそうな長袖を支える紫色の地に錦糸をあしらった司祭服を着用し、ネックレス腕輪など豪奢な装身具をほどこし、頭上に宝石を散りばめた帝冠をいただいたうえで着飾った女性の姿をしていたからである。この時ヘリオガバルス帝は15歳であった。[2]

エウティキアヌス英語版やマエサとともにローマへ入城したヘリオガバルス帝は、腹心たちを要職に就けて体制を固めた[27]。たとえば、エウティキアヌスは近衛隊長に続いて3度の執政官叙任を受け、さらに属州総督として2度派遣されている[22]。色情への執着が人事にも影響を与え、恋心を寄せている男性の愛人であった奴隷ヒエロクレスを共同皇帝にしようとしたり[28]、別のお気に入りの愛人である戦車競技の選手ゾティクスを皇帝の執事長に任命している[29]

財政面では、カラカラがそうしたようにの含有量を減らしてデナリウス銀貨の切り下げを行うが、一方でカラカラ帝が創始したアントニニアヌス銀貨は廃止した[30]

ヘリオガバルス帝の初期の治世で正常な統治が行われていたのは、祖母ユリア・マエサと母ユリア・ソエミアス英語版の執政により、ヘリオガバルス自身は執政権を奪われていた為であると考えられている[31]。この野心に満ちた2人の女性は元老院に名誉称号すら要求し、ソエミアスは「クラリッシマ」(wiktionary:clarissima)、マエサは「元老院の女神」(Mater Castrorum et Senatus)をそれぞれ授与された[21]。実権を掌握してまるで女帝のような振る舞いをみせる祖母と母に対してヘリオガバルス帝は自分の意見を表明できない、ただの傀儡とされていた。少年皇帝は、祖母と母の絶対的な影響下で育ち、政治的な能力を培っていなかったのである[11]

見え始めた異常さ 編集

 
2度目の妻として迎えられ、のちに再度結婚することになる「ウェスタの処女アクウィリア・セウェラ。后妃としてデナリウスに描かれている。

少年皇帝が最初に結婚した相手はユリア・コルネリア・パウラ英語版という女性であり、220年に豪奢な結婚式が挙行されている[2]。このときヘリオガバルスは、ローマ市民や兵士に対しても御祝儀を大盤振る舞いしたといわれる。コルネリア・パウラは、同じシリアに領地を持つ有力貴族の娘であったことから、皇帝即位時に周囲が決めた政略結婚であったと考えられている[32]。彼女はアウグスタ皇后)の称号を得たものの、この結婚生活は長く続かず、その年のうちに2人は離婚した。パウラが皇帝の異常ともいえる性的欲求に応えられないというのが離婚の理由であったと考えられている[2]

皇帝はパウラと離婚すると、220年末に「ウェスタの処女」たる巫女アクウィリア・セウェラ英語版手篭めにして再婚した[32](かまど)の神ウェスタに仕える巫女は共同生活を送り、聖なるを絶やさぬことを務めとしていた[2][33]。幼少時に神職に召された巫女たちは「神々に身を捧げる」という意味から、その身を清らかに保つため、神に仕えるあいだ処女を貫くことが求められ、その禁忌を破った場合には生きたまま穴埋めされるというがあった[33]。しかし、ヘリオガバルスはそのような掟は意に介せず、彼女と結ばれれば、神のように美しい子どもが授かると信じ、禁忌を破ってでも結婚したと伝えられている[2]

禁断の結婚に対する周囲の批判からほどなく、結婚半年でアクウィリアとの婚姻は解消され、221年7月に3度目の妻として迎えたのは美貌で知られたアンニア・アウレリア・ファウスティナ英語版であった[32]。彼女は、五賢帝のひとりで哲人皇帝として知られたマルクス・アウレリウスの曾孫で、その子であり暴君として暗殺されたコンモドゥス帝の大姪であった。これはセウェルス朝の前王家にあたるネルウァ=アントニヌス朝との連続性を主張する政治的意図があったとみられる。この結婚もうまくいかず、221年中には離婚し、結局ヘリオガバルスはアクウィリアとよりを戻して4度目の結婚を果たした。

奇抜な改革編集

 
アウレリウス金貨に描かれたヘリオガバルス帝。裏面にはヘロディアヌスが伝えるようにエル・ガバルの化身とされた黒石が戦車に乗せられてパレードを行っている様子が描かれている。

セプティミウス・セウェルス帝のとき、ローマ帝国のなかでは太陽神信仰が流行する傾向にあり[34]、皇帝自身、先に述べたように太陽神信仰の一つであるエル・ガバルを奉じる神官であった。シリアはもともと母系制の社会であったが、女性は太陽神の祭司にはなれないことになっていた。多神教の社会であったローマでは宗教に寛容であり、領域拡大にともない各地の土着神を受け入れていた。古くからローマでは太陽神としてソールが知られ、しばしばローマ神話にも登場しており、また、ペルシャの太陽神ミトラスを奉ずる密儀宗教英語版ミトラ教も信じられていた。ただ、偶然なのか必然なのか、ミトラ教が女人禁制であるのに対し、エル・ガバルは両性具有(両性)の神性を有していた。

ヘリオガバルス帝はローマでのこうした太陽神信仰の流行を好機ととらえ、シリアの太陽神エル・ガバルを古代ローマ多神教における最高神に位置づけるべく「デウス・ソール・インウィクトクス」と尊称させ、天空神ユピテルをも従える存在とした[35]。さらに、ユピテルに従うとされていたカピトリヌスの三女神をエル・ガバルの妻と位置づけ、その権威を高めようとした[32]。ここにローマは、かつてのポエニ戦争以来敵対してきたセム系の神、神官およびそれを操る女性たちの支配を受けることとなった[11]。ヘリオガバルスは、ローマ皇帝の正式の称号に「常勝太陽神エル・ガバルの大神官」を追加した[11]

さらに、ヘリオガバルス帝は上述したように処女を保つ戒律を持っていた巫女アクウィリア・セウェラとの結婚を周囲に認めさせ、神官同士の交わりによって「神の子」が生まれると説いた[11][36]。本来であれば「ウェスタの処女」を辱めた者は殺され、この禁忌を破った巫女もまた神の罰を避けるために生きたまま土に埋められると決められており、皇帝の行為はローマにおける宗教的慣例を一掃した挙行であった[33][37][注釈 5]

独自の宗教政策の果てに、ヘリオガバルス帝は「ヘリオガバリウム」と呼ばれる巨大なエル・ガバル神の宮殿をローマのパラティーノの丘(パラティヌスの丘)に建設させ、故郷エメサから持ち込んだ黒い隕石を神具として崇拝させ、毎朝、生け贄として捧げられた[20]。歴史家ヘロディアヌスによれば「黒石は神界からの賜り物のごとく崇拝が行われた」とされ、表面の文様が太陽神エル・ガバルの姿を描いていると信じられていた[9]。新たな崇拝対象への信仰心を示すため、ヘリオガバルス帝自身も割礼を行い[35]、元老院議員に対し、みずから踊り子として祭壇の前で舞う姿をみるよう促した[20]。ローマの民衆は、神殿で皇帝から神からの賜りとして配られる食事を目当てに神殿の祝祭に殺到したと伝えられる[32]。そして、この祝祭の仕上げに、「黒い石」が金細工や宝石類で飾り付けた馬引きの戦車に載せられ、砂金の敷かれた道を運ばれて街中を凱旋したようすをヘロディアヌスは記録している。

6頭もの巨大な白馬に引かれた二輪戦車は金銀細工で飾られる絢爛なものだったが、異様にも誰も乗っておらず無人で走らされていた。しかしその周囲には護衛の兵士が併走しており、ちょうど無人の豪華なる戦車に「神が乗っている」事を想定しているようであった。ヘリオガバルス帝はその後ろから神に従うように馬を走らせていた[32]

ヘリオガバリウムの元には帝国中から神具や神器が集まり、キュベレー神殿・ウェスタ神殿・神官学校などの宝物品や「トロイのパラディウム像」や「マルスの盾英語版」、「ウェスタの聖火」などが持ち込まれた。こうした事由はヘリオガバリウムこそがローマ帝国唯一の聖地となるべきと考える事からのものだった[39]

色愛と快楽 編集

急進的な宗教政策以上にヘリオガバルス帝を有名にしたのは、異常な性生活に関する逸話である。そもそもヘリオガバルスは、正式な結婚生活すら4回の離婚と5回の「結婚」を繰り返しているのである[36]

「ウェスタの処女」セウェラとよりを戻し、4度目の結婚をした皇帝であったが、その年のうちにまたも離婚した[36]。今度は、小アジア出身のカリア人奴隷で、男性であるヒエロクレスの「妻」となることを宣言[28][40]。これが、5度目の「結婚」であった。さらに『ローマ皇帝群像』によれば同じく男性の愛人である戦車選手ゾティクスとも結婚したと伝えられている[41]

皇帝は、公共浴場へ行っては女湯に入ったり、毎晩、怪しげな女たちをベッドルームに連れ込んで淫行を繰り返した[40]。また、密偵を放ち、ペニスの巨大な男性を探させて宮廷に連れて来させ、情事を楽しんだ[40]。皇帝は芝居をしながら、突然全裸になり、片手をに片手を陰部に当ててひざまずき、巨根の男に向かって尻を突き出してを前後運動させたという[40]。猟奇的な逸話としては、神殿内で飼育している猛獣に切り落とした男性器をエサとして与えたというものも伝わっている。『皇帝列伝』は、以下のように伝える。

…皇帝は自分の全身を脱毛していた。いかにも健康そうにみえ、最大限の肉欲を起こさせる身体でいることこそ、最上の幸福であると考えていたからだ。

元老院議員として宮殿に出入りしていたカッシウス・ディオはヘリオガバルス帝の異質な情事を記録し、女性の姿で男性と交わっていたと実際にその現場を見たことを記録している。カッシウスは、以下のように伝える。

…皇帝は自分の性器をそっくり切り落とそうと考えていた、そうした考えに到るのも内面が女性だったからだ。しかし彼が実際に受ける事になった手術は割礼だった。これは太陽神の司祭として必要なことの一つだったからだ。その虚しさからか彼は、仲間の多くにも同じことをさせた。

カッシウスはまた、「皇帝は、いつしか男を漁るために酒場に入り浸る習慣を持つようになり、化粧と金髪の鬘をつけて売春に耽溺した」と叙述してこれを非難し[42]、皇帝が最終的に帝国の中枢である宮殿に客を呼び込んで売春宿にするという暴挙にまで及んだと記録している。

…遂に皇帝は宮殿までも自らの情事の現場とした。宮殿の一室に売春用の場所を用意して、そこを訪れる客に男妾として体を売ったのだ。ヘリオガバルスは売春婦がそうするように裸で部屋の前に立ち、カーテンをつかんで客を待った。そして男が通りかかると哀れを誘うような柔らかい声で甘えるのだった[43]

ヘロディアヌスもこの噂について言及しており、ヘリオガバルス帝は顔を化粧することにより、こうした行為に相応しい美麗な容貌を持つようになっていたという[32]

皇帝は全裸で廷臣や警護兵を甘い声で誘い、男娼として売春する一方、金髪の奴隷ヒエロクレスに対しては「妻」として従っていた[40]。厚化粧して妻になりきった。しかしヘリオガバルスは他の男とも関係を持っていた。[40]。それを知ったヒエロクレスは「妻」である皇帝の不貞をなじり、罵倒し、しばしば殴打におよんだ[40]。そして、皇帝は、殴られて弱りきった自分を見て悦んだという[40]。また、性転換手術を行える医師を高報酬で募集していたともいわれている[29]。このことからヘリオガバルス帝の性癖について、これを同性愛や両性愛というより、トランスジェンダーの一種として考える論者が多い[44][45]

皇帝の最後 編集

度重なるヘリオガバルス帝の奇行に周囲は耐えかねており[28]、近衛隊も皇帝の異常な行動に激しい嫌悪を感じていた[27]。加えて宮殿外でも民衆や元老院が皇帝への不満と怒りを高めていた。

エル・ガバルをローマの主神にすえ、隕石を御神体とするエラガバリウムを建てさせた皇帝は、楽器を打ち鳴らす怪しげな女の一団を引き連れて淫蕩な踊りを舞いながら神殿に向かい、屠殺した獣のを混ぜたワインを捧げ、をたいた[40]。踊りながら神殿の周囲をめぐり、誰もがトランス状態になったとき、皇帝は少年生け贄として神殿に捧げたという[40]。この行動には、市民の多くが怒りの声をあげた[40]

王族内においても、影の実力者である祖母ユリア・マエサが孫に対して見切りを付けつつあった。しかし、ともに実権を握っていたヘリオガバルスの母ユリア・ソエミアス英語版だけは宗教政策を積極的に後押しするなど息子への協力を続けていた[27]。そこでマエサは、ソエミアスの妹である次女ユリア・アウィタの息子で、マエサからは別の孫にあたるアレクサンデル・セウェルスを後継者とする計画を立て、221年、ヘリオガバルス帝に対し従弟アレクサンデルを養子にするよう認めさせ、アレクサンデルにはカエサル(副帝)の称号を名乗らせた[27]。アレクサンデルはヘリオガバルスの5歳年下であった[11]。いったん養子縁組を承知したヘリオガバルス帝であったが、近衛隊の兵士たちがアレクサンデルに接近し始めたことから途中で危機感を覚え、養子縁組を取り消した[46]。アレクサンデルは近衛兵からの人気が高かった。

ヘリオガバルスは失脚したアレクサンデルを閉じ込め、近衛兵たちには既に死亡したと伝えた。[46]。しかし、これが逆に彼女の命取りとなった。近衛隊は激昂して皇帝に対する反乱を起こし、ヘリオガバルスに対し、アレクサンデルの生死の確認とその責任を取るよう求めた[46]。恐怖を感じたヘリオガバルスは慌ててアレクサンデルの生存を発表して、従弟を解放した。3月11日、近衛隊の城砦に逃げたアレクサンデルは歓声をもって迎えられ、兵士のほとんどヘリオガバルスを裏切り、近衛兵は即座にアレクサンデルを指導者として反ヘリオガバルスの軍勢を挙げ、宮殿へと進軍した[46]

全ての後ろ盾を失ったヘリオガバルスは母ソエミアスとともに反乱軍に捕らえられた。同時代を生きたカッシウス・ディオによれば、2人は揃って処刑され、遺体は激昂した市民たちによって切り刻まれたうえテヴェレ川に捨てられたという[40]

…怯えたヘリオガバルスは最後の気力で衣類箱の中に隠れ、宮廷から逃げようとしたが、反乱軍に見つけられて広場に引き出され、先に捕らえられていたソエミアスと共に裸にされた。ソエミアス泣き喚きながら息子に抱きついたが、兵士たちは親子をその場で殺害した。ヘリオガバルスとソエミアスの首は切り落とされ、首のない親子の遺体は裸体のまま馬に乗せられて市中を引き回された。憎まれた18歳の皇帝の遺体は晒し者にされた後、首とともに川へ投げ出された[47]

皇帝の死によってエウティキアヌスやヒエロクレスなどの取り巻きたちも殺害され[47]、太陽神の神体であった黒い聖石はシリアに送られ、エル・ガバル神も地方の土着信仰へと送られた[11][48]。女性の元老院への関与も明確に禁止され[31][49]、かつてマクリヌスに課した「名誉の抹殺」を自らも受けることになった[50]

新しい皇帝として即位したのはヘリオガバルスの従弟で、14歳の副帝アレクサンデル・セウェルスであったが、アレクサンデルもまた、母親に政治を委ねたあげく、兵士への手当の支給を怠って母子ともに殺された[注釈 6]

人物評価編集

『ローマ皇帝群像』編集

 
ヘリオガバルスの薔薇ローレンス・アルマ=タデマ(1888年)

ローマ皇帝群像』は、帝政ローマの時代の人物によって叙述されたと考えられるローマ皇帝の伝記集であるが、編纂の詳細な時期・地域は不明であり、アエリウス・スパルティアヌス、ユリウス・カピトリヌス、ウルカキウス・ガッリカヌス、アエリウス・ランプリディウス、トレベッリウス・ポッリオ、フラウィウス・ウォピスクスが「6人の著者」といわれている。

ヘリオガバルスの評伝については、当時の歴史書における常として、のちに即位した皇帝やその支持者によって誇張された部分があると考えられている。そうした誇張のなかで特に有名なのが『ローマ皇帝群像』のなかにある「客人に薔薇の山を落として窒息死させるのを楽しんだ」とする逸話であり、このエピソードは有名なローレンス・アルマ=タデマの絵画「ヘリオガバルスの薔薇」のモチーフとされている[52]。これは、ヘリオガバルスが宴会に招いた客の上に巨大なを張り、幕の上に大量の薔薇の花を載せたうえで宴会中に幕を切り、花を一斉に落として客を窒息死させたという風評にちなんでいるが、真偽のほどは明らかでない。

現在では『ローマ皇帝群像』における他の評伝と同じく、「ヘリオガバルス伝」のほとんどは信用に値しないと見なされている[53]。そもそも『ローマ皇帝群像』ははるか後年の4世紀頃に編纂されたと考えられている伝記集であり[54]、加えて捏造や創作がたいへん多いことでも知られている。ヘリオガバルス伝においても当然ながらそうした虚偽が含まれていると考えるのが自然である[55]

ただし、第13節から17節までは例外的に資料的な信憑性が存在するとみられており、現在でもその意義を認められている[56]

カッシウス・ディオ編集

ヘリオガバルスとは同時代の歴史家で、自らも高名な元老院議員として皇帝の動向を知る立場にあったカッシウス・ディオも、『ローマ皇帝群像』ほどではないにせよ、上述のように彼の異常な性欲について多くを記録し、強く批判している。カッシウスが書き残した『ローマ史』は、『ローマ皇帝群像』に比べて遥かに高い信憑性を持ち、帝政中期のローマを知るうえで第一級の文献資料として高く評価されている。そうした点を踏まえれば、『ローマ皇帝群像』などの後世における書籍で面白半分に誇張された要素はありつつも、実際にヘリオガバルスが統治者として相当の問題を抱えた人物であった事は動かしがたい。

ただしカッシウスも歴史家として何ら不誠実さがなかったと断じるのはいささか中立的とはいえない。『ローマ史』の評伝が書かれた時代の多くを彼は現役の元老議員として過ごしたが、それ故に属州総督などの任務で外地に赴いている時間も多かった。彼自身、ローマに滞在していた友人の政治家たちからの報告を二次資料として採用している事を認めている。またカッシウスはヘリオガバルス帝の後に即位したアレクサンデル・セウェルス帝を支持しており、その点も加味される必要はある[57]

ヘロディアヌス編集

 
「ヘリオガバルスのメダル」(ルーヴル美術館

属州シリアの役人であったヘロディアヌスはカッシウス・ディオと同様、皇帝と同じ時代を生き、目撃者として同時代史をつづった歴史家で、コモドゥス帝の即位からゴルディアヌス3世の暗殺までの記録である『ローマ人の歴史』を書き残した。カッシウス・ディオの記録とは必然的に重複しているが、それぞれ別の調査によって記録を残している点で資料的な意味を有する[58]。ヘロディアヌスは宮殿に出入りできる立場でなかったという点でカッシウスに劣るが、その分、より中立的に皇帝たちの動向を残す事に努めている。彼の関心の多くは皇帝の色愛より宗教政策について向けられており、その詳細な内容はエル・ガバル信仰を調べる上で重要な記録となっている。彼の記録は、実際に後世の文献学的研究[59][60]考古学的調査で裏付けられている[61]

創作作品編集

 
ヘリオガバルス帝の壁画(オーストリアフォルヒテンシュタイン城ドイツ語版

ヘリオガバルスの色愛は後世におけるデカダン派の運動で注目された[45]。耽美主義者というヘリオガバルスのイメージは、その後も今日に至るまで数多くの創作作品への意欲を生み出した。

文学編集

絵画編集

 
「太陽の司祭、ヘリオガバルス」シミョーン・ソロモン画

漫画編集

音楽編集

演舞編集

映画編集

戯曲編集

語源編集

  • スペイン語のheliogabalo(エリオガバロ[63])は 「暴飲暴食で身を持ち崩す人」のような意味である。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ セウェルス朝の初代皇帝セプティミウス・セウェルスは、非ヨーロッパ人で初めて帝位に就いたセム系のローマ皇帝で、皇帝就任以前は財務官やシリア軍団長を歴任した。セプティミウス・セウェルスは人気の高かったマルクス・アウレリウス帝の子孫を名乗ることで、みずからの出自の属州的要素を薄めようとした[3]
  2. ^ ニーブールは、19世紀に活躍したコペンハーゲン出身のドイツの歴史家で、しばしば近代歴史学の祖のひとりと評される。
  3. ^ ヘリオガバルスを皇帝にすえるという考えは、当初ユリア・マエサの愛人ガンニュスが発したものといわれている。ガンニュスは皇帝のローマ入城前、ヘリオガバルスによってニコメディアで処刑された。
  4. ^ 本来的には、ローマの皇帝は元老員議員であることが所与の条件とされ、元老院より「同輩中の首席」として推挙されることが慣例となっていたが、五賢帝以後はその慣例は有名無実化し、帝位はもっぱら経済力や軍事力に左右された[19]
  5. ^ ウェスタの巫女は、6歳から10歳までの少女のなかからローマの大神官によって選ばれた6人によって構成され、30年間、カマドの神に身を捧げることとされていた。その宗教性は彼女たちの処女性にもとづくが、その禁忌の違反に対する生き埋めの刑に関しては類似の民俗事例に乏しく、きわめて異常なものである。また、他の神殿はローマも含めほとんどすべて方形をなすのに対し、ウェスタの聖域は円形をなしており、その点でも特異である[38]
  6. ^ 新皇帝のアレクサンデル・セウェルスもまた、母親に政治を委ねたあげく、兵士への手当の支給を怠って母子ともに殺される[51]

出典編集

  1. ^ In Classical Latin, Elagabalus' name would be inscribed as MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 鶴岡(2012)pp.24-31
  3. ^ 松本(1989)p.132
  4. ^ a b c d 木村(1988)p.658
  5. ^ Potter, David Stone (2004). The Roman Empire at Bay: Ad 180?395. Routledge. ISBN 0-415-10057-7 
  6. ^ a b 松本(1989)pp.132-137
  7. ^ Gibbon, Edward. Decline and Fall of the Roman Empire, Vol. 1, Chapter 6.
  8. ^ Niebuhr, B.G. History of Rome, p. 144 (1844). Elagabalus' vices were, "Too disgusting even to allude to them."
  9. ^ a b c d e f Herodian, Roman History V.3
  10. ^ Cassius Dio, Roman History LXXIX.30
  11. ^ a b c d e f g h i j 秀村(1974)pp.418-420
  12. ^ Cassius Dio, Roman History LXXIX.31
  13. ^ Cassius Dio, Roman History LXXIX.32
  14. ^ a b c d Herodian, Roman History V.4
  15. ^ Cassius Dio, Roman History LXXIX.36
  16. ^ Cassius Dio, Roman History LXXIX.38
  17. ^ a b Cassius Dio, Roman History LXXX.2
  18. ^ Cassius Dio, Roman History LXXX.1
  19. ^ 鶴岡(2012)p.28
  20. ^ a b c d e Herodian, Roman History V.5
  21. ^ a b Benario, Herbert W. (1959). “The Titulature of Julia Soaemias and Julia Mamaea: Two Notes”. Transactions and Proceedings of the American Philological Association (Transactions and Proceedings of the American Philological Association, Vol. 90) 90: 9?14. doi:10.2307/283691. http://links.jstor.org/sici?sici=0065-9711%281959%2990%3C9%3ATTOJSA%3E2.0.CO%3B2-N 2007年8月4日閲覧。. 
  22. ^ a b Cassius Dio, Roman History LXXX.4
  23. ^ Cassius Dio, Roman History LXXX.6
  24. ^ Augustan History, Life of Elagabalus 5
  25. ^ Cassius Dio, Roman History LXXX.7
  26. ^ van Zoonen, Lauren (2005年). “Heliogabalus”. livius.org. 2007年8月18日閲覧。
  27. ^ a b c d Herodian, Roman History V.7
  28. ^ a b c Cassius Dio, Roman History LXXX.15
  29. ^ a b Cassius Dio, Roman History LXXX.16
  30. ^ Tulane University "Roman Currency of the Principate"
  31. ^ a b Augustan History, Life of Elagabalus 4
  32. ^ a b c d e f g Herodian, Roman History V.6
  33. ^ a b c エリアーデ(2000)pp.168-169
  34. ^ Halsberghe, Gaston H. (1972). The Cult of Sol Invictus. Leiden: Brill. p. 36 
  35. ^ a b Cassius Dio, Roman History LXXX.11
  36. ^ a b c Cassius Dio, Roman History LXXX.9
  37. ^ Plutarch, Parallel Lives, Life of Numa Pompilius, 10
  38. ^ エリアーデ(2000)pp.168-169, 172-173
  39. ^ Augustan History, Life of Elagabalus 3
  40. ^ a b c d e f g h i j k l 鶴岡(2012)pp.31-33
  41. ^ Augustan History, Life of Elagabalus 10
  42. ^ Cassius Dio, Roman History LXXX.14
  43. ^ Cassius Dio, Roman History LXXX.13
  44. ^ Benjamin, Harry; Green, Richard (1966). The Transsexual Phenomenon, Appendix C: Transsexualism: Mythological, Historical, and Cross-Cultiral Aspects.. New York: The Julian Press, inc. http://www.symposion.com/ijt/benjamin/appendix_c.htm 2007年8月3日閲覧。 
  45. ^ a b Godbout, Louis (2004). “Elagabalus”. GLBTQ: An Encyclopedia of Gay, Lesbian, Bisexual, Transgender, and Queer Culture. Chicago: glbtq, Inc. http://www.glbtq.com/social-sciences/elagabalus.html 2007年8月6日閲覧。. 
  46. ^ a b c d Herodian, Roman History V.8
  47. ^ a b Cassius Dio, Roman History LXXX.20
  48. ^ Herodian, Roman History VI.6
  49. ^ Hay, J. Stuart (1911). The Amazing Emperor Heliogabalus. London: MacMillan. p. 124. オリジナルの2008年2月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080202104958/http://members.aol.com/heliogabby/amazing/aeh1.htm 2008年5月3日閲覧。 
  50. ^ Augustan History, Life of Severus Alexander 1
  51. ^ 松本(1989)p.133
  52. ^ Augustan History, Life of Elagabalus 21
  53. ^ Syme, Ronald (1971). Emperors and biography: studies in the 'Historia Augusta'. Oxford: Clarendon Press. p. 218. ISBN 0-19-814357-5 
  54. ^ Cizek, Eugen (1995). Histoire et historiens a Rome dans l’Antiquite. Lyon: Presses universitaires de Lyon. p. 297 
  55. ^ Syme, Ronald (1971). Emperors and biography: studies in the 'Historia Augusta'. Oxford: Clarendon Press. p. 263. ISBN 0-19-814357-5 
  56. ^ Butler, Orma Fitch (1910). “Studies in the life of Heliogabalus”. University of Michigan studies: Humanistic series IV (New York: MacMillan): 140. 
  57. ^ Syme, Ronald (1971). Emperors and biography: studies in the 'Historia Augusta'. Oxford: Clarendon Press. pp. 145?146. ISBN 0-19-814357-5 
  58. ^ Lendering, Jona (2004年). “Herodian”. Livius.org. 2008年5月3日閲覧。
  59. ^ Cohen, Henry (1880?1892). Description Historiques des Monnaies Frappees sous l’Empire Romain (8 volumes). Paris. p. 40 
  60. ^ Babelon, Ernest Charles Francois (1885?1886). Monnaies Consulaires II. Bologna: Forni. pp. 63?69 
  61. ^ Corpus Inscriptionum Latinarum, CIL II: 1409, 1410, 1413 and CIL III: 564?589.
  62. ^ The Dreaming ≫ Blog Archive ≫ Being An Account of the Life and Death of the Emperor Heliogabolous”. Holycow.com. 2008年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年3月11日閲覧。
  63. ^ heliogabalo in the Diccionario de la Real Academia Espanola. Retrieved on 2008-05-03.

資料編集

主要資料編集

副次的資料編集

  • Martijn Icks, "Heliogabalus, a Monster on the Roman Throne: The Literary Construction of a 'Bad' Emperor," in Ineke Sluiter and Ralph M. Rosen (eds), Kakos: Badness and Anti-value in Classical Antiquity (Leiden/Boston: Brill, 2008) (Mnemosyne: Supplements. History and Archaeology of Classical Antiquity, 307),

伝記編集

画像編集